第143号 2003/05/10 司教証聖者、聖アントニーノ
アヴェ・マリア!
兄弟の皆様、 そこで、今回は、第2バチカン公会議と「過越の秘義」について考察してみます。 トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭) 第2バチカン公会議と「過越の秘義」について第2バチカン公会議は、罪が天主に対する不正義であるとは言わない「過越の秘義」の教えは第2バチカン公会議のなかに強く表れています。それを教えるものとしてでなかったとしても、少なくとも多くの憲章を条件付けるものとしての全体的雰囲気として存在しています。 第2バチカン公会議の文書全てを通して、「罪は天主を傷つける」ということは、正確に何を意味するのか詳しい言及無しに、ただ2回(「典礼憲章」109 と「教会憲章」11 )だけしか言われていません。 しかしながら、他方で28回も罪が人間或いは社会(市民社会と教会)の善を傷つけるものとして描写されています。 また、第2バチカン公会議の中には、罪が天主に対して正義の負債を作り出すということ、或いは罪というものは天主が私たちに対して持っている愛に対する障害であることは全く述べられていません。むしろ反対に、聖父は人が罪人となったとしても常に人を愛をもってご覧になり(「教会憲章」2 、「現代世界憲章」2と18 )、また罪による当然の苦痛(「多種多様の悪」)、また罪によって生じた悪への傾きは天主に由来するものではない、と語ります。 「人間は自分の内心を見つめてみれば、自分が悪に傾いており、多種多様の悪の中に沈んでいることを発見する。それらの悪が、人間の創造者である善なる神から来ることはできない」(「現代世界憲章」13)。 キリストの御業を取り扱うテキストでは「天主の正義を満足させる・償う」という考えが現れていません。確かにキリストの神秘体である教会においてはその肢体は頭の神秘に参与する(「教会憲章」7 )ことを述べていますが、肢体(=キリスト者)の犯した罪のために当然の苦しみを頭(=キリスト)が苦しんでいると言うことは述べられません。 「教会憲章」は「新しい神学」を反映している贖いの神秘について「教会憲章」が提示する総まとめは、新しい神学をこだまさせています。それはこう言っているからです。 「永遠の父は、その英知といつくしみに基づく、全く自由な神秘的な配慮をもって全世界を創造し、人々を神の生命への参与にまで高めることを決定した。父はまた、アダムにおいて罪人となった人々を見捨てず、「目に見えない神の像であって、すべての被造物に先だって生まれた者である」(コロサイ 1・15)あがない主キリストを考慮して、救いへの助けを常に人々に提供した。すべての選ばれた者を世々の前から「あらかじめ知っていた」父は、「かれらを自分の子の姿に似た者としようと予定した。それは子を多くの兄弟の長子とするためである」(ロマ 8・29)。そして父はキリストを信ずる人々を聖なる教会として呼び集めることを決定した」(「教会憲章」2)。 この文章では聖父の変わることのない愛は私たちの救いの主要な実行者として描かれています(「現代世界憲章」41 )。 他方で、キリストは天主の神秘を啓示する目に見えるイメージである限りにおいて贖い主として提示されています。キリストが天主の正義を満足させることに関することは一言もなされていません。 代々の時が至る前から既に天主の救いの予定があったことを暗示させる文章は、キリストの業において罪というものは大きなことではなかったという考えを強調しています。ですからこれ以後、十字架は(天主の正義を満足させる償い・贖いのしるしではなく)「神の普遍的な愛のしるし」(「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」)となるのです。 第2バチカン公会議の中の暗黙の教えである「過越の秘義」を国際神学委員会が明示する「過越の秘義」の教えの中心が、キリストが代理者として天主の正義を満足させることから離れ、第2バチカン公会議によってはっきりと宣言されなかったとしても、このことは国際神学委員会の文書によってなされることになりました。国際神学委員会は、「過越の秘義」の否定を相対化し最小化させるために、「無慈悲な天主」という風刺漫画的な表現を使います。 「イエズスの死は最高のいけにえを高揚する無慈悲な天主の業ではない。イエズスの死は、抑圧するよそ者の権力に払われた「買い戻しのための値」ではない。それは、愛である天主、私たちを愛する天主が目に見えるようになる時空である。十字架につけられたイエズスは、天主が私たちをどれほど愛しておられるかを語り、この愛のしぐさにおいて一人の人が無条件に天主のやり方に同意したことを宣言する。」(国際神学委員会「Quaestiones selectae de Deo Redemptore」1994年12月8日、第2部 第14番 Documentation Catholique 2143, 1996年8月16日号) 国際神学委員会がカール・ラーナーの説を述べながら、幾つかの点において慎重な態度を取っていますが、キリストが代理者として天主の正義を満足させたということを拒否するときには、ラーナーの説を有効なものとしてはっきりと認めています。 「【ラーナーは】イエズスを、天主が人類を救おうという御旨を示す誰にも超えられない象徴として描いている。象徴的な現実として、キリストは、「決して取り消されることのない、聖寵による天主の自動的な交わり」と「人類によるこの自動的な交わりの受け入れ」とを効果的に代表する。ラーナーは罪の償いのためのいけにえという考えに対して非常に慎重である。ラーナーはこの古い考えは旧約時代においては一応(= a priori)有効であるが、『私たちが探求していることを理解するためには今日ではあまり役に立たない』、と考えている。つまりイエズスの死の原因的意味である。ほとんど秘跡的な原因性に関するラーナーの仮説によると、天主の救いを望む意志はしるしを要請し、この場合にはイエズスの死と復活であり、このしるしにおいて、またこのしるしによって、意味されたものの原因となる。・・・ラーナーの仮説は天主がまず最初に愛し始めたこと、また天主に相応しい信頼と感謝の答えに強調を置くという議論の余地がないよい点がある。この説はそれ以前のある説のもっていた法律主義で道徳主義のもつ限界を破る。」(国際神学委員会「Quaestiones selectae de Deo Redemptore」1994年12月8日、第3部 第14番 Documentation Catholique 2143, 1996年8月16日号)【ラーナーは新しいミサを創ったグループであるConsiliumのメンバーでした。】 第2バチカン公会議を典礼改革への適応する「過越の秘義」の神学は典礼の「刷新」の中心的概念でした。第2バチカン公会議は「この刷新によって、典礼文と儀式が示す聖なることがらが、明白に表現され・・・るように典礼文と儀式とを整える必要がある」(「典礼憲章」21)と求めました。 「典礼文と儀式が示す聖なることがら」は、本来ならば贖いの行為なのですが、第2バチカン公会議以後は「過越の秘義」の神学に沿って理解されたために、典礼様式(「儀式」)の改革は「キリストの「過越の秘義」を生きることが出来るように・・・目指す」(典礼聖省のLiturgicae instaurationes, Documentation Catholique 1574, 1970年11月15日号)こととなるのです。 この新しい教義上の観点から、ほとんど全ての典礼様式は変更されました。 ◎ 新しい「過越の秘義」によれば、天主は罪をもはや天主に対する正義を欠くことであるとは考えにならず、人が罪を犯しても天主の側からは決して人との契りを放棄し給わないので、私たち人間は罪故に当然受けることになった苦しみの赦しを天主に願い求めることもなく、天主が罪人たちに対してお怒りにならないようにと宥めることもなくなりました。こうして典礼改革はこれらの苦しみや天主を恐れると言うことを示すものをすべて取り除いてしまいました。 ◎ 新しい「過越の秘義」によれば「贖い」は、聖父が私たちに持つ無償の溢れるばかりの愛を十全に啓示することであると考えられているので、その返答である典礼儀式は、感謝とお願い以外の何ものでもありえないのです。キリストが代理として天主の正義を満足させることやキリストの祈りにおける仲介は、特に必要ないものとなります。従ってそれらに関することは大部分が新しいミサ典書、特に「奉献の祈り」から削除されることになりました。
「尊き御血の祝日」をみると、
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