マニラのeそよ風

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第138号 2003/05/07 司教殉教者 聖スタニスラオの祝日

聖スタニスラオ
聖スタニスラオ

天主の御母聖マリア、罪人なる我らのために、
今も臨終の時も祈り給え!
(天使祝詞)

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、
 私たちは、日本カトリック司教協議会監修、カトリック中央協議会発行の『カトリック教会の教え』の考察をしています。今回は、その第一部、第三章、第二節『救い主キリスト」に従って、「イエスはだれか」(99ページ)を見てみましょう。


 『カトリック教会の教え』は、私たちの主イエズス・キリストを誰だというのでしょうか? 新しい『カトリック教会の教え』にはこう書いてあります。

 「イエスは神の国の福音を説き、神の恵みと力を現し、更には過越の秘義を通して身をもってこの福音を示されました。そのため、イエス・キリストご自身が神のみことばであると言われるようになりました。しかしその生前から、イエスご自身には、ただの人間、道徳の師、宗教家というだけではすまない何かが感じられました。・・・イエスの評判が広がるに従って、彼を信じる人からは『ラビ』(律法の師)と呼ばれ、『預言者』と見なされたと思われます。また、彼が約束のメシアではないかと考えた人々もあったようです。ただ、イエス自身は、神のみことばを説くことに専念し、自分が何者かということを主張することはほとんどなかったものと思われます。イエスの死と復活を堺に、彼にはさまざまな尊称(称号)が与えられることになりました。」(99―100ページ)

 この説明を聞くと、『カトリック教会の教え』の著者は、全く主観的なことしか関心を抱いていないということが分かります。なぜなら「・・・と言われるようになり・・・何かが感じられました。・・・評判が広がるに従って、・・・信じる人からは・・・と呼ばれ、・・・と見なされ・・・と考えた人々もあった・・・さまざまな尊称(称号)が与えられ・・・」と言うことだけを書いていているからです。

 そして、イエズス自身は自分が何者かということを主張することにはあたかも関心がなく、それらのうわさ話、ゴシップ、「評判」、「呼ばれ方」、「見なされ方」、「考え方」、「尊称」、「称号」、あだ名は、イエズスとは全く関係なく、「信じる人」が勝手に想像して作ったものだ、と言っているかのようです。

 カギ括弧付きの「キリスト」という「尊称」「称号」については、「イエスご自身、自分の使命がメシア的なものであることを十分意識しておられたと思われます」(100ページ)と弱々しく、仕方なさそうにそう認めなければならないと言いながらも、本当に自分がメシアであったと自覚していたかは分からないのではないのかと暗示を与えています。

 ただ、ペトロとパウロが「信仰の宣言をして」(100ページ)いること、「イエスを信じる人々」「彼においてだけそれ【=メシアであること】を見いだしたのです。・・・復活以降、このかたをおいてメシアはありえないとの確信になりました。教会は・・・イエスをキリストと公言し、・・・全ての人々を救う方であるとしました。」(100ページ)と書いて、「イエスを信じる人々」、「教会」「イエス」にだけ「メシア」「見いだし」、次第にそのような「確信になり」、「公言し」、メシアであるとするようになった、と言います。

 「神の子」ということについても、「尊称」であるとしています。『カトリック教会の教え』は、「復活によって弟子たちは、イエスが神と一致しておられること、もともと神から遣わされた方であることを確信しました。そこで新約聖書はイエスを『子』『御子』『神の子』と呼んでいます。マルコによる福音書は、イエスの洗礼において・・・との天からの声がし、・・・百人隊長が・・・と言ったとしています聖書はキリストが初めから神の子であったとします。」(101ページ)と書き、やはり「弟子たち」「聖書」「神の子」「呼んで」、そうであると主張し、そう「確信」しただけの話にしています。

 しかもこの「神の子」とは、いままでカトリック教会が教え続けてきた「天主御父の独り子」ように、単純に本性による天主御父の聖子という意味で理解するべきではないということが繰り返して述べられます。

 まず、第一部、第二節で、「神の子」について語ります。「人は『神にかたどって』創造されました。人の似姿性は、特にその人格にあります。・・・」(49ページ)と言い、人間がその自然本性として持っている「人格」、「理性」「意志」とを備えた「自由な人格」の故に、「神に似ています。・・・ですから人は皆、本来『神の子』なのです。・・・人は宇宙における『祭司』であるといってもよいでしょう。」(50ページ) 『カトリック教会の教え』は、人間がもつ自由な人格は、人間の本質に結びついた特性であること、人間が人間である限り、必ず持つものであること、だから、人間は本来、その本質において「神の子」であり、本質的に神と結ばれているものであると言っているようです。

 そして、キリストの「尊称」についての項でも、「元来ユダヤ教では、神のみ旨にかなった生き方をするものを神の子と呼んでいました。神のご意志を体現したイエスは、この意味においてもっとも神の子と呼ばれるにふさわしいかたです。」(101-102ページ)と述べて、「神の子」の意味を限定します。つまり、天主の御旨を果たすものは誰でも「神の子」なのです。

 最後に付けたしのように、パウロやヨハネの「表現」によれば、「イエスの場合、本質的に神と結ばれたかたとして、神の子と呼ばれています。」(102ページ)とも言います。しかし、「本質的に神と結ばれた」とはどのようなことなのかについては語りません。

 そのようなことは「教義成立過程」(109ページ)に属し、キリストに従う人たちは皆、キリストが神の子であるということを信じていました。しかし、神の子が何を意味しているかにおいて様々な理解がありました。」(109ページ)しかし4世紀のニケア公会議によって「キリストは、父なる神と変わらない神の尊厳を持つかた、受肉された神の現れそのものであるということを宣言し」(111ページ)その意味が定められたと言います。

 しかし、私たちが知りたいのは、人が何を思いこんだのか、何と呼んでいるのかではありません。私たちは、イエズス・キリストとは、客観的に誰かということです。私たちが知りたいのは、他の人が何と思おうが、賛成しようが、反対しようが、信じようが、信じまいが、イエズス・キリストが誰なのかということです。


 ところで、◆三福音書は、キリストが天主であると主張した事実を証明します。

◎キリストは、全人類をさばく天主であると主張しています。

王であるキリスト画像 キリストは、「人の子が、その栄光のうちに、多くの天使をひきつれてきて、・・・ 諸国の人びとを前にあつめ、次に彼らをひとりひとりわけるだろう」(マテオ、25:13、14)といっています。

 【イエズスはご自分のことを「人の子」といっていますが、これは、メシアとしてのよび名です。(ダニエル書7:13、14)】

 こういう宣言をあえてなしうる者は、天主だけです。天主でなければ、全人類のあらゆる人たちの内心の状態を読みとって、各人に相当する至当な賞罰を与えうるものはいません。

 キリストは同所で、さらに強調し、続けていっています。審判の日に、キリストは「王」としてたちあらわれ、そして善人にむかって「援助を必要とした人びとをたすけたことは、つまりわたくし自身を助けたことになる。」それから、次に悪人にむかっては反対に、「他人をかろんじたものたちは、つまり、わたくし自身を軽視したことなのだ」というのです。それゆえ、キリストは、善人をよみし、悪人をきらう天主とご自分とを同じものにしているわけです。

 キリストは、ご自分が天主なる律法者であると主張しています。・・・ファリザイ一派の人たちは、イエズスの弟子たちがサバト、すなわち安息日をけがしたといって非難したとき、イエズスはこたえて、「人の子は、じつに、安息日の主人である」(マテオ 12:8)といっています。その意味は、「わたくしは、安息日を制定した天主であるから、サバトに拘束されなくともよい」ということです。

 山の上で説教したとき、「あなたたちもおそわったとおり、昔の人は、殺すな、「殺すものは審判される」と教えられていた。しかし、わたくしはいう、兄弟にたいして怒りをもつ者は、みな裁判を受ける」(マテオ 5:21、22)と教えています。

 この説教のなかで、キリストは何度も、「あなたたちは教えられている、しかしわたくしはいう」という表現をつかっています。もしキリストが、単なる人間で天主の特使にすきないということを主張するものとすれば、けっしてこういう宣言をしてはならなかったわけです。なぜなら、もし、そういう意図でこのような表現をつかったとすれば、天主をはなはだしく侮辱する汚聖行為で、途方もないうぬぼれになるからです。キリストは心からの尊敬と謙遜とをもってこの表現に固執したのです。「天主はいまこそ、あなたたちに宣言することをわたくしに命ずる」からです。キリストが、実際にここで教えている言葉は、キリストが個人の権力をもって十戒に関するただしい解釈と再吟味とを強調していることを示しています。こういう権能は、シナイ山において律法を与えた天主だけがもつ権能です。


◎キリストは、ご自分が全能であることを主張しています。

 キリストは天主のペルソナで、天主の子であること、また、父と同じ権能をもっていることを主張しています。「わたくしには、天と地との一切の権力が与えられている。」(マテオ 28:18)【『カトリック教会の教え』では、聖伝のカトリック教会の教えに反して、これを「キリストの現存は普遍的」(96ページ)であることと解釈しています。】

 「すべてのものは、わたくしの父からわたくしにまかせられた。父のほかは、子が何ものかを知っている者はなく、父が何ものかを知っているのは、子と、子が示した人のほかにはいない」(ルカ、10:22)のであると。

 キリストは、天上においても地上においても天使にたいしても、被造物のうえにもおよぶ権力、このような権力は、天主だけがもつものですが、これらの権力をことごとくもっていることを主張しています。こういう主張をあえてすることによって、キリストは、ご自分が、単に天主のペルソナであることを宣言しているだけではなく、天主の子として、父から一切をうけていること、そのうえ、父とは相互の認識において神秘的に一致していること、父に関しては、ご自分だけが、望むときに人に知らせることができるということを強調しているのです。


◎キリストは、子であるが、天主であること、すなわち、本性においては父とひとつであることを主張しています。

(a) ある日イエズスは、カイザリアの近傍で、弟子たちに、「人びとは、人の子を誰だといっているか」とたずねました。弟子たちは、「ある人は洗者ヨハネといい、ある人はエリア、またある人がイェレミア、あるいは、預言者のひとりだといっている」とこたえた。イエズスが、「ところで、あなたたちはわたくしを誰だと思うのか」というと、シモン・ベトロが、「あなたはキリスト、活ける天主の子キリストである」とこたえた。イエズスは、「シモン・パルヨナ、あなたは幸いな人である、その啓示は、血肉からのものではなくて、天にましますわたくしの父からでたのである」(マテオ、16:13、17)と。

 【聖ペトロはキリストに関する真理を自然の能力でさとったのではなく(肉と血)、おん子をつうじて、父によって与えられた啓示によっておしえられたのです。キリストは、そのときまでに、いろいろな方法で、かれが神のペルソナ、神のおん子であることを示していたのでした。】

 たしかに、聖書の用語法によると、「天主の子」という言葉は、転義的な意味で、「友人」とか、「天主のしもべ」という意味でつかわれていることがあります。例えば、ルカ、10:22。マテオ、9:25など。しかし、ここでは、転義的な意味における天主の子でないことははっきりしています。なぜなら、そういう意味だとすれば、洗者ヨハネも、エリアも、預言者たちもみな、「天主の子」であったはずだからです。また、もしペトロが、同様の意味でこの言葉をつかったものとすれば、父なる天主の啓示など少しもいらなかったわけです。

(b) 司祭長たち、ならびに律法学士たちが、そばで聞いていたときのこと、イエズスは人びとにひとつのたとえを話しました。すなわち、ある人がぶどう畑をつくって、小作人にその畑を貸し与えた。やがて、ぶどう畑からあがる収入の一部をおさめさせようと思って、しもべを次々と使いにだしました。ところが、小作人たちは使いの人びとに何も与えずにおいかえしました。そこで、主人はついに、「さて、どうしたらよかろう。わたくしの愛する子【「愛する子」ということばは、聖書の用語法によると、「真の独子」という意味でつかわれます。】をおくろう。かれを見たなら、おそらく尊敬するのではなかろうか」と考えた。ところが小作人たちはその人を見ると、ひそかに、「あれは相続人だから、殺してしまえば財産は私達のものになる」とたがいに相談し、そして、その人をとらえてぶどう畑のそとにつれだして殺してしまった、さて、ぶどう畑の主人は、小作人達をどう処分するだろうか、彼はきて、小作人たちを殺し、ほかの人たちにぶどう畑を与えるだろう、と。(ルカ、20:13-16)

 このたとえをきいた人たちはみな、キリストが何をいおうとしているのかわかったのです。このたとえは、はっきりした預言で、ユダヤ人が多くの預言者を殺し、最後には、天主の愛子までも殺し、その結果、彼ら自身の破滅をまねくことになるであろうということを話しているということがわかったのです。それで絶叫してこういった。「そんなことがおこらないように」と。キリストをとりまいていた人びとのうちには、多くの友人たちもいましたがほかの司祭長とか、律法学士たちは、キリストのいおうとする事柄の意味をすぐに了解しました。そして、このたとえのなかで、天主のまことのおん子を殺す自分たちのすがたを見たのです。

(c) 聖金曜日の朝、イエズスは衆議所に出廷していた。「大司祭が、イエズスに、あなたはキリストか、祝せられたものの子か、とたずねると、イエズスは、そのとおりです。あなたたちは人の子が、力あるものの右にすわり、天の雲にのってくるのを見るであろう、といった。そのとき、大司祭は自分の服をひきさいて、どうしてこれ以上の証人がいるか、あなたたちは冒涜の言葉をきいたのです。それをどう考えるか、といった。彼らは口をそろえて、その罪は死刑に価すると決定した」のです。何が冒涜であったのか。いうまでもなく、それはイエズスが、天主の真の子であり、父と本性において同じであると宣言したことが、冒涜と見られたのです。この冒涜のゆえに、彼らはキリストを死刑に決定したのです。


ヨハネ福音書は、イエズスがご自分を天主であると主張していることを立証します。

◎キリストは天主の特権を主張しています。

 ユダヤ人たちが「あなたは、まだ五十才にもならないのに、しかも、アブラハムを見たというのか」といったとき、イエズスは、「まことにまことに、わたくしはいう。アブラハムが存在する以前に、私はある」と言いました。

 「父は、すべての人が父を尊ぶと同じように、みなが子を尊ぶように、審判のことをことごとく子にまかせた」のです。

 キリストはニコデモにいっています。「子を信じる人はさばかれないが、信じない人は、天主のおん一人子の名を信じなかったために、すでにさばかれている」のであると。

 キリストは自分自身を、生命にいたる「門」であるといい、「ぶどうの木」で、私達はすべて、その枝であると教えています。彼は、「道であり、真理であり、生命である」と言います。

 キリストは苦難に入る前晩に天父に祈って、「父よ、この世が存在するよりさきに、わたくしがあなたのもとで有していたその光栄をもって、いま、わたくしに光栄をあらわしてください。わたくしのものはみなあなたのもの、あなたのものはみなわたくしのものである」と、いっています。

 以上の真理を証拠だてるテキストは、聖ヨハネ福音書からも、他の福音書からも、たくさん引用することができます。


◎ユダヤ人たちは、キリストがご自分を天主であると主張していた事実を承知していました。

 イエズスはユダヤ人たちにいっています。「わたくしと父とはひとつである」と。そこでユダヤ人たちは、ふたたび石をとりあげてイエズスを殺そうとしました。それは、「あなたは人でありながら、自分を天主とするから」という理由によるものでした。

 イエズスが、安息日に病人をなおしたというので、文句をつけるユダヤ人たちに、「わたくしの父は、いまもはたらいているのですから、私もはたらく」といいました。この言葉を聞いて、「彼らは、イエズスを抹殺しようとする決意をさらにかためた。なぜなら・・・キリストが、天主を自分の父と呼び、ご自分が天主とひとしいものだといったからでした。」

 イエズスは、彼らがどうしても理解しないので、「・・・すべて父のおこなうことは、何によらず、子もまたこれをおこなう。・・・父が死者を復活させて生命を与えるように、子もまた、自分の望む者達に生命を与えるのである」(ヨハネ5:17-21)といっています。

 ピラトが、イエズスを釈放したとき、ユダヤ人たちは、「私達には律法があります。律法によれば、彼は死にあたる。みずから、天主の子と名乗ったからである」と叫んだのです。(ヨハネ19:7)


◆キリストの行動は、彼が天主であると主張した事実を証拠だてています。

◎イエズスは、天主から遣わされた単なる使者としてだけではなく、天主ご自身として、多くの奇跡をおこしています。

 「たとえ、わたくしを信じないでも、わたくしのすることを信じなさい」と言っているが、することというのは奇跡のことです。「そうすれば父がわたくしにおられ、わたくしが父にいることを知って悟るだろう」(ヨハネ10:38)ともいっています。

◎キリストは、人びとがご自分を天主として礼拝することをゆるしています。

 イエズスが、生まれつきの盲に視力を回復してやったとき、「あなたは人の子を信ずるか」といった。彼は「主よ、わたくしが信仰すべき者とは誰のことですか」とたずねると、イエズスは「あなたはそれを見ている、あなたと話している人がその人だ」といった。すると彼は、「主よ、わたくしは信じます」と言って、ひれ伏してイエズスを礼拝しました。(ヨハネ9:35-38。マテオ、14:33。15:25。17:14。参照)

◎ イエズスは、また、かれ自身の権能をもって罪をゆるしています。

 イエズスは、中風にかかっている人に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言いました。ところが、律法学士がこれをききとがめて、「天主のほかに罪を赦すことができる者はない」と心のうちで考えました。イエズスは、彼らがそう考えていることを悟り、すなわち、「天主の他に罪を赦すことができるものはない」という考えを、そのまま肯定して、しかも彼が、すでに罪の赦しを与えたことを知らせるために、「人の子が地上で罪を赦す権力をもっていることをあなたたちに知らせよう」と中風の人に、「たって、床をとり家にかえれ」と命じました。すると、彼は突然立ちあがり、床をもちあげ、人びとの目の前を通って行ったのです。(マルコ、2:5-12)

 イエズスの足に接吻し、涙をもって足を洗ったマリア・マグダレナに、イエズスは、「あなたの罪は赦された」と言いました。それから、食卓についていた人びとにむかって、「かの女は、多く愛したから、多くの罪が赦されたのである」といっています。罪は、天主の愛によって赦されるのです。従って、キリストは、自分に対する愛は、とりもなおさず天主に対する愛であるということを教えているわけです。別な言葉でいうと、イエズスは、ご自身が天主であることを主張しているのです。(ルカ、7:48)


◆使徒たちも弟子たちも、キリストが、ご自分を天主であると主張していたことを承知していました。

◎キリストの死後には、ユダヤ人も異邦人も、キリスト教徒はみな、キリストの天主性を宣言したのですが、これは明白な事実であって、否定することができません。またこれらの人たちは、キリストの天主性を証明するために、苦難を甘受し、生命をかけていたことも否定できない事実です。

 彼らが、キリストがまことの天主であるということを、命をかけて証明しようとしたのは、これがかれらの「主観的な思い込み」や「創作」ではなく、キリストがご自分を天主の子であると主張していたことを、彼らが知っていたということを前提にしてこそ、はじめてわかることです。


◆そして、聖伝のカトリック教会の教えは、奇跡と預言はイエズス・キリストが、彼ご自身主張していること、すなわち、天主であることを立証すると教えています。

◎キリストの奇跡は、キリストの天主性を立証します。

 キリストはこの世に生活していたときに、たくさんの奇跡をおこしています。

 キリストは、単なる言葉だけで、病人や、目の不自由な人々、口の不自由な人々、足の不自由な人々などをなおしました。また、別なところに住んでいる人たちの病気を、いながらにして治癒したこともすくなくありません。特記すべき奇跡として、生まれつきのめくらを癒したときの出来事があります(ヨハネ、9章)。

 キリストは死者をよみがえらせました。たとえば、ヤイロの娘、ナイムの寡婦の息子、ラザロのよみがえりなどをあげることができます。また、悪霊のとりこになっている人から、悪霊をおいだしていますが、こうしてキリストは、ご自分の権能が霊の世界にもおよぶことを、はっきり知らせたわけです。

 キリストは、単なる物質界においても、多くの奇跡をおこしています。水をぶどう酒にかえ、五千人あまりの人たちを、五個のパンと二尾の魚をふやして飽食させたりしています。ちょっとした命令で、暴風雨をしずめ、また、水の上を歩いています。

 キリストの奇跡は、自然的には説明不可能です。以下、自然的に説明しようとしてでっちあげたいろいろなこころみを検討して見ましょう。

 → 妄想説によると、奇跡は単なる自然的な出来事であったのだが、狂信的な弟子たちが、超自然的なものに妄想したのである、という。ところが、奇跡はいつも公然と、一般の人たちの目の前でおこなわれたので、その事柄が事実そのとおりであったことは、キリストの敵たちでさえ認めざるをえなかったのです。(ヨハネ、11:47)

 → 悪霊蠢動説によっても説明不可能です。なぜなら、キリストは、彼の教えから見ても、その人格からいっても、聖なる人だったからです。つまり、キリストは、サタンの僕ではありえなかったのです。キリストは、悪霊を追い出しているのであるから、悪霊の敵ではあったが、悪霊の手先ではありえなかったわけです。

 → 催眠術、または、動物磁気説によっても説明がつきません。催眠術とか暗示とかによる治療法は、神経系統のある種の病気には効果があるといわれています。しかし、瞬間的な平癒とか、そこにいない人の病気をなおすことなどはできないのです。キリストは、いろいろな種類の病気をなおしています。そのうえ、多くの場合、病人たちが、そこにいあわせないこともあったし、病人たちが、なおしてもらえる立場にあることにさえ気がついていませんでした。いずれにしてもこの説は、死者のよみがえりを説明することはできません。

 キリストは、ご自分が天主から遣わされたことを立証するために、奇跡をおこしたのです。「わたくしのするおこないそのものが、わたくしを遣わしたのが父であることを証明している」(ヨハネ、5:36。同、10:37。マテオ、11:4-5)のです。従って、キリストの教えは、天主の教えであったのです。ところが、キリストは、ご自分が天主であると教えています。それゆえキリストは天主です。


◎キリストの預言は、彼の天主性を立証しています。

▲ キリストは、人間が到底予知することができない未来の預言をたくさんしました。

(1) ご自分の将来について、受難、復活、昇天などを預言しました。(ヨハネ、3:14。マテオ20:18。ヨハネ6:63)

(2) 彼の弟子たちについては、ユダが師を売るであろうということ、弟子たちがみな師をすてさるであろうことなどを預言しています。(ヨハネ、13:21-26。マテオ26:34。同、31)

(3) キリストの教会については、教会が、辛子種のような素晴らしい成長力をもっていて、全人類を、その木の葉陰に休ませるようになるであろうといい、ご自分と同じ待遇を受けるだろうということ、すなわち、世がこの教会を憎み、迫害するであろうということ、しかし教会には、地獄の門も勝つことはできないこと(マテオ、13:31、33。16:18)、などを預言しています。

 こういう預言の成就は、キリストの教えが天主の教えであることを明白に立証します。

 ところがキリストは、ご自分が天主であると教えています。

 従って、キリストは天主です。

▲ イエルザレムの滅亡と、ユダヤ人の将来とに関するキリストの予言は、特記すべき預言であると見られています。

 キリストは言います。「敵がおまえのまわりに塁を築き、とりかこみ、四方からせまり、おまえとそのうちにすむ人びとを地にたおし、石のうえにひとつの石さえのこさないような、ある日がくるだろう」(ルカ、19:34、44)と。それから「地上には大艱難があり、おん怒りがこの人民のうえにくだるからだ。彼らは、剣の刃のしたに倒れ、あるいは捕虜として、諸国にひかれていくだろう。そしてイエルザレムは、異邦人のときがみたされるまで、異邦人にふみにじられる」(同、21:23、44)であろうと。これはキリストの預言ですが、この預言が、文字どおりにそのまま実現したことは、ローマ皇帝ティトスの命によって書かれた、フラビゥス・ヨセフス著「ユダヤ戦記」を見ればわかります。ローマ軍には、攻略した都市、特に神殿などは、そのまま保存しておく習慣があったので、都市の壊滅ということなど、全く予想外のことだったのです。

 ローマ皇帝、背教者ユリアーヌス(361―363年)は、キリスト教の預言の裏をかいてやろうとしたらしく、神殿とユダヤ国との再建とを計画し、ユダヤ教をさかんにしようともくろみました。離散していたユダヤ民衆は、この計画を知ると狂喜して参集し、熱心に協力しました。

 アンミアーヌス・マルチェリーヌスは、皇帝護衛官で、異教徒の著作家ですが、人類史上において、特に立証された事件のひとつとして、以後のなりゆきを記しています。

 「ユリアーヌスは、以前ブリタニアの副官であったアンテオキアのアルピヌスに、この大事業をまかせた。アルピヌスは、情熱をこめてこの大事業をはじめ、州の総督を補佐役に任命した。おそろしい熱火のかたまりが、基礎の下からふきあがり、労働者たちがどうしてもちかづくことが不可能になるまで、猛火の攻撃が止まなかった。こうして猛火が執念ぶかく彼らを追っ払ったので、遂に事業は放棄された」(Hist. ⅩⅩⅢ. 1-3. Newman; Essays on Miracles. sect.. Ⅶ. P.334 ここには、キリスト教徒異教徒その他の権威が列挙されています。なかには同時代の人もいます)と書いています。


◎キリストご自身において、預言がすべて完成している。

 多くのユダヤ人たちは、彼らの聖書、すなわち、旧約聖書が教えているメシアに関する預言が、キリストにおいて、完成されていることがわかったために、キリスト教徒になったのです。

 私達は、旧約聖書の神感性とか、特別な権威などをここではとりあげありません。ただ、誰も否定することができない点、すなわちこの本が、キリストが生まれるはるか以前に書きおろされた本だということだけをとりあげて論をすすめていきます。

 ユダヤ人の宗教は本質的に待望の宗教でした。すなわち、あとでつかわされるメシア、あるいは救世主に対する信仰と待望とが教義の中心になっていました。そして、救世主に関する預言が、すべてキリストにおいて実現したのです。救世主に関する預言の大要を、次にあげてみます。

 彼は、ダビドの正継として生まれるであろう。(イザヤ、11:1, 2)。
 そして、ベトレヘムで生まれる(ミケア、5:2)。【大司祭と律法学士たちが、ヘロデにこたえて、キリストはベトレヘムで生まれるといったが、それを証明するため引用したのは、このテキストでした。】
 彼は、聖なる童貞女である母から生まれるであろう(イザヤ、7:14)。
 そして天主の子といわれる(詩、2:7)。
 彼はナザレ人・・・すなわち、ナザレの人といわれる(イザヤ、11:1)。
 彼は正義をもって、貧しいものを裁く(イザヤ、11:4)。
 彼の王国は攻撃を受けるであろうが、永遠にほろびることはない(詩、2:1-4)。
 彼は、すべての人びとを裁き、そして、義人には光栄の冠を与える(イザヤ、24章、28章)。
 しかし、彼は悲しみの人であって、軽蔑され、最もさげすまれた人間になる(イザヤ、53章)。
 彼は銀貨三〇枚で売られるが、その銀貨は、やき物師から畑を買う代価につかわれる (ザカリア、11:12,13)。
 自分から望んで犠牲になり、ひとことも語りません。屠殺場にひかれていく羊のように、毛を刈りとる人の前にだまっている羊のように、口をつぐんでいる(イザヤ、53:7)。
 彼の腕と足とはさしつらぬかれ、衣服は分けられ、着物はくじ引きにされる(詩、21:17-19)。
 彼は異教の国々の光明になり、地のはてまで、救いをもっていく(イザヤ、49:6)。天の天主は、けっしてほろびない王国をたてる(ダニエル、2:14)。

 【ここには、直接、救世主個人に関係がある予言を記しましたが、このほかに、忘れてはならないことがあります。すなわち、ユダヤの宗教そのものが、全体としても、細目としても、救世主の事業の前表になっているということです。また、救世主が創設するはずの教会、制定するはずの奇跡など前表にもなっています。更に、救世主の生涯におこる重要な事件が、旧約時代の太祖、予言者、聖人たちの生活のうちに、前表としてすでに描きだされてもいます。】

 以上あげたような多くの預言が、ある個人において完成されたということは、けっして偶然の符合ではありえないし、人間の作為によるものでもありえません。

 【キリストが、永遠の国を建てること、全人類の審判者になるだろうという予言は、厳密にいえばまだ完成してはいないということに注意して下さい。これらは、いずれも世界の終末に完成されるでしょう。しかしながら、キリストがすでに、彼自身、永遠の王国を建設し、全人類の審判者になるであろうと主張しているかぎりにおいて、もはや成就しているといってもまちがいではありません。】

 ですから、これらの預言の成就が、天主の聖業に帰すべきであるということは、きわめて明瞭なことです。従って、キリストは約束されたメシア、すなわち、救世主です。キリストは天主によって派遣された。キリストは天主の権をもって教え、しかも、ご自分が天主であると教えた。それゆえ、キリストは天主です。

 しかし、残念なことには、新しい『カトリック教会の教え』には、これらの説明は一切ありません。

 『カトリック教会の教え』は、そのような私たちの主イエズス・キリストの天主性を証明するような事実に沈黙を守り、無視し、考察の対象としようとはせず、主題と見なそうともしません。

 『カトリック教会の教え』においては、「ナザレイエス」について伝えられる歴史の中で、何であれ客観的にその天主性を示唆する要素をことごとく排除しなければならないかのようです。

 また、『カトリック教会の教え』によれば、キリストのペルソナは信仰によって「変容させられた」と考えているらしく、これを「歴史的諸条件」を越え出るほどに高めているものは、すべて取り除かねばならないかのようです。

 更に、信仰によって「歪曲されて伝えられた」とおもわれるキリストの言動は、現代の科学的な基準から見て、キリストの人格、境遇、教育ならびに彼が生活した時代と場所に厳密に調和一致しないと思われれば、ことごとく除外されるべきであるかのようです。

 『カトリック教会の教え』にとっては、イエズス・キリストが客観的に天主であったということは、客観的な外的なしるしによって証明しうるとは、考えられていないかのようです。

 第1バチカン公会議は、次のように定義しています。

 『もし誰かが、天主的啓示は外的なしるしによって信憑性を得ることができず、また、したがって人は自らの個人的、内的な体験あるいは詩的霊感によってのみ信仰に引き寄せられるべきである、と述べるならば、彼は排斥されるように。』


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(この項続きます)

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)