第123号 2003/04/25 御復活の金曜日
アヴェ・マリア!
兄弟の皆様、 ヨゼフ・マリ・ジャック神父様は、日本での33年間の生活のうち、そのほとんどの30年を藤枝教会で主任司祭として働いておられました。未信者さんの間でも藤枝教会の近所の人々にとっては、ヨゼフ・マリ・ジャック神父様の親切と笑顔と勤勉は有名で、昔は毎晩夜遅くまで日本語の勉強をしているとのことで有名でした。東京とか大阪のような大都会でしたらもっと簡単だった宣教の仕事も、特に藤枝のような狭く貧しく小さな田舎町では、キリスト教に対する偏見もまだまだ深く、多くの血のにじむような努力が必要とされたことだと思います。 ヨゼフ・マリ・ジャック神父様と私の家族との出会いは、私の祖父母の時代にまでさかのぼります。私の祖父母の「本家」は、藤枝カトリック教会のすぐ近くで祖父母もそこに住んでいたようです。藤枝教会が聖母幼稚園を創立すると言うときには、私の叔父が幼稚園の第1期生で、もう一人のその下の末の叔父も藤枝聖母幼稚園に通いました。聖母幼稚園の記念誌にはヨゼフ・マリ・ジャック神父様が私の祖母の名前を出して、祖母が幼稚園のために良く尽くしてくれたと書いてさえあります。私は後にこれを読み、何をしたのかと祖母に聞いた覚えがありますが、その時には祖母は自分がしたことを忘れていました。 藤枝聖アンナ教会は、創立100周年を迎えたとき新しい聖堂に建て直しました。これはまだ私が藤枝教会の隣にあった聖母幼稚園に通っていたときの頃だったと思います。ヨゼフ・マリ・ジャック神父様の指導の元で、日本で初めて日本人の信者たちの献金だけで、外国からの援助無しに教会を建てたそうです。聖母幼稚園の園児であった時に、教会の中で私たち園児が皆でロザリオの祈りをよく唱えたのを覚えています。 私は、中学3年生の時から藤枝教会に通い出し、毎週土曜日にヨゼフ・マリ・ジャック神父様の教える学生のための公教要理とロザリオの祈りをしました。1980年のクリスマスに藤枝教会でヨゼフ・マリ・ジャック神父様の手から洗礼の恵みを受けました。私は高校1年生でした。 藤枝のカトリック信者は、毎年、御復活祭の頃になると、カードに名前を書いて、復活の義務(御聖体拝領と告解)を果たしたことを自己提出しなければなりませんでした。毎年10月は、信者さんの家を訪問しあってロザリオの祈りをしました。毎日のミサ聖祭と夕方のロザリオの祈りには、信者さんたちと共に捧げていました。ある年の神父様のお誕生日にヨゼフ・マリ・ジャック神父様のところに遊びに行くと、神父様のもらわれたお菓子に鶴と亀のおまんじゅうがありました。お裾分けで、鶴と亀とどちらを選ぶか、と言われて、少し髪の毛の薄くなっていた神父様を記念して「ツルを下さい、神父様がツルツルですから」と言って、皆で笑った覚えがあります。 ヨゼフ・マリ・ジャック神父様の立てるミサ聖祭は、残念ながら新しいミサでしたが、神父様は第1の奉献文をいつも使っておられ、聖変化の後には聖伝のミサの時のように必ず親指と人差し指をくっつけておられました。大昔に準備した説教をいつも繰り返していると悪口を叩くおばさんなど信者さんの中にいないことはなかったのですが、御聖体を大切にすること、ミサ聖祭のすばらしさ、マリア様にロザリオの祈りをすること、愛徳の必要性、教皇様への従順、などを良く説教なさっていました。 私たち信者は、御聖体拝領を必ず跪いて口でしていました。ヨゼフ・マリ・ジャック神父様のご指導のおかげで、私は司祭になるまでは、御聖体を手につまんだことも触ったこともなく、1,2回の例外を除けば洗礼以来、必ず跪いて御聖体拝領をしていました。それが藤枝カトリック教会の伝統であり、根付いた習慣であり、当然のことであり、普通のことだったのです。 しかし私が洗礼を受けてから間もなく、ヨゼフ・マリ・ジャック神父様は、突然引退をするように命じられ、藤枝教会の私たち信者に「お別れでないお別れの言葉」を残して、主任司祭の地位から去って行かれたのは、私がまだ高校生の時でした。 ヨゼフ・マリ・ジャック神父様のような聖人のような立派な神父様の後に来られると言うことは普通の時でも難しいことだと思いますが、教会の危機の時代に後継者となった神父様は、ご苦労になられたと思います。新しい神父様は、「跪く」とか「接吻」というのは日本の習慣ではないと仰り「インカルチャレーション」のために(?)少しずつ改革を導入されました。特に毎日御ミサに与っていた多くの信者さんたちにとっては、この改革は非常に苦痛でした。 皆が跪いて御聖体拝領をするのは、新しい神父様が来られてから最初の数週間続いたものの、今度は行列を作ってから跪いて聖体拝領するようになり、その後には行列の時に立って拝領することが勧められ、跪く人は行列の最後につくように指導されました。それでも多くの人は後の方に並んでから跪いて拝領していました。しばらくすると、跪いてでは御聖体拝領を断られるようになりました。それでも私は、行列の最後について跪き聖体拝領をしようとしいていましたので、一人取り残されて、そのまま席に戻るというようなことも何度もありました。 その当時は、たとえ口での御聖体拝領であっても、立ってすれば拝領出来ました。しかし私は立ってでは聖体拝領をしませんでした。(その後何回か神父様が代わり、ある主任司祭は、必ず立って手で聖体拝領するように信者さんたちに強制したそうです。そこで、藤枝教会の信者さんは必ず立って手で聖体拝領をするようになってしまったそうです。) 藤枝カトリック教会の良き習慣はこうして壊されていきました。新しい神父様は、ヨゼフ・マリ・ジャック神父様の教えとは別の新しいことを信じておられたようです。つまり、新しい主任神父様は、今までの藤枝教会にしっかりと根付いていた伝統や習慣を廃止して、別の教会を作ろうとしていたようです。私たちは、それでも神父様に対して絶大な尊敬を抱いていましたから悪口などは決して言いませんでした。しかし主任神父様は、このような私のことをうるさく思いになっておられたようで、ミサに与っても御聖体拝領は出来ず、ある日ミサの後に神父様とたまたま会うと神父様から「そんなに嫌なら、別の教会を作ったら?」と言われたことを覚えています。私はその時何も申し上げず、黙って聞いていただけでした。 話は少しずれるかもしれませんけれども、2003年2月2日の「カトリック新聞」は、「キシリタン時代の、他宗教への排他的姿勢と教義の絶対化・・・徳川幕府末期の宣教再開から第2バチカン公会議までの、インカルチャレーションの欠如、聖職者中心主義の教会、受動的な信徒」は「過去の宣教の『負』の部分」であるから、「これからの教会に求められる宣教のあり方として、・・・人権問題に関して敏感な共同体となっていくこと、・・・・聖職者中心主義から『信徒を信頼してその自主性、自立性がより尊重される信仰共同体』を育成していくこと」など「宣教を考える研修」についての記事を載せていました。 ところで、まさに「インカルチャレーション」とか、第2バチカン公会議後の教会を作るというスローガンの下に、ようやく地元に育ち根付いていたカトリック信仰共同体のもっていた伝統を根こそぎにされたのを私は自分の教会で目撃したのです。(そもそも「インカルチャレーション」という名前自体がどこか外国の思想の受け安売りで、この名前から最初に日本語らしく「インカルチャレーション」させたらどうなのか、と言いたくなるではないですか。) 「インカルチャレーションの欠如、聖職者中心主義の教会、受動的な信徒」に対する反省という名前のもとに、信者の信仰の感受性と人権を全く無視し、聖職者が自分の持つ権威を乱用して一方的に信徒を受動的な立場に陥れていたのです。カトリック教会の聖伝を守ろうとする信者の声は握りつぶされ、彼らの信仰は排他的に取り扱われ、新しい第2バチカン公会議の教えの絶対化が進められていったのです。正に、過去のカトリック教会のもっていた「負」の部分と自分たちが呼んで非難している人々は、自分が非難しているのと同じ態度を、カトリック教会の伝統に対して取るのです。 さて、故ヨゼフ・マリ・ジャック神父様がなぜ突然主任司祭の地位を追われるようになったかと言いますと、それは神父様が手に御聖体を授けることを拒否されていたからです。 ヨゼフ・マリ・ジャック神父様は、藤枝教会で働いていたときから、パウロ6世の「メモリアーレ・ドミニ」書簡を日本語に訳して印刷されたりして、信徒に読むように勧めていました。神父様は、主任司祭の地位を追われた後には、何故手に御聖体を授けないのかと言うその理由を説明するために「口による御聖体拝領の弁論」を書きました。 私もこの1982年9月21日付けのテスファノ浜尾文郎司教様と日本カトリック中央協議会司教宛の「口による御聖体拝領の弁論」を読む機会に恵まれました。ヨゼフ・マリ・ジャック神父様から洗礼を受けた私にとって、ミサ聖祭を大切にすること、御聖体を大切にするということ、教皇様の教えを大切にすることは、神父様の遺言であり、神父様から受けた遺産でした。私が大学に行く時に当たりフランス語を勉強したいと思ったのも、全く当然すぎることでした。 最初は日本に留まっておられたヨゼフ・マリ・ジャック神父様は、ついにはこの「弁論」のために、フランスに戻るようにと命令を受け、フランスに帰国することになりました。 「口による御聖体拝領の弁論」には、思い出話があります。 まだ私が大学1年生の頃、ヨゼフ・マリ・ジャック神父様にこのパンフレットを印刷して多くの人に読んでもらいたいがどう思うかと言うことを手紙に書いて伺ったことがあります。 そのお返事の中で、神父様は私の考えに賛成し、自由にして良い、是非やってほしい、と言われました。そこで、そのことを藤枝教会の友人の方に伝えたのですが、問題が大きくなると迫害が更に大きくなり神父様が日本に戻れなくなるという理由で反対されました。 では私が一人で何とかしようとすると、そのことが豊島区の聖伝のミサを捧げているパントーハ神父様の聖堂の責任者の方の耳に入りました。その方は自分たちが「カタコンベの教会だ」と自称していた方で、私のことでその聖堂に迷惑が及ぶだろうからという理由で反対でした。 そこで聖伝のミサに与り始めるようになった青年Iさんと相談すると、名前を貸して下さるとのことでした。しかし、大学1年生の私にそれほど予算があるわけではありません。大学の同級生の猪瀬君にお願いすると彼は「口による御聖体拝領の弁論」を全部和文タイプで打ってくれました。(パソコンというものは、その当時は普通の人は持っていませんでした。私が大学4年生の頃、友人の家に遊びに行ったとき、友人が「ワープロ」を、卒論を書くためにと言って買ったと言って私に見せてくれたのを覚えています。そのワープロのディスプレイは一行で数文字しか見えず、メモリーはのろのろとテープレコーダーに接続して記録させるという、今から考えると本当に「お粗末」なものですが、当時としては画期的なものでした。私は驚きをもってその仕組みに感心したことを覚えています。) 猪瀬君がタイプに打ってくれて出来た原稿を「学館」こと学生会館に良く出入りしていたやはり同級生の前田君にお願いすると、前田君は快く学館の輪転機を回してくれ、2000部印刷してくれました。Iさんと私は二人で、ようやく出来た印刷物を学館で製本しました。Iさんは封筒にカトリック教会の全ての小教区、修道会の住所を書き、私はアルバイトのお金で郵便代を工面し、Iさんの名前で日本全国のカトリック教会や修道会に送ったことがあります。しかし反応は全くありませんでした。 ヨゼフ・マリ・ジャック神父様は、外国への「追放」されると、いろいろな国へ旅をする機会が多くあったそうです。私がエコンの神学校に入学したいというと、非常に喜んでくれ、「スペインやカナダ、ローマなどいろいろな国の神学校を見て回った、カルメル会の神学校も見た、しかしみな良くない。必ずエコンの神学校に行きなさい」とエコンの神学校への入学を励まして下さいました。実際、私と共に聖ピオ十世会の神学校に入学した同級生の中には、聖ピオ十世会に来る前に、それでもまだ大丈夫だろうと「最も保守的」だと言われたカナダの神学校とかスペインの神学校に入学し、全く失望して出て来た同級生たちがいました。ローマの修道院に入会すればまだ大丈夫だろうと甘い幻想を抱いて、結局は聖伝の修道会に入会した修道士さんにも会いました。 多くの方の体験談を聞くにつれ、私に「エコンの神学校に入学しなさい」と言って下さったヨゼフ・マリ・ジャック神父様の良き適切なアドバイスにどうやって感謝すればよいか言葉を知りません。後には、私とほとんど同い年のアメリカ人でラテン語の教授と知り合いましたが、彼はとても頭が良く、高校生の時に聖ピオ十世会のことを聞き、聖ピオ十世会の神学校に入学したかったそうです。しかしそのことを自分の神父様に相談すると反対を受け、神学校に入学する機会を失ってしまったそうです。この教授が聖ピオ十世会のことを正しく知ったのは、その何年も後のことでした。 ヨゼフ・マリ・ジャック神父様がお亡くなりになるほんの数週間前のクリスマスの休暇に、病の床につく神父様を訪問出来たのは、私にとって大きな幸せでした。神父様はフランスの南東部のモントバンという町に近いモンブトンというところにあるパリ外国宣教会の司祭の老人ホーム(?)で老人の神父様たちのお世話をしていました。私はまだ神父様がお元気な頃、遊びに行ったことがあります。私のスータン姿を見てお喜びになり、着衣式に参加したかったと嘆いておられました。神父様はフランスに戻るようになってから、実はモンブトンの老人ホームで毎日、朝早く自由に聖伝のミサを捧げておられたのです。聖ピオ十世会についての情報も多くを得ておられたようです。 私は神父様を司祭の叙階式に招待すると、神父様は叙階式には必ず行きたいと返事して下さいました。しかし、その時から既に神父様のご健康は悪化していたようです。それから数ヶ月後には、ベッドに寝たきりになっており、私はクリスマスの休暇に神父様に会いに行ったときには、ベッドに寝たままの痩せこけた神父様に会うことになりました。そしてそれが私にとって神父様との最後の会話となってしまいました。 その時、やはりヨゼフ・マリ・ジャック神父様のご出身のブルターニュからお見舞いに来る人々にも会いました。歴史に「もし」という言葉はありませんが、「もしも」ヨゼフ・マリ・ジャック神父様が今でもお元気でいらしたら、きっと聖ピオ十世会と一緒に働いておられたのではないか、と想像します。 何かそれを暗示させるようなことが今年起こりました。今年の2月はフランスへ行く機会があり、2月2日には母校のフラヴィニーの神学校で例年行われるスータンの着衣式に参加しました。今年で、私がスータンを着るようになってから15年目になります。着衣式が終わってみなと喜びを分かち合い、雑談などをしていると、ある神学生が私のところにやってきました。 彼は新しくスータンを着衣したばかりの神学生です。彼は私に自分のことを覚えているか?と尋ねました。(私は、ウーンと考えました。2000年の聖年のローマ巡礼の時、自分がかつてエコンの神学生だったときに公教要理を教えた小さな子どもが、今や神学生となっているのはすぐに分かりましたが、彼の場合は・・・??) 私は「いいえ」と正直に白状して答えました。 実は、私は彼とは既にモンブトンであっていたのです。ヨゼフ・マリ・ジャック神父様はブルターニュのご出身で、神父様はやはりブルターニュ出身のある家族ととても緊密な関係にありました。その家族の中からは、もう亡くなってしまったのですが聖人のような修道女が輩出し、彼女は王たるキリストのために生涯を尽くしていました。このフランス人の家族は、ヨゼフ・マリ・ジャック神父様のお亡くなりになる直前の訪問の時にモンブトンまでお見舞いに来ていたので、偶然私と会っていたのです。この神学生は、モンブトンで私と初めて会い、エコンでは私の司祭叙階式にも与り、新司祭である私に挨拶をしたことのある男の子だったのです。 私は、神父様から受けたカトリック信仰の遺産を、まさに聖ピオ十世会において十全にしかも安全に守ることが出来ることを、感謝します。御聖体とミサ聖祭に対するカトリック信仰、天主の御母聖マリアに対するカトリック信仰を守るために、日本で働いておられた聖なる諸先輩の神父様、司教様がたの御取り次ぎを求めて、聖伝のミサにあずかれるようになってから20周年の今年、スータン着衣15周年の今年、司祭叙階10周年の今年(*)、常に忠実である恵みをひたすら私たちの主イエズス・キリストに乞い求め、兄弟の皆様にもお祈りをお願いいたします。 2003年4月25日 トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)
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(*) 追記: |