マニラのeそよ風

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第118号 2003/04/22 御復活の火曜日

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、
 私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます!
 今年の復活祭に私にとってとても嬉しいことがありました!
 聖週間の行儀が無事に済んだこと? それもそうです。
 復活の義務をほとんど全ての私たちの信者の方が果たしたこと? それも勿論そうです。
 その他に復活の小さなプレゼントがありました。すこし聞いて下さい。

 復活の主日は韓国のソウルで過ごしました。聖週間の聖務を全て終え復活の主日の夕方にある家庭を訪問しました。実は用事があって先月は家庭訪問をしなければならなかったのですが、その時、中学生の男の子の部屋に入ると、彼はコンピューター・ゲームをしていたのです。(-_-;)

 (韓国では、5人に1人の割合で、青少年がインターネットの中毒になっているという統計があります。韓国では至る所にプロテスタント教会の赤い十字架が立っていますが、最近は至る所に「PC房」と言われるインターネット・ルームが乱立しています。14歳から19歳までの韓国の青少年2509名を調査したところ、そのうち約500名が、毎日平均して3時間以上インターネットをして時を過ごし、インターネット無しにはいられないという心理的不安定の兆候があったそうです。http://www.ucanews.com/html/uca/capsule.asp?f_news=030407KO3704RG.txt を参照して下さい。

 私たちは、これに対して、戦いを挑んでいます。インターネットは、人間の道具であって、人間がコンピューターの奴隷になってはいけない、と。)

 これは、コンピューター・ゲームに限った話ではないと思います。テレビがそうであり、ビデオがそうであり、DVDがそうであり、ロック・ミュージックがそうであり、漫画がそうであり、流行がそうであると思います。

 事実、この訪問先の男の子の部屋の本棚には、漫画の単行本が幾冊かありました! しかも原本は日本の漫画で韓国語に翻訳されたものでした! 私は手にとってページをぱらぱらめくってみると、見るに耐えないポルノではないですか! 私は大きなショックを覚えました! まさかこの子が!! 私は恥ずかしくなりました。

 私は彼に言いました。これは良くない本である、と。更に本棚には本の背表紙を後ろにして題名の分からない漫画の単行本もいくつかありました。私は、おそらく表を向いている漫画よりももっとひどい大人向けの漫画なのだろうと思い、手にすることを控えました。母親も漫画の存在を知っていたようです。それは子どもがずっと昔(聖伝のミサを知る以前)に買ったものだと私に説明してくれたからです。

 しかし、3月の訪問の時にはあまりのショックに、これは悪い本だ!と指摘するだけに留まってしまいました。後で考えると、これらの本を捨てるように、何故強く言わなかったのか、と悔やまれてなりませんでした。この復活の主日にもう一度家庭訪問したい、と思っていました。今度は彼にこのような本は所有してはいけない、捨ててしまえ、と言おうと決意をしていたのです。たとえ、彼がそのために教会に来なくなってしまったとしても、私はどうしても言わなければならない、と思っていました。私は彼のために祈りました。

 そして今回の訪問でまた彼の部屋に入りました。今回はおそるおそる入りました。彼はテレビ(教皇様の復活祭のミサ?)を見ていましたが、コンピューター・ゲームはしていませんでした。コンピューターのスイッチは切ってありました。例の本棚を見ると、例の漫画がすっかり無くなっていました! 私が彼に「あっ、漫画がない! 良いことだ!」と言うと、母親が嬉しそうに私に「この子が自分でみな捨てましたよ」と教えてくれました。私は、彼に大きな笑顔をすると、彼も大きく私に笑顔を返しました。

 コンピューター・ゲーム、テレビ、ビデオ、DVD、漫画、流行とは、一言で言うと、世俗の精神です。世俗の精神、あるいは、この世の精神とは、とどのつまり、私たちに「天主無しにおもしろおかしく生活しなさい」と教える精神です。「楽しいことだけを自分の思いとおりにしなさい、苦しいことはしてはいけない、制限を受けてはいけない、自由気ままに自分勝手に生きなさい。Enjoy your life!」と教えているのです。

 私たちの主イエズス・キリストは、この世俗の精神の正反対を教えています。

 「もし、私の後に来たいならば、自分を捨て、自分の十字架を取って、私に従え。Si quis vult venire post me, abneget semetipsum et tollat crucem suam et sequere me. 」

 ところで、どれほど私たちがこのイエズス・キリストの精神をもっているでしょうか? 特に青少年たちは、どうでしょうか? 私たちが、カトリック信者の子どもたちに公教要理に関する非常に基本的な質問をしたとします。「イエズス・キリストって誰ですか?」「秘跡って何ですか?」「秘跡は何と何があるの?」尋ねても、どれほどの子どもが正確な回答をしてくれるでしょうか?

 公教要理を全く答えられない子どもに、今度はテレビの人気番組の主人公について「○○マンって何なの?」尋ねると、「何年何月何日にどこそこ星雲の何とかという星で生まれて、体重は何トンで身長は何メートルで、・・・」と延々と話をしてくれるかも知れませんし、お祈りの時間にはいつも遅れて怠ける子どもも、ある漫画の番組が始まる時間には、必ずテレビの前にいるかも知れません。

 私は、このような態度はおかしいと思います。イエズス・キリストのことをまず知らなければならないのではないでしょうか。イエズス・キリストに反対する世俗の精神の影響から、身を守らなければならないのではないでしょうか? さもなければ、私たちはこの世と一緒に、イエズス・キリストを十字架に付けろ、十字架に付けろ、と叫ぶことと同じではないでしょうか。イエズス・キリストを私たちの主として、イエズス・キリストの声を聞き、その教えに従おうとしないことは、つまり、イエズス・キリストを亡き者にしようとすることで、聖金曜日の続きなのです。

 今年の復活祭には、ソウルのある中学生が、霊的な復活への兆候を示してくれたので、私には本当に嬉しい復活のプレゼントになりました。

 私たちも、この中学生に負けないように、この復活祭を機会に、ますます私たちの主イエズス・キリストを知り、愛し、奉仕する聖寵を祈り求めましょう!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)