第116号 2003/04/11
アヴェ・マリア!
兄弟の皆様、 初めての聖伝のミサ 今から20年前の1983年4月10日は、御復活祭の次の主日で Quasi modo の主日とか、白衣の主日とか呼ばれている主日でした。その日のことを今でも良く覚えています。私はその年に高校を卒業し、大学に入学することになっていました。入学しようとする大学は、伝統的に創立の日である4月12日が毎年入学式の日となっていました。そこで、4月10日に私は、洗礼の恵みを受けた故郷の藤枝聖アンナ・カトリック教会にお別れを告げ、上京することになりました。 ところで、藤枝カトリック教会で33年間にわたって司牧をして下さり、私に公教要理と洗礼を授けて下さった主任司祭のヨゼフ・マリ・ジャック神父様は、その年には既に主任司祭ではありませんでしたが、藤枝教会を去る数年前にシスター・コンソラータの「愛の祈り」という射祷の小さなカードをたくさん印刷されて、配っておられました。 私が藤枝を去ろうとするその直前に、この「愛の祈り」のカードを受け取った東京のある婦人の方が、藤枝教会でヨゼフ・マリ・ジャック神父様のお世話を長年しかつこのカードの配布の責任を担っておられた婦人の方にお電話をしたことがあります。それは3月の春休みで、私はたまたまヨゼフ・マリ・ジャック神父様が園長をなさっていた保育園に遊びに行っていた時の電話でした。その電話で、この東京の婦人はこのカードのことを感謝すると同時に、東京には素晴らしい神父様がいらっしゃる、ということを伝えました。ヨゼフ・マリ・ジャック神父様と親しくさせて頂いていた私は、カード配布の責任のご婦人からこの話をすぐに聞きました。東京に行くのなら、素晴らしい神父様がいらっしゃるそうだから、お会い出来ると良いですね、といってその連絡先を教えられました。 4月10日は、藤枝で主日のミサに与り午後すぐに上京しました。井の頭線の久我山の下宿に荷物を置き、すぐに「東京の素晴らしい神父様」の連絡先に電話をしました。電話で、神父様のところにはどうやって行ったらよいかを尋ねると、電話に出た男性の方(後で知るのですが、鈴木八千代さんという山形ご出身のおじいさんでした。もう亡くなられてしまいました。)が教えて下さいました。この方は私に御ミサが午後5時にあるからおいでなさい、とも教えて下さいました。そこで私は急いで2回目のミサに与りに行くことにしました。神父様の場所は、豊島区の豊島カトリック教会の近くのマンションでした。当時は地下鉄がまだ開通しておらず池袋駅からバスに乗り(今では地下鉄有楽町線の「千川」駅のあたりまで)行きました。マンションに行くと、既にいく名かの方々がミサに与りに来ておられ、そこで、神父様にもお会いしました。メキシコ人のパントーハ神父様という方で、片言の日本語を話しておられました。そして、そこではラテン語の御ミサが捧げられると言うことを知らされました。 こういうわけで、大学生活を送ろうと東京に行き、そこで最初に与ったミサが、実は、聖伝のミサだったのです! 聖伝のミサのミサについては、噂では聞いたことが少しありましたが、全く知らないものでした。痩せた若い男の方がこのミサの侍者をなさっていた。(この方は、今でもお元気でおられ、「Ave Maria 聖母マリアのサイト」というのを作って活躍しておられるのではないかなぁ、と想像しています。)私は、聖伝のミサで、沈黙のうちに唱えられる祈りに与りつつ、「ああ!これだったのか!」と思いました。今まで、「公教会祈祷書」という祈りの中で、「ミサの祈り」には、「集祷文を唱え、書簡を読む時の祈り」とか「福音を奉読するときの祈り」とか「司祭典文を奉読する時の祈り」、「聖体奉挙後の祈り」などがあるけれども、何故あるのか分からなかったのです。ミサに与りながら、一体どうやって唱えるのだろう?さっぱり分からなかったのです。しかし、聖伝のミサに与って、全てが氷解しました。そして「これだったのか!」と思ったのです。 聖伝のミサが終わると、5,6人ぐらいだったのですが信者さんの皆さんで夕食を一緒に取り(力うどんを注文して食べたと思います)、下宿に戻りました。その時、毎週主日のミサは午前と午後の2回ある、ということを知らされました。東京での大学生活の最初の1日でした。この “Traditional な” ミサに与れたことの感想をヨゼフ・マリ・ジャック神父様にローマ字の手紙を書いてお送りすると “Seiden-no (聖伝の)” ミサに与ることが出来て良かったね!と喜びのお返事を戴きました。 私は、パントーハ神父様がまさかそのマンションにお住みになっているとは知らず、一週間のうち主日にだけそこで聖伝のミサがあるのだとばかり思っていました。高校時代から毎日ミサに与っていたので、最初の一週間は井の頭線沿線のいろいろなカトリック教会を探して行きました。教会の実名は挙げませんが、行ってみてこれまたびっくり!の連続でした。ミサに与る私服を着た信者さん(?)たちが、テーブルを囲んで、祭服を付けた司式司祭と同じようにホスチアに手を伸ばして(!)一緒に聖変化の言葉を唱え(!)司祭の聖体拝領前にホスチアが配られ、司祭と同時に皆が聖体拝領をしている教会!(私は、儀式の途中で、後ろの方に下がって、二度とここには来るまい!と思いつつ跪いてお祈りだけをさせて頂きました)、ほとんどの場合、ミサ聖祭の時に立つか座るかをするだけの教会、地図には載ってはいるけれども、既に無くなっている教会(修道院?)。最初の一週間はびっくりの連続でした。ますます次の主日を待ち望んでおりました。いろいろある教会のなかでもまし(?)かな、などと思ったのは、故チースリク神父様の聖イグナチオ教会の早朝6時のミサだったようです。 4月17日は、「良き牧者の主日」で、パントーハ神父様が捧げる聖伝のミサに与りに行き、皆でキリエやグロリアをラテン語で歌ったり、神父様が香を焚いたりするのを見ました。その後は皆と昼食を食べると、神父様は「良き牧者の主日に青年がミサに来た!」と喜んでおられました。実は、このマンションに神父様が住んでおられ、毎日、そこで聖伝のミサがあると言うことを知らされました。その次の日からは、私は、毎日聖伝のミサにここまで通い始めました。そして、数ヶ月後には、久我山から豊島区の千早町(ちはや)に引っ越しをしました。私はこの聖伝のミサの宝を是非多くの方に知らせたいと思い、東京の予備校に通っていた中学高校の時からの友人も聖伝のミサに誘ったり、以前藤枝のある高校の英語の先生をしていたのだけれどもそれを退職されて、東京の大きな商社で働いておられた知り合いの方も誘ったりもしました。 こういうわけで、20年前の今日からパントーハ神父様が1985年の4月頃に日本からメキシコに決定的にお戻りになるまで、2年ほどパントーハ神父様のもとで聖伝のミサに与る恵みを戴きました。いえ、もっと正確に申しますと、パントーハ神父様が休暇のために1ヶ月ほどメキシコに帰られた時や東京をお離れになって新潟に行かれたとき、最終的にメキシコにお戻りになってしまった1985年4月から1987年12月までの約2年間を除くと、これで20年間、聖伝のミサに与ることが出来るお恵みを戴きました。パントーハ神父様の捧げて下さった聖伝のミサは、私が聖ピオ十世会を知りそれによってカトリック教会の聖伝を本当の意味で知ることが出来るように準備してくれたという意味で、感謝しております。 聖伝のミサにそんなにも長い間与るお恵みを戴いた割には、私はそれを生かし切れていない? そのようなお声が皆様から聞こえてきそうです。耳の痛い話です。昨日の御ミサの時、聖福音でマグダラのマリアとファリサイ人シモンの話を読みました。私たちの主イエズス・キリストにとって、私たちの過去は問題ではないのだと思います。私たちに要求されていることは、心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして主なる天主を愛すること、なのですから。 「この女は、多くを愛したが故に、多くを赦された。」と主は言われます。 私たちもマグダラのマリアに倣って、痛悔の心と、イエズス・キリストへの愛の奉仕と礼拝をお捧げしましょう。多くの兄弟の皆様が、聖伝のミサに与る恵みを豊かに得られますように、心から祈りをお捧げ致します。 トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭) |