第105号 2003/04/01
アヴェ・マリア! 兄弟の皆様、四旬節の黙想として「キリストに倣いて」の「天主に対する深い愛」をどうぞ。 トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭) 四旬節の黙想 「キリストにならいて」「ふかく愛する者は、誘惑のときにも力強く立ち、敵の悪魔の悪企みを、たやすく信じようとしない。幸運なときに私を愛するのと同様に、非運のときにもよろこんで私を迎える。賢明な愛は、愛するお方の賜物よりも、それを与えるお方の愛の方に目をそそぐ。賜物の価値よりも、むしろ愛に注目し、愛するお方の次に賜物をおく。崇高な愛をもつ人は、うけた賜物に満足せず、あらゆる賜物にまさって天主なる私に満足する。だから、時として、私に対し、また私の聖人たちに対して、より以上の愛をもちたいと思いつつ、しかもその愛を感じないとしても、すべてを失ってしまったと思ってはならない。あなたが時に感じる甘美な愛は、天主の恵みであり、天の国の試食とも言うべきものである。それを余りたのみにするな。それは、来たり去ったりするものである。 むしろ心におこる邪念と悪魔の悪だくみとを軽蔑することこそ、徳のしるしであり、功徳となることである。従って、さまざまな奇妙な想像にもおどろかず、あなたの決心と、天主への正しい意向とをしっかり保て。時に脱魂におちいるかと感じ、すぐあとで、元の平凡さに戻るとしても、それは必ずしも幻覚ではない。それは自分の意志によるのではないから、それをのぞましいと思わず、むしろそのために苦しみ、それを嫌い、遠ざけようとすれば、それはあなたにとって、損ではなく功徳である。 人間の古くからの敵は、あなたの徳へののぞみを妨げ、信心行、つまり、聖人への崇敬、受難の敬虔な記念、罪の救霊的な回想、心をよく保とうとする努力、徳に進もうとする固い決心などから、あらゆる方法をもって、あなたを遠ざけようとする。あなたに不安とおそれの念をおこさせ、祈祷や読書から遠ざけようとして、さまざまな邪念をおこさせる。あなたがけんそんに告白することも、敵の気にいらず、できれば聖体を拝領させまいとする。敵はまた、あなたをおとしいれようとして罠をはるが、それを信じるな。その方に目をむけるな。その邪念の責任を敵におわせ、そして言え。汚れた霊よ、私から遠ざかれ、あわれむべきものよ、恥じいれ。そんなことをわたしにささやくお前は、なんと不潔だろう!罪ふかい誘惑者よ、私を去れ、私のうちにはお前の入る所がない。ただ勇ましい戦士として、イエズスが私のうちにおいでになる。お前は恥辱をうけるだろう。私はお前に服する位なら、もっと苦しみをうけて死ぬほうがましだ。口を開くな、黙れ!罠をはっても、私はもはやその手にはのらない。『主こそ私の光、私の救いである。私にはおそれるものがない』(詩篇26・1)武装した軍隊の攻撃にあっても、私はおそれない(同26・3)。主は私をたすけ、私を救ってくださる(同18・15)と。 善い兵卒として戦え。力弱く倒れることがあっても、一層気力をふるいおこし、より多く天主の恵みが与えられることを信じ、空しい自負と高慢とを極力さけよ。そうしないと、人は、過失におちいり、ほとんどいやしがたいほどの盲目となる。おろかに自分を過信する高慢な者がほろびるのを見て、あなたはたえず警戒し、謙遜のいましめとせねばならない」 (「キリストに倣いて」第3巻第6章より) |