マニラのeそよ風

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第97号 2003/03/19 聖ヨゼフの祝日


アヴェ・マリア!

 兄弟の皆様、今日は全世界に広がる教会の守護者、聖ヨゼフの祝日です。

 ところで、私はフィリピンに派遣任命を受けて、今年の8月15日で10年になります。聖ヨゼフの祝日でもあり、息抜きにフィリピンでのお話も少し聞いて下さい。



フィリピンのよもやま話 その1


「サント・ニーニョ」について

 フィリピンのセブ島にあるセブ市には、奇跡で有名な「サント・ニーニョ」(幼きイエズス)の御像があります。これの由来は次の通りです。

サント・ニーニョ

 イスラム教徒たちは短期間の間にいろいろな国を侵略占領しましたが、スペインもそのうちの一つでした。しかし、スペインは数世紀をかけて少しずつ、イスラム教徒たちから国土を取り返すのに成功した例外でした。

 さて、ようやくのことで国土をイスラム教の手から回復したスペインは、世界に向けて乗り出しました。1519年8月10日、スペイン王カルロ5世(在位1516-56年)のもとで、ポルトガル人マジェランの率いる5艘の船(トリニダード、ビクトリア、コンセプシオン、サンチアゴ、サン・アントニオ号)は266名の乗組員を乗せて、スペインのセビリアを西に向けて出航しました。

 彼らが太平洋にたどり着くときには、サンチアゴ号は沈没し、サン・アントニオ号は秘密裏にスペインに帰ってしまっていました。翌1520年3月17日フィリピンのホモンホン島に到着し、土着民の歓迎を受けました。彼らは更に南方のリマサワ島に移り、マジェランはラジャ・コランブーという酋長と同盟を結びます。マジェランの記録係であったピガフェッタは、リマサワ島の人々が「理解力のある人々」であったと記録を残しています。彼らは「優雅なやり方で」立ち去り、「彼らが約束したとおり」数日後に船に必要なものを持ってきてくれました。リマサワ島の人々は1521年3月31日フィリピンの地で始めて捧げられたミサ聖祭に与ります。

 4月7日には、マジェランはセブに入港します。セブの港に到着したとき、マジェランはセブの部族長であったフマボンから「入港税」を支払うように要求されますが、マジェランは支払うことを拒みました。セブ族のフマボンは、セブ族の貿易商からマジェランに逆らわない方がよいと説得されて、入港税についてはうるさく言わないことにしました。

 こうしてマジェランたちはフマボンからの歓迎を受けます。記録係のピガフェッタは、セブ族の美しい舞踊、食事でのマナー、来賓客をもてなす儀式、スビンと呼ばれる楽器、市場での交換や貿易で使われている重さや長さの単位などを記録に残しています。南アメリカの海岸に住む部族にはなかったものを、セブ族の彼らは持っていたのです。

 マジェランたちを驚かせたことは、彼らに中央政治制度がなかったと言うことです。一つの島には数百名からなる部族が数多く存在し、それぞれのグループはそれぞれのリーダーを持ってはいるけれども、それらの部族を統一する指導者、中央政府が存在していなかったこと(sin policia)です。つまり、部落は存在していたけれども、町や都市が存在せず、したがって、いろいろな部族には、共通の法律というものがなかったことでした。彼らは主にいろいろな川に沿って部落を形成していただけだった(rios poblados)ことでした。彼らは一つの土地に長く定住すると言うことがなく、空き地は、それを最初に見つけた者が使うこととなりました。彼らの領土の範囲は、自分たちがどれほどそれを守り、使うことが出来るかで決まりました。

 彼らは川や海岸のそばに住んでいました。彼らは多くの民族と言語によって分断し、互いに憎しみいがみ合っていました。多くの部族同士の戦いや復讐などを通し互いに分かれて争い合っていたために、川や海にそって住む方が、食料を得るためにも、敵から逃げるためにも、物資の交換のためにも、便利でした。部族の構成員は、食料獲得者であり、戦闘員でなければなりませんでした。年寄り、弱者、病人、共同体の重荷となるような人、役に立たない人は、切り捨てられ、弱肉強食の世界でした。部族同士の戦争、人質の誘拐は日常茶飯事でした。(キリスト教化の遅れたフィリピン南部のミンダナオ島では、19世紀後半まで、アポ山に住むと言わる偶像神に人身御供が捧げられ、毎日のように流血の復讐劇が繰り広げられていました。)

 マジェランはフマボンに誰が後継者となるのかと尋ねました。するとフマボンは、自分には子どもがないために自分の婿となった甥っ子が自分の跡を継ぐと答えました。フマボンは言葉を続けて、老人は年を取り、部族にとって役に立たなくなるので、誰からも尊敬されず、捨てられてしまう、老人は部落において全く権威がない、ということを説明します。

 するとマジェランは、キリスト者たちの間ではそうではない、と返事をします。キリスト教の天主は、キリスト者たちに父と母を敬うことを命じ、とくに年をとった両親を敬愛することを命令しているために、キリスト者は老人や弱者を尊敬し、保護し、助け、愛する、と言いました。フマボンはマジェランとの会話をするうちに、キリスト教について興味を抱き、自分の知らなかった世界について驚くのです。フマボンには新しい地平が開け、新しい生活様式についての知識を得ていきました。そして、ついにセブの部族長であったフマボンは自分の妻と家来800名と共に洗礼を受ける決心をします。

 洗礼の後に、マジェランは洗礼の贈り物として、王妃フアナに幼きイエズスの御像、すなわち「サント・ニーニョ」の像を贈呈しました。

 マジェランは、その後、セブ島の他の部族長たちが、キリスト教信者となったフマボンを自分たちの上に立つ指導者となるように働きかけました。フマボンに従うものたちとそれを拒むものたちがあり、マクタン島の土着民たちはフマボンに従うことを拒否しました。マジェランはフマボンを巡る部族同志の争いごとに巻き込まれ、ラプラプを頭とするマクタンの土着民らによって、1521年4月27日に命を落とします。

 ここで注意して頂きたいことは、歴史的な文脈と事実です。マジェランはフィリピンを植民地としようとする意図は全くありませんでした。スペイン王がこのポルトガル人船長に命じたことは、東洋との香辛料貿易をするための西側海路を切り開くということであり、とくにこの面でポルトガルに先を越されていたので、西側海路開拓のために国庫からの援助が出たのです。王の勅令を受けて、マジェランは、征服するためではなく、ファクトリア(factoria)と呼ばれる貿易の拠点を確立したかったのです。

 さらに、歴史的事実は、ラプラプが個人的にマジェランを殺害したのではなく、マクタンの土着民とその同盟族がマジェランを殺害しました。またマクタンの土着民たちは「フィリピンの独立を守るため」に戦ったのではありませんでした。その当時「フィリピン」は存在していなかったからです!

 さて、セブ族長のフマボンはここでマジェランとの同盟関係を破棄します。つまり、マジェランの亡き後、セブを発ってスペインに帰ろうとする船員たちのために、フマボンは盛大なお別れの食事会を開きますが、その食事の中に毒を盛ったのです。こうしてフマボンは乗組員たちを毒殺しました。何とか生き残った船員たちは船に戻り、人手が不足して漕ぐことの出来なかったコンセプシオン号を焼き払って、セブを発ちます。

 2艘の船はインドネシアのモルッカ諸島にたどり着き、船の修理などをしました。2艘の船のうちトリニダード号はメキシコに向けて発ちますが、旅を続けることが出来なく、元に戻ります。マジェランの5艘の船のうち一番小さかったビクトリア号は、フワン・セバスチアン・エルカノの指揮の下で、東に進み、1522年9月8日18名の乗組員を乗せてセビリアの港に到着し、錨を降ろしました。この世界一周就航のニュースはヨーロッパに電撃的な衝撃を与えました。

 マジェランの死後、洗礼の贈り物であった幼きイエズスの御像は、顧みられなくなりました。言い伝えによると、この像はランプの台として使われていました。幼きイエズスの左の手は開いて手のひらを上に向けていますが、ここにランプをおいていたようです。ところで、このランプの油は燃え尽きることなく、油を注ぎ足さなくても何日も灯りをともし続けました。この奇跡的な出来事は部落中に知れ渡りました。

 その後、この御像が田んぼや魚を干すところに置くと、普通なら鳥やネズミなどの動物が来て食べてしまうところ、不思議に守られる、と言うことに気がつきました。また、台風や洪水、疫病などの時には、セブ族の人々がこの像の前に来て跪き、祈りを捧げると、奇跡的に大災害から免れました。干ばつの時には、セブ族の人々はこの御像を持って雨乞いの行列をしました。行列が終わって幼きイエズスの像を下ろすやいなや、雨が突然降り出すこともありました。あまりのも多くの奇跡のために、セブ族の人々はこの像を、バタラ(最高存在)と呼んでいました。

 カルロ5世の後継者であるスペイン王フィリップ2世は、1559年、メキシコの副王ドン・ルイス・ベラスコにフィリピン(王フィリップの名前に由来する命名)の霊的・物質的征服を命じました。1564年11月21日、フィリップ王の命によって、総督レガスピの指揮の下、イエズスの聖名をその保護に仰いで、船団がフィリピンに向けてメキシコを発ちました。レガスピは1565年2月13日にイババオ(レイテ)に到着し、その後ボホル島でスペインとシカトゥナとの間の協定が結ばれました。レガスピは4月25日セブに向かい、セブ族の好感を得ようと努めました。

 4月27日にセブに上陸すると、レガスピとともに乗船していたアウグスチノ会のアンドレアス・デ・ウルダネタ神父が派遣され、友好的な関係を結ぼうと努力しました。しかしセブ族の人々の攻撃に遭い、小衝突がありました。この衝突でセブ族の武力はスペインのそれに比べものにはならず、セブ族の人々は、自分の住んでいた集落を焼き払って、山に逃げ出しました。

 セブ族が逃げ出した翌日、ようやく火事は収まりました。レガスピの兵士であったフアン・カムスは、焼けこげたその集落跡に来てみると、火を免れた藁葺きの大きな小屋を見つけました。その中に入ってみると、右手の2本の指を立てて祝福する幼きイエズスの木像が、大切に布に包まれてあるのを見つけました。この御像を発見したことは、スペイン人たちにとって奇跡でした。レガスピは、このサント・ニーニョの像をアウグスチノ会に保護を委託します。

 ウルダネタ神父の報告書は、発見されたサント・ニーニョの像がフランドル地方で作られている幼きイエズスの像と非常によく似通っていることを書いています。ウルダネタ神父は、その他多くの歴史家の意見と同じく、この像はマジェランによって持ち込まれ、そのままそこに残っていたこと以外考えられない、と主張しています。現在セブ市に残っているサント・ニーニョに関するアウグスチノ会の古文書も、歴史的史料をもとにした研究も、同じことを主張しています。そこで、この木像が16世紀のフランドル地方のものであると考えられています。実際、カルロ5世もフランドルのゲントで生まれたように、フランドル地方もスペイン王冠の下にあったのです。

 6年後の1571年にはアウグスチノ会の修道者たちによって、サント・ニーニョのために藁葺きの竹で出来た最初の教会が、捧げられました。その時、それまでは、サント・ニーニョは奇跡的に焼け残った小屋に祀られていたのですが、新しい教会の完成の際には、この古い小屋から新しい教会までフィリピンにおける最初のキリスト教的な行列が執り行われました。その後、この竹で出来た教会は、2回ほど建て替えられますが、1730年には石で出来た教会の建築が始まります。教会は完成し、1740年1月16日にサント・ニーニョは荘厳に王として教会に玉座を受けました。この教会は今でもセブにあり、今でもアウグスチノ会の修道士たちがサント・ニーニョを管理しています。

 さて、話は1565年に戻ります。5月スペイン兵士が一人で武装もせずにスペインの陣営を離れて歩こうとすると、すぐさま彼は弓矢に射されて死んでしまいました。セブ族たちの復讐です。そこで、レガスピはこのような事態が繰り返されないために報復として40名ほどのセブ族の土着民を捕虜として生け捕りにしました。その中にはセブ族長トゥパスの姪と彼女の女召使いがいました。レガスピは、彼女の身分を知ると、その女召使いを解き放ち、彼女の伯父に、姪が捕虜になったとこと、トゥパスは和平交渉をするために来ることを伝えるようにと送りました。トゥパスはレガスピとの交渉を断固として拒否します。しかし彼の弟、すなわち生け捕りになった少女の父は、和平交渉に来たのです。少女の父親はレガスピに説明しました。自分は少女の父親であり、娘が捕虜になったので、自分もスペインの奴隷となるためにやってきた。スペインが望むとおりのことを自分にするようにお願いする。娘は生きながらえさせてほしい。

 レガスピはセブ族長の弟に答えます。奴隷になる必要は全くない。自分は娘の父親の自分に対する友情の約束を信じる。娘の父親は自由であり、もし望むならば今すぐ娘を家に連れ帰るが良い。ちょうどこの時、この少女は自分の父親の前に姿を現したのです。彼は自分の目を信じることが出来ませんでした。自分の娘が王妃として名誉ある丁重なもてなしを受けていたからです。手錠をかけられているわけでもなく、足に鎖がついているわけでもなく、戦争の捕虜が、奴隷となることなく丁重に取り扱われなければならない、などということは、彼は今までに聞いたこともなかったからです!土着民たちの伝統は、戦争の生け捕りは皆奴隷となるのが当然であったからです。ちょうど44年前フマボンに起こったことがトゥパスの弟に起こりました。彼は、レガスピの心に負けたのでした。そこで、彼はレガスピにこう答えました。自分は娘を連れて家に帰らない。自分は家に帰って自分の兄を説得する。兄がスペインと友好関係を結ぶように取りはからう。もしそうしなければ、自分は兄を殺すだろう。自分には多くの下手人がいる。

 レガスピは、こうしてセブ族と非常に寛大な提携を結び、最後にはセブ部族長のトゥパスは、スペインの主権を認めるようになり、キリスト教を受け入れるようにさえなりました。

 こうしてすぐさまレガスピはセブを都市として構築し組織立てをし始めました。レガスピはセブの一区画をアウグスチノ会の教会と修道院のために与え、サント・ニーニョに捧げられました。ここがセブを中心とするビサヤ地方とミンダナオの宣教の拠点となりました。アウグスチノ会修士たちは、土着民たちに洗礼を授け始めますが、最初は非常に慎重で、めったなことでは授けませんでした。アウグスチノ会の神父たちが洗礼を受けることを許した最初の土着民は、トゥパスの姪で、彼女はイサベラという洗礼名を受けました。トゥパスも受洗を望み、1568年3月21日に受洗の恵みを受けました。

 1595年には、教皇クレメンテ8世の大勅書 Super specula militantis ecclesiae (1595年8月26日)によって、「イエズスのいとも聖なる聖名」の保護のもとにセブが司教区となりました。セブの初代司教は、アウグスチノ会のペドロ・アグルト司教でした。サント・ニーニョは、フィリピンの最初の洗礼の時から、今に至るまで、多くの奇跡を起こしつつセブでフィリピンを見守り保護しているのです。

サント・ニーニョ
サント・ニーニョ
日本の聖ピオ十世会・大阪にあるサント・ニーニョの御像

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)