マニラのeそよ風

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第96号 2003/03/19 聖ヨゼフの祝日


アヴェ・マリア!

 四旬節の黙想の続きです。今回は、聖アルフォンソ・デ・リグオリによる「私たちの主イエズス・キリストの愛に対する忘恩について」を黙想しましょう。

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)


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私たちの主イエズス・キリストの
愛に対する忘恩について


 その1

 主よ、御胸に燃え立っている愛の焔はどんなに激しかったであろう。私の罪を清め、私を天の御国に引き取らんとして、主は見るに恥ずかしき十字架の磔の柱の上に、御命を擲ち給うたのである。

 「主は自ら謙って、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従う者となられた」(フィリポ2-8)、実に天主の御子は私を深く愛して、私の為に死ぬのが御父の思し召しだと悟り給うや、飛び立ってこれに従い、十字架上に死ぬまでも謙り給うた。これを信ずる私でありながら、どうしてこの愛情篤き主を愛さないでおられようか。

 世界中のどこを捜したら、主人がその僕の為に命を擲ち、国王がその人民の為に生贄となるなどという例があろうか。イエズスは天地の王、万物の君、全能の天主にて在しながら、卑しい、恩知らずの私の為に死に給うた。奴隷に赦されんとして御身に赦し給わなかった。この拙い私に情けをかけんとて、御身には少しの情けもかけ給わず、十字架の上に、しかも恐ろしい苦しみの中に御命を果たさせ給うたのである。

 ああイエズスよ、主は御胸に渦巻く愛熱を示さんが為、かほどの苦しみをも甘んじて耐え忍び給うた。それなのに私は恩に報いるのに仇をもってし、あらゆる侮辱を主に浴びせかけ奉った。主よ、私を憐れみ給え。主を愛するを許し給え。この後は決して主の愛に背くことなからしめ給え。私は主を愛し奉る。ああ限りなき善なる主よ、私は主を愛し奉る。いつまでもいつまでも愛し奉る。私に永く主の御苦しみを忘れさせず、いつでもどこでも主を一心に愛せしめ給え。


 その2

 いかにも不思議な話ではないか。多くの人は自分でも主の御受難を物語っている。他人が物語るのも聞いている。それでいながら全くの作り話か、あるいは自分に何の関係も無い見ず知らずの他人の事でもあるかのように、なんら愛慕の情も、感謝の念も起こさないのである。

 ああ私はなぜ主を愛さないのであろう。主は私の愛を得んが為に、侮辱の苦しみの淵に溺れ死にし給うたではないか。この上、更にまた何かを成し得給うたであろう。

 主の耐え忍び給うたほどの苦しみを、極めて賤しい乞食でも、私の為に耐え忍んでくれたなら、私はどうしてその乞食を愛さないでいられよう。その乞食の恩を思っては、どうして感極まって泣いて感謝せずにおられよう。

 愛すべきイエズスよ、私は今までいかなる感謝を主に捧げ奉った?いやその反対に、主の愛に報い奉ろうとはせずに、かえって主を軽んじ、ひとかたならず御胸を痛み奉るのみであった。主よ、赦し給え。今よりは全く心を改めて主を愛し奉る。大いに愛し奉る。これほどの愛を注いで下さりながら、主を一心に愛さないとあっては、それこそ憎みても足りない恩知らずと言われても仕方ない。

 さてさてこの苦しみの人、この十字架に磔にされ給える御方は、実に私の御主ではないか?今ここに釘付けにされて死し給うのも、ただ私を愛し給えればこそであって、他に何らかの理由があるからではない。

 十字架のイエズスは私の御主で、ただ私の為に死し給うたのだと信じていながら、私はどうしてこのイエズス以外の物を愛することができようか?

 ああカルワリオにてイエズスの御命を焼き尽くせし美しき愛の焔よ、来たりて私の内に潜む世間的愛情を焼き尽くせ。私を愛して死し給うた、私の為に一身を残らず生贄に供え給うたこの最愛の主に対して、私も絶えず愛の烈火に燃え立つを得せしめよ。私みたいな浅ましい人間を救わんとて天主の御子が有難くも十字架に釘付けられて御死去あそばしたのを見て、天使たちは果たしていかなる心地を覚えたであろうか。

 ああ最愛の救い主よ、主は御血も、御命も私の為に惜しみ給わぬのであった。それなのに私ばかりはどうして主の為に我が心の愛情を惜しめよう。主が私に求め給う所は、何一つとして謝絶する訳にいくまい。主は一身をあげて私にお与え下さった。私もこの身を残らず主に捧げ奉る。

 ああ聖母よ、私を堅く御子に愛着させて、何時何時までも離れざらしめ給え。アーメン


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