マニラのeそよ風

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第95号 2003/03/18


アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、
 明日は、聖ヨゼフの祝日です。今回も、四旬節の黙想として「キリストに倣いて」からの抜粋をお送りします。

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)



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四旬節の黙想 「キリストにならいて」


 「自分自身をすて、十字架をとってイエズスに従え」(マテオ16・14、ルカ9・13)という御言葉を、人は非常にむずかしいことだと思っている。しかしこの人々にとって、「呪われた者よ、私からはなれて永遠の火に行け」(マテオ25・41)という最後の判決を聞くのは、さらにつらいことだろう。十字架をになえと言う御言葉をよろこんできき入れて実行する人は、その時になって、永遠の亡びの宣告を聞くおそれがない。十字架のそのしるしは、主が審判に来られるとき、天に現われる。そのとき、生きていた間に、十字架のキリストの模範にならった十字架の下僕たちは、審判者キリストに、大いなる信頼をもって近づくだろう。

 それなのに、なぜあなたは、十字架をおそれるのか? それを通って天主の国に上るのではないか? 十字架にこそ、救いと、生命と、敵からの防禦がある。十字架は、天のよろこびのたまもの、知恵の威力、心の歓喜を与える。十字架には、すべての徳がふくまれている。十字架には、完全な聖徳がある。十字架によらなければ、霊魂の救いはなく、永遠の生命もない。だから、あなたの十字架をとって、イエズスに従え。そうすれば、永遠の生命に至る。彼は十字架を荷って、あなたに先立ち(ヨハネ19・17)、その十字架の上で、あなたのために亡くなられた。それはあなたをも、十字架をとって、その上で、死なせようとのぞまれたからである。あなたが、かれと共に死ぬなら、再びかれと共に生き、かれと共に苦しめば、また共に永遠の光栄をうけるのである。

 見よ、すべては、十字架を荷って、その上に死ぬことにある。そして、生命と真の平和とにみちびく聖なる十字架の道と、日々の苦行以外に道はない。行きたい道をどこにでも行け。ほしいままに探せ。だが聖い十字架の道よりも高く、それよりも安全な道は見出せないだろう。何でもあなたののぞみ通りに導きととのえよ。しかしあなたは、否応なしに、苦しみに会わないではいないだろう。こうしてあなたは、いつも十字架にであう。身体の苦しみであれ、心の試練であれ、つねに何かを忍ばねばならない。

 あるときは、天主があなたから遠ざかり、あるときは、他人から苦しめられ、又しばしば自分自身の重荷を感じる。そして、その昔しみをのがれる薬、荷を軽くするなぐさめを見つけず、御旨のときまで、しのばねばならない。あなたが、何の慰めもなく患難をしのぶことを学び、天主に全く服従し、苦しみによってさらに謙虚になることを、天主は望んでおられる。キリストの苦しみに似た苦しみを、忍ばねばならなかった人以上に、キリストの受難を理解し得るものはない。

 だから十字架はつねに備えられていて、どこでも、あなたを待っている。あなたはどこに逃げても、それからは逃げられない。あなたはどこへ行っても、自分自身といっしょであり、どこでも、あなた自身を見出すからである。上にも下にも、外にも内にも、どこでも十字架を見い出すだろう。もしあなたが、心の平和をもって、永遠の冠を受けたいと思うなら、どこに行っても、忍耐しなければならない。

 あなたが、よろこんで十字架をになうなら、十字架があなたを荷って、希望の地、すべての苦しみの終焉の地まで、あなたを導いてくれる。しかしそれは、この世にはない所である。あなたが、十字架をいやいやながら持つとすると、それは、あなたの重荷となり、更にあなたを圧迫するように感じる。しかし、それでも投げすてるわけにはいかない。一つの十字架を棄てようとすれば、かならず他の十字架を、たぶんもっと重い十字架を、荷わねばならない。

 この世に生活したどんな人間もさけえなかった十字架を、あなたがさけ得ると思うのか。この世で十字架をになわず、患難を味わわなかった聖人があろうか。主イエズス・キリストさえも、生きていた間は、一瞬たりとも、受難のくるしみを感じないわけにはいかなかった。キリストは苦しんで、そののち死者からよみがえって、光栄に入るべきである、とイエズスご自身おおせられている(ルカ24・26)。それなのに、なぜあなたは、尊い十字架というこの黄金の道以外の道を探そうとするのか。

 キリストのご生涯は、十字架と殉教とであったのに、あなたは、やすみと喜びとだけを求めようとするのか。もしあなたが、苦しみをしのぶこと以外の何かを探し求めているなら、心に銘記せよ。それは間違いである。この世のはかない生活は、まことに悲惨であって、十字架にとりかこまれたものである。

 人は、完徳の道をのぼればのぼるほど、重い十字架にあう。天主への愛が深まれば深まるほど、流され人の悲しみは、深くなるのである。

 だが、これほどさまざまな苦しみにあっていても、慰めが全然ないというのではない。自分の十字架をしのべば、貴い実がなると私たちは知っているのだから。進んで苦しめば、どんな重荷も、主のなぐさめへの信頼にかわる。身体が苦しみにくだかれれば、霊魂は天主の富みによってつよめられる。そればかりでなく、ある人は、患難と苦痛をのぞむことによって、慰めを感じ、イエズスの十字架に一致したいがために、患難と苦痛なしには生きたくない、とさえ思ったほどだった。しかしそれは、人間の徳によるのではなく、キリストの恵みによることである。天主の恵みは、人間のもろい肉体が、本来ならば嫌悪することを、熱心の余りに抱かすほどの、大事をなしうるものである。・・・

 だから、キリストの忠実な下僕として、あなたは、あなたを愛する余り十字架にかけられた主の十字架を、雄々しくになっていけ。あわれなこの人生において、多くの非運と不幸とをたえしのぶ心のそなえをなせ。あなたは、どこにいても、不幸が起り、どこに逃げても、苦しみにあうのだから。それはさけがたいことである。そして苦しみと患難とをさけるためには、それを快くたえしのぶ以外に、方法はない。

 主の友として、将来み国に入ろうと思うなら、愛をもって、主の盃をのめ。なぐさめについては、天主にまかせよ、天主が御皆のままにはからうようにまかせよ。あなたは、艱難をたえしのぶそなえをし、患難こそ最大の慰めだと考えよ。あなたひとりで、あらゆる患難を背負ってしのんだとしても、「現世の苦しみは来世の光栄に及びもつかない」(ローマ8・18)。・・・

 あなたが、あなたのなすべきこと、つまりキリストのために苦しみ、自分自身を殺そうとしはじめるなら、すぐ愉快になり、平和を見出すだろう。あなたが、パウロと共に、第三天まで上げられたとしても、それは苦しみをのがれる保証にはならない。イエズスは、「彼が私の名のためにどれほど苦しまねばならないかを彼に示そう」(使徒行録9・16)と仰せられた。だから、イエズスを愛して、いつまでも仕えたいと思うなら、あなたに残されたことは、苦しみ以外にはない。

 あなたは、キリストの御名のために苦しみをたえしのぶ者であれ。こうなれば、あなたはどれほど光栄を確保し、また天主の聖人たちはどれほど歓喜し、他人はどれほど徳に励まされることだろう。どんな人も忍耐を賞揚するが、しかし、すすんで苦しもうとする人はすくない。あなたがキリストのために、何事かをよろこんで忍ぶのは、当然なことである。人はこの世のために、それ以上の苦しみを忍んでいるではないか。

 忘れるな、あなたは今死ぬべき人として生きねばならない。人は、自分に死ねば天主に生きはじめる。キリストを愛するために、よろこんで苦しみを忍ぼうとしないかぎり、天のことを理解する値打ちはない。こころよくキリストのために苦しむこと以上に、天主によろこばれ、またこの世で、あなたの霊魂を益することはない。あなたが、いずれかをえらぶことができるなら、慰めに充たされることよりも、キリストのために不遇をしのぶことの方をとれ。そうすれば、あなたはキリストに似た者となり、聖人たちに一層一致するだろう。私たちの功徳と、徳への進歩は、心の甘美さや、慰めにあるのではなく、不幸と患難とをしのぶことにある。

 苦しむこと以外に、人間の救いに役立つ便利な道があったら、キリストは、きっと言葉と模範とで、それを示されたにちがいない。ところがイエズスは、その弟子たちや、従いたいとのぞむ人々に、十字架をになえとあきらかにお命じになって、「私に従いたい人は、自分をすて、自分の十字架を負って、私に従え」(マテオ16・24、ルカ9・23)と仰せられた。

 要するに、すべてを研究してのち、結論は、「私たちは多くの患難をへて、天主の国に入る」(使徒行録14・21)という以外にはない。

(「キリストに倣いて」第2巻 第11章より)


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