第94号 2003/03/17
アヴェ・マリア! 今回も、四旬節の黙想として「キリストに倣いて」からの抜粋をお送りします。 トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭) 四旬節の黙想 「キリストにならいて」あなたは労苦するために生まれたのに、なぜ休息を求めるのか。慰めをよろこぶよりも、苦しむことに備えよ。楽しく生活するよりも、十字架をになうことにそなえよ。いつも霊的な歓喜と慰めとを受けるなら、世俗の人々さえも、よろこんでそれをうけようとするだろう。霊的な慰めは、地上の楽しみ、物質的な快楽にまさるものである。世間の楽しみは空しいか、あるいは汚らわしいものであるが、しかし霊的な楽しみは、充実していて、汚れがない。それは徳から生まれ、清い霊魂に注がれるものである。とは言え、誰一人として、思いのままに天主の慰めを味わうことはできない。誘惑の時はいずれ近く来るからである。 天主が私たちの霊魂を訪れるについて、大きな妨げになるのは、あやまった自由と、自分への過信である。天主が、その慰めを人に与えるのは善であり、人が、それに感謝を返さないのは悪である。私たちは、その与え主に対して忘恩であり、その源にすべてを帰そうとしない。うけた恩に感謝する人は、新しい恵みをうける値打ちがある。それは、おごる人から奪われ、へり下る人に与えられる。 私は、心の痛悔をとり去るような、慰めを求めたくない。また、高慢をつちかうような観想をのぞまない。崇高なことがことごとく聖であり、喜ばしいことがことごとく善く、のぞむことがことごとく清く、好むものがことごとく天主によろこばれるとは限らない。私を深くへり下らせ、深く敬畏をつちかわせ、自分を捨てることにそなえさせる恵みをこそ、よろこんでわたしは受けたい。天主の恵みに導かれ、それをとりさられたときの苦しみを知っている人は、どんな善も、自分に帰せず、ただ自分は貧しく、何ももたない人間だと告白する。天主のものは天主に返せ、そしてあなたのものをあなたが持て。受けた恵みについて天主に感謝し、自分のものとして罪を自分に帰せよ。そして罪を犯したがために、自分は罰をうけるべき者だと認めよ。 いつも最下等の席に自分をおけ、そうすれば、最高の席が受けられる。最高の席は、つねに最下等の席があればこそ存在する。天主の目にとって、最もすぐれた聖人たちは、自分で最も卑しい者だと考えた。かれらの光栄が偉大であったのと反比例して、かれらは謙遜であった。かれらは真理をもち、天の光栄をめざし、この世の空しいほまれをのぞまなかった。天主だけにたのみ、天主によって支えられたかれらは、決して高ぶらなかった。そしてうけたたまものを、すべて天主のものとし、人間同士の光栄を求めず、天主からの光栄だけを目指し、特に天主が、自分たちとすべての聖人によって、賛美せられることだけを望んだ。かれらが目的にするのは、以上のことだけだった。 どんな小さなことでも、天主に感謝せよ、そうすれば、より大きな恵みを受けるに足る者となる。どんな小さなたまものも、貴重なものだと考え、とるにたらぬように見えるものも、小さいとか卑しいとか考えるな。いと高きお方からくださるものが、小さいものであるはずはない。天主が、苦難と艱難とをあなたに与えたとしても、それを感謝してうけよ。私たちの上におこることは、すべて、私たちの救いを計らう御旨から出ることである。天主の恵みを保とうとする人は、それをたまわるとき感謝し、それを持ち去られるとき忍耐し、新にたまわるように祈り、それを失わないように、へりくだって警戒する。 (「キリストに倣いて」第2巻 第10章より) |