第93号 2003/03/16 四旬節の第2主日
アヴェ・マリア! 今回も、四旬節の黙想として「キリストに倣いて」からの抜粋をお送りします。 トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭) 四旬節の黙想 「キリストにならいて」イエズスを愛して、イエズスのために、自分を軽蔑することの、真の意味を理解する人は幸いである。その愛は、すべての愛をこえるものでなくてはならない。なぜならイエズスは、ご自分一人が万事をこえて愛されることを望んでおられるからだ。被造物への愛は、あやまりやすく変わりやすい。しかしイエズスへの愛は、誠実不変のものである。はかない被造物により頼もうとする人は、それと共に倒れる。しかしイエズスの方をとる人は、いつまでもゆるがない。皆があなたを離れ去っても、あなたから離れることなく、あなたをほろびから守る方を、自分の友として愛せよ。望む望まぬにかかわらず、いつかあなたは、すべてから訣別しなければならない。 生きている時にも、死ぬときにも、いつもイエズスの近くにいよ。他のすべてがなくなっても、あなたを助けうる唯一の方の真実さに、あなた自身をゆだねよ。あなたの愛するお方は、他人がその愛にわりこむのをゆるさず、ご自分一人が、心の中の王座に坐ることをのぞまれる。あなたが、すべての被造物を、心の中から遠ざけるなら、イエズスはよろこんで、あなたの心の住居にこられる。イエズス以外の人間をより所にすれば、それはあなたにとって、なきにひとしいものであると知るにちがいない。風にゆれる葦により頼もうとするな。「すべての身体は草であり、その光栄は草の花のように枯れる」(ペトロ前1・24)。 人の外面だけに目をとめるなら、あなたはすぐ期待を裏切られるだろう。自分の慰めと利益のために、人により頼もうとすると、結局は自分が損をしただけだったと知ることがしばしばある。しかし万事においてイエズスを求めるなら、そのイエズスをきっと見い出すだろう。自分自身を求めるなら、自分自身を損害と共に見い出す。イエズスを求めない人は、この世と、この世のすべての敵よりも以上に、自分自身に損害をおわすだろう。 (「キリストに倣いて」第2巻 第7章より) |