第85号 2003/02/23 六旬節の主日
アヴェ・マリア! 聖アルフォンソ・デ・リグオリによる黙想 主の御憐れみを頼み過ごしてはならぬことについて、或る方からご質問がありました。 ■ 質問です 聖アルフォンソ様の黙想のメール有難うございました。お尋ねなのですが、初めて知りましたのですが、主がお赦し下さる罪の数は定まっている!のでしょうか? 驚愕しています。主は『7度の70倍まで赦せ』と仰り、これは限りなく赦せと仰っていると習いました。なので私たちも限りなく赦される、と思っていました。だから罪を犯してもいいとは決して思っていませんのですが。聖ペトロ様は、人は日に少なくても7度罪を犯す、と。これは小罪のことで、この事と、お赦し下さる数が定まっているのとは、別の事でしょうか?大罪の事でしょうか? 小罪もでしょうか? 私は恐ろしいです。御指導どうぞ宜しくお願い致します。 ■ お答えします。 聖人達の御説によると、主が私たちをお赦し下さる罪の数は定まっています。 これはどういう意味かというと、確かに、天主の憐れみは無限であり、私たちが罪を悔い改めて赦しを求めるならば、たとえ何度罪を犯しても、どれほど重い罪を犯したとしても、赦されます。この意味で、私たちが罪を悔い改めている限り、限りなく赦されるのです。 ただし、私たちの人生には時間の上で限りがあります。私たちは何時かは死ななければなりません。ですから、私たちは数時間後、地下鉄の火事に巻き込まれて死ぬのかも知れませんし、夜寝ている間にいきなり心臓の発作によって倒れて命を失ってしまうのかも知れません。その意味で、私たちが罪を犯して赦しを受ける数には限りがあります。 今罪を受ける誘惑を受け、明日、神父様のところに告解に行けばよい、どうせ主から赦されるから、今のうちに罪を犯しておこう、と主の憐れみを過信し、罪を犯した後もまだ命が続くかどうか私たちには分からないのです。罪を悔い改めるいとまもなく、私たちは命を落としてしまうかも知れません。この意味で、聖人達は、主が私たちをお赦し下さる罪の数は定まっている、と教えていました。だから、私たちは「その数を知らないので、もし新たに罪を重ねるとそれでその定まった数が満ちてしまうのではないか、そのまま、痛悔の時も与えられずに主に見捨てられてしまうのではないか」と思ったら、安心して罪を犯すことができなくなってしまう。そして、この安心できない心こそ邪欲を控えさせ、私たちを引き留めて主に背かせず、救霊を全うさせてくれる、と聖人たちは教えているのです。 義人も日に7度罪を犯す、とは、天主の御目から見たら、義人でさえも不完全であり、一日に7度も罪を犯していることになる、という意味です。例えば、モイゼは旧約時代に天主を目のあたりにし、シナイの山の上で天主の十戒を受けた偉大な義人です。そのモイゼでさえも、最後に岩から水を出す奇跡を施すときには、天主を疑ってしまいました。「今回ばかりは、ダメではないか?」と。これは小罪だったと思いますが、それでも天主は疑ってしまったモイゼを罰し、約束の地にはいることを許しませんでした。洗者聖ヨハネの父である司祭ザカリアも、産まず女の年寄りの妻が子どもを産むだろうという天使の言葉をどうしても信じることが出来ずに、疑ってしまいました。これは小罪だったと思われますが、それでも天主から罰を受けて、口をきくことが出来なくなってしまいました。 私たちは、常に天主を万事を超えて愛するようにしましょう。そして天主の憐れみを常に求めましょう。罪を忌み憎み、小罪であったとしてもそれを避けるようにしましょう。万が一、私たちの弱さのために罪を犯してしまうようなことがあったとしても、すぐに痛悔の念を起こすようにしましょう。
主よ、我らを憐れみ給え! トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭) |