マニラのeそよ風

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第84号 2003/02/20

アヴェ・マリア!

 今回は、聖アルフォンソ・デ・リグオリによる罪についての黙想をお送りします。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)


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黙想 主の御憐れみを頼み過ごしてはならぬこと


その1

 主を畏れ敬う人は、主もこれを憐れみ給えども、侮り辱める者には決して情けをかけ給わぬ。ことに、御憐れみを頼みとして罪を重ねるような人に対しては、容赦なく罰を加え給うのである。それもその筈で、主の御憐れみを頼みとしてこれに背くということは、つまり主を侮るのである。主を軽んじてなぶりものにするのである。

 主をなぶりものにして罰を免れることができようか?

 「天主は侮られ給わず」(ガラチア6-7)と聖パウロも言っているではないか。

 「なぁに、この罪を犯しても助かることが出来ないなどという事はないよ」と悪魔が唆しても、決して耳を傾けてはならない。罪を犯せば主の聖寵を失い、地獄に罰せられるべき身になるのだ。なるほど、まだ助かる機会がなくなる訳ではない。しかし、滅びることもないとはいえまい。否、その方がかえって容易かもしれない。永遠に助かるか、滅びるかという大問題なのに、そんな迂闊な事を言ってもらっては困るじゃないか。考えてもみたまえ、罪を犯せば地獄に罰されるべき身となるのだ。まんいちそのまま死んでしまうか、あるいは主に見捨てられてしまうかしたならば、その行く先はどうなるだろう?

 主よ私は決心した。これからは断じて罪を犯さない。主に背きもしない。私ほどの罪を犯さないにもかかわらず地獄に罰せられた霊魂が幾人いるかしれない・・・ああ主よ、私は何をもって主の御情けを感謝することができよう。私はもう私のものではない。この身は全く主に捧げ奉る。意思でも、自由でも、持っているものは一切残さずに主に捧げ奉る。「我は主のものなり。我を救い給え」(詩篇8-94)。主よ、私を地獄より救い給え。地獄より救うが為にまず罪より救い給え。私は主を愛し奉る。二度と主を離れ奉るまい。


その2

 聖人達の御説によると、主が我らにお赦し下さる罪の数は定まっている。主には定まっているが、我らはその数を知らない。もし新たに罪を重ねるとそれでその定まった数が満ちて、主に見捨てられはせぬかと始終怖れなければならぬ。「未だこの上に罪を赦していただけようか」と思ったら、誰が安心して罪を犯すことができようか。この安心できない心こそ邪欲を控える強い轡となり、我らを引き留めて主に背かせず、救霊を全うさせてくれるのではないか。

 予て主の強い御光に照らされて、その豊かな聖寵に潤されている人ほど、またいよいよ主に見限られはしまいかと恐れねばならぬ。「罪はその罪人の受ける御恵みに比例して重くなるものだ」と天使的博士 聖トマスはおっしゃった。されば常日頃主の山高い御恵みを蒙り、海深き御情けを浴びていながら、大罪を犯してこれに背き奉るキリスト信者は禍なるかな。いつかは主に見限られて厳しい罰を与えられるかわからないからである。

 主よ、私は今まで主と根気比べをした。主は私に御情けをかけようとしてくださる。私はかえって主を辱め奉ろうとした。主は私にあらゆる幸を施そうとしてくださる。私はかえってあらゆる乱暴、狼藉を浴びせ奉ろうとした。しかし今は心の底より主を愛し奉る。力の限り主を愛してこれまでの不都合を償い奉りたい。主よ、願わくば私を照らし給え。強め給え。


その3

 大罪を怖れない人は遠からずこれに陥る。されば平生より深く罪を怖れ、努めて罪の機会を避けなければならぬ。なお、小罪といえどもわざと犯してはならぬ。アルヴァレス神父は「わざと犯す小罪は、よい霊魂を殺すまでには至らないでも、大いにこれを弱め、悪に抵抗する力を挫くので、ちょっとの激しい誘いの嵐が吹き起ってくるとたちどころに吹き倒されてしまう。」と言った。

 ゆえに聖女テレジアは言った。「軽い罪だからといってわざと犯してはならぬ。わざと犯す罪はどんなに軽かろうと、悪魔の軍勢よりもいっそう甚だしい危害を及ぼすものである」と。

 主よ、これから私は軽くも重くも決して主に背き奉るまい。私はどうしても主を愛さずにはいられない。主は決して背かれ給うべきではなく、かえって熱く、熱く愛され給うべきである。私は力を尽して主を愛し奉る。主よ聖寵を垂れて私を助けたまえ。

 聖母マリアよ、私の為に祈り給え。アーメン。