第81号 2003/02/14 聖ヴァレンティーノ殉教者の記念
アヴェ・マリア!
兄弟の皆様、お元気ですか?
こちらは、10年ぶりに、フランスに2週間ほど(1月27日から2月6日まで)行ってまいりました。またフィリピンのマニラでは、アジア管区の司祭たちの勉強会があり、非常に有益な時間をすごすことができました。そのため、聖ピオ十世会だよりはすこしお休みになってしまいました。またメールの送受信などご無沙汰しておりました。ご理解ください。
『聖ピオ10世会の司祭の施す告解及び婚姻の秘跡の有効性について――カトリック教会法の研究――』 前回は、「破門された司祭」によって執行された秘跡と準秘跡について考察しましたが、今回は、「カトリック以外の奉仕者」からの秘跡を授与される場合の考察です。今回も、私たちは、この教会法典をただ、納得させるためのad hominem議論として使うだけです。聖ピオ10世会に反対する人々が何を考えているかよく分かっているので、聖ピオ10世会の法的地位に関する彼らの立場が論理的に何を意味するのかということを、結論付けさせるためです。では、次をお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)
聖ピオ10世会の司祭の施す告解及び婚姻の秘跡の有効性について
――カトリック教会法の研究――
ラモン・アングレス神父(聖ピオ十世会司祭)著
トマス小野田圭志(聖ピオ十世会司祭)編・訳
7. カトリック新教会法典による
非カトリック者からの秘跡を授与
7.1. カトリック新教会法典による非カトリック者からの
秘跡を授与についての規定は次のとおりです。
#2. Quoties necessitas id postulet aut vera spiritualis utilitas id suadeat, et dummodo periculum vitetur erroris vel indifferentismi, licet christifidelibus quibus physice aut moraliter impossibile sit accedere ad ministrum catholicum, sacramenta poenitentiae, Eucharistiae et unctionis infirmorum recipere a ministris non catholicis, in quorum Ecclesia valida existunt praedicta sacramenta. (New Code Canon 844)
カトリック新教会法典 第844条
(2) 必要のある場合又は真の霊的利益がこれを妥当とする場合、誤謬及び無関心主義の危険が避けられる限り、カトリックの奉仕者に近づくことが現実に又は社会通念上(moraliter)不可能であるキリスト信者は、ゆるしの秘跡、聖体の秘跡及び病者の塗油の有効な秘跡として保持するカトリック以外の教会の奉仕者より授与することが許される。
7.2. 非カトリック者からの秘跡授与はいつから許された?
第2バチカン公会議は、1964年11月21日、そのエキュメニズムに関する教令 "De Oecumenismo, Unitatis Redintegratio" で、カトリック教会内における、いわゆるエキュメニズム運動の方針を提示しています。
この直接の実際的適応は、1967年5月14日にキリスト者の一致のための事務局から出された「Ad Totam Ecclesiam」という方針です。これにはベア枢機卿と事務局長ウィルブランド司教がサインしました。その第2項には、「離ればなれになった他の兄弟たちと典礼的礼拝を分かち合う」というものがあり、これがカトリック新教会法典844条の先祖です。
「秘跡は同時に一致のしるしであるとともに聖寵の根源であるので、教会は相当の理由があれば、離れた兄弟にこれらの秘跡に近づくことを許すことができる。もしも離れた兄弟が自分が属する交わりの役務者に近づくことができないとき、そして自発的にカトリック司祭に秘跡を求めるとき、彼が教会の信仰と調和してこれらの秘跡に対する信仰を宣言し、正しい準備ができているならば、このことは死の危険に際して、あるいは緊急の必要(迫害のとき、牢獄の中で)に許されることができるかもしれない。・・・カトリック者は同様の状況において、有効に叙階の秘跡を受けたものからでない限り、これらの秘跡を求めることはできない。」
1983年、私達はこのエキュメニカル政策がカトリック新教会法典に含まれているのを見、カトリック教会が常に忌み憎んでいた非カトリック者の聖式に参与すること(communicatio in sacris)がエキュメニズムという特別の口実の元で、立法化されました。以前のカトリック教会法典では次のように禁止されており、健全なカトリックの教えからカトリック新教会法典は遠く離れていることがわかります。
"Haud licitum est fidelibus quovis modo active assistere seu partem habere in sacris acatholicorum." (Canon 1258)
カトリック教会法典 1258条
(1) 信者が、非カトリック者の聖式に能動的にあずかること、すなわち宗教的行為を行うことは許されない。
7.3. 概念
このカトリック新教会法典によると、カトリック者は非カトリックの役務者から、悔悛、聖体、終油の秘跡を受けることが出来る、となっており、その条件は次の通りです。
必要性、或いは真の霊的利益が得られること、
宗教無関心の危険や誤りが避けられること、
カトリック役務者に物理的或いは精神的に近づくことが不可能なこと、
その非カトリックの役務者の属する教会において受ける秘跡が有効であること。
私たちは、既に、通常の婚姻形式からの例外規定を調べるとき、カトリック教会法典の言うところの「司祭に依頼することの物理的或いは精神的不可能性」と言うのが何を意味するのかを見ました。これはもはやここで理解するのに難しいことではないでしょう。迫害、長距離、莫大な費用、躓き、重大な不都合、霊的損害、など全てこれらのことが、私たちの要求を正当化することのできる状況であり、有効な議論となります。
ところで、私は実を言うと、第4番目の条件の意味が長い間よく分かりませんでした。
in quorum Ecclesia valida existunt praedicta Sacramenta その非カトリックの役務者の属する教会において受ける秘跡が有効であること、とは何のことなのだろうか? 例えば、有効に叙階された離教的な古カトリック司祭は、質料と形相と意向さえ揃えば、適法ではなかったとしても有効なミサ聖祭を捧げることが出来るというのは分かります。有効に叙階された司祭であれば、有効な終油の秘跡を授けることが出来ますし、有効に聖別された司教であれば、有効に堅振や叙階の秘跡を捧げることが出来ます。
しかし、悔悛の秘跡に関しては、非カトリックの教会においてどうして有効たり得るのだろうか、と私はよく分かりませんでした。しかし、新指針 Ad Totam Ecclesiam を何度も読んでいるうちに、私はついにこの正確な意味が分かりました。つまり、バチカンの改革者たちにとって、非カトリックの司祭が有効に叙階されていれば、その教会において悔悛の秘跡も有効に執行する、という意味だったのです。
これ以外には、上述の新指針第55番の規定を説明できません。"Catholicus autem, similibus in rerum adiunctis, haec sacramenta petere nequit, nisi A MINISTRO QUI ORDINIS SACRAMENTUM VALIDE SUSCEPIT." カトリック者は同様の状況において、有効に叙階の秘跡を受けたものからでない限り、これらの秘跡を求めることはできない。
このエキュメニズムのやり方は、第2バチカン公会議以後の教会において受け入れられ、実践されるようになってしまいました。ですから、もしもカトリック者がカトリック司祭に精神的に依頼することが出来ないと判断したとき、そして真の霊的利益が得られると思えば、有効に叙階された非カトリックの司祭に告解を聞いてくれるように頼むことが出来るのです。そしてその罪の赦しは、カトリック新教会法典844条によれば有効なのです。
彼は、その非カトリック司祭のミサ聖祭に与り、御聖体を受け、主日の義務を果たすことが出来ます。指針は第47番においてはっきり言っています。そこで、東方教会の私たちの離れた兄弟たち apud Fratres orientales seiunctos の典礼において主日のミサに与るカトリック信者について語っているからです。
7.4. 聖ピオ10世会に適応する
私たちは、またもう一度ここでも納得させるためにad hominem、不条理な意見を受け容れることにします。つまり、聖ピオ10世会の司祭がカトリック教会の外にあり、離教的であり、新しい教会を作っていると考えている人々の意見です。
もしも、聖ピオ10世会がカトリックではなかったとしたら、そしてその司祭は有効に叙階されているので(この点については頭の正常な人は疑うことが出来ない点です)、カトリック新教会法典844条の第4により、どのようなカトリック信者であれ聖ピオ10世会司祭から悔悛と終油の秘跡を求めることができ、彼らのミサ聖祭に与ることがゆるされ、主日の義務を果たしたことになります。
このような許可を得るための条件は、それを求める人にとって真の霊的利益があること、そして彼の信仰を危険にすることを避けることです。近代主義者の司祭に近づくことに由来する霊的損害の恐れが合理的にあることは、ルフェーブル大司教の聖ピオ10世会の司祭に依頼することを充分に正当化します。
私たちは、狂気の王国へと近づいているようです。しかし、残念ながら、上に上げたようなどうしようもない議論によって、聖ピオ10世会の反対者たちが納得し平安を得るのかも知れません。
(つづく)