マニラのeそよ風

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第79号 2003/01/18

Salomé dansant devant Hérode; Gustave Moreau
ヘロデ王の前で踊るサロメ、ギュスターヴ・モロー (1876)

アヴェ・マリア!

 『聖ピオ10世会の司祭の施す告解及び婚姻の秘跡の有効性について――カトリック教会法の研究――』
 今回は、婚姻の特別形式についてです。
 「婚姻の特別形式」とは? 「非常な不都合」とは? 「婚姻の目的」は? では、次をお読み下さい。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)





聖ピオ10世会の司祭の施す告解及び婚姻の秘跡の有効性について
――カトリック教会法の研究――
ラモン・アングレス神父(聖ピオ十世会司祭)著
トマス小野田圭志(聖ピオ十世会司祭)編・訳


5. 婚姻の特別形式


5.1. 婚姻の特別形式についての教会法

Si haberi vel adiri nequeat sine gravi incommodo parochus vel Ordinarius vel sacerdos delegatus qui matrimonio assistant ad normam canonum 1095, 1096:

1o In mortis periculo validum et licitum est matrimonium contractum coram solis testibus; et etiam extra mortis periculum, dummodo prudenter praevideatur eam rerum conditionem esse per mensem duraturam;

2o In utroque casu, si praesto sit alius sacerdos qui adesse possit, vocari et, una cum testibus, matrimonio assistere debet, salva coniugii validitate coram solis testibus.(Canon 1098)

カトリック教会法1098条
 第1095及び第1096条の規定に従って、婚姻に立ち会う小教区長、教区裁治権者、または委任された司祭を得ること、あるいは、これに依頼することに非常な不都合があるとき、
1 死の危険が迫った場合、証人のみの面前で締結された婚姻契約は、有効、かつ、適法である。また、死の危険がなくても、上述の状態が一ヶ月間継続するものと慎重に予測された場合も、同様である。
2 前項の二つの場合において、臨席しうる他の司祭があるときは、その司祭は招かれ、証人とともに婚姻に立ち会わなければならない。ただし、証人のみの面前でする婚姻の効力を妨げない。

#1. Si haberi vel adiri nequeat sine gravi incommodo assistens ad normam iuris competens, qui intendunt verum matrimonium inire, illud valide ac licite coram solis testibus contrahere possunt:
1o in mortis periculo;
2o extra mortis periculum, dummodo prudenter praevideatur earum rerum condicionem esse per mensem duraturam.
#2. In utroque casu, si praesto sit alius sacerdos vel diaconus qui adesse possit, vocari et, una cum testibus, matrimonii celebrationi adesse debet, salva coniugii validitate coram solis testibus. (New Code Canon 1116)

カトリック新教会法1116条 
(1) 重大な支障のために、法律の規定に従って婚姻に立ち会う権限を有する立会人を得ることができない場合、又はかかる立会人に諮ることができない場合には、以下の各号に定める場合に限り、真の婚姻を求める当事者は証人のみの面前で有効かつ適法に婚姻を締結することができる。
1 死の危険がある場合。
2 死の危険がなくとも、本項上段に掲げる状態が1か月間継続すると賢明に予見される場合。
(2) 前各号の場合に他の司祭又は助祭が婚姻に臨席しうるときは、この司祭又は助祭が招かれて、証人とともに婚姻の挙式に臨席しなければならない。ただし、証人のみの面前での婚姻の有効性を損なうものではない。


5.2. 概念

 カトリック教会は、カトリック教会法典1094条(カトリック新教会法典1108条)で、有効な婚姻のための通常の形式は、司牧者(あるいは地域教区長、あるいは委任を受けた司祭)の臨席、及び少なくとも2名の証人を必要としています。

 しかしながら、新旧両教会法は同時に、通常の教会法による形式の例外を想定しています。その例外によれば、結婚しようとする両人は2名の証人の前で、しかも許された司祭の臨席なしに、有効で合法的な婚姻を結ぶことが出来ます。教会法1098条(カトリック新教会法典1116条)は、2つの例外規定を設けていますが、とりわけこの2つの例外のうち第2の規定は聖ピオ10世会にとって興味深いものです。

 許された司祭の臨席なしに婚姻が許されるために、教会法典によって定められた主要な条件は、次のような非常に射程範囲の広い言葉によって、表現されています。Haberi vel adiri nequeat sine gravi incommodo.

 つまり、司祭を得ること、あるいは、これに依頼することに非常な不都合があるとき、ということです。「非常な不都合」とは、数学的な正確さで定義されることは出来ません。何故なら、その場の状況や条件に依存しているからです。ですから、教会法典は、精細な件についてほとんど寡黙で、はっきり語らないのです。

 婚姻の立ち会いに司祭の臨席を得る難しさは、一般的な難しさや、皆に共通の難しさである必要はありません。この特定のカップルにとって、ある特定の司祭だけが個別に、個人的に持つ難しさ、不都合で充分であるということを理解しなければなりません。

 最も良くある状況というのは、司祭が物理的に得ることが出来ない、ということです。大きな宣教地においてよく起きるように、その地域に司祭がいない、ということです。あるいは、宗教的迫害のために、司祭が自分の隠れている避難所を離れるのは、司祭の死の危険があるなどです。教会法学者やローマのRotaの決議によると、通常の婚姻の形式の例外に訴えるためには、物理的不可能だけではなく、霊的性格の精神的不都合で充分であると言います。それは、その条件が(死の危険や、物理的司祭の不在、精神的に司祭が不在しているのと同じであることが1ヶ月続くと考えられる)続いている限りそれが適応されます。聖ピオ10世会にとって、これは非常に重要な論点となります。

 第1の例外は、少なくとも結婚しようとする一方が死の危険にある場合で、権限を有する司祭が、一般的な上記の条件に従って得ることが出来ない、あるいは依頼することが出来ない場合です。そのような場合には、2名の証人の前で両者の相互が婚姻に同意を表明すること(言葉、あるいは両者が話すことが出来なければ合図、しぐさをすること)で、有効で合法的な婚姻を結ぶのに充分です。

 死の危険は、既に見たように、病気に限るわけではありません。教会法典はどのような原因に由来するものであれ「死の危険」を一般的な意味で語っているからです。両者の善意bona fideが、委任を受けた司祭を得る前に死んでしまうという危険が迫っている、と考えたのなら、それで全く充分すぎるほど充分なのです。たとえ「死の危険」を間違って評価したとしても、婚姻は有効です。更に、教会法典はいかなる理由が必要であると規定していないので、何故、両者が死の危険に婚姻を結ぶのを望むのかという特別の理由は必要ではありません。

 もし、権限を有していない司祭が身近にいた場合、婚姻の有効性のために ad validitatem matrimonii 必要ではないにもかかわらず、この司祭は臨席に招かれます。教会法典1043条-1046条(カトリック新教会法典1079条)によって、この司祭は、教会法上による婚姻障害を全て(但し、叙階の秘跡から生ずる婚姻障害は除きます)免除することが出来ます。この司祭は更に、実体的な形式(つまり2名の通常の証人の前で婚姻を結ぶこと)さえも、免除することが出来ます。

 第2の場合は、通常の婚姻形式を取らずに両者が婚姻を結ぶことが許される時で、
(1) 権限を有する司祭が物理的に不在であること、あるいはほとんど不在に等しいこと、そして「重大な支障」「重大な不都合」なしに得ることができない場合、そして、
(2) この権限を有する司祭を「重大な不都合」なしに得ることができない状態が、1か月間継続すると賢明に予見される praevideatur 場合、です。

 この2つの条件が揃うとき、たとえ死の危険ではなくとも、両者は教会法による婚姻形式を守る必要はなくなります。その時2名の証人で充分です。そして、教会法典1098条で求められている2名の証人さえも臨席できない特別の状況があるときには、そして婚姻形式から免除してくれる司祭が誰もいない場合で、重大な必要性に迫られている時、2名の証人なしに婚姻を結ぶことができます。これが教会の寛大さなのです。教会は例外的な状況では、婚姻の秘跡を聖会の子どもたち(つまりカトリック信者たち)に容易に受けることが出来るようにして、信者の霊的善を常に熱心に求めているのです。

 最初の条件は既に説明しました。次の5.3の項では、もっと明らかに説明します。しかし、次のことに注意して下さい。もし司祭を得ることが出来ないと信じていても、それの思い込みが間違っているときには、婚姻は無効になります。もしも、司祭が物理的に不在であること、あるいはほとんど不在に等しいことが事実としてなかった場合には、結婚しようとする両者が、誠実に罪なくそれが事実として存在すると信じていたとしても、無効の婚姻になります。

 第二の条件は、調査あるいは事実が知れ渡っていることから、賢明に客観的な判断が求められているに過ぎません。権限を有する司祭が、少なくとも一ヶ月の間、得ることが出来ないか、重大な不都合なしに、物理的にあるいはほとんど依頼することが出来ない、ということです。

 もし、たまたま権限を有する司祭を一ヶ月以内に得ることが出来るようになった、あるいは教区長がたまたま訪問してきたというのは、どうでも良いことです。ひとたび婚姻がこの条件の下で結ばれたのならそれは有効な婚姻です。

 Vermeersch, Periodica XIV, 185-186; XV, 45-46 は、更に言います。Vermeersch によると、少なくとも一ヶ月婚姻の立ち会いをすることが出来る司祭を得ることが出来ないということが賢明に考えられる状況にあるとき、たとえ結婚しようとする両者自身がこの事実を予測しなかったとしても、また教区長から通常の婚姻形式の免除を得ることが出来なかったとしても、婚姻形式は有効です。

 Miguelez, Comentarios al Codigo de Derecho Canonico, 1963, II, 507 は、結婚しようとする両者が翌日状況が変わるに違いないと確信しているとしても、現実が客観的にこの状況が1ヶ月は続くだろうと示している限り、婚姻は有効である、といいます。

 疑いもなく、空想上のケースですが、しかし教会の意向をはっきりと示しています。

 教会法典は同じ上記の条件を、婚姻の適法性として付け加えています。つまり、もし権限を有さない司祭が招かれうるのであれば、この司祭は必ず招かれなければならず、婚姻に立ち会わなければならないのです。

 この規定は司祭と結婚しようとする両者とに義務を与えるものですが、この規定は婚姻の適法性に関わるものであって、2名の通常の証人だけの前による婚姻の有効性には関わりません。


5.3. 教会法典学者の専門書からの引用

Merkelbach, Summa Theologiae Moralis, 1949, III, #849: Ad validitatem forma extraordinaria... sufficit: 1) QUODCUMQUE INCOMMODUM GRAVE, SPIRITUALE VEL TEMPORALE, sive partes directe afficiat, sive sacerdotem . . . 2) sufficit et requiritur IMPOSSIBILITAS PERSONALIS, non requiritur communis seu localis, nec sufficit communis si desit personalis... 3) non requiritur specialis causa: quodcumque motivum ineundi matrimonium sufficit.

【日本語訳】 婚姻の特別形式の有効性のためには、1)それが何であれ、霊的あるいはこの世的な、または結婚しようとする両者に直接関わるあるいは司祭に関わる、・・・重大な不都合があれば充分である。2)個人的に不可能であれば充分であり、それが求められる。皆に共通の不可能さやその場所に特有の不可能さは求められていない。また、個人的な不可能さがないのならば、皆に共通の不可能さでは不十分である。・・・3)特別な理由は求められていない。婚姻をするためのどのような理由でも充分である。

Idem, #927, 6: Non sufficit ergo quaelibet subiectiva persuasio, sed IMPOSSIBILITAS requiritur, seu GRAVIS DIFFICULTAS SALTEM MORALIS, innixa fundamento reapse exsistente.

【日本語訳】 従って、どのようなものであれ主観的な思い込みでは不十分である。そうではなく現実に存在する根拠のある不可能さ、あるいはたとえ物理的にはそうではなくとも少なくとも精神的な非常な難しさ、が求められる。

Regatillo and Zalba, op. cit. III, #930: Absentia parochi vel ordinarii vel delegati, seu impossibilitas eum habendi vel adeundi, non requiritur iam physica; SUFFICIT MORALIS, quae adest quando parochus vel Ordinarius, licet materialiter praesens, ob grave incommodum matrimonio assistere nequit requirens et excipiens consensum.

Idem, ib.: Vocandus est etiam censuratus ante sententiam condemnatoriam vel declaratoriam; post sententiam videtur posse vocari, quia nec sacramentum conficit nec sacramentale, si solum consensum requirat.

Wernz and Vidal, Ius Canonicum, V, #544: Relativa impossibilitas datur cum ad hoc ut habeatur vel adeatur sacerdos competens aut ut obtineatur sacerdoti incompetenti necessaria delegatio sit subeundum GRAVE DAMNUM PHYSICUM VEL MORALE.

Van Kol, op. cit., II, #662: Adire vel arcessere testem qualificatum impossibile esse potest, non solum physice, SED ETIAM MORALITER OB GRAVE SC. INCOMMODUM.

Idem, ib., #665: Sacerdos iste, qui ex supposito facultate assistendi caret, non prohibetur quominus contrahentium consensum requirat iisque benedictionem nuptialem impertiat, sed neque ad haec tenetur vi huius canonis.

Coronata, op. cit. III, 1048: Relative adire nequit si absolute quidem possint sacerdotem adire, at id non posssint sine gravi incommodo sive personali, sive sacerdotis competentis, sive tertiae personae, sive boni publici. Non est necesse ut incommodum grave sit omnibus commune; sufficit incommodum personale quod vel unam contrahentium partem afficiat.

【日本語訳】 絶対的な意味において結婚しようとする両者が司祭に依頼することが出来たとしても、相対的な意味において依頼できなく、そしてそれが、或いは個人的、或いは司祭の能力の、或いは第3者の、或いは善良な公衆の、非常な不都合なしにすることが出来ないとき。非常な不都合が全ての人に共通である必要はない。個人的な不都合、あるいは結婚しようとする両者の一方に関わる不都合で充分である。

Lazzarato, op. cit, #926, 5: Impossibilitas parochum habendi vel adeundi est absoluta, si tempus desit omnino aut medium nequaquam suppetat, ut vel nupturientes ad ipsum se conferre vel cum eo convenire possint vel ut ab eodem per epistolam delegatio obtineatur; est RELATIVA, SI NOTABILE DAMNUM physicum vel MORALE . . . PARTIBUS proveniret.

Idem, ib., 6: Unde sponsi non tenentur magnas sustinere expensas, vel iter valde durum et molestum suscipere, aut PERICULO ALICUIUS GRAVIS DAMNI se exponere, ut testem habeant qualificatum, quamvis forte culpabiliter neglexerint, immo fraudulenter, occasionem, eum commode habendi.

 教会法典委員会は質問を受けた。「牧者あるいは教区長の物理的不在」は、牧者あるいは教区長が、肉体的にはその場にいたが、結婚しようとする両者の同意を尋ねそれを得て、婚姻の立ち会いをするには非常な不都合があるため、それが出来ない時もそれに含まれるのか?

教会法典委員会は回答する。肯定的。1931年7月25日


5.4. 聖ピオ10世会に適応する

 カトリック教会法典1094条(カトリック新教会法典1108条)の適応に関して非常に重要な説明は、結婚しようとする両者が権限を有する司祭に依頼をするのに非常な不都合があると言うことです。

 カトリック教会法典と教会法典学者と教会の判例は、
 非常な不都合とは、結婚しようとする両者だけに関することであり得ること、また
 非常な不都合とは、精神的な本性のものであり得ること、
 この精神的本性を持つ非常な不都合は、結婚しようとする両者に精神的損害でありうること、
 を明らかにしています。

 従って、
【1】もしも、教会法典を遵守して権限を有する司祭の婚姻の立ち会いを求めた場合、それが霊魂に対する損害となりうる場合、且つ
【2】少なくとも、結婚しようとする両者のうち少なくとも一人が死の危険にあるか、あるいは、【1】のような状況が賢明に判断して、少なくとも1ヶ月は続くと思われる場合、
 通常の教会法典上の婚姻形式は適応されないのです。

 聖伝を守るカトリック者が近代主義に犯されている教区司祭に依頼することが出来ない問いのは疑うことが出来ません。何故なら、近代主義者の司祭は、婚姻の目的に関する教義、あるいは、子どもの出産と養育に関する義務について、また夫婦間の倫理について聖伝のカトリックの教えとは異なる教えを信者に教えるだろうからです。カトリック新教会法典(及び、新しい『カトリック教会のカテキズム』)は、婚姻の2つの目的を逆転させ、その二つとも等しく重要で独立した目的であるとしています。新しい教えによると、婚姻の契約は、それによって一人の男性と一人の女性が両者の間で生涯にわたるパートナーシップを築き、その本性によって夫婦の善のため、また子どもの出産と教育のために秩序付けられている(カトリック新教会法典1055条1)とあります。

 カトリック聖伝の教えは、カトリック教会法典1013条にあり、婚姻の2つの目的には秩序と序列があるとしています。第2バチカン公会議以前のどのような倫理学の書物も同じことを書いています。婚姻の第1の目的は、子どもの出産と教育です。第2次的な目的は夫婦相互援助と肉欲に対する薬です。まったく根本的な違いがあるといえるのではないでしょうか。

 このようなカトリック聖伝からの乖離は、信者に対する非常に重大な危険であり、信者は婚姻の目的を子どもの出産と教育ということよりもむしろ夫婦両者の善が第1の目的であるという間違った意見を持つようになってしまうかも知れません。夫婦両者の善が、子どもの出産・教育よりも重要になるとすると、夫婦の善を優先させて、子どもが犠牲者となり、離婚、避妊、変態的性行為など、現代広くなされている誤りを正当化する大きく開いた突破口となっています。

 近代主義の司祭に依頼する信者は、第2バチカン公会議後のリベラルな教え、例えばエキュメニズムや信教の自由などを受け入れるように妥協を迫られ、信仰を危機にさらすことになるのです。勿論、カトリックの信仰と聖伝的な実践をすっかり変えてしまった、第2バチカン公会議の革命に由来して出された数千もの恐るべき改革や乱用について話すまでもありません。このような何千もの忌まわしい出来事は、世界中の「現代的な」教区には、どこでもなされているのです。

 結婚しようとする両者には、聖ピオ5世の勅令クォー・プリームム(Quo Primum)によって、聖伝のミサに従って婚姻のミサによって婚姻を祝う失うことの出来ない権利があります。パウロ6世の新しいミサは「その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱して」(オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿がパウロ6世教皇へ提出した『新しい「ミサ司式」の批判的研究Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae』へ付けたパウロ6世への手紙)いるからです。カトリック新教会法典214条にはこうあります。

 「信者には、教会の正当な牧者によって認可された自分自身の典礼洋式の規定に従って天主を礼拝し、教会の教えと調和した霊的生活の独自の形式を営む権利がある。」

 私たちは、躓きの危険を加えることを忘れることが出来ません。自分の住む地域の近代主義者の司祭に依頼したとしても、ある特定のカップルは信仰を堅く保持するかも知れません。しかし、彼らが近代主義者の典礼や近代主義によって変えられた教えを暗黙のうちに受けてしまったということは、信仰がそれほど強くない別のカップルに模範を示すことになり、極めて重大な信仰の危機に身を晒させることになります。第3者に対するこの重大な不都合は、上記のコロナータの文書にもあるように、通常の婚姻形式から免除される理由となるのです。

 カトリック教会における現在の信仰の危機は、私たちの信者をして、カトリック教会法典1098条(カトリック新教会法典1108条)によって規定された正にその状況の中に陥れているのです。カトリック者は、そのカトリック信仰を妥協させ、弱くさせ、更には失わせてしまうという非常に重大な危機に霊魂をさらすことなく、権限を有する司祭に婚姻を依頼することができないのです。

 従って、死の危険において、結婚しようとする両者は2名の通常の証人の前で婚姻の約束を交わすことが出来、そのような婚姻は完璧に有効です。

 しかも、死の危険以外においては、このような信仰の危機とその危険は、賢明な判断によって、権限を有する司祭に依頼することが精神的に不可能である状況が1ヶ月以上継続すると考えられるので、結婚しようとする両者は2名の通常の証人の前で婚姻の約束を交わすことが出来、そのような婚姻は完璧に有効です。

 この婚姻の適法性については、私たちの聖ピオ10世会の司祭が婚姻の立ち会いをすることが出来れば招待され、聖ピオ10世会司祭は立ち会い、通常の婚姻式を捧げなければなりません。

 もしも疑義が残るのなら、このような疑義は教会法上、神学上の理由に基づくのであり、積極的かつ蓋然的疑義であるので、カトリック教会は教会法209条(カトリック新教会法典144条)に従って、裁治権を補います。

(つづく)