マニラのeそよ風

 トップ  >  「マニラのeそよ風」一覧

第77号 2003/01/14 聖ヒラリオの祝日


アヴェ・マリア!

 『聖ピオ10世会の司祭の施す告解及び婚姻の秘跡の有効性について――カトリック教会法の研究――』
 今回は、積極的かつ蓋然的疑義がある場合の補われた裁治権についてです。

 聖ピオ10世会司祭の執行する秘跡に裁治権が補われる適応されるか否か、かどうか疑いが残りますか? 疑いがある場合には、疑いが続く間、教会は内的にも、外的にも裁治権を補います。では、次をお読み下さい。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)




聖ピオ10世会の司祭の施す告解及び婚姻の秘跡の有効性について
――カトリック教会法の研究――
ラモン・アングレス神父(聖ピオ十世会司祭)著
トマス小野田圭志(聖ピオ十世会司祭)編・訳


3. 積極的かつ蓋然的疑義がある場合の補われた裁治権


3.1. 積極的かつ蓋然的疑義に関する教会法

Canon 209
In errore communi aut in dubio positivo et probabili sive iuris sive facti, iurisdictionem supplet Ecclesia pro foro tum externo tum interno.

カトリック教会法209条
裁治権の有無に関し、錯誤が通常起こりうる場合、または疑義が積極的かつ蓋然的である場合には、教会は外的法廷および内的法廷のために裁治権を補う。

New Code Canon 144
#1. In errore communi de facto aut de iure, itemque in dubio positivo et probabili sive iuris sive facti, supplet Ecclesia, pro foro tam externo quam interno, potestatem regiminis exsecutivam.
#2. Eadem norma applicatur facultatibus de quibus in cann. 883, 966, et 1111, #1.

カトリック新教会法144条 
(1)事実上または法律上の通常の錯誤がある場合、及び事実上又は法律上積極的かつ蓋然的疑義がある場合、教会は、外的法廷及び内的法廷に対して、統治に関する行政権を補う。
(2)前項の規定は、第882条、第883条、第966条及び第111条第1項所定の権限にも準用される。


3.2. 概念

 疑義が全く生じない人がいるでしょうか? 教会法典という大海原は、必ずしもいつも晴天で雲一つないと言うわけではなく、心配や小心が生じることもある海であり、私たちは、これを進んでいかなければなりません。例えば、カトリック新教会法典が出来る前の通常の錯誤について、法律上の錯誤の場合カトリック教会は裁治権を補ったのでしょうか? これについて補ったという教会法典学者もいれば、補わなかったという学者もいます。ですから、この場合、補いの法が適応されたかどうか疑義が生じるわけです。この解決は、教会法典第209条にあります。「裁治権の有無に関し、錯誤が通常起こりうる場合、または疑義が積極的かつ蓋然的である場合には、教会は外的法廷および内的法廷のために裁治権を補う。」ですから、もし司祭が「法律上の錯誤」で充分に、教会は裁治権を補う、という仮定の下に行為し、そして事実はそのような錯誤は充分ではなかったとしましょう、しかし、そこには積極的かつ蓋然的な疑義があるのですから、教会は裁治権を補うのです。

 「疑義」とは、2つ、あるいはそれ以上の命題のうち、どれが正しいのか知性が判断を停止している心の状態です。知性は、その時、もしかしたら錯誤に陥るかも知れないという恐れなしに一つの命題が正しいとすることが出来ないのです。

 もし、知性がいくつかのうち一つの命題を正しい、としながらも、その反対が正しいのかも知れないと賢明なおそれを抱いている場合には、これを「意見」と言います。「意見」も広い意味では「疑義」と考えられるかも知れません。

 「疑義」は、反対の命題の2つ以上を肯定する客観的理由のあるまじめな動機があるとき、「積極的」です。疑義が、賢明な肯定をすることが出来るほどまじめな理由と動機に欠いているにもある場合、それは「否定的」です。「積極的疑義」は、まじめなものであるので、必ず「蓋然的」です。

 法律上の疑義は、法律の存在に関するあるいは法律の範囲に関する疑義です。
 事実上の疑義は、特定の事実、或いは状況について疑義がある場合です。

 教会法典第209条、カトリック新教会法典第144条によって、カトリック教会は、事実上又は法律上、積極的かつ蓋然的疑義がある場合、外的法廷および内的法廷のために、裁治権を補います。

 次に多くの教会法典学者たちの見解を見てみましょう。

 Regatillo et Zalba, op. cit., # 403: Si est dubium positivum et probabile seu fundatum, iuris vel facti, supplet (Ecclesia), etsi sit privatum, i. e. unius vel alterius, non publicum; nam canon non distinguit. Sed ut suppleat, dubium iuris debet esse obiectivum, i. e. fundatum in ipsa lege, quae clara non sit aut diversimode a doctoribus intelligatur.

 Van Kol, op. cit., # 316: In errore communi sacerdos semper valide absolvit omnes ad sese accedentes, etiam paucos illos qui defectum iurisdictionis forte noscant. Attamen illicite agit sacerdos qui absqui gravi ratione errorem communem provocat.

 Woywood-Smith, A Practical Commentary on the Code of Canon Law, 1962, # 162: 一般的に言って、否定的疑義とは、或る問いを決定する根拠になる理由を持たなく、その問いに関して無知であるのとほとんど等しいときの疑義である。蓋然的疑義とは、或る問いに一方的に答える良い理由を持っているのであるが、その問いの反対であるとする理由も同時にある疑義である。例えば、或る場合において、裁治権があるか否かという理由は、蓋然的疑義を作り出す。もし善意の疑義を作り出すほど両意見とも理由がある場合には、たとえその人が本当は裁治権を持っていないとしても、教会は裁治権を補う。


3.3. 疑義のある場合に、補いの裁治権を使うために何が必要なのか?

 そのような場合、裁治権を行使するのは、合法的なのでしょうか? 教会法学者たちは、たとえ最も厳格な学者であってもその点に関しては明らかです。教会法典第209条によって、補われた裁治権を行使するためには、いかなる理由も必要ではない、あるいは非常に軽い理由があれば充分である、ということです。

 Cappello, op.cit. # 257, 4: In dubio positivo et probabili iuris sacerdos valide et licite utitur iurisdictione, v.g. absolvit, etiam SINE CAUSA, quia Ecclesia CERTO supplet. Porro causa illiceitatis foret vel damnum poenitentis vel irreverentia erga sacramentum seu periculum nullitatis; atqui ex can. 209 utrumque abest; ergo. Quod valet, generatim, etiam ubi agitur de dubio positivo et probabili facti.

 (教会は、必ず裁治権を補うので、積極的且つ蓋然的な法律上の疑義の場合、司祭は裁治権を有効に且つ合法的に行使することが出来る。例えば、理由が無かったとしても罪の赦しを与えることが出来る。・・・)

 Cabreros, Lobo et Moran, Comentarios al Codigo de Derecho Canonico, 1963, vol. 1, # 512: La sentencia moral mas generalizada afirma que para usar licitamente de la potestad suplida en caso de duda positiva y probable, tanto del sujeto activo como del pasivo, basta una causa leve.

Merkelbach, Summa Theologiae Moralis, 1949, De Sacramentis, # 586: Ad utendum autem dubia iurisdictione, in dubio, scil. positivo et probabili sive iuris sive facti, specialis ratio necessitatis non requiritur.

(積極的かつ蓋然的な、法律上或いは事実上の疑義の時、疑わしい裁治権を使うために、必要性という特別な理由は要求されない。)


3.4. これは婚姻に適応されるか?

 はい、適応されます。教会法第209条は、裁治権の補いにいかなる制限も加えていません。婚姻の立ち会いは、厳格に言うと裁治権上の行為と言うよりも単なる行政行為なのですが、これを教会法209条によって定められた状況下に置いて考えなければなりません。

 カトリック新教会法典は、更にはっきりしてます。教会法144条の2は、婚姻の立ち会いのために必要な権能に同じ規定を当てはめています。

 Lazzarato, op. cit., # 893 ラッザラトは前掲書893番で、オーストリア司祭が必要とされた裁治権を持たずに、しかも通常の錯誤の条件を満たさずに、ロシアで婚姻を祝福した件が挙げられています。ラッザラトはこの推定上の主任司祭は、教会法209条により、有効に婚姻に立ち会った、と言います。

Valide assistit matrimoniis qui parochus putativus est ratione can. 209. Ecclesia iurisdictionem supplet publicae utilitatis causa, si minister, suae potestatis haud certus, putat tamen, se iurisdictionem habere, ob dubium grave et probabile, seu ob gravem rationem, sive iuris sive etiam facti, qua ad suam iurisdictionem affirmandam movetur.


3.5. 聖ピオ10世会の場合に適応する

 司牧者たちが、裁治権の存在について、法律に基づく、或いは方の権威ある解釈に基づく客観的な疑義を持っているとき、たとえ彼が裁治権を全く持っていなかったとしても、教会は裁治権を補います。

 ですから、この教えを理解するために実際のケースに適応してみましょう。

 或る聖ピオ10世会の司祭が、自分の聖堂において、告解のため、或いは婚姻のために通常の錯誤が存在するか否かについて疑いを持っている、とします。この司祭は、通常の錯誤を支持するための教会法上の理由や議論が多くあると言うことを知っていますが、その聖堂のある地方の司教様、あるいは教区長が、聖ピオ10世会の告解と婚姻とは無効であると言っているので、聖ピオ10世会の司祭はまだ通常の錯誤について疑義があるとします。その時、この司祭の疑義は積極的で蓋然的であるので、教会は裁治権を補います。

 この同じ司祭が、病人の世話をしているのですが、この病人の病状はますます悪くなるばかりです。司祭は死の危険が存在するか否かにかんして、疑いがあります。この聖ピオ10世会の司祭は、この病人に、カトリック新教会法典の883条の3によって、有効に堅振の秘跡を施すことが出来るのでしょうか? はい。積極的かつ蓋然的疑義の時、たとい病人が本当は死の危険になかったとしても、教会は必ず裁治権を補うので、この司祭はそうすることが出来ます。

 この同じ小心の司祭は、教会法1098条、カトリック新教会法典1116条で規定されている婚姻の特別形式が、近代主義の教区司祭に婚姻の立ち会いを求めることが出来ないカップルのために適応することが出来るかを疑っているとします。この司祭は、この結婚しようとする両者から話を聞き、その理由を聞くと、近代主義の教区司祭に婚姻を頼むことは、多大な霊的損害であるというまじめな動機があり、彼らは良心上、どうしてもそのような教区司祭に婚姻をお願いできない、ということが分かりました。

 この聖ピオ10世会司祭は、最悪の場合でも、有効に婚姻の立ち会いをすることが出来るために必要な裁治権を教会が補うという事実上の、且つ法律上の疑義にあるので、安心して婚姻の立ち会いをすることが出来ます。

 シェイクスピアのハムレットのような私たちの司祭は、今度は或る一人の信者の告解を聞き、罪の赦しを与えようとして、教会法2261条、カトリック新教会法典1135条、に基づいた罪の赦しを正当化しようとしています。カトリック教会法典2261条、カトリック新教会法典1135条は、どのような信者であれ、破門された司祭から秘跡及び準秘跡を求める権利を認めています。もし破門された司祭にも求めることが出来るなら、ましてや聖ピオ10世会の司祭には、もっと秘跡を求める権利があります。ところで、この司祭は、悩みます。「ところで、この信者は私に秘跡を求めたのか、求めなかったのか? 私に求めたのだと思う。しかし、今回、カトリック教会法典2261条、カトリック新教会法典1135条は、適応されると言えるだろうか、言えないのだろうか? 適応されるに違いない。適応されると思われる。しかし、誰かは反対するかも知れない。どうするべきか?」

 しかし、この司祭の疑義は客観的で、法と事実に基づいているので、少なくとも、カトリック教会法典209条の力によって教会は裁治権を補うと、安心することが出来ます。

 従って、私たちは私たちの教会法上の議論に反対しようと試みる人々に対しては、積極的かつ蓋然的疑義の場合、教会は裁治権を補うと論じることが出来ますし、そうしなければなりません。聖ピオ10世会の教会法解釈は、新・旧の両教会法と教会の習わし、ローマの判例や判決、世界中の有名な教会法学者たち、枢機卿、司教などの意見に基づいているために、そのような疑義の場合には決定的に教会が裁治権を補うEcclesia supplet iurisdictionem、と言うことが出来ます。

 バチカン自身も聖ピオ10世会の議論を真剣に受け止めています。例えば、1988年5月5日のバチカンと聖ピオ10世会との間に結ばれたプロトコール(これによってルフェーブル大司教は一人の司教を聖別してよいという許可を得た)では、聖座は委任なしに聖ピオ10世会司祭によってなされた婚姻を、万が一のためにAD CAUTELAM、最初からそれを有効であると認めるsanatio in radiceとしました。

 ですから、聖座にとっては、聖ピオ10世会の婚姻は有効であると考えられるのであって、ここには積極的且つ蓋然的な疑義があると言えます。疑義のある時、その時、教会は裁治権を補います。

(つづく)