マニラのeそよ風

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第76号 2003/01/13 私たちの主のご受洗の祝日


アヴェ・マリア!

 『聖ピオ10世会の司祭の施す告解及び婚姻の秘跡の有効性について――カトリック教会法の研究――』
 今回は、「通常の錯誤の場合」に補われる裁治権についてです。
 では、「通常の錯誤」とは? 補われるとは? 次をお読み下さい。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)




聖ピオ10世会の司祭の施す告解及び婚姻の秘跡の有効性について
――カトリック教会法の研究――
ラモン・アングレス神父(聖ピオ十世会司祭)著
トマス小野田圭志(聖ピオ十世会司祭)編・訳


2. 通常の錯誤の場合に補われる裁治権


2.1. 歴史から

  教会の法典・規律の多くは、ローマ法に起源を持っています。そして通常の錯誤の場合に裁治の権能を補うと言うことも、ローマ法に由来するもののうちの一つです。

  昔、バルバリウスという名の教養のある奴隷がいましたが、彼は主人のもとから逃亡しローマに逃げてきました。ローマ法によると、奴隷の行為は法的に無効であり、公職に就くことができないことになっていました。しかし、賢いバルバリウスは自分が逃亡奴隷であることをうまく隠し通しローマ市民として偽ったのでした。しかもローマ人たちはバルバリウスが逃亡奴隷であることを知らず、彼を執政官という役職に就けてしまったのです。そこで、執政官としてバルバリウスは長年の間、司法行為をしてきました。ところで、奴隷は執政官になることができないので、バルバリウスは、本当は執政官ではなく、長年の判決は無効だったのです! バルバリウスの出生の秘密が皆に明らかにされたのは、彼の死後のことでした。

 そこで、ポンポニウスとウルピアヌスというローマの偉大な法律家たちが、社会の大混乱を避けるために、バルバリウスの為した行政行為は最初から有効であったと見なし、それを批准するべきであることを訴えたのです。ローマは、もしそれを望んでいたら、裁治の権能を奴隷にも与えることができたのですから! このような解決は、より人間らしいものでした。Hoc enim humanius erat. ローマ人たちは、こうして社会上の大混乱を避けたのです。そしてこの解決策は判例となって同様な事件を解決するために使われ、新しい法の諺となり受け入れられていったのです。Error communis facit ius. 通常の錯誤は法となる。この話は、Digestum, l. I, tit. xiv, c.3.に書かれています。


2.2. そこで、教会法典にはこうあります。

 カトリック教会法209条 裁治権の有無に関し、錯誤が通常起こりうる場合、または疑義が積極的かつ蓋然的である場合には、教会は外的法廷および内的法廷のために裁治権を補う。

 カトリック新教会法144条
(1)事実上または法律上の通常の錯誤がある場合、及び事実上又は法律上積極的かつ蓋然的疑義がある場合、教会は、外的法廷及び内的法廷に対して、統治に関する行政権を補う。
(2)前項の規定は、第882条、第883条、第966条及び第111条第1項所定の権限にも準用される。

 (これ以下、1917年のカトリック教会法の日本語訳は『カトリック教会法典』ルイジ・チヴィスカ訳 有斐閣1962年を、1983年のカトリック教会法の和訳は『カトリック新教会法典』日本カトリック司教協議会教会行政法制委員会訳 有斐閣1992年を参考にしました。)


2.3. 概念

 「通常の錯誤」とは、皆が「知らないこと」ではありません。ですから司祭に裁治の権能がないと言うことを皆が知らなかったという事実は、教会が裁治の権能を補う十分な理由とはなりません。

 皆の「錯誤」と言うことが必要です。「錯誤」ということは、ある共同体の幾人かが、ある司祭が本当は裁治の権能を持っていないにもかかわらず、持っていると実際に信じているということです。このような「錯誤」を「事実上の錯誤」(error facti「事実に関する錯誤」error de facto)と言います。

 今日では、教会法学者たちは、裁治権が補われるために必要な条件を満たすためには、事実上の錯誤でなくても、「法律上の錯誤」(error juris「法律による錯誤」error de jure)で十分だと言います。カトリック新教会法典は144条1でこのことを明らかに批准しています。

 「法律上の錯誤」とは、例えばある共同体において司祭に裁治権が無いと言うことに関して誰も「錯誤」してはいないにもかかわらず、その共同体においてあたかも裁治権があるかのような錯誤に導くのに十分な本性を持った事実があれば、それは「法律上の錯誤」なのです。これは実際に現に今生じている錯誤ではなく、法律上の擬制(fiction)なのです。つまり、解釈上の錯誤であり、多くの人を本当に錯誤に陥れるかも知れないような性質を持っている事実がある、と言うことなのです。

 例を挙げて説明すると、告解を聴くための裁治権を持たない司祭が告解場に座っている、あるいは紫のストラを首から垂らし、いつでも告解を聞く準備ができている、という事実があれば、それだけで教会はこの司祭が罪の赦しを与えるその度ごとに裁治権を補う、と言うことです。

 そのようなことを聴くと驚くべきことだとお思いになるかも知れませんが、これがカトリック教会教える健全な教会法上の教えなのです。

 以下にカトリック教会の有名な教会法学者たちの言葉を引用します。

 Bucceroni, Casus Conscientiae, 6 edit. 129, 5. 1917年の旧教会法が出されるずっと以前からこの有名なブッチェローには、裁治の権能を補うためには、可能性において通常の錯誤があれば十分であると言っています。

 Vidal, Jus Canonicum, II, 1923, p.369も、それ自体で錯誤へと導くに十分な公的事実がある時、教会法の意味において通常の錯誤が存在する、と言っています。

 Cappello, De Poenitentia, 1944, #340ss. カペッロは、信徒たちを錯誤へと導く外的で公の事実(factum externum et publicum ex quo fideles necessario in errorem inducantur)だけで、通常の錯誤になるというのが、確かであると宣言しています。

 # 342では、カペッロは裁治権を持たない司祭が告解場にはいるだけで十分だと言う例を挙げています。そのようなとき、カペッロはこの司祭が多くの告解を聴こうが少数の告解を聴こうが全く聴かなかったであろうが、通常の錯誤による裁治権をもつと言っています。sive ille sacerdos plures aut paucos audiat poenitentes, sive forte nullum, habetur iam antecedenter communis error ortus ex praefatis adiunctis.

 Regatillo et Zalba, Theologia Moralis Summa, 1954, De Matrimonio, 928: Error communis de iure est qui fundatur in facto de se publico quod ex natura sua inducit quemlibet ad putandum talem sacerdotem habere iurisdictionem, cum ea careat; seu qui fundatur in facto per se apto ad inducendum omnes in errore de existentia iurisdictionis. Ut si sacerdos publice sedeat in confessionali, quasi spectans poenitentes. Hodie SENTENTIA GENERALIS EST ECCLESIAM SUPPLERE IURISDICTIONEM AD CONFESSIONES NON SOLUM IN ERRORE COMMUNI DE FACTO, SED ETIAM DE IURE.
 (法律上の通常の錯誤とは、それ自体で公な事実であり、本当は裁治権を持ってはいないのだが、それの持つ本性から、誰であろうとそのような司祭が裁治権を持っていると考えざるを得ないような事実に基づく錯誤、あるいは、裁治権の存在に関して皆を錯誤に導くにそれ自体で相応しい事実に基づく錯誤である。もし司祭が、ほとんど告白する人たちを待って、公に告解場に座っているとした場合など。今日では、事実上の通常の錯誤のみならず、法律上の錯誤であっても、教会は告解のために裁治権を補う、というのが一般的意見である。)

 Coronata, Compendium Iuris Canonici, 1950, Vol. 1, #558: Sufficit ut causa posita sit ex qua multi et fere omnes in errorem inducantur, vel saltem ex communiter contingentibus induci possint, licet forte de facto pauci prorsus vel etiam unica persona erraverit.

 Van Kol, Theologia Moralis, 1968, vol. II, #316: Communior sententia hodie admittit Ecclesiam etiam supplere in errore de iure tantum communi: i.e. si habetur factum seu fundamentum publicum, quod natura sua aptum est ad communitatem in errorem inducendam... Idcirco error communis certe habetur... si sacerdos, iurisdictione carens, in sede confessionali sedet exspectans fideles ad sese accedentes.

 Coronata, op. cit., Vol. 3, #259: Plures tamen auctores, praesertim e modernioribus, docent sufficere ut fundamentum erroris habeatur seu ut habeatur factum aliquod ex quo facile notabilis pars communitatis coniicere possit sacerdotem illum ad quem accedet populus ad suam confessionem faciendam iurisdictione gaudere, quamvis de facto nemo adhuc accesserit et forte pauci omnino accesuri sint. Tale factum esset e.g. si sacerdos missionarius aut concionator in sede confessionali ad poenitentes exspectandos sedeat.

 Vermeersch et Creusen, Epitome Iuris Canonici, 1937, 1, #322: Errorem interpretativum seu de iure exsistentem sufficere censemus. Nam, posito publice facto quod prudentes quoque in errorem inducit, hic publicus, non privatus, erit, atque Ecclesia, quae ob bonum commune iurisdictionem supplet, non censenda est permittere ut multi, immo pauci fructu validi exercitii iurisdictionis careant, quia plerique non simul, sed alii post alios in errorem inciderunt.

 L'ami du Clerge, 1925, p.106, and 1948, p. 252, は、 “une cause de nature a fonder l'erreur d'un grand nombre (多くの人々の錯誤を醸し出す性質を持つ原因)” という表現を使って、可能性に留まる通常の錯誤の場合で、十分だ、と言っています。

 Aertnys et Damen, Theologia Moralis, 1950, II, #359, も通常の錯誤を次のように「多くの人々をそれ自体として錯誤に導く本性を持つ公の事実」si factum publicum aliquod positum fuerit quod per se natum est multos in errorem ducereと定義して、同じ教えを繰り返しています。

 Puglieseは、Palazziniの『倫理神学辞典』(1962年)の中で、「裁治権」の項に、「教会は通常の錯誤の時に裁治権を補う。 必要とされる裁治権を持つことに関して誤った思い込みによって、錯誤起こりえる。しかし、この思い込みがその司祭が必要な裁治権を持っていると言うことに関して、信者が合理的にそう思う事実がなければならない。裁治権を持たないにもかかわらず、あたかも裁治権を持っているかのように告解場に座り、赦しを与える司祭・・・の場合、それ自体として多くの人を錯誤に導くものであるという事実から生じるものであるとき、たとえだれ一人として錯誤しなかったとしても、その時、(通常の錯誤)は、法律上の錯誤と呼ばれている。今日では、法律上の錯誤は裁治権が補われるために十分である、と一般に考えられ(そのような解釈は確かであると呼ばれ)ている。」

 Lombardia, Codigo de Derecho Canonico, 1983は、カトリック新教会法典の第144条を注解して、こう書いています。「法律上の通常の錯誤は、裁治の権能の行使を規定する教会法典上の規定の解釈に関わるものの一つである。裁治の権能の補いを得るためには、錯誤が、確かで堅固で、そのような錯誤を導くことの出来る公の事実にその基礎を持ち、裁治の権能の補いが一般の人の利益になるための出来事が必要である。これは、告解を聞くこと、婚姻に立ち会うこと、また堅振の役務者に関することを規定している教会法典883条の場合に個別に適応される。」

 カトリック新教会法典は、第144条1で、はっきりと裁治の権能の補いのために、法律上の錯誤で十分であると述べています。「事実上または法律上の通常の錯誤がある場合、及び事実上又は法律上積極的かつ蓋然的疑義がある場合、教会は、外的法廷及び内的法廷に対して、統治に関する行政権を補う」と。


2.4. 通常の錯誤は、婚姻にも適応される

 以前、裁治の権能の委任を受けなかった司祭や、あるいは推定上の主任司祭による婚姻の立ち会いに、通常の錯誤の場合の裁治権の補いが適応されるかどうかと言うことが疑問視されたことがありました。しかし、この疑問は、1952年3月26日の教会法委員会の法令で解決されました。この法令は、Acta Apostolicae Sedis 44-497に掲載されています。これの英語訳は、Bouscaren著のThe Canon Law Digest, vol.3, p. 76に次のようにあります。

 The Code Commission was asked: Whether the prescription of Canon 209 is to be applied in the case of a priest who, lacking delegation, assists at a marriage.
 REPLY: In the affirmative. Given at Rome, from Vatican City, 26 March, 1952.

 教会法委員会は、次の質問を受けた。教会法第209条の規定は、委任を受けずに婚姻に立ち会う 司祭の場合にも適応されるべきか?
回答 肯定。1952年3月26日、ローマ、バチカン市にて与えられる。

 1983年のカトリック新教会法典によって、この件に関する全ての論争は、決定的に終わりました。何故なら、カトリック新教会法典は、第144条の2で、通常の錯誤の場合の裁治権の補いは、婚姻の立ち会いにも適応されなければならない、とはっきり言っているからです。

 同じカトリック新教会法典の中には、同じ例外的場合について直接に言及されている所があります。

 カトリック新教会法典1108条 Ea tantum matrimonia valida sunt, quae contrahuntur coram loci Ordinario aut parocho vel diacono ab alterutro delegato qui assistant, necnon coram duobus testibus, secundum tamen regulas expressas in canonibus qui sequuntur, et salvis exceptionibus de quibus in cann. 144, 1112, #1, 1116 et 1127, ## 2-3.

 それでは、この通常の錯誤の教えをどの様な状況において私たちは適応することが出来るでしょうか?それは簡単です。裁治権の無い司祭が同じところで規則的に婚姻の立ち会いをするという状況があれば十分です。この事実は、その司祭が婚姻の立ち会いをする裁治権をもっていると信者が信じるかもしれない性質をそれだけで持っているからです。しかも、信者がこの司祭は裁治権を持っていないとたとえ良く知っていたとしても、これが適応されるのです。パラッツィーニの著作で非常にはっきりと説明されているのを既に私たちは見ましたが、事実上だれも錯誤をしなかったとしても、錯誤に導く可能性のある事実があるだけで、法律上の錯誤が成立するのです。

 婚姻に関する判例は、推定上の主任司祭parochus putativusでさえ、裁治権が無いにもかかわらず、有効に婚姻の立ち会いをすることが出来ると教えています。

 Naz, Traite de Droit Canonique, I, # 496: Ainsi, si l'erreur commune existe sur la qualite de cure, les mariages contractes devant ce cure putatif sont neanmoins valides.
(従って、もし通常の錯誤が主任司祭の資格について存するのなら、この推定上の主任司祭の前で結ばれた婚姻は、有効である。)

 Lazzarato, Jurisprudentia Pontificia, De Causis Matrimonialibus, vol. II, 917 # 20-21: Contingit autem error communis, si quis est parochus putativus, quia publice existimatur legitimus parochus et non est. Item de putativis vicariis paroecialibus, de rectoribus aut capellanis, deque delegatis puta ad confessiones excipiendas. Neque amplius consistit controversia, an exigatur titulus coloratus, quem c. 209 non requirit. En exemplum: Mortuo parocho aliquo in oppido, alius sacerdos munera parochi exercet, ita ut nunc ab omnibus verus existimetur parochus et non est. Ecclesia supplet.

 ラッザレトは、更に24番で、自分をベルギーから来た移民のための司祭であると紹介した司祭の判例を説明しています。

 Attentis igitur Patris Philippi dictis et gestis, ut parochus Belgarum facile existimari potuit, et revera existimatus videtur. Atqui, ut in iuris expositione ostensum est, Ecclesia propter bonum publicum supplet iurisdictionem parochi putativi, illius scilicet qui non est, sed reputatur publice talis, nec, Codice vigente, titulus requiritur coloratus, v.g. ut paroecia ei collata sit quamvis irrite.

 通常の場合、裁治権を与えるのに十分な何らかの行為や何らかの状況ですが、その特別な場合には何らかな秘密の障害によって裁治権が無効になったとき「見せかけの資格(colored titleの訳)」といいます。一言で言うと、「名前だけの資格」empty titleのことです。ところで、教会法学者たちは「見せかけの資格」さえも必要ないと強く主張するのは興味深いことです。

 Van Kolは、第2バチカン公会議後の神学者ですが、通常の錯誤を婚姻に適応することについて前掲書の第656番に次のように書いています。

Quid de suppletione in errore communi? Iam dudum constat CIC 209 applicari posse in casu alicuius parochi vel Ordinarii loci putativi, qui sc. vi officii habilis habetur sed ratione alicuius vitii officium suum invalide exercet. Hodie praeterea constat canonem etiam applicari posse in casu alicuius sacerdotis qui, delegatione carens, matrimonio assistit, at iusta sententiam communiorem tantummodo si sacerdos ille, non ex delegatione ad matrimonia determinata, sed ex delegatione generali assistere supponitur: quia tunc tantum periculum est ne plura matrimonia invalide contrahantur.

 そして、スペインのナバラ大学の著名な教会法学者たちからなるInstituto Martin de Azpilcueta(アスピルクエタのマルティン研究所)は、「教会法見直しのための教皇庁立委員会」の要請によって1983年カトリック新教会法典の第1草稿を作り上げたところですが、この「アスピルクエタのマルティン研究所」の言うとことによると、通常の錯誤を適応するために、多くの婚姻が無効になる危険ということさえももはや必要ではないようです。彼らは次のように書いています。

 Esta suplencia opera, como en el c. 144 #1, en caso de error comun y de duda positiva y probable. En ambos casos es indiferente que sea de hecho o de derecho. De este modo se solventa la discusion doctrinal acerca de si el error virtual o de derecho bastaba para la operatividad de la suplencia. Por lo demas, analizando los trabajos preparatorios del CIC (cfr. Communicationes, 10, 1978, pp.90-92) parece que la ratio de esta expresa mencion es limitar al maximo los supuestos de nulidad por defecto de forma, haciendo que la suplencia actue en el mayor numero de supuestos posibles. Por esto, no parece que pueda sostenerse hoy que el error comun vaya necesariamente unido a la nocion de interes publico o general, como se sostiene en la jurisprudencia posterior a la respuesta de la CPI de 26.III.1952: bastara el bien privado (un solo matrimonio) para que pueda aplicarse la suplencia.

 従って、このスペイン語によると、第2バチカン公会議後の教会法は、教会法の規定に依らなかったがために無効となる婚姻の件を出来る限り少なくしようと望んでいること、そして「裁治権の補い」を出来る限り多くの場合に適応させること、を述べています。更には、裁治権の補いは、ただ単に一回きりの婚姻といる個人的な利益のためにも適応され得る、と言います。このような教えは勿論私たち聖ピオ10世会の立場をますます有利にしてくれます。


2.5. 通常の錯誤によって補われた裁治権を使うのは許されるか?

 ここでの質問は、裁治権の補いが有効かどうか、と言うことではありません。これについては、もう充分論じられたからです。私たちは、ここで問うのは、時として裁治権を持たない司祭が執行する秘跡を有効にするために、通常の錯誤を導き出すような行為を、故意に作り出すことが出来るのか、告解にしろ、婚姻にしろ、そのような裁治権の補いを使うのは正当か否か、許されることか禁じられていることか、ということです。

 教会法典第2366条によると、司祭が、裁治権なしに告解を聞くことは固く禁じられています。しかし、教会法典学者たちは全員一致して、重大な理由があれば、補われた裁治権を使うことは正当なことであり、許されると言っています。

 Van Kol, op. cit., # 316: In errore communi sacerdos semper valide absolvit omnes ad sese accedentes, etiam paucos illos qui defectum iurisdictionis forte noscant. Attamen illicite agit sacerdos qui absqui gravi ratione errorem communem provocat.

 Cappello, Summa Iuris Canonici, vol. 1, # 255: Sacerdos licite agit in casu erroris communis, si diebus dominicis et festis de praecepto aut alia occasione extraordinaria fideles cupiant confiteri, et alius sacerdos desit, aut nonnisi cum notabili incommodo adiri possit.

 Naz, Dictionnaire de Droit Canonique, article Erreur Commune, IV: Un pretre depourvu du pouvoir de confesser serait coupable si, sous pretexte d'erreur commune, il confessait quelques fideles qui peuvent facilement se confesser a d'autres; mais le meme se mettrait licitement au confessional dans l'eglise ou tout le monde attend une veille de grande fete et ou, sans son concours, beaucoup de fideles seraient prives des sacrements.

 従って、裁治権を持たない司祭が、もしそうしなかったら信者が秘跡を受けることが出来ないかもしれないので、信者に秘跡を授けるために通常の錯誤を引き起こすような状況を作り出すのは、許されることです。

 ここで、もう一度強調したいのは、教会法典の第1の法は、霊魂の救いだと言うことです。


2.6. 私たちの場合へ適応する

2.6.1. 告解

 聖ピオ10世会の聖堂、学校、巡回のミサ・センター、夏のキャンプ、巡礼、叙階式、等々において、司祭が紫のストラを付けて告解場に座る、あるいは、司祭がいつでも告解を聞く準備が出来ていると言うことを示すサインが公に示されるだけで、少なくとも法律上の通常の錯誤による裁治権を得るために十分です。聖ピオ10世会の多くの聖堂においては、通常の錯誤は、事実上の錯誤でしょう。そのような状況で、司祭は教会法典第209条、カトリック新教会法典第144条によって、有効に信者に罪の赦しを与えることが出来ます。

 また、司祭のこのような行為なしには、信者が告解なしでいなければならなかった、さもなければ、カトリック信仰を危険に晒すような近代主義者の司祭へ告解に行くしかないという霊魂たちの霊的必要を満たすために、この裁治権の補いを正当に使うことが出来ます。


2.6.2. 婚姻

 私たちの聖堂や、巡回教会、ミサ・センターでは、信者が通常秘跡に与り、婚姻が祝福されており、少なくとも法律上の錯誤が存在しています。聖ピオ10世会の司祭たちは、推定上の主任司祭として行為し、信者たちは聖ピオ10世会の司祭に婚姻の立ち会いを求めます。カトリック教会は、外的な公の事実が存在するが故に、それぞれの場合に裁治権を補います。またそれを与えるに相応しい多くの霊魂の利益の故に、それを与えない場合の多くの霊魂への危険の故に、教会は裁治権を補います。

 現代の教会法典解釈に従えば、ナバラ大学の教授たちの言うように、今日では個人的な利益だけでも、通常の錯誤による裁治権の補いを適応するのに十分であると宣言しており、偶発的な婚姻にも通常の錯誤を適応させることを許しています。

 この例外的な裁治権の補いを得るために、もはや「見せかけの資格」さえも必要とされていないということを思い出して下さい。聖ピオ10世会の司祭たちが、主任司祭であるかのように行為する教会法典条の根拠があるかないかということを私たちは議論しているのではなく、聖ピオ10世会の司祭たちがある一定の信者の共同体に通常秘跡を執行しているという事実があるだけで、通常の錯誤の教義を適応するのに充分であると論じているのです。

 従って、聖ピオ10世会の司祭は、カトリックの聖伝を信ずる信者たちの婚姻を祝福するとき、通常の錯誤によってカトリック教会が裁治権を補うので、それは有効となるのです。また、現在のカトリック教会を襲う信仰の危機は、重大な理由であるので、聖ピオ10世会は正当にこの裁治権を行使できるのです。


2.6.3. 疑いが残る?

 聖ピオ10世会に敵対する人たちは、この主張をすべて受け取らないかも知れません。しかし、そのような人々に対して、母なるカトリック教会は、教会法典第209条、カトリック新教会法典144条で、その母の知恵に満ちた答えを私たちに下さっています。

 今まで私たちが述べてきたことが正しいかどうか疑いが残りますか?聖ピオ10世会に補われた裁治権が適応されるか否か、疑いがある場合には、疑いが続く間、教会は内的にも、外的にも裁治権を補います。これが、次の話題です。

(つづく)