第62号 2002/11/07
アヴェ・マリア! ■ 質問です 現在行われているエキュメニズム運動はカトリックでもプロテスタントでも、そして東方正教会でも同じキリスト者だと言えるので、未信者はどこの教会でも良いだろうと言うような気がするだろう。これでは、未信者が自分の都合の良い教会に足を運ぶようになってしまうだろう。教皇様は教義の立場等を統一せずにただ一致をしようとしているのか? これでは未信者方がますます教会のどこに一致があるのだろうかと疑問を感じてしまうのではないか? これについてどう思うか。 ■ お答えします ご質問ありがとうございます。 私たちは、まったくご指摘してくださったことに同感です。歴代の教皇様たちも同じことをいつも言っていました。 例えばピオ11世は1928年、回勅「モルタリウム・アニモス」の中でこう言っています。 「ある人達は「宗教的感覚を完全に失ってしまった人は極めてまれである」と確信しています。そして、この確信を基礎に、諸民族を、その宗教の違いにもかかわらず、宗教生活の共通の基礎として認められる幾つかの教義を兄弟的に認めあうまでもって行くことが、容易にできるという希望を養っているようです。ですから、彼らはかなり多くの聴衆者が出入りする会合、集会、講演会などを開いています。彼らは全ての人々を区別無く、ありとあらゆる種類の不信者、信者、更に不幸なことにキリストから離れ苦々しくそして頑固にキリストの神性とその使命を否定するものまでもその公演に招待しています。 このような骨折りにたいして、カトリック信者はいかなる賛同をも与えてはなりません。何故かというと、彼らの活動が “全ての宗教は、たとえ形は違っていても、全て等しく、私たちを天主に導き、私たちをして天主の力の前に尊敬を持って屈めさせる自然の生まれつきの感情を表している” という意味で “どの様な宗教でも、多かれ少なかれ、良いものであり称賛すべきである”という、間違った考えに基づいているからです。 彼らは、ただ単に誤謬のうちに迷い込んでいるだけではありません。この誤りを支持しつつ、彼らは、宗教に関する本当の観念を歪め、同時にそれを拒んでいるのです。そうして彼らは、[どんな宗教でも同じだという]宗教に関する誤った考えを持ち、少しずつ[真の宗教に関する問題よりも、この地上のことを重視する]超自然否定主義(naturalism)そして、[真の宗教も、真の天主もないのだという]無神論へと歩んでいます。ですから、このような誤った教えの賛同者となり宣伝者に合同することは、天主によって啓示された宗教[すなわちカトリックの教え]を全く打ち捨てることであるということは完全に明らかです。」 全てのものの作り主である天主は、私たちが天主を知り、天主に仕えるために、私たちを創造されました。私たちの存在の原理であるが為に、天主は私たちが天主に仕えるのを要求する絶対の権利があります。天主はなさろうと思えば、人の心に刻み込んだ自然法だけを、人間を創造した時に規範として人に与え、そしてその後に、通常の摂理によって自然法が発展するようにすることができました。 しかしながら、天主は、人間が遵守すべき幾つかの実定法の掟を、自然法に添えるのがより良いと判断されました。そして、時代の流れの中、即ちこの世の始まりからイエズス・キリストの御到来とその御説教まで、天主ご自身が、人間に “全ての理性的存在がその創造主に対して負うところの義務” について教えられたのです。 『その昔天主は私たちの祖先に、預言者たちにいくたびもいろいろな方法で語られたが、この最後の時において御子を通して我らに語られた。』(ヘブレオ1:1) そこから、この天主の啓示のうえに基礎を置く宗教の他に真の宗教は無いということになります。この天主からの啓示は、この世の初めから与えられ、旧約の律法の下に続けられ、キリスト・イエズス自身が、新法においてそれを完成させたのです。しかし、天主が語られたその時より(これは歴史が証明するところですが)、人間が、天主の語られる時に彼を信じ、天主が命ずる時には彼に従う絶対の義務を持つことは明らかです。そして、私たちはこの2つの義務を良く果たすことが出来るのです。何故なら、天主の栄光と私たち自身の救霊とのために働くために、天主の御独り子は地上にその教会を創立されたからです。 そうする(=誤謬を持ったままでの一致に賛同する)ことによって、カトリック信者は、或る一つの偽りの宗教に、キリストの唯一の教会に全くよそ者である宗教に、権威を与えることになるってしまうでしょう。 私は真理が、特に、啓示された真理が、この様に疑問視されるがままになるのを黙認することができるでしょうか。いえ、私がそうすることは邪悪の極みでしょう。 実に、これは、啓示された真理を守ることに関わるのです。全ての国々が、福音の信仰について教えを受けるために、キリスト・イエズスはその使徒たちを遣わされました。それは、まさしく、全ての国々へとであったのですから、また、彼らのほんの僅かな誤謬さえも恐れ給い、主は、聖霊が全ての真理を彼らに教えるように望まれたのですから、その頭また守護者として天主ご自信をもつ教会に於いて、使徒たちのこの教えが、完全に既に消えうせたり、幾らかの大きな変更を受けたということは、認められ得ることなのでしょうか。更に、私たちのあがない主の明らかな宣言に基づいて、もし福音が使徒の時代だけでなく更に全ての時代に関わるものだとしますと、信仰の対象が、時と共にいろいろの意見、更にさまざまな矛盾までも、今日黙認され得るほどに、かくも曖昧で不確かなものになってしまったと言うことを認め得るでしょうか。もしそうであるとすれば、聖霊が使徒たちのうえに降臨したこと、この同じ聖霊が教会に絶えずおられること、イエズス・キリストご自身のご説教が、数世紀も前からその全ての有効性その全ての福祉を失ったということを支持しなければならなくなります。これは明らかに冒涜的な断言です。 それだけではありません。天主の御独り子は、その使者に全ての国々に教えよと命じ、他方で『天主によってあらかじめ立てられた証人』(使徒10:41)を信じる義務を全ての人に負わせられました。主はこのみ言葉によってその掟を裁可されました。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は排斥される」(マルコ16:16)と。ところで、キリストのこの2重の掟は、即ち永遠の救いを得るための教える掟と、信じる掟は、もし教会が福音の教えを完璧にかつ公に示し、かつ、この教えの公示において、教会が全ての誤りから免れている、とした時に初めて守りかつ理解することができるのです。 この地上のどこかに真理の遺産が存在することを信じてはいる迷ったものがまだいるかも知りませんが、彼らがそれを発見しそれに溶け込むために、人生がようやく足りるか足りないかの長い勉強と議論の労苦がそれの追求のために必要でしょう。従って、無限に良い天主が予言者とその独り子によってただ僅かに、年老いた少数の人々だけに啓示を示したに過ぎず、人々をその生涯の長きにわたって導くことのできる信仰と教えと道徳律とを与えようとは夢想だにしなかったということになってしまいます。 教会の一致が、信仰の唯一の規範と、全てのキリスト者の同じ信仰によらねば生まれえませんのに、これらの意見の深い相違を目前にして、私たちはほとんど教会の一致を見ることができません。 しかし、それ(意見の相違にも関わらず一致をもくろむこと)によって、人々は宗教をなおざりにする、即ち[どの宗教でも結局は一緒だとする]宗教無差別主義(indifferentism)、あるいは、近代主義(modernism)と呼ばれるものにたどり着くだろうと私たちは良く知っています。これらの誤謬に犯された不幸なものは、「教義上の真理は絶対ではなく、相対的、即ち、真理は時と場所のいろいろな要求に応じて、また霊魂のさまざまな必要に応じて適応しなければならない、何故かというと、教義上の真理は不変の啓示の中に含まれず、その本性からして人の生活に適応しなければならない」と言うに至ります。 ピオ11世は、本当の意味での「教会一致運動」について、同じ回勅でこう言います。 「キリスト者の一致は、反乱分子がかつて自分たちの不幸にして捨て去ってしまった唯一の真なるキリストの教会に立ち戻るのを促すことによるほか得られません。即ち、誰によっても目に見えることのでき、人々の共通の救いのために主ご自身が創立されたごとくそのまま留まるように、その創立者の意志によってそう定められたキリストの唯一の本当の教会に立ち戻ることです。 何故かというと、かつて歴史の流れの中で、キリストの神秘的な花嫁は一度も汚されたことが無く、将来にわたってそのようなことが決してないからです。 更に、このキリストの唯一の教会において、ペトロと、ペトロの合法的な後継者たちの権威と首位権を受け入れないもの、認めないもの、それに従わないものは、この教会の中に留まることは出来ません。フォティウス(820-891年、ギリシア離教の首謀者)と宗教改革者たちの誤謬にはまりこんでいる人たちの先任者たちは、霊魂の第一の牧者であるローマの司教に従わなかったではないですか。彼らの子供たちは、残念なことに父の家を離れてしまったのです。しかしながら、たとえ彼らが家を出ても、この家は地に落ち、永遠に滅びてしまったのではありません。何故なら、天主はこの家を支え給うからです。ですから、願わくは彼らが父の家に戻ってきますように。父は、使徒座に対した彼らがなした侮辱を全て忘れ、最高の愛に満ちた歓迎を持って彼らを受け入れるでしょう。もしも、彼らが常に口にするように、彼らが私と私の全ての群とに一致をしたいと望むのなら、何故、彼らは教会の中に、“全ての信者の母にして教師である”(第四ラテラン公会議)教会に、急いで戻ってこないのでしょうか? 願わくは、彼らが真の礼拝の言葉を聞き入れますように。 「これ(カトリック教会)こそが真理の泉、これこそが信仰の家、これこそが天主の神殿、もし誰かがここに入らないのなら、あるいは、もし誰かがここから出ていくのなら、彼は命と救いの希望のよそ者となる。願わくは、誰も頑固な論争によって騙されないように。何故なら、ここに命と救いがあり、彼らの利益が、注意深く、熱心に心に秘めておかれない限り、彼らは永遠に破滅するだろう。」(Divin. Inst. IV, 30, 11-12) ですから、この都市[ローマ]に建てられ、使徒の頭聖ペトロとパウロの血潮によって聖別された使徒座にこそ、そうです、“カトリック教会の基礎にして生みの親”であるこの聖座にこそ、離れた子供たちは戻って来なくてはならないのです。 願わくは彼らが戻って来ることを。しかし、生ける天主の教会、真理の柱であり支えである教会が、信仰の完全性を犠牲にして誤謬を黙認するだろうという考えや期待などを持たずに、かえって反対に、教会の教導職とその統治とに自らを従えるという意向を持って帰って来るように。 願わくは、私の多くの前任の教皇たちがついに見ることの出来なかったこの喜ばしい出来事が、私の身に起こりますように。忌まわしい諍いのために遠ざかってしまったこの子らについて、私は心から涙するのですが、願わくは、私が、この子らを私の父の心を持って抱き受け入れることができますように。」 これで、教皇様の回勅からの引用を終わりますが、以上によって、ご質問に対するお答えになっていることを願います。更にご質問のおありの時にはご遠慮なく書き込みをお願いします。 天主様の祝福が豊かにありますように!
2002年11月4日 トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭) |