マニラのeそよ風

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第61号 2002/11/06

サン・ピエトロ大聖堂
サン・ピエトロ大聖堂

アヴェ・マリア!

■ 質問です

ロシア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、ギリシア正教会などと、何故たくさんの正教会があるのか。これはプロテスタントと似たようなそれぞれの教義の立場等の違いがあるからなのか? これらを一つにくるめて東方正教会というのか? これに対する、聖ピオ10世会としての立場(カトリックの教え)は何か?


■ お答えします

 ご質問をありがとうございます。
 ご質問にお答えするには、正教会の歴史を見るのが良いと思われるので、その歴史を見ることにします。

1 西暦4世紀以前には、ビザンチウム(後のコンスタンチノープル、現在のイスタンブール)の教会に特別なことはありませんでした。ビザンチウムは別の大司教区に属する単なる司教区にすぎませんでした。しかし330年にローマ皇帝コンスタンチヌスがビザンチウムをローマ帝国の首都として定め、コンスタンチノープルとして以来、この都市は特別の重要性を帯びるようになりました。

 ローマ帝都がコンスタンチノープルになると、コンスタンチノープルの司教はアンティオキアとアレクサンドリアの司教たちよりも優位に立とうと図りました。というのは、アンティオキアは教会史上イェルサレムに次ぐ初代キリスト教会の中心地で、古代アンティオキア総大司教区はローマと並んで聖ペトロによって司教座が定められたものですし、アレクサンドリアは紀元前332年にアレクサンデル大王によって創建されて以来、世界貿易の要地であり、アレクサンドリアの大司教区は神学の伝統においてアリウスの異端説に対立し、ローマと親密な関係を保ち、教会歴史上東方においてもっとも重要な地位を占めていたからです。

 しかし、コンスタンチノープルの司教の策略の結果、381年コンスタンチノープルで開催された公会議の第3決議文の中には「ローマ司教の次にコンスタンチノープル司教は名誉の上位を得なければならない、何故ならこの都市は新しいローマであるからである。」と宣言されました。

 451年カルケドンの公会議の第28決議文の中には、同じことを発展させてこう言っています。「皇帝と元老院とがそこに住み、旧帝都と同じ特権を享受する新しいローマは、教会の秩序においてもローマと同じ特権を持ち、ローマの次の第2位の地位を占めなければならない」と。

 これはとどのつまり教会の上席を政治的なランクによって決めるという原理にすぎません。ローマはこのカルケドンの公会議の決議を批准することを拒否しました。しかし、ローマ皇帝ユスティニアヌス1世はこれを承認し、既成事実としていまいます。このため、帝都コンスタンチノープル近隣の司教たちを巻き込んだ紛争となり、ついにはアンティオキアとアレクサンドリアの総大司教をも巻き込んだものとなりました。

2 ところで7世紀からコンスタンチノープルがますます優位を占めるようになっていきました。何故ならアンティオキア、アレクサンドリア、イェルサレムという、コンスタンチノープルと対抗していた3つの総大司教区は、4~5世紀に離教や異端に落ちていたのですが、ついに7世紀にはイスラム教の手に落ちてしまったからです。そしてこれら3つの総大司教区は東方教会にほとんど影響力を失ってしまっていたからです。

 それに対してコンスタンチノープルの総大司教区は、もはやライバルもなくなったのですが、ローマ帝国の版図が縮小されるに従い総大司教区の領域も縮小されました。

 1000年ごろ、ロシアは異教からキリスト教へと回心しました。この回心はギリシアの宣教師たちの働きの成果でしたので、コンスタンチノープルの総大司教区に任せられました。その当時コンスタンチノープルはビザンチン典礼の東方教会の中心となっていました。しかしこれが教会の離教ではありません。何故ならコンスタンチノープルを中心とした東方ビザンチン教会では、ローマ教皇の教義と規律に関する権威を持っていることを認め、それを受け入れていたからです。

 例えば533年、コンスタンチノープルの総大司教であったエピファノスに対して、ローマ皇帝は「いとも聖なる教皇、旧ローマの総大司教の至福聖下、が天主の全ての司祭たちのかしらであるので」そのあらかじめの承諾なしに、国家と教会との一致に関するいかなることもすることを禁止しています。実際5世紀から11世紀にかけてローマ教皇の度重なる教義的な介入が続きました。そしてローマ教皇の教義が常に受け入れられてきました。もし教皇の教義に関する権能が否定されていたとしたらそのようなことが起こりえなかったはずです。規律に関する領域においては、教皇たちの介入に抵抗を示し離教するものもあったのですが、1054年までその介入の正当性についてはまじめに異論を訴えるものがありませんでした。9世紀にフォチオスがコンスタンチノープルの総大司教の座に着いた時は、フォチオス(820年から891年)もローマ教皇にその承認を求めています。ただビザンチンの教会の聖職者たちは、ローマ教皇の介入は問題がある場合だけであることを望んでいました。しかしギリシア語を使用する東方の信者もラテン語を使用する西方の信者も互いに分離しているとは考えていませんでした。ラテン語もギリシア語もローマ帝国の言葉であり、彼らは一つの同じ信仰において結ばれていました。

3 ローマとコンスタンチノープルを中心にした東方教会との関係は通常のものでした。東方教会が比較的にローマからの自立性を持っていたとしても、ローマ聖座が教義と規律についての権威を持っていると言うことと矛盾するものでもありませんでした。ただ東方教会の自立性が9世紀にはフォチオスの離教を、11世紀にはミカエル・ケルラリオスの離教を許してしまった要素となったということが出来るかも知れません。

 修道者でかつ皇族の一人であったイグナチウスは、テオドラ女帝治下にコンスタンチノープルの総大司教となりました(846年から847年)。ところがテオドラ女帝の子供であるミカエル3世が帝位につくと、新皇帝は自分の伯父バルダスの言うなりになってしまいました。バルダスは放蕩者であり不品行者であったので、総大司教イグナチウスは、857年の正月の大祝日にバルダスに聖体拝領をすることを許しませんでした。バルダスは怒りミカエル3世を使ってイグナチウスに辞任を迫りました。858年フォチオスがイグナチウスに代わってコンスタンチノープルの総大司教に任じられました。フォチオスは当代の碩学(せきがく)でしたが、政争となり、フォチオスはローマに承認を求め、教皇ニコラウス1世が仲裁に入りました。

 教皇特使がコンスタンチノープルに派遣され、コンスタンチノープルではフォチオス側につきました。教皇特使はローマに帰ってこの方針を教皇に忠言する心づもりでいました。しかし同時にこの間にコンスタンチノープルから難をローマに逃れた大修道院長テオグノストスの意見により、教皇はフォチオスがコンスタンチノープルの総大司教の座を不当に横領したと理解し、彼をその職から解きました。フォチオスは教皇から承認されず免職令を受けたことを不服とし、西方において教皇が使徒信経中、聖霊が聖父「と聖子」(ラテン語で、「フィリオクェ」と言う)とから発出すると、「と聖子」という言葉を唱えることを許したとして異端として非難しました。教皇はフォチオスを破門しました。869年、教皇ハドリアヌス2世の治下においてコンスタンチノープル公会議が開催されると、この公会議においてフォチオスはバジリオス1世によって退職させられ、イグナチウスがコンスタンチノープル総大司教に再任されました。こうして離教は終わりました。ところが、その後イグナチウスはラテン式典礼の司祭たちをブルガリアから追放し、教皇ヨハネ8世から破門されそうになりましたが、その前に病没しました。そこでフォチオスが再びコンスタンチノープル総大司教となり、コンスタンチノープル教会会議(879年から880年)によって教皇からも承認されました。10世紀中は分離の傾向はなく、むしろローマとコンスタンチノープルとの親和関係が見られました。

 しかし、ミカエル・ケルラリオスが1043年にコンスタンチノープルの総大司教座に登ると、野心家であったケルラリオスはローマ教皇をライバルと見なしました。ローマ教皇レオ9世治下の1053年このローマに対する敵意を顕わにしました。ケルラリオスは、教皇と西方教会に対して民衆が理解できる分野について非難を開始しました。ケルラリオスは、イタリアのアプレア地方のトラニ司教に当てて、使徒継承の伝統を放棄したと非難しました。すなわち、ラテン式典礼においてはミサ聖祭の時にたねなしパンを用いること、土曜日に大斎をする習慣があること、絞め殺した肉を食べること、四旬節中にアレルヤを省略すること、です。次にパレスチナとコンスタンチノープルのラテン式典礼の修道院に住む全ての司祭たちに、ギリシア式典礼に変わるようにと命じました。ラテン式典礼の司祭たちがこれを拒むとケルラリオスは彼らを破門し、その教会を全て閉鎖させてしまいました。ここに教皇レオ9世はケルラリオスの非難に答え、1054年に教皇特使を3名コンスタンチノープルに派遣してローマ皇帝とケルラリオスとの間の問題を解決する使命を与えて、この事件に介入しました。しかしコンスタンチノープル総大司教はこれに耳を貸さず、和解を拒んだので、特使はコンスタンチノープルの司教座聖堂である聖ソフィア大聖堂の祭壇にケルラリオスの総大司教の免職と破門状を残してローマに帰りました。数日後にケルラリオスはコンスタンチノープルにおいて東方教会の司教たちを集めてシノドスを開くと、ケルラリオスは東方司教らと一団となって教皇レオ9世に対して破門を宣告しました。こうして東方と西方との離教が成立してしまいました。(ロシア正教会のローマからの明確な分離はその後12世紀に至って生じたので、それまではローマ教皇とも暗黙の交わりが保たれていました。)

4 その後、復帰の試みはいろいろなされましたが、長続きしませんでした。教皇アレクサンデル3世と皇帝コムネヌスとの間に復帰の交渉が続けられ、同皇帝は1168年復帰を図るための教会会議をコンスタンチノープルに開きました。しかしコンスタンチノープル総大司教の反対で復帰に失敗しました。残念ながら東方に十字軍の兵士が現れると、この分離の淵は深められてしまいました。

 アレクサンドリアの総大司教は、ローマと和解し、一時好調に見えたのですが、皇帝の私欲、十字軍兵士の略奪(彼らは教皇によって直ちに破門されました)、ギリシア正教会修道士らの狂信などが原因して、この親和関係も覆されてしまいました。

 第2リヨン公会議(1274年)ではギリシア正教会もローマ教皇の首位権を認め、「フィリオクェ」も認め、復帰が一時成り立ちましたが、僅か6年で破棄されてしまいました。

 フィレンツェ公会議(1439年)で、和解の試みがなされましたが、1443年、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレムの3人の総大司教の反対で無とされました。コンスタンチノープルは、1422年以降イスラム帝国オスマン・トルコの包囲攻撃を始めており、1452年オスマン帝国スルタンであるメフメト(=マホメット)2世によって陥落し、東ローマ皇帝コンスタンチヌス11世は戦死しました。(コンスタンチノープル総大司教はローマに逃れました。)こうして東ローマ帝国が滅亡するとトルコのスルタンであるメフメト2世は、コンスタンチノープルをイスタンブールと改名し、1453年以降オスマン帝国の首都としました。同時に、メフメト2世はコンスタンチノープル総大司教にスコラリウスを任命しました。こうしてこれ以後、皇帝の代わりにオスマン帝国のスルタンがコンスタンチノープル総大司教を任命するようになり、ますますローマとの分離が深まりました。コンスタンチノープルを中心とする東方教会の変化は、外見上ではこれだけでした。東方教会は、19世紀まで、コンスタンチノープル時代の宮廷が東方教会に与えていた特権をほとんどそのまま享受したばかりか、オスマン帝国スルタンによってキリスト信者に対する世俗上の権威も与えられ、スルタンに任命されるコンスタンチノープル総大司教はギリシア語国民の指導者となっていきました。

 他方で、フィレンツェ公会議の教会復帰令は、ロシア帝国では受け入れられなかったものの、キエフ(ウクライナの首都)の首都大司教の治下にあって、ポーランド人、リトアニア人などを司牧していたギリシア正教会の副総大司教たちは、イタリア、ハンガリア、スロヴァニアなどのギリシア正教会とともにこの復帰令を忠実に守り、分離を避けました。(これらをギリシア帰一教会と呼びます。)

 ロシアでは、1453年に東ローマ帝国が滅びるとコンスタンチノープルからの影響力を逃れ、1589年以降モスクワ総大司教区が設定されると、難しい問題がある時にはコンスタンチノープル総大司教に援助を求めるとはいえ、民族主義的な自律教会となっていきます。それ以後ロシアでは「モスクワは第3のローマ」という自身を高めました。1721年にはピエトロ大帝が、総大主教制度を廃止しロシアの「聖務院Holy Synod」を制定すると共に、コンスタンチノープルから全く独立してしまいます。しかしロシア聖務院は、国家が教会を監督し支配する機関として1917年の帝政没落まで大きな権力をふるっていました。ロシアでは1764年に教会財産も国家に没収され、ロシア教会は経済的独立性さえも失いました。

5 19世紀から、フランス革命や秘密結社の影響を受けたバルカン半島には、「民族主義」と「自由解放」のイデオロギーが浸透しました。すなわち、19世紀になりオスマン・トルコ帝国の版図が縮小するにつれて、コンスタンチノープル総大司教区の領域も縮小していきました。1868年にはギリシア王国の司教たちが独立を総大司教たちから認められ、1870年にはブルガリア教会が、独立の副総大司教の管下に入り、1879年にはセルビアの教会が、1885年にはルーマニアの教会が、コンスタンチノープルからの独立を得ました。第1次世界大戦の後には、アルバニア教会、チェコスロバキア教会、エストニア教会、ポーランドの東方教会が、コンスタンチノープルからの独立を得ました。

 そのような歴史経過の末、現在では、ギリシア正教会は、多かれ少なかれコンスタンチノープルの総大司教の名誉的首位を認めている、様々な民族主義的な各国の自律教会の一団のことです。この一団の中の諸教会らは、それぞれ総大司教、首都司教、大司教を頭と戴き、独立しているので、autocephalといわれます。これらの一団がそれぞれ独立して分かれているにもかかわらず、お互いにその「正統信仰性(Orthodoxy)」を認め合っています。何を持って「正統」とするかですが、カトリック教会は「使徒信経」にあるように「一、聖、公、使徒継承」性をもって正統な真のキリストの教会としますが、彼らは離教以後「最初の7つの公会議の教義を変えずに保存していること」をもってその正当性の判断基準とするようになりました。これらの正教会らは、プロテスタントと似たようなそれぞれの教義の立場等の違いというよりも、たとえ同じような内容の教義であってもそれぞれ独立した統治機構を持っているため、それぞれの名称で呼ばれています。

 コンスタンチノープル総大司教についていえば、オスマン・トルコ帝国の滅亡(1922年)と共に政治的権威を全く失い、コンスタンチノープル総大司教区の裁治権の範囲は現在ではイスタンブールとその近郊及びいくつかの島に限られ、その「首位権」も全く純粋に名誉的なものにすぎません。

 現在、コンスタンチノープル総大司教区、アレクサンドリア(エジプト)総大司教区、アンティオキア(シリア)大司教区、イェルサレム総大司教区、ルーマニア総大司教区、セルビア総大司教区、ポーランド総大司教区、モスクワ総大司教区(この総大司教区が人口の上で最大であり、ギリシア正教会と言う代わりに「ロシア正教会」ともいいます。)、キプロス教会、シナイ山教会、ギリシア教会などがあります。これらの諸郡の大部分は国家教会制度(State-Church)をとり、全く国家の公的機関と化しています。コンスタンチノープル以外の総大司教は、昔の権勢の名残をとどめているにすぎません。典礼用語は、ギリシア人、アルバニア人の間では古代ギリシア語を用い、ロシア人、ウクライナ人、ブルガリア人、南スラブ人の間では教会スラブ語を使い、シリア人、アラビア人の間ではアラビア語が使用され、ルーマニア人、ハンガリア人、フィンランド人の間ではそれぞれの国語が使われています。

 以上が、東方の離教の歴史です。この離教をフォチオスやケルラリオス個人の責任に帰する前に、「都市の政治的重要性に従って、教会での地位が決められる」という原理に離教の原因と源があったと言わなければなりません。また、コンスタンチノープルの司教らの野心、ローマ皇帝がコンスタンチノープルの司教らを保護したこと、などもその原因に挙げられます。教義上の問題点は、原因ではなくむしろ口実でした。これらの裏に、政治と野心とが潜んでいたのです。

 カトリック教会は、ローマ教皇を使徒の頭聖ペトロの後継者として戴き、ローマの総大司教である教皇を全ての司教、大司教、首都司教、総大司教区らの頂点とするキリストの代理者、全ての洗礼を受けたキリスト者の上に裁治権を持つ君主制(monarchy)を取っています。ローマ教皇は、名誉の上だけでなく、裁治権上、信仰教義と規律の権威を全教会の上に持っています。

 これに引き替え離教の後ギリシア正教会は、キリスト教会は全て等しい司教たちからなる司教団によって運営される、と主張しています。ですから、それぞれの国ごとにある司教区の独立した教会がそれぞれロシア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、ギリシア正教会などと、呼ばれています。


 以上によって、ご質問に対するお答えになっていることを願います。更にご質問のおありの時にはご遠慮なく書き込みをお願いします。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

2002年11月4日
ニューマニラにて

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)