マニラのeそよ風

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第60号 2002/11/05


■ 質問です

新しいロザリオの祈りを「改善」(The new Apostolic Letter Rosarium Virginis Mariae)するために付け加えるように、10月16日に提案された「光の玄義」についてどう思いますか。


■ お答えします

 ご質問ありがとうございます。教皇ヨハネ・パウロ2世は、10月16日付で、使徒的書簡「Rosarium Virginis Mariae」を発表し、2002年10月から2003年の10月までをロザリオの年と定めました。

 この非常に長い文書について、コメントしたいと思います。


1 まず、教皇様がロザリオの祈りを薦め、ロザリオの大切さを説くのを見て、私たちは嬉しく思います。この大切な祈りは、現在忘れ去られ、公教要理の時にも教えられず、説教にもあまり出てこず、特に聖職者たちから軽蔑されています。ロザリオを唱えていたと言うことだけで神学校から退学になった神学生もいます。敬虔なカトリック者は、それでもこのロザリオの祈りを大切にし、特別の信心を持って唱えてきました。


2 教皇様の書簡はまずロザリオを唱えるようにと励まし、ロザリオの唱え方について非常に長い説明をされます。そしてロザリオの諸玄義をご自分なりに解説し、ロザリオを唱える際に「平和と家庭」という特別の意向を結論として与えておられます。この書簡の中には、ロザリオの黙想について、また、家族でロザリオを唱えることの必要性、聖母マリアの内的な生活の考察など美しいことが書かれています。


3 しかし、それと同時におかしいと思われる点もあるといわなければなりません。それは、全てが第2バチカン公会議の高揚のために書かれているということ、偽の平和主義、新しい「光の玄義」です。


4 例えば、この書簡の中にはこのようなことが書かれています。「ロザリオは、或る意味において、第2バチカン公会議の教会憲章の最終章を解説する祈りであり、この最終章はキリストの玄義において天主の御母の素晴らしい現存を取り扱っています」と。

 ところで、第2バチカン公会議の時、本来ならば聖母マリアについての特別な文書が、準備委員会によって用意されていました。特に聖母マリアの全ての聖寵の仲介者という特権や、その他の特権を再確認し、高揚するためでした。しかし討論の際に近代主義者たちがこの草案を激しく攻撃し、プロテスタントたちとエキュメニズムの大きな障害になるとしたのです。

 カール・ラーナーは「もしこの草案が通っていたら、将来エキュメニズムの観点から想像もつかないほどの困難が予想されるだろう」と言いますし、ラッチンガー神父(当時)は、「第2バチカン公会議のおかげによって、そして公会議に関連して勝ち取ったエキュメニズムに関する全ての結果は、この草案をこのままの形で採決したら、無と化してしまうだろう」と言っていました。(ラルフ・ヴィルトゲン著『ライン川はティベル川に流れ込む』Ralph Wiltgen, Le Rhin se jette dans le Tibre, 4ed, Editions du Cedre, Paris, 1982, pp. 90-91)

 そのため、聖母マリアのための特別な文書は、教会憲章の中のただの1章に成り下がり、天の元后に相応しいものやあまりにもカトリック的な聖母マリアの崇敬は全て取り除かれてしまったのです。

 レンデイロ大司教(Mgr Rendeiro)やセレジイラ枢機卿(Cardinal Cerejeira)を含めた100名以上の司教たちは、それでもこの最終章に少なくともロザリオの祈りについて数行挿入し、ロザリオが聖母マリアを褒め称えるためになされる様々な信心業のうち特に重要なものであることを確認することを要求したのでした。しかし、その要求さえ拒否されました。

 「聖母は第2バチカン公会議にとって邪魔者だったのです。第2バチカン公会議は聖母マリアに黙って出ていくことを要求したのです。しかし地面は揺るがず、稲妻は聖ペトロのバジリカに落ちませんでした。聖母マリアは黙って第2バチカン公会議から退場しました。「彼らにはブドウ酒がありません」とも言わずに退場されました。私たちの主イエズス・キリストはこれを防止するために何もしませんでした。第2バチカン公会議において水はブドウ酒とならず、水のまま残ったようです。しかも人の飲むことの出来ないような汚水として。

 ・・・聖母マリアにひれ伏して荘厳な懇願のうちに「彼らにブドウ酒がありません」と言っていただく代わりに、公会議は、聖母の御子の前で、聖霊の花嫁である聖母について、公式に聖母が邪魔であり、困惑をもたらすもの、厄介者、と宣言したのです。

 ・・・公会議の時に、聖母を追い出してしまうと言うことはどのような結果をもたらすものかをよく知るべきです。そんなことをしたら天の門を聖母に開けたお方が公会議を良しとすることが出来なくなると言うことです。近視眼的ではなく、もっと先を見なければなりません。そんなことをしたら公会議の最中に、私たちの望むままに自由に聖霊の助けを得ることが出来ると思っているのでしょうか?

 ・・・公会議は聖霊降臨の時の最後の晩餐の高間のようでなければ、つまりイエズスの母マリアと共にいなければならないのではないのです。これが、第2バチカン公会議の第2総会の神秘的な歴史でした。これが唯一の本当の歴史です。私はそれを目の当たりにしました。最初は何が起こっているのか分かりませんでした。・・・」(第2バチカン公会議のルフェーブル大司教の神学者として参加したベルト神父の友人への手紙より)

 新しい使徒書簡のこの言葉は、歴史事実と違っており、何故そうなのかと驚かざるを得ません。


5 教皇様が提案する意向のうちの一つに「平和」があります。確かに「ロザリオは平和のための祈りとして私の前任者たちや私によって提案されてきました」(6番)。ところでロザリオの祈りがどのようにできあがり、どのように発展し、どのようにして広げられていったかという歴史を見ると、ロザリオの祈りはカトリック教会がその敵と戦っていくことに密接に結びついています。

 聖ドミニコの時代には、カタリ派の異端者たちに対してこのロザリオの祈りが唱えられました。聖ピオ5世の下ではイスラムの侵略に対抗して唱えられました。1571年10月7日のレパントの海戦の大勝利を期して、聖ピオ5世は10月7日を「勝利の聖母」の祝日として制定し、グレゴリオ13世はこの祝日をロザリオの聖母の祝日としたのです。クレメンテ11世は1716年8月5日ペトロヴァラディンでエウジェニオ公がトルコ軍に対して勝ち取った勝利を記念して、ロザリオの聖母の祝日を全世界で祝うこととしたのです。

 レオ10世はロザリオの祈りが異端者と危険な異端説に対抗するために制定された、と宣言しました。ユリウス3世はロザリオの祈りを「カトリック教会の栄光」と呼びました。レオ13世はロザリオの祈りに関する12の回勅を書き、以上挙げたような歴史事実をしばしば引用し、思い出させ、ロザリオの祈りを

「信仰の敵に対して戦うための全能の力を持った兵器である」

とさえ言っています。(1891年9月22日回勅「Octobri Mense」)さらにレオ13世は

「この祈りの形式は特別に聖母マリアの気に入るものであり、特にカトリック教会とキリスト教民とを防御し、同時に公のまた個人的なありとあらゆる種類の恵みを得るために相応しい祈りである。」(1883年9月1日回勅「Supremi Apostolatus」


6 しかし、新しい使徒書簡の中で語られる「平和」は、もはや現代カトリック教会に敵は存在せず、全ては味方であるかのような偽りの「平和主義」です。これは信教の自由という新しい教え、現代行われている偽りのエキュメニズムの政策、また諸宗教対話祈祷集会などの結果生じた「平和主義」です。超自然の真理を無視してこの地上での「平和」を得ることが出来るとの幻想から生じた「平和主義」です。そのため「この世をより美しく、より正義にかなった、天主の計画により近づいたものとする」(書簡Rosarium Virginis Maria, n° 40)という目的だけを考えます。

 勿論、私たちは戦争を避けなければなりません。無益な戦いを避けるべきです。この世界における天主の御旨を探すべきです。しかし、カトリック宗教に敵対する数多くの、そして様々な種類の、組織だった勢力が存在していることを否定することは出来ません。また他方で、この世の美と正義とは、私たちの主イエズス・キリストへと回心して初めて得ることが出来るたまものです。そして、現代行われているエキュメニズムや諸宗教対話祈祷集会は、このようなイエズス・キリストへの回心を全く求めないものです。

 ロザリオの祈りは、未信者や偶像崇拝者、異端者が私たちの主イエズス・キリストのカトリック教会へと回心するために捧げられていました。それが信仰のための戦いであり、自分自身の悪い傾きに対する戦いであり、他のカトリック者、キリスト者たちのための戦いであり、それがカトリック教会の歴史でした。私たちはいろいろな方法によって平和を求めています。私たちは本当の平和をもたらすものでなければなりません。その本当の平和とは私たちの主イエズス・キリストだけが与えることの出来るものであり、私たちがイエズス・キリストに回心して初めて与えられるものです。

 レオ13世はロザリオの祈りに関する回勅をいろいろ書きましたが、それらの中でロザリオの祈りの意味を非常によく説明しています。残念ながら、今回提案された「平和」は、過去の教皇様たちの訴えていた「イエズス・キリストの与える平和」とは別の「平和主義」となっています。


7 新しい書簡において「光の玄義」が付け加えられたということは、理解に苦しみます。

 確かに、それだけに限ってみてみれば、ロザリオの祈りの玄義が何であるかということは、「神聖にして犯さるるべからず」とうわけではありません。確かに、それだけに限って考えれば、それ自体においては、ロザリオの祈りの形式は別のものであり得ます。

 しかし、実際には、私たちがすでに知っている15の玄義やロザリオの祈りの形式は数世紀の長い月日を経たものであり、この形でのロザリオの聖母マリアの聖務日課やミサがあり、カトリック教会はそれがいつ始まったか記憶にとどめることさえ出来ないほどロザリオの祈りを、今まであったとおりの形を変えずに唱え続けてきましたし、教皇様たちはそれを奨励してきました。レオ13世が言うように、多くの教皇様たちによって、ロザリオの祈りは「聖母の詩篇」と呼ばれてきました。

 勿論これは、15の玄義によって、150回の「めでたし」の祈りを唱えることになり、これは詩篇の150篇と同じ数となるからです。200回の「めでたし」の祈りは、この象徴的な数を壊すことになります。この革新の「提案」は、カトリック者の信心生活に混乱をもたらすことになることでしょう。この「提案」はいつの間にか「義務」となり、今までの通りロザリオの祈りをする人は「不従順」と呼ばれ、「教皇様に反対する人」となり、「今までのロザリオの祈りは廃止された」とか、「今までのようにロザリオの祈りをしてはいけない、禁止されている」と言い出すようになることでしょう。それは、ちょうど聖伝のミサの時に見たことと全く同じです。

 ヨハネ・パウロ2世教皇様は、お望みなら新しい「チャプレット」(ラテン語で「コロナ」Coronaといいます)と作り出すことも出来ました。実際に多くの別のチャプレットが存在しています。聖ビルジッタのチャプレット、聖ヨゼフのチャプレット、聖三位一体のチャプレット、尊き御血のチャプレット、聖母マリアの7つの御悲しみのチャプレットなどなど、いろいろなものがあります。ですから、教皇様は、カトリック教会が何百年もやってきたことを「改善・改良」するという代わりに、「光の玄義」から成り立つヨハネ・パウロ2世のチャプレットというものをお作りになることがおできになったはずです。


8 5つの「光の玄義」の内容を見てみます。これは、喜びの玄義と苦しみの玄義の間に挿入されて、私たちの主イエズス・キリストの公生活を黙想することになっています。使徒書簡によると、「光の玄義」は、

1 ヨルダンにおけるイエズス・キリストの洗礼、
2 カナの婚姻においての自己啓示(「荒れ野での誘惑」ではありません)
3 天主の御国の宣言と回心への呼びかけ
4 主のご変容 5 過ぎ越しの神秘の秘蹟的表れとしての御聖体の制定
   (エルサレム入城」ではありません)

の5つです。

 まず「天主の御国の宣言」ということは、その他のロザリオの玄義のような、一つの明確な歴史的な出来事というよりも、福音の宣教の一要素です。

 レオ13世によると、ロザリオの祈りの時に黙想するのは、信仰の教義ではなく、むしろ

「私たちの主イエズス・キリストのなさった明確な歴史的事実を観想するのであり、その時の状況、場所、時、人物などの歴史的な事実をよりよく霊魂に刻み込むこと」

です。

 たしかに、新しい使徒書簡も29番でこのことを確認しています。そのため、なぜ歴史的な明確な事実と言うよりも、いつ、どこで、ということを明確に想起することが難しい、あまりにも漠然とした「御国の宣言」を黙想の玄義に入れなければならなかったのか、ということには矛盾があります。

 更に、「御国の宣言」というのは、第2バチカン公会議の中心的なテーマであったことを申しつけ加えます。第2バチカン公会議にとって、「御国」というのはすなわち全人類のことでした。そして、この第2バチカン公会議による「御国」が、教会の目的だったのです。「教会憲章」第9によるとこうあります。

 「さらに、この(天主の)民は、神の国を目的とし、その国は神自身によって地上に始められたが、さらに拡張されるべきものである。ついには世の終わりに、われわれの生命であるキリストが現われるとき、神によって完成される(コロサイ 3・4参照)。」

 ところで、この天主の民の使命は、「教会憲章」に描写されています。「教会憲章」の第1によれば、教会は「秘蹟」すなわち人類の一致の印であり道具であるといわれます。ですから、教会は人類が一つになることを促進することとなります。従って、天主の御国とは一つになった人類のこととなるのです。

 「すべての人が神の新しい民に加わるように招かれている。そのためにこの民は、単一、唯一のものとして存続しながら、全世界に向って、またあらゆる時代を通して広がるべきものである。それは、初めに人間性を一つのものとしてつくり、分散してしまった自分の子らを、一つに集めることを決定した神の意志の計画が成就されるためである(ヨヘネ 11・52参照)。」(「教会憲章」13)

 第2バチカン公会議によれば、この「御国」は終末論的です。つまり人類の一致は常に完成へと向かって行き、この世では決して達成されることのないものです。ですからこそ「天主の民」は「メシア的な民」なのです。何故なら、「天主の民」の使命は、歴史の流れに意味を与えるものであるからです。

 「したがって、このメシア的な民は、現実にはすべての人を含まず、またしばしば小さな群のように見えるが、それは全人類にとって、一致と希望と救いの最も堅実な芽ばえである。」(「教会憲章」9)

 第2バチカン公会議の顧問であったコンガール神父(後に枢機卿となる)は、こう言っています。

 「教会はこの世に終末論的使信を告げている。この使信には「天主の御国」と「全てのことの復興」、「外のことと反対するものが克服される完全な交わり」の巨大な約束が含まれる。天主の民の信徒らは、出来る限り、少なくともこの完全性とこの交わりの初めがこの世において到来するように努力する。この完全性と交わりとが約束された御国の善であり、人類史が進んでいくべき目的である。」(Congar (RP Yves, op) : Cette Eglise que j’aime (Recueil d’articles), au chapitre 3 : L’Eglise peuple messianique, pages 74-75. Cerf 1968)

 この「天主の御国」というテーマに、私たちはユートピアの本質を見いだします。近代主義者のトマス・モルナールがこう書いています。

 「ユートピア主義者たちにとって重要なことは、人類史において新しい時代の原理を立てることであり、その原理を今すぐに始め、少しずつ新しいことを明らかにしていく浴槽に人類を漬けさせることである。新しい人類はユートピア主義哲学者たちが頑固に追求する対象であり続ける。」(Molnar (Thomas) : Sartre, philosophe de la contestation, pages 174 et 178)

 これは、第2バチカン公会議の後を追うヨハネ・パウロ2世教皇の論理でもあります。なぜならヨハネ・パウロ2世教皇様のとっては、福音とは人格の尊厳の高揚のため、人類の連帯と発展と向上のためであり、こう書いているからです。

 「教会は福音のメッセージをとおして、発展を正しく進める開放のための力を提供します。なぜなら、それは確かに心とものの考え方の方向転換へと導き、それぞれの人の尊厳の評価を高め、隣人との連帯、隣人への献身と奉仕を促し、この世で既に始まっている平和と正義の国を築くといった神の計画に、全ての人があずかれるようにするからです。これは、「新しい天と新しい地」の聖書による見方で、歴史における人類の進歩のための刺激や目標となってきました。人類の発展の源は神に、そして神であり人であるイエスの模範にあり、それはまた神へと導かれなければなりません。このようなわけで、福音を告げ知らせることと人間の向上とは密接に関係しているのです。」(回勅 Redemptoris missio, § 59 カトリック中央協議会発行『救い主の使命』より)

 さて、第5の玄義である「過ぎ越しの神秘」について言えば、これは新しい神学が伝統的神学概念を解釈し直したものです。「過ぎ越しの神秘」とはまず「贖い」ということを新しく解釈し直したものです。「過ぎ越しの神秘」においては「罪」を人間中心にとらえます。そこでは「罪」は天主の正義を犯す侮辱であるということは否定されます。そのため、天主はあまりにも慈悲深い方であり、ご自分の正義を果たすということは理解不可能となるのです。その結果、最後の審判を異端的に再解釈することになります。

 そこから「贖い」の神秘を再解釈することとなり、「罪の償い」ということを「贖い」という概念の中から取り払います。従って、イエズス・キリストが人類を代表して、人類の代理として、人類の罪を償うために十字架の死の苦しみを受けた、ということを疑問視します。そうではなく、新神学においては、イエズス・キリストの十字架上での死は、私たちに対する天主の愛の単なる現れであり、天主の愛の啓示以外の何ものでもない、とされます。

 もしも、贖いが天主の愛の啓示にすぎないとしたら、秘蹟もその意味が変わってしまいます。何故なら、全ての秘蹟は十字架の贖いの功徳と実りを適用することであり、秘蹟の聖寵は十字架の贖いから流れ出るからです。新神学にとって、秘蹟とは罪を贖う償いと功徳を私たちに適応させる力のある印ではありません。新神学にとって秘蹟とは「啓示」であり「神秘」なのです。言い換えると復活した栄光のキリストを、象徴によって隠して含む印なのです。信者にこのようにして明らかにされた「神秘」は、天主の愛の啓示であって、私たちの間に常に現存し生きる現実である、というのです。

 「過ぎ越しの神秘」とはこの「復活の神秘」のことであり、「罪」「贖い」「償い」「天主の正義」「秘蹟」という概念を全く新しく解釈した上に成り立つ新しい神学の中心概念なのです。

 キリスト者は勿論、私たちの主イエズス・キリストがなさった全てのことを黙想して多くの利益を得ることが出来ます。カナの婚宴であれ、御聖体の制定であれ、カトリック者の霊魂は天主の計り知れない愛の深さに深く染み通ります。しかし、それはカトリックの聖伝を尊重し、カトリックの伝統的な神学に基づいてのことです。


9 この新しい「光の玄義」を付け加えたことは、その根底に人間中心主義を暗に含むものであり、ヨハネ・パウロ2世教皇様の個人的な考えを反映しています。これは私の考えではなく、教皇様ご自身が言っていることです。新しい使徒書簡には教皇様はこう書いています。

 「ここまでキリストの玄義についてした考察の光のもとで、ロザリオの中に暗に含まれた人類学的な意味を深めることは難しくありません。それは最初に見ただけではそうとは見えないもっと根本的な含蓄です。キリストの御人生のいろいろな段階を思い起こしつつキリストを観想し始めるものは、キリストにおいて人間についての真理を発見せざるを得ません。これこそが第2バチカン公会議の偉大な宣言です。

 これこそ回勅「人間の贖い主 Redemptor hominis」以来、非常にしばしば私の教導職の対象としてしてきたことです。「実際、受肉したみことばの秘義においてでなければ、人間の秘義はほんとうにらかにならない。」(「現代世界憲章」22)ロザリオはこの光に開くことを助けてくれます。キリストにおいて人の道は「立て直され」、啓示され、贖われるのですが、キリストの道に従って信者は真の人間の姿に面と向かうようになるのです。イエズス・キリストのご誕生を観想しながら、信者は生命の聖なることを発見し、ナザレトの家を眺めながら天主のご計画に従った家族の基礎的真理を学び、主の公生活の諸玄義において主なる師のお言葉を聞きながら信者は天主の御国にはいることが許される光に到達し、カルワリオの道を辿りながら、救いをもたらす苦しみの意味を学び、栄光のうちにいるキリストとその御母を観想しながら、信者は、聖霊によって癒され変容させられるという条件の下で、私たち各自が呼ばれている目的を見るのです。こうしてロザリオのそれぞれの玄義は、良く黙想するなら、人間についての秘義を明らかにするのです。」


10 最後にこう言わなければなりません。この書簡には第2バチカン公会議の最も根本的な革新の考えが中心となっている、と。

 第2バチカン公会議によれば、「天主の啓示」とは天主が超自然の玄義を人間に啓示することではありません。そうではなく、天主の啓示とは「聖父を啓示しつつまた聖父によって啓示されたキリストが人間を人間自身に啓示し尽くすこと」です。"en revelant le Pere et en etant revele par lui, le Christ acheve de reveler l’homme a lui-meme." (Henri de Lubac, Catholicisme - Gaudium et spes)

 従ってロザリオにおけるこの革新は、第2バチカン公会議以後なされた様々な改革の路線に沿ったものであると断言することが出来ると思います。すなわち、教会の聖伝の要素の中に、第2バチカン公会議の新しい考え方を挿入させる、ということです。聖母マリアを崇敬し、ロザリオを大切にするとしながら、それと同時に教皇様はそのロザリオにカトリックの聖伝が私たちに伝えるのとは全く別の意味と精神を与えようとしているのです。

 しかし、まさに私たちに伝えられた聖なるロザリオの祈りをそのまま守り、これを大切にし、カトリック教会に対抗する勢力への大いなる防御として、私たちは教皇様がキリスト教世界に下さるロザリオの年を歓迎し、ロザリオの元后である聖母マリアの御保護の下にこの一年をお捧げしたいと思います。

ニュー・マニラにて


 これを書くために次のサイトを参考にしました。
外国語サイト リンク ROSARIUM VIRGINIS MARIAE OF THE SUPREME PONTIFF JOHN PAUL II
外国語サイト リンク http://www.dici.org/actualite_read.php?id=241


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)