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第55号 2002/10/06 聖霊降臨後第20主日

教皇レオ十三世
教皇レオ十三世

アヴェ・マリア!

 9月3日は、福者ピオ9世の回勅『クヮンタ・クラ』(1864年12月8日発布)を紹介しました。今回は、同じ12月8日発布の回勅ですが、レオ13世教皇の『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』(1892年12月8日発布)をご紹介します。


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『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』

-フリーメーソンについて-
レオ13世による回勅(1892年12月8日発布)


イタリア国民に

 キリスト教諸国民がその道徳と社会的救済とを負う信仰の保護者として、私は自らの至上の責務の一つ一つを忠実に果たさなければなりません。それゆえ私はあなた方愛する子どもらから、かくも貴い宝を取り去ろうとする不敬虔な者らの仕掛ける闘争に対して(警戒の)声を上げなければなりません。

 長年の悲しい経験によって、あなた方はこの戦争がいかに大きな試練をもたらすかを痛いほどよく心得ており、カトリック信徒として、またイタリア国民としてこれを憂いています。いったい誰が名目上のみならず心情においてイタリア人でありながら、神的な信条に対して絶え間なくなされる挑発に反意を感じずにいられるでしょうか。

 これらの信条は私たちの最も輝かしい栄光です。なぜなら、それらの信条はイタリアを他の諸国に対して第1の座を、またローマには世界に対して霊的な支配権を与えるからです。またこれらの信条はキリスト教文明の感嘆すべき建造物を異教と野蛮の世界の廃墟の上にそびえ立たせました。私たちの驚嘆すべき贖い主がその御国の王座を据えられたかの地[の境遇]を冷めた目で眺めることができるでしょうか。

 今日、私たちはそのみ教えが攻撃され、その受けるべき崇敬が冒辱され、その教会が打撃を被り、またその代理者(たる教皇)が反対されるのを目の当たりにしています。

 主の御血によって贖われた、かくも多くの霊魂たち、主の群れの中の選り抜き、19世紀もの間主に忠実であり続けてきた民が今や失われています。主に選ばれた民が、恒常的で常に現前する棄教の危険にさらされ、誤謬と悪徳、物質的困窮および道徳退廃へと突き動かされるのを見て、どうして平気でいられるでしょうか。


 この戦争は、天上および地上の(王)国に対して同時に向けられています。すなわち、私たちの祖先の信仰、ならびに彼らが私たちに伝えた文化とに対してです。ですから、この戦争は二重の意味で悪、すなわち、天主に対する罪悪であると共に、人間に対する罪悪でもあります。

 しかるに、この戦争の主な源は私が回勅『フマヌム・ジェヌス』(1890年4月20日)にて、また最近では1890年10月15日付けで司教、聖職者、ならびにイタリア国民に宛てて出した回勅で詳細に語った当のフリーメーソン党派ではないでしょうか。

 この2つの勅書によって私はフリーメーソンの顔を覆っていた覆面をはぎ取り、当セクト の常軌を逸した性質、ならびにこれが秘密裡に行なう邪悪な活動を白日の下にさらしました。


 しかるに、この勅書では、当結社がイタリア国内でもたらしている害悪にのみふれることにします。

 長年の間、フリーメーソンは博愛組織およびイタリア国民の救済者という見せかけの外観のもとに、その計画、活動を押し進めてきました。謀略、収賄、ならびに暴力という手段をとおして、当結社はついにイタリアおよびローマまでも掌握するにいたりました。

 たった30年あまりの間に、フリーメーソンはどれほどの動乱と惨禍の元となってきたことでしょうか。


 私たちの祖国はかくも短期間の間に多大な害悪を経験し、その犠牲となってきました。私たちの祖先の信仰が、ありとあらゆる種類の迫害の対象とされてきたからです。

 迫害の先導者たちの悪意に満ちた意図は常に、キリスト教を自然主義によって、信仰の崇拝 を理性の崇拝でもって、カトリックの道徳をいわゆる自立的道徳 でもって、さらには霊的進歩を物質的進歩でもって置き換えることにありました。

 福音の聖なる訓戒と法に、彼らは革命の法典とでもいうべきものを対置します。彼らはまた、無神論に基づく教条と卑俗な写実主義とをスコラ主義、科学、キリスト教美術に対立させてきました。主の聖殿に割り入った彼らは、教会の財および聖職者に必要な相続財産の大部分をほしいままに浪費し、さらには聖職者の徴兵によって司祭の数を減少させてきました。秘跡の執行を妨げることはできないまでも、彼らは民法上の婚姻 と葬式とを導入かつ促進すべく働いてきました。彼らはたとえ未だ教育ならびに慈善組織の運営・管理を掌握するには至っていないとしても、一切を世俗化、すなわちキリスト教のしるしを取りのぞくべく、倦むことなく努めてきました。また、彼らはカトリック報道機関を沈黙させることはできないにしても、これの信用を失わせ、悪いイメージを与えるようあらゆる努力を傾けてきました。


 この、カトリック宗教に対してなされる戦いにおいて、どれほどの矛盾と不公平とがあるでしょうか。

 彼らは修道院を閉鎖しておきながら、メーソンのロッジならびに各種セクトの集会所が思うままに数を増すのを許してきました。彼らは宗教の自由を公言しつつ、他ならぬイタリア国民の宗教-それゆえ尊敬と特別な保護とが与えられるべき当の宗教-に対しては、厭(いと)うべき不寛容を示し、恥辱を加えるのです。彼らは教皇の尊厳と自立に関する公言、約束をなしておきながら、常日頃私を軽視するのをあなた方は目にしています。

 あらゆる種類の示威活動 は自由にさせておきながら、カトリックのそれは禁止されるか、さもなくば妨害されます。

 彼ら[教会の迫害者]は離教、棄教、ならびに教会における正当な長上に対する反抗を奨励しています。修道者の誓願、特に従順の誓願は判断と自由とに反するものとして中傷・非難され、他方、邪悪な誓願によってその追従者を拘束し、犯罪的行為における盲目かつ絶対の従順を要求する種々の不敬虔な組織は、咎め立てを受けることもなく自由に活動することが許されています。


 しかるに私は、目下私の憂慮の種となっている一切の害悪をフリーメーソンの直接の活動によるものとして、その権勢を誇張することを意図しているのではありません。

 しかしながら、あなた方はフリーメーソンの精神が、私が今言及した、またあなた方に思い起こさせることのできた諸々の事実の内にはっきりと見てとることができます。

 キリストと教会の不退転の敵である当の精神は、考え得るかぎりの方法を試し、ありとあらゆる術策を駆使し、全ての手段を用います。この精神は教会からその長女(*)を奪い、そしてキリストからその寵愛の的となってきた国、地上における彼の代理者の座、カトリック的一致の中心であるこのイタリアを横領するのです。

 かかる精神が私たちの携わる事柄 にどれほどの害悪と影響とを及ぼしているかを知るためには、少なからぬしるしと、この30年間に相次いで生じた一連の事実があります。

 自らの成功に勢いを得た当のセクトは、自分から名乗り出て、過去の業績と将来の目標とを余すところなく語ってのけました。フリーメーソンは、はっきりそう意識してかどうかはともかく、公権力を自らの道具と見なしています。なぜなら、この天主を畏れぬセクトは、私たちの国イタリアを今日まで動揺させつづけてきた宗教的迫害を自らの主要な活動のうちに数え、吹聴しているからです。

 往々、他者の手によって為されるとはいえ、かかる迫害はフリーメーソンによって考案、推進されています。その際フリーメーソンは、直接あるいは間接的に、自らあるいは他の組織を介して働き、媚(こ)びへつらいまたは脅迫、勧誘ないしは革命をその手段として用います。

(*註: フランスは、Fille aînée de l'Eglise 「聖会の長女」、「教会の長女」と呼ばれてきました。何故かというと、クローヴィスが、フランク王国の王であった596年に洗礼を受けカトリックに回心し、フランスはヨーロッパの国々の中で、一番早く、国の公式の宗教(=国教)として、カトリックの宗教を捧持したからです。 / Fr. Onoda)


 宗教の失墜から社会の失墜に至る道はきわめて短いものです。無限を受け容れることができ、またそれを必要とする人の心は、もはや天上の望みならびに愛へと高められることはなく、この地上の事物に没頭しています。

 必然的に、[このような人々の間では]楽しみ、裕福になり、立身出世をすることへの激しい欲望のために絶え間ない抗争が生まれます。また、そこには恨み、不和、退廃、悪行の大きな尽きることのない源が見出されます。

 私たちの国イタリアでは、最近の一連の出来事の生じる以前にも、道徳的および社会的混乱には欠くことがありませんでした。しかるに、昨今私たちはどれほど痛ましい光景を目の当たりにしていることでしょうか!

 家庭の和の基(もとい)となる敬愛の念は大幅に減じ、父親の権威はあまりにもしばしば子供たちに、また両親自身によっても認められていません。往々にして家庭内には不和がはびこり、離婚は日常茶飯事です。

 市民間の反目ならびに諸階層間の遺恨に満ちた憤慨は、街々で日ましに増大しています。

 誤った自由の精神 の中で育った新しい世代、上からのものも下のものも 何一つとして敬おうとしない世代が街々に解き放たれ、市街は悪徳への扇動、若年者による犯罪、公のスキャンダルであふれかえっています。

 国家は天主と人間の権利を相互の調和した普遍性において認め、保護し、援助するという気高く尊い職務を快く受け容れ、それに甘んじるべきです。しかし今や、国家は自らを判定者と思いなし、これらの権利をあるいは否認するか、あるいは思うがままに制限するのです。そして(結果的に)社会秩序全般がその基盤から揺るがされています。

 書籍と新聞、学校ならびに大学、各種のクラブと演劇、種々のモニュメント および政治的演説、写真ならびに美術、といった具合に、一切のものが知性をおとしめ心を変節させるべく共立って働いています。そんな中、圧迫され受難を被る人々は震えおののき、無政府主義的党派が台頭しています。労働者階級が頭をもたげ、社会主義、共産主義、無政府主義の隊伍を飛躍的に増大させています。

 人格が喪失し、いかに気高く困難を耐え忍び、自ら自身を雄々しく救済するかをもはや知り合わせぬ多くの人々が、臆病に他ならぬ自殺によって自らの生命を奪っています。


 フリーメーソンというセクトが私たちイタリア国民にもたらしてきた実りは、このようなものです。そして、このように為しておいた後で、フリーメーソンはあなた方の前に姿を現し、イタリアに対して自らが成した功績を吹聴すべく努めるのです。同様に、彼らは私ならびに私の言葉に耳を傾けイエズス・キリストに忠実であり続ける者皆に、「国家の敵」という中傷に他ならぬ汚名を着せるのです。しかるに、事実が当の功罪深きセクトが私たちの住む半島(イタリア)に対して成してきた功績がいかなるものであるかを示しています。かかる「功績」は何度でも繰り返して述べるにふさわしいものです。

 事実は、メーソンの愛国心なるものは党派的利己主義に過ぎず、また、これは一切のもの、殊に全てをその手中にまとめ集中させる現代国家を支配することへの願望に他ならないことを示しています。事実はまた、フリーメーソンの計画において「政治的独立」、「平等」、「文明」ならびに「進歩」の名は、私たちの祖国における、人間の天主からの独立を助長することを目するものであったことを示しています。これらのスローガンをとおして誤謬と悪徳の放埒(ほうらつ)、ならびに他の市民を犠牲にした分派同士の団結がはびこり、増加してきました。世間的尺度での「幸運な者たち」が安易で悦楽に満ちた人生を謳歌するという現象も、同じところに源を発しています。神人の血によって贖われた民は、こうして分裂、腐敗、そして異教の恥ずべき慣習へと立ち戻ってしまったのです。


 以上のことについて、私はあえて驚きはしません。19世紀にわたるキリスト教文明の後に、このセクトはカトリック教会を転覆させ、その神的な源を切断しようと図っています。同セクトはあらゆる啓示ならびに啓示が私たちに示す一切の救霊の手段を認めず、こうして超自然[的事柄]をことごとく否定します。その計画と事業において、フリーメーソンは自らの根拠を一貫して、かくも弱く腐敗した人間の自然本性ただそれのみに置いています。

 このようなセクトは傲慢と貪欲、情欲との極みに他なりません。しかるに、傲慢は圧迫し、貪欲は略奪し、情欲は退廃させます。これら3つの欲望がその極みに達するとき、圧迫と貪欲、魅惑を帯びた退廃とが徐々に広がっていきます。それらは限度なく増大し、国民全体の抑圧、強奪、退廃の源となります。

(つづく)

Japanese translation (C) Society of Saint Pius X


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トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)