マニラのeそよ風

 トップ  >  「マニラのeそよ風」一覧

第53号 2002/10/02 守護の天使の祝日


アヴェ・マリア!

 オプス・デイについての続きです。

オプス・デイの聖ピオ10世会に対する非難について

 知人のオプス・デイにかかわっている信者からは、聖ピオ10世会の関係者とはいっさい接触を持ってはならない、と言われたそうですね。

 「宗教、イデオロギーに関係なく、すべての男性・女性に開放され」(p120)非キリスト者も「オプス・デイとは不可分の固有の会を構成している」ほど「自由を愛する」はずのオプス・デイの方が聖ピオ10世会に反対されているのは残念なことです。

 またオプス・デイの方がなさっているラテン語ミサは、私の知っている限りでは、パウロ6世によって作られた新しいミサです。他方で、聖ピオ10世会がしているラテン語ミサは、聖ピオ5世が列聖し永久に許可した聖伝のミサです。聖ピオ10世会は、ミサの言葉がラテン語であるということよりも(これも重要なことですが)新しいミサの内容それ自体がプロテスタント化したものであるということの方を重大な信仰に関する問題であると考えています。

 オプス・デイには多くの立派で有能な神父様や平信徒の方々が属しておられると思います。最近惜しくもお亡くなりになったマドゥルガ神父様などは、レストランにはいると迷わず必ずカレーを注文され食後にタバコをふかすという、質素で単純で欲のないお姿をされていたことを、私は懐かしく思い出します。もしもオプス・デイの神父様がたが立派であるとしたら、それは聖伝の聖徳を身につけようと努力されるからだと思います。

 しかし、もしもオプス・デイの神父様たちが、多元主義を愛し、第2バチカン公会議の世俗主義を受け入れ、その結果、どの宗教でも人は救われる、私たちの主イエズス・キリストの王としての社会統治は現在必要ない、と教えたとしたら、それはカトリック信仰ではなくなってしまうことでしょう。

 これは筆者の個人的な感想ですが、この場を借りて申し上げることにします。誤解のないようにうまく説明できていることを祈ります。

 それは、残念なことに聖ピオ10世会が創立されて以来してきた「歴代の教皇様たちの教えの尊重」ということは、オプス・デイの方々に必ずしも十分に理解し、よく解釈されているわけではないと思われることです。とくに司牧的公会議であって新しい教義決定をしたわけではない第2バチカン公会議後の教会の危機や、歴代の教皇様たちの排斥してきた多元主義について、残念ながらオプス・デイの方々に誤解があるようです。

 聖ピオ10世会はルフェーブル大司教によって創立されました。私たち聖伝を愛するものは、ルフェーブル大司教に特別な尊敬と愛着を感じています。しかしそれはルフェーブル大司教がカトリック教会の過去2000年の聖伝の信仰の遺産と歴代の教皇様の教えを体現していたからです。ルフェーブル大司教には特別な教えや新しい教えがあったからではありません。むしろそのようなものはありませんでした。ルフェーブル大司教はカトリックの教義をよく知り、自分のことや聖ピオ10世会というよりも、カトリック教会とその聖なる信仰を守ろうと常に考えていました。そして聖ピオ10世会というのはたまたま(天主の御摂理によって)、カトリック信仰を守ろうという努力の結果、天主の摂理がそれを望み、教会に認可されて作られた器だったのです。しかしルフェーブル大司教にとっては器よりもその中身が大事でした。聖ピオ10世会はカトリック教会のいろいろある修道会の一つであり、特別なものでもありません。聖ピオ10世会には「特別の教え」というものがあるわけではありません。

 ですからルフェーブル大司教は、聖ピオ10世会の「創立者」というよりも、むしろ「カトリック信仰の擁護者」として、聖ピオ10世会だけでなく、聖伝を守る多くのいろいろな修道院からも愛され尊敬されています。私たちは、聖ピオ10世「会」のおしえとか、聖ピオ10世会の創立者の教え、というよりも、カトリック教会全体における、聖伝のカトリック信仰の保全を考えています。

 これは読者の皆様にも考えて頂きたいのですが、もしも万が一、或る教皇様が、明らかに、誰が見ても、歴代のカトリック教会の教えから離れ、これに反することを公然としていると思われる時、私たちは何をしなければならないのでしょうか? 特にそのために多くの平信徒の兄弟たちや司祭らが、混乱し、何がどうなってしまったのか分からなくなっている時、司教様は何をすべきなのでしょうか? 多くの方は、例えば、アシジの諸宗教祈祷集会のように。教皇様のアシジの諸宗教祈祷集会の様子を見て、或いはその他のお写真を見て、非常にショックを受けました。

 その時、カトリック司教は「見ザル、言わザル、聞かザル」のお猿三兄弟をしなければならないのでしょうか? それとも、追従、へつらいでしょうか?

 それとも、言ってみれば「トロイの木馬」になって、賛成しているような素振りをみせて権力の座の中に入り込み、自分が権力を握るようになったら教会を自分の思い通りに乗っ取るべきなのでしょうか?

 聖パウロは司教でしたが、初代教皇であるペトロにアンティオキアで皆の前で面と向かって非難したことがあります。(ガラツィア2:11-14)ルフェーブル大司教はちょうどアンティオキアにおけるこの聖パウロのようでした。

 アシジの諸宗教祈祷集会などを見てカトリック者のとる3つの態度が考えられます。

 一つは、教皇様のしていることは何でも正しい、と言う態度です。

 「教皇様がコーランに接吻をしたのなら、コーランに接吻することはカトリック的であることだ。私も接吻する。教皇様がラマダン式断食をするなら、ラマダンはカトリック的だ。私もラマダン式に断食する。教皇様がイスラムに改宗するなら、イスラムもカトリック的なのだ。カトリックもイスラムも同じ天主を礼拝しているはずだ。私も改宗する。」という考えです。

 私たちはこれはあまりにも幼稚で子供じみた態度であり、誤っていると思います。何故なら、私たちは救霊のために真理を信じるのであり、その信仰は天主の権威に基づいているからです。教皇様に従順であるために信じるのでもなければ、信仰は教皇様の個人的な見解に基づいているのではないからです。

 もう一つは、教皇様のやっていることは間違っている、だからヨハネ・パウロ2世は教皇ではない、と言う態度です。これは教皇座空位主義者の取る論理です。(これの亜流が、「教皇様のやっていることは間違っている、だからカトリックは間違いである」という論理です。プロテスタントは、この論理を提案しています。)

 最後の一つは、ルフェーブル大司教と聖ピオ10世会の取る立場で、第1バチカン公会議の決議に従って教皇職の権威の範囲を見極め、第2バチカン公会議を開催した教皇様たちの意向に従って第2バチカン公会議をありのままに見る、現実をそのまま直視するという態度です。そのために、ルフェーブル大司教は聖パウロが聖ペトロにしたように、聖伝と永遠のローマから離れているバチカンを非難したのです。


オプス・デイも非難されていた

 しかし、将来、カトリック教会の聖伝が見直される時、善良なオプス・デイの方々はきっと聖ピオ10世会はカトリック教会の聖伝の教えをそのまま信じているだけなのだ、ということ理解なさることだと思います。

 ドミニック・ル・トゥルノー師はオプス・デイに対する非難がその最初からあったことを書いています。

 「一九二九年以来、オプス・デイに対するいろいろな誤解や無理解が横行したのは・・・オプス・デイの根本的メッセージについての無知の結果であった。・・・ある日、エスクリバー師の著書『道』がバルセローナの修道女経営の学校で、公衆を前にして焼かれた。・・・また創立者は秘密結社フリー・メーソンを撲滅する目的を持った特別軍事法廷に告訴されたが、それは彼の誹謗者がオプス・デイを『ユダヤ教の流れを汲むフリー・メーソン』だとか『フリー・メーソンと関係を持つユダヤ教の一派』だとかと糾弾したからである。もっと後になって、聖座がオプス・デイを終局的に認可してからでも、エスクリバー師はローマの検邪聖省に訴えられたことがあった。」(p50)

 ルフェーブル大司教と聖ピオ10世会も、誤解や無理解のために、善意の方々から激烈な非難や迫害を受けています。カトリック教会の聖伝の信仰の伝達と霊魂の救いと言うことを考えると、これらの迫害のために多くの善が妨害されていると言わなければなりません。しかし福者エスクリバー師と同じことを私たちも言うことが出来るのではないでしょうか?

 「これら善良な人たちは、自分では神のために奉仕していると確信しながら、実は多大の悪を犯していたのである。」(p50)

 「光だけで陰のない絵を描くことが出来るだろうか?・・・そんな絵はないだろう。だから、理解しない人がいるということは有益なことなのだ。」(p51)

 ルフェーブル大司教はカトリック教会の緊急事態のために、それに対応する緊急措置として「生き残り作戦」を行いました。そのためこの「生き残り作戦」には見かけ上、教会法上の問題点が残っているかも知れません。しかしオプス・デイの最終的な法的措置は、1982年のことでした。オプス・デイの創立者はこう言っていたではないでしょうか?

 「今までわれわれは行きたくないところまで行った。しかし、それが神の道であると確信していた。・・・そして万事うまくいくという大きな希望を持っていた。なぜなら、それは教会と社会にとって必要なことだからである。・・・後戻りできないことはない。あらゆる道、人間のあらゆる立場は、たとい何世紀もの長い間辿った道であり支持された立場であっても、取り消しうるものである。」(p79)

 カトリック教会の聖伝が2000年間誤っていたなどということはあり得ません。たとい第2バチカン公会議後の改革が施行されてすでに40年になろうとも、それは不可謬権を行使したものでないのである限り、取り消しうるものです。

 カトリック教会は再び聖伝に立ち戻ることが出来ます。ルフェーブル大司教は見かけ上「不従順」であるかのようなことをしなければなりませんでした。しかしルフェーブル大司教はそれが真の意味でカトリック教会への従順であり、天主の御旨であり、霊魂の救いとカトリック教会の栄光のために必要であると確信していました。

 教会法の最高法は「霊魂の救い」です。法律の字面をコチコチに追っていると「救霊」の妨げになることがあると言うこと、教会法の精神とその目的を汲んで、教会の規則を見なければならないということ、をルフェーブル大司教はよく知っていたのです。

 オプス・デイの方々も、そのことをきっと理解して下さると思います。

 私たちは、ルフェーブル大司教と聖ピオ10世会をこの地上に送って下さった天主の憐れみに感謝します。しかし、私たちにとって最も大事なのはカトリックの聖なる信仰であり、天主キリストの花嫁であるカトリック教会であり、霊魂の救いなのです。

 多くの方が聖ピオ10世会という「緊急救命具」があることをお知りになり、それをご利用されることを願ってやみません。最後にこの質問に答えるために、Le Sel de la Terre誌Nos. 11, 13などを参考にしました。引用ヵ所はそこからの孫引きが多々あることをお断りしたいと思います。


【付録】 オプス・デイについての教皇様への手紙

 「オプス・デイから被害をうけた元オプス・デイのメンバーたち、およびモンシニョール・ホセマリア・エスクリバーの列聖が間近に迫り深く憂慮している関係者たちからの教皇聖下ヨハネ・パウロ2世への手紙」の存在を、或る方が私に教えて下さいました。

 オプス・デイも人間の集まりでありますから、おそらくはその中には誤解があったり、不愉快な思いをされたりした方、傷ついた方もいらっしゃったのかも知れません。不完全な人間の集まりですから、特にそのメンバーの中には罪人もいたし、失敗も罪もあったと思います。私たちの主も教えるとおり、世の終わりまで教会の中には、毒麦が残っているのですから。私たちの主でさも、ファリサイ人には「躓き」になりました。

 ですから、私は、これまでの書き込みには、なるべくそのような部分には触れないで、教義の面からのみオプス・デイの評価をしようとしてきました。

 しかし、そのような無理解や誤解、感情の行き違い、そのメンバーの欠点や過失などを差し引いても、この手紙は、次の危険があることを訴えているように思えます。

 つまり、
 オプス・デイがシヨンと類似していること、
 オプス・デイが(カトリック教会への信仰というよりもむしろ)オプス・デイとその創立者への行きすぎた信心を植え付けること、
 オプス・デイが権力を得るための、オプス・デイ絶対主義とその秘密主義、
 モンシニョール・エスクリバーの知られざる側面が存在していること、
 などです。

 また、最近列聖に関する手続きが代わり、非常に簡単になったこと、列聖に反対する証言をする役割が列聖を推進させる人によって為されるようになったことなどの持つ危険性をも訴えているように思います。

 また、バチカンは、第2バチカン公会議の新しい教えを「列聖」するために、モンシニョール・エスクリバーとその新しい教えをこんなにも早く列聖することを望んでいるようにも思えます。

 ご参考までにここにその手紙の抄訳を付けます。

 教皇様のために、私たちの母であるカトリック教会のために、また、オプス・デイのメンバーの方々のために、多くの祈りをお捧げいたしましょう。

 (ところで、先日、オプス・デイの会憲の192条 「この会憲、既に発布された指導、将来発布されるべき会則、さらにまた会の統治に関するその他のものは、公開されてはならない。さらに「司祭」の許可なしにラテン語で書かれているものを俗語に翻訳してはならない。」をフランス語で読んでいて、何故この「司祭」という言葉に定冠詞(le)がついているのか分かりませんでした。会憲の言う「あの司祭」というのは、一体誰のことだろう、と思っていました。今回この手紙を読み、ああ、つまり「創立者モンシニョール・ホセマリア・エスクリバー神父」のことか、と謎が解けました。)


教皇様聖下、

 私どもは、聖下に私どもの訴えに心を開いて下さるように、そして私どもが深く誠実であると言うことを信じて下さいますように、お願いします。何故なら、オプス・デイとその創立者モンシニョール・ホセマリア・エスクリバーという重大なことについて陳述を聖下にするとき、私どもは真理そのものであるイエズス・キリスト、すなわち、忠実な証人であり、正義の方、人の腎と心を探り、隠されていることの一つもないお方の前で、証人と立っていると言うことを自覚しているからです。勿論、私どもはモンシニョール・エスクリバーが天主と共に平和にいることを祈っています。しかし列聖が彼とオプス・デイを聖性の模範として促進させるのではないかと恐れています。私どもは今、この最後の時に、聖下に訴えます。何故なら、それ以前の全ての努力は無視されてきたからであり、またこの危険は深いものであるからです。福音のため、信徒の良心のため、教会の名誉のため、将来の教皇制度の権威のために、私どもが語る真理を聞き、それに応じて行動されるようになさるべきだと信じています。

 私どもはこの真理が大部分聖下から隠されつづけてきたと信じているので、今、私どもの証言を発表致します。それは聖下がもうすぐ列聖しようとご計画の男を正当化されないにもかかわらず崇敬することによって、また彼が自分自身の像と精神に似せて創った非常に疑問のある組織によって信仰が危険に晒されるということを申し上げるためです。私どもは、深い、そして傷ついた個人的な体験からこれを述べるのではなく、さらに多くの国々にいる、オプス・デイのメンバーとして欺かれ、不当な扱いを受け、非人道的に扱われたものたちの代わりにこれを申し上げます。彼らの多くは、天主の恵みによって、良心の平和のうちに離れることが出来ました。しかし、その他の多くの人々はオプス・デイの内部で大変苦しみ続けています。

 聖なると自称しているこの組織のメンバーは、聖パウロが「天主の子供としての栄光ある自由」という喜ばしい精神のうちに生き、働いているのではありません。そうではなく、マインド・コントロールを受けたキリスト教のパロディーのうちに、彼らが「神父様」とか「私たちの父」と呼ぶ偶像の陰のうちに生きているのです。・・・

 かの有名な回勅(ヴェリタス・スプレンドールのこと)の中で、聖下はこう書いています。「人は生ける真の天主からまなざしを避けそれを偶像たちにやる誘惑を常に受けている」と。教皇聖下、その偶像が、モンシニョールの紫の服を着ている時、善意に満ちた言葉を発する時、自分自身をカトリックの正当のチャンピオンとして提示する時、これは特に本当のことです。たとえ彼が子供を親から離し、社会的名声と名誉とを求め、自分自身を崇敬するように助長し、自分の列聖を促進していたとしてもです。

 教皇聖下、聖下には全く違ったオプス・デイが証言され語られてきたに違いありません。それは疑いのないことです。聖下はオプス・デイを別の側から見てこられました。その熱心さと効率の良さ、その見かけ上の財政的寛大さ、ポーランドにおいて共産主義との戦いを助けたこと、発展途上国における堕胎促進宣伝に対抗する功績。しかし、このような努力は、シヨンという別のカトリック組織の努力を連想させるだけです。シヨンは、1世紀前に高く評価されていましたが、ついには偉大な聖ピオ10世によって厳しく叱責を受けました。オプス・デイにも、シヨンと同じく、叱責の鞭が非常に必要です。オプス・デイの個人の会員が、この組織が、したかも知れない、あるいはしようとしている善は、オプス・デイが既に為した家族の分断、会員の多くの両親を教会から離れさせてしまったこと、オプス・デイの疲れを知らない良心の呵責もないほどの権力と富を得ようとするキャンペーン、オプス・デイの秘密主義と不正を通してそのメンバーに為した精神的ダメージ、非人格化と感情の剥奪を通してオプス・デイが与える心理的ダメージを決して埋め合わせることが出来ません。モンシニョール・エスクリバーはオプス・デイ・メンバーにこうアドバイスをしているのです。「食べて、寝て、自分が存在していると言うことを忘れなさい。」

 オプス・デイは、モンシニョール・エスクリバーの言葉を借りれば、「天主の特に愛するもの」として、「日々の仕事を通して、天主を愛し天主に仕えようとする全ての人種の男性と女性たち」のためにある組織である、と主張がまかり通っているのです。これは「真理の輝き」ではありません。オプス・デイは批判を押し殺し、その会員たちに危険なほどまでの会とその創立者への忠誠を育て、正当信仰の見せかけの陰には、ゆっくりゆっくりと教会統治の最上位まで上り詰めようという意図を持ち、カトリック教会が完全であり一であるということに対する重大な危険となる組織であり、引用した表現は美辞麗句にすぎません。

 私どもは、この組織に反対して立ちます。何故なら私どもは忠実なカトリック者であり、「悪」を「善と」呼ぶこと或いは「善」を「悪」と呼ぶことを拒否するからです。・・・私どもは地上の証人たちの雲として申し上げます。この証人たちの中には、司祭、教授、博士、弁護士、料理人、家政婦などが含まれています。彼らの中にはモンシニョール・エスクリバーを親密に知っていた人々、彼が傲慢であり、意地悪な気質をもっていたこと、彼が称号を時と場所をわきまえずに求めていたこと、彼の不正なこと、彼が貧しい人々に無関心であったこと、彼が贅沢と自己顕示を好んでいたこと、彼には憐れみがなかったこと、オプス・デイを偶像のように扱っていたことなどを証言できる人々が含まれています。

 教皇聖下、残念ながら、聖下はこれらの証人たちの証言をまだ聞いておられません。・・・なぜならオプス・デイとそれに同調するものたちがそれを妨害したからです。信仰促進(別名「悪魔の弁護人」)の仕事が廃止されたので、・・・「では今からモンシニョール・エスクリバーが祭壇に挙げられるべきではないと考える証人の証言を聞こう」という人がいないのです。私どもは真理を恐れていませんし、真理を隠す必要もなければ、それをオプス・デイのようなやり方で秘密のまま死守する必要もありません。ですから私どもの側からだけではなく、広くオプス・デイの側からも証人を招いて下さい。そして誰があえて偽りを証言するかを見てみることにしましょう。教皇聖下、そのようなことをするのは、この手紙に署名した人々ではありません。・・・

 聖下もよくご存じの通り、教会は今悪夢のようなスキャンダルの中を生きています。何故なら、背教の司教や司祭たちが自然に反する罪や子供に対する犯罪に関わっているからです。しかし、これはたとえ恐るべきことでも、この苦難は過ぎ去るでしょう。他方で、モンシニョール・エスクリバーの列聖は、決してそのまま過ぎ去りません。それは天主を侮辱し、教会に永久に汚点を残します。それは本当の聖人たちからその聖なる区別を奪い去り、教皇聖下の教皇在位中の全ての列聖の信憑性を疑問視させるでしょう。そしてそれは未来の教皇制度の権威を損なわせるものです。

 教会は崖っぷちに引きずられ、10月6日が近づくにつれて、ますますそこに近づいています。・・・

署名

From: http://home.earthlink.net/%7Eclasen/letter_pope.htm

---begin forwarded text

Letter to the Pope

A LETTER TO HIS HOLINESS, JOHN PAUL II, FROM FORMER MEMBERS OF OPUS DEI, THOSE WHO HAVE BEEN HARMED BY OPUS DEI AND OTHER CONCERNED INDIVIDUALS WHO ARE DEEPLY APPREHENSIVE ABOUT THE IMMINENT CANONIZATION OF MONSIGNOR JOSEMARIA ESCRIVA

Your Holiness,

We ask you to open your heart and mind to us, and to believe that we are deeply in earnest, for we are aware that in asking you for a hearing on the grave matter of Opus Dei and the canonization of its founder, Monsignor Josemaria Escriva, we speak as witnesses before Truth itself-Jesus Christ, the Faithful Witness, the Just One, who searches the reins and hearts and from whom nothing is hidden. We pray, of course, that Monsignor Escriva is at peace with God, but worry that canonization will promote him, as well as Opus Dei, as a model for holiness. We appeal to you now, at this late hour, because all earlier efforts have been ignored, and because the peril is profound. We believe that the truth we speak should be heard and acted on for the sake of the Gospel, the consciences of the faithful, the honor of the Church, and the future authority of the Papacy.

Because we believe that this truth has in large part been kept from you, we set forth our testimony now to warn you about the danger to the faith posed by unjustified reverence for the man you plan soon to canonize and by the highly questionable organization he created in his own image and spirit. We speak not only from deep and wounding personal experience but on behalf of other people from a great many nations who have been deceived, mistreated, and dehumanized as members of Opus Dei. Many of them, by the grace of God, have found it possible to leave in good conscience, but many others continue to suffer grievously within Opus Dei.

These members of an organization calling itself holy live and work not in the joyful spirit St. Paul calls "the glorious liberty of the children of God," but in a mind-controlled parody of Christianity and in the shadow of an idol whom they call "the Father" and "our Father." We are well aware of your regard for him, and know how shocking and implausible these charges must seem to anyone unacquainted with the darker side of Monsignor Escriva and Opus Dei. But we also know these charges are true. We therefore pray that that truth you praised so memorably in Veritatis Splendor will speak through you even at this late hour and prevent this terrible and unthinkable travesty from taking place.

In that celebrated encyclical, you wrote, "man is constantly tempted to turn his gaze away from the living and true God in order to direct it toward idols." That is especially true, your Holiness, when the idol wears a monsignor's purple, makes benevolent public pronouncements, and presents himself as a champion of Catholic orthodoxy--even as he alienates children from their parents, even as he seeks prestige and honors, even as he fosters a cult of personality and promotes his own canonization.

No doubt, your Holiness, you have both witnessed and been told about a very different Opus Dei. You have seen its other side-its zeal and efficiency, its apparent financial generosity, its help in combating communism in Poland and its contribution to countering pro-abortion propaganda in the developing nations. Yet such efforts only bring to mind the efforts of another Catholic organization, the Sillon, which a century ago won high praise before earning a firm and lasting rebuke from the great Pius X. With Opus Dei, as with the Sillon, the rod of correction is sorely needed. None of the good that individual members, or the organization, may have done or may now be doing can begin to compensate for the terrible harm it has done by dividing families, by turning many parents of members away from the Church, by its tireless and unscrupulous campaign to gain power and wealth, by the moral damage it does to its members through its culture of secrecy and dishonesty, and by the psychological damage it inflicts through depersonalization and emotional deprivation. As Monsignor Escriva advised Opus Dei members, "…eat, sleep and forget that you exist."

Meanwhile, all of this goes on even as Opus Dei claims to be, in the words of Monsignor Escriva, "the predilect of God," an organization benevolently intended for "men and women of all races who endeavor to love and serve God in and through their daily work." This is not the splendor of truth, this is the rhetoric of an organization that goes to extraordinary lengths to suppress any criticism, that cultivates in its members a dangerously intense loyalty to itself and to its founder, that behind its facade of orthodoxy is slowly insinuating itself into the highest levels of Church government, and that represents a grave future danger to the integrity and unity of the Catholic Church.

We stand against this organization because we are faithful Catholics who refuse to call evil good or good evil. Just as the author of the Epistle to the Hebrews speaks of a cloud of heavenly witnesses watching over the children of faith, so do we, your supplicants, speak on behalf of a cloud of earthly witnesses. They include priests and professors, doctors and lawyers, cooks and maids. They include people who knew Monsignor Escriva intimately and who can witness to his arrogance and malevolent temper, his unseemly quest for a title (Marquis of Peralta), his dishonesty, his indifference to the poor, his love of luxury and ostentation, his lack of compassion, and his idolatrous devotion to Opus Dei.

Regrettably, your Holiness, you have not yet heard these witnesses. Neither has any ecclesiastic body in Rome, including the Congregation for the Causes of the Saints, which is charged with separating truth from error in the vital matter of deciding who shall be pronounced worthy to be called a heavenly intercessor. Quite simply, these witnesses have not been heard from because Opus Dei and its sympathizers have prevented it. The office of Promoter of the Faith (or Devil's Advocate) has been eliminated, with the result that, just when there is the greatest need for it, there is no one to say, "Let us now hear from those witnesses who think Monsignor Escriva should not be raised to the altars." And so now, as the days race toward the sixth of October and grave scandal to the Church, it remains for you, Holy Father, to be that Promoter of the Faith and to hear the faithful voices speaking out of that cloud of witnesses.

Having no fear of the truth, having no need to hide it or keep it secret in the manner of Opus Dei, we urge you to invite not only witnesses from our ranks to testify in your presence, but representatives from Opus Dei as well. Then let us see who will dare to swear falsely. It will not be any of those who have signed this letter, your Holiness, for we know that in the perfect will of God the truth we speak cannot ultimately be defeated, no matter how clever the opposition's lies, how artful the masquerade, or how long and persistently the deception has been carried forward.

As you well know, the Church is even now living through a nightmarish scandal because of the involvement of renegade bishops and priests in crimes against nature and crimes against children. But horrifying though it is, that scourge will pass. The canonization of Monsignor Escriva, on the other hand, will never pass. It will offend God. It will tarnish the Church forever. It will rob the saints of their holy distinction. It will call into question the credibility of all canonizations during your Pontificate. It will undermine the future authority of the Papacy.

The Church is being drawn to the edge of a precipice and is as near to it as the calendar is near to October 6. We therefore implore you, Holy Father, as your sheep and God's servants, to draw back, to seek out the testimony that has been kept from you, to reaffirm the mark of the Church as the pillar and ground of truth, and to trust that heaven will make a way out of this terrible difficulty even as it helps you restore the splendor of truth in the beauty of holiness.

In hope and fidelity, we await your answer.

Signed,

Bella Brigata, a group of individuals concerned about the imminent canonization of Escriva, will deliver this letter to the Pope.

For More Information Contact: Catherine Siena at
devils_advocate10602@yahoo.com


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)