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第22号 2002/07/24 聖女クリスティナの記念日

聖女クリスティナ
聖女クリスティナ

アヴェ・マリア!

■ 質問です

 言葉の問題として、天主がよいか神がよいでしょうか。天主にはカトリックの考え方が詰まっています。私も好きです。しかし、そこには戻りません。特殊な事情を考慮しても、天主を生きた自分の言葉として使う人はいずれ、一人もいなくなるでしょう、と私は思います。Deusにしても、元はローマの神話の神だったのではないでしょうか。私たちは、神という言葉を使って、その内包の広さと区別を示すべきではないでしょうか。(或る日本人の神父様から)


■ お答えします

 ご質問ありがとうございました。

 ご指摘下さったように、私も「天主」という言葉には、歴史的に見てもカトリックの考え方がぎっしり詰まっていると思います。何故なら、Deus の訳語として中国語、韓国語で、そしてのちには日本語でも採用され、公教会祈祷文では「天主」という名前が使われたからです。カトリック教会は「天主公教会」として知られ、カトリックの教会の建物は「天主堂」であり、正にカトリック固有の名称だったからです。

 正にこの歴史的な理由の故に、今現在、天主という聖名を使ってはいけないと言うことは出来ないと思います。また「天主を生きた自分の言葉として使う人はいずれ、一人もいなくなるだろう」という推測は、必ずしも正しいものだとも思えません。何故なら、私にお手紙とかメールとかお話しして下さる方でかなりの方が「天主」という言葉を使って下さっているからです。

 ちょうど、カトリック教会が長い間カトリック用語として愛用してきた、カトリックの考え方が詰まっている「イエズス・キリスト」いう言葉が、エキュメニズムとか、普通の日本人には分かりにくい(?)とか、「生きた自分の言葉として使う人はいずれ、一人もいなくなるだろう」とか、という理由で使われなくなったとしても、イエズス・キリストといってはいけない、とは今更言うことが出来ないと同じ理由です。言葉というのは、流行とかがありますから、当局が変わればすぐ変わるものだと思います。例えばリーガン大統領がレーガン大統領になったのも簡単でした。ロシアがソ連になり、またロシアにもどったという例もありますし、Peking と表示していた北京がいまでは Beijing と表記されています。

 また言葉としても、カトリックの方や非カトリックの方が日本語の「神」という概念はキリスト教の God とは違う、と書いている文章をいろいろ読んだことがあります。漢字としては「神」は「霊」という意味であり、中国語や(つい最近までの)韓国語では、例えば聖霊のことを「聖神」と訳しています。今手元にそれらの資料を持ち合わせていないので全て引用することが出来ませんが、一例を挙げれば日本で長い間働かれたセラフィノ・フィナテリ神父様は「キリスト教の常識」という著書の中でこう書いています。

「神」か「天主」か

 多くの日本人は、人は死ぬと神になると考えているようだ。神社にまつられている英雄や偉人、一般お人の場合でも神式のお墓の前にある鳥居が、このことを物語っている。これが仏教にも取り入れられて、死んだら仏になるという成仏の思想になったのだろう。この思想が仏教本来のものとは、わたしには思えない。いずれにしても、日本人にとって神と人、人と自然、神と自然との差は、突き詰めていくとあまりさだかではない。この場合の神は、聖書のいう「神」とはずいぶん違う。日本語の神は、カミ、すなわち上のものをさすと聞いた。上というのは相対的な概念である。聖書の神のような絶対神ではないのである。私たち宣教師が日本で一番困るのが、このことである。キリスト教の信仰について知らない人が教会を訪ねてくる。キリスト教については知らないが、その人は「神」については少なくとも漠然とは「知っている」と思っている。その人と私は神について語り合う。議論もする。だが、どうしても噛み合わないことがある。当然だ。同じ「神」という言葉を用いながら、違う概念で話し合っているのだから。16世紀の最初の宣教師たちも、同じ問題に直面したようだ。それで彼らは誤解と混乱を避けるため、最初「神」の代わりに「大日」という言葉を用いた。この方がまだ、唯一の絶対神の概念に近いと思ったからだ。ところが、この「大日」は俗語で淫猥な意味を持っていることを知って、廃止しなければならなかった。代わりに採用したのが、中国で用いられていた「天主」である。この言葉はつい最近まで、日本のカトリック教会では広く一般に使われていた。私は今でも「神」よりも「天主」のほうが、正確な意味を伝えられるのではないかと思っている。」(p31-33)


 私は、正に「神」という言葉の内包の広さ故に、また現在のエキュメニズムの混乱故に、誤解と曖昧さを避け、日本人が絶対の創造主を正しく理解するのを手伝うためにも天主という言葉をなるべく使っていくのが良いのではないかと思います。


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)