第20号 2002/07/18 聖カミロの祝日
アヴェ・マリア! ■ 質問です ガイア理論というのをご存知ですか? 地球交響楽という映画が密かなブ-ムになっているそうです。女子パウロ会のHPでも推薦していました。でも、これって、ニュ-エイジじゃないのでしょうか? イエズス・キリストの十字架の贖いが必要ではなくなってしまうのではないでしょうか? どうして、クリスチャンの方が推奨されるのか、理解に苦しむのですが、こういう流れを神父様はどうご覧になっていらっしゃいますか? 神父様の見解を伺えれば、幸いです。 ■ お答えします ガイア理論というのも存じませんでしたが、女子パウロ会のホームページを拝見して、読んでみました。私が理解する限りにおいて、ガイア理論というのは、ご指摘の通りニューエイジの理論だと思います。 これによると、「“母なる星地球(ガイア)”の大きな生命の中に生かされている、という事実が実感できなくなって来た」ことが「我々の時代の不幸、そして危険」であり、その理由の一つは、「最近の技術文明、物質文明のめざましい進歩で」、「もう一つの大きな理由は、私達に“死”が見えなくなって来た、という事で」あるといいます。「(最近の技術文明、物質文明の)進歩のおかげで、私達は、生きることのほとんど全てを自分たちの力でコントロールできる、と思い始めています。・・・“母なる星地球(ガイア)”の生命さえ、コントロールできるかの如き錯覚を抱き始めているのです。これは、とても危険な兆候です。」 この理論は、確かに、現代の社会が問題を抱えていると言うことを指摘していると思います。人類の傲慢がこの問題の根底にあるのだと思います。ところでこのような問題を「解決」しようとして、人類は近代にいろいろなことをしました。私の思うには、ガイア理論はその最後の試みの一つであるのでしょう。しかし、これは本当の解決にはなってはいません。現代社会の問題は、人類が天主に逆らっている革命から生じているのであって、本当の解決は真の天主に立ち返ることだと思います。 このことを理解するために、人類の天主に対する反乱の近代史を少しひもとくことにしましょう。 1517年、マルチン・ルターは「聖書」を片手にカトリック教会を不必要だとし、いわば自分で聖書を解釈する個人主観主義の宗教を創り、自らがいってみれば「教皇」となりました。ルターの影響を受けて、カルバンは「お金を儲けて豊かになることが、天主から予定され選ばれた印」というプロテスタント主義を説き始めました。こうして、かつてのカトリック教会の創っていた家族的な共同体は、資本と富を中心とする近代資本主義へと変質していきました。 近代人は1517年、第一にカトリック教会に対して反乱(プロテスタント宗教改革)を起こしましたが、1789年、第二にカトリックの王に対して反乱(自由主義・民主主義革命)を起こしました。1789年のフランス革命と呼ばれる自由主義革命は天主にたいする反乱であり、天主が認め、天主の代わりに、人民のために天主の地位を占めていた王に対する反乱でした。1789年の革命は、人間の自由を邪魔する天主を打ち倒し、自由を女神と崇め奉った背教の革命であったといえます。1789年の革命はさらに、全ての人に平等を約束し、全ての特権を廃止した革命でした。 そして、その次に経済的自由主義革命を起こしました。これは近代人の第三の反乱を形成します。この第三の反乱とは人類共同体に対する反乱といえます。 経済的自由主義というのは、その「科学的仮説」の仮面をはがいてみると、つまり、天主の掟のない、政治的権威のない、社会生活を送る、送りたい、と言うやはりいにしえのサタンのあの叫び、「私は従わない! Non serviam!」のこだまであるといえます。 経済的自由主義はまず天主の掟とカトリック教会の掟からの解放をめざします。その反対に、天主の掟は人間の原罪に傷ついた欲望を方向付け、規定し、緩和させ、人間を獣のような欲望と利己主義、個人主義の傾向を、天主へを愛するが故の隣人愛へと秩序付けていたのですが、これを振り払います。 経済的自由主義は、その次に国家からの政治的自由を勝ち得ようとするのです。何故なら、政治的権威は個々人の利益を全体の共通善と言うより大きな必要へと秩序付け、個々人の利益を、国全体の利益のために犠牲にさせるからです。政治的権威のおかげで、個々人の利益よりも、国の中のある程度の釣り合いや、国に必要な安定、また個人の利益に優る正義というものが尊重され、確保されるので、自分の利益だけを考える個人主義者には都合が悪いのです。皆にとっての善よりも、個々人の自由と利益を自覚し、優先する利己主義者にとっては、政治的権威は必要ないのです。 この2つの権威から解放されさえすれば、物質的な社会的権力、財政力は、邪魔者なく発展することができるはずだ、と考えるのです。より大いなる利益、より大きい儲け、より大きな市場の支配、物品の蓄積を、自由に際限なく追求できるのです。そして、これらの経済力、財政力によって、権力、名誉、そして他人の良心さえも買うことができるでしょう!地獄の沙汰も金次第と笑う声が聞こえてくるようです! これが、現在の物質中心主義的な「文明」だといえるのではないでしょうか。そして、この考えの背後にあるのが、「豊かさは天主様からの祝福のしるし!」とする昔のタルムード的な考え方であり、それを受け継いだ、アングロ・サクソンのカルヴァン的なピューリタン的なものの見方です。経済的自由主義は、実にプロテスタント主義から生じ、これはキリスト教的愛の文明を軽視し、その上の勝利を誇ったものなのです。以前、カトリック的キリスト教世界には存在しなかった、このような態度が現れたのは、ルターに始まるプロテスタント主義の出現を待ってのことでした。 資本主義体制の中で、プロテスタント主義は、この個人の自由を、宗教に限らず、政治経済にまで拡張し強調するシステムを確立させたのでした。このような考えは後に経済学者たちによって、自由放任主義(laissez faire)と呼ばれ、ピオ12世は厳しく排斥しています。 経済的自由主義の結果もたらされたのが、情け容赦ない弱肉強食の世界でした。 人は貪欲と、利己主義と、無制限の競争に駆り立てられ、支配されだしたのです。個人の利益のみをひたすらに追求するこの個人主義システムは、人間の社会的な性質を全く無視し、国家が持っている皆にとっての善を追求する権利と義務とを否定する全く非人間的なものでした。お金が全てという、宗教も、天主も、法律もないけもの道において、良心の声などには耳を貸さず、できるだけ狡猾に立ち回り、欺き、騙し、不正を働き、まんまとかすめ取り、最も強烈に、乱暴に戦い抜き勝ち抜いたものだけが生き残ることができることでしょう。 全ての制限と束縛から解放され、如何なる道徳律をも無視する億万長者の大金持ちたちは、すぐに手に入る物質的な利益にのみによって動かされ、彼らはこの現代社会をそれを許すように構造付けているのではないでしょうか。 経済的自由に血迷ったこの「学説」は、自然な人間らしい釣り合いのとれた生活を根本から打ち崩すものだったといえるのではないでしょうか。カトリック教会の教えた自然の摂理にあったキリスト教世界はこうして壊され、プロテスタント的自由主義が生み出した世界は、人を人に対して狼と変えたのです。 こうして、フランス革命などに代表される自由主義革命の前に存在していた、家庭・共同体・ギルドなどの自然な人間共同体は、個人個人に散り散りに砕かれ、廃止され、追放され、秩序ある政治秩序も、兄弟愛ある助け合いの神秘も打ち捨てられたのでした。 その結果、自然淘汰により、少数の手に莫大な富が集中しだしました。中産階級は、宗教と国家との保護を奪われ、このシステムが認める自由競争の渦に巻き込まれ、敗れ去り、より強いものがさらに強くなり、より多く持てるものがさらに多くを持ち、強者は市場をますます支配し、経済を支配し、吸収合併し、連合し、国境を越えて多国籍企業となりました。彼らは、自分たちの企業の利益のためなら何でもすることでしょう。強者は、自分だけの繁栄と自分だけの利益のためにのみ全てを利用し、自分の享受するその特権を貧しい人には与えないでしょうし、もしも与えるとしたら、それは自分の利益になり、自分に都合がいいからです。 経済学という「学問」によると、「市場」とは、純粋な単純な経済的力の集まるところです。これらの経済的力には、如何なる人間的顔も、抑制力も、ブレーキも、服従も、道徳的牽制も、遠慮も、何もありません。個人主義者・自由主義者の目から見れば、「市場」には家族も国も宗教も何もないのです。彼らによれば、世界全体は自由市場と化さねばならないのです。その時、全ては商品化してしまうのです。人は全てを金で売ることができ、全てを買うことができることになります。その時、進歩とはもっと多く売ることができるようにより多くの製品を生産し、もっと多く儲けることになります。その時、進歩とは、もっと多く消費するためにもっと多く買うことができることにあることになります。だからもっと物品の交換を盛んにしなければならなくなるのです。物資のやり取り、物品の生産、資金の運用を爆発的に加速させ増大させることです。全てを小品とし、宗教と文化さえも商品と化すのです。 その結果、大量消費社会が生まれ、無駄遣いの「文明」が生じました。そして世界中の自然資材を焼き尽くし、無くし尽くしていると言えるのではないでしょうか。 自由主義経済によれば、「市場経済」によって「市場経済」のおかげによって、全ての人は、満ち溢れる物資に囲まれて、自分の欲求と欲望とを満たすことができるようになる、といいます。つまり、リベラルな「進歩」というのは完全に天主を排除した、人間愛に基づくもの以外の何ものでもありません。 この理想は、人間の個人的な利益と情念と欲望と妬み、そして傲慢に追従し、人間をおだて上げるものです。人はおだて上げられてこの理想の幻影の後を追い、この理想の追求の邪魔となるものは全て排除しようとします。彼らによれば、この理想を妨害する反動的勢力の思想は粉々に砕かれ、捨て去れねばならないからです。 ですから、カトリック教会がかつて作り上げたキリスト教世界、つまり、田舎の土地に根ざした、大家族の共同体的な生活がまず最初に犠牲になったのです。工業化と産業の進歩のためにはこれらは崩壊されなければならなかったからです。これのために、まず英国で囲い込み運動(enclosures)が起りました。フランス革命後の反カトリック的なフランスでは、地域共同体(コミューン)の所有地が没収されました。そして家庭的な家族生活が営んでいた田舎での生活は突然暴力的に廃止に追いやられたのです。 これに引き続き、田舎は過疎化が進み、都市に人口は集中しました。家庭的なオイコノミア、家族的な賢明な物資の利用は打ち捨てられ、人は都市に住み移る際に「労働人口市場」へと商品となって溢れていったのです。 近代の経済的自由主義の発展に伴って、個人主義的なプロテスタントの資本家は、労働組合や民衆の愛国的な宗教的な覚醒さえも、新しい社会組織が生じるのを、市場の絶対の自由を妨害する限りにおいて、妨害しました。進歩のために絶対必要な完全な自由を邪魔するものは敵だとみなされたからです。 産業物資の満ち溢れる豊かさと、大量消費の無制限な増大の陰に犠牲になったものがあることに多くの人はようやく気付きだしました。(ガイア理論の主張者とか60年代のヒッピーとかはそれに気がついた人たちかも知れません。)しかし、私たち人類が失ったものは、人類の天主と天主の立てた地上の権威に対して反乱を起こした当然の結果でした。 人は「自由!」と叫べば叫ぶほど、自分はその「自由」の奴隷となり、本当の自由を失っていったのです。市場活動を第一にしたため、その他の人間らしい生活は全て犠牲になりました。家庭生活、宗教生活、近所づきあい、国家への愛、皆のために奉仕し犠牲する心などは、顧みられなくなったのです。何でも所有したいという情念、もっと儲けたいという情念のために、人間は人間であることを放棄してしまったかのようです。 もし、この物品の自由な交換と、契約を自由に結ぶことが、天主を恐れ、掟に従う自然な人間的共同体のうちで働いているのならば、この自由な物品の交換と契約の自由な取り決めは、そのまま、家族的な賢明さと、道徳、正義、キリスト教的な愛徳によって、押さえられ抑制され、文明的なやり方を維持していくことができるでしょう。 かつて教皇レオ13世が「(カトリック教会は)この体制を、正義に従って組織することに全力を注いだ」(ピオ11世)と言われましたが、このことを指しています。 この地上の人間の人生は、天主の超自然の要素と自然な要素とから織りなされており、そこには神秘的な調和があります。人はこの調和のあることを知り尊重しなければなりません。天主は不敬虔な者どもを罰したもうからです。自然は不賢明な者どもに復讐します。社会は兄弟を愛さないもの(偽兄弟)に逆らいそれを排除します。天に唾吐く者は、その唾を自分の顔に受けるでしょう。 天主の立てた教会と、自然的な政治的国家との権力から逃れようとした「自由」の観念は、ついには自らを滅ぼすその原因となるのです。 かつての伝統的なカトリックのキリスト教世界において、その最も大切な生命力は賢明に行使された家族の利益でした。家族という最も人間に基本的な格の利益を、そしてその隣人たちの利益を賢く追求しました。 自由主義はそれに取って代わって、自由市場に起きる最大利益を個人が自由に追求させます。そこでは金が絶対です。金が全てを決めます。 しかし私たちの主イエズス・キリストは言いました「たとえこの全世界を儲けても自分の魂を失っては、一体それが人に何の利益となるだろうか???」 現在世界が享受している、物質的生産力のすばらしい増加や、生産手段のさらなる完成と精巧化、投資した資本量と運用力の増加、市場の機能のすばらしい発展、電話一本での信用取引、小切手、プリペイド・カードの登場、個人的な需要の満足、金さえあれば狂気に至るほどの所有欲、肉欲、支配欲の満足さえ得られること、これら全ては経済的自由主義のおかげでもたらされました。 さらに電子マネーも普通になるでしょうし、経済活動は高度に組織化されるでしょう。人はますます自由に楽に便利に物資の交換をすることができることでしょう。しかし、経済的自由主義のなした汚点はさらに深刻です。 人間の社会生活の規定する経済以外の要素を組織的に破壊してしまったからです。唯一残存する掟は「利益の掟」です。「収益力を強くしてこそ、「経営哲学の競争」に入ることができる」からです。何という頽廃でしょうか! こうして社会そのもの自体が、誰からも擁護されず、崩壊に向ってしまうでしょう。 問題は科学技術が余りにも高度になりすぎることにあるのではないのです。問題は、現代科学が「かけがえのない地球」を汚すことにあるのでもありません。経済的自由主義は、今日までそれに対処する技術を思いついてきました。現代の高度技術を使えば世界中の砂漠を緑にすることさえできます。(ただお金がかかるからやら(れ)ないのです。) 問題は、お金儲けでない全ての勢力を全て満身の力を込めて破壊し、打ち砕き、利用し、搾取しつくことにあるのです。そして、お金が全てを測る物差しとなっていることです。 経済的自由主義は、位階秩序のない世界です。デカルトは位階秩序あるこの世界をただ平たく精神と延長とに分けましたが、経済的自由主義は、金と人と直接に結びつけます。 経済的自由主義によれば、この世界に介在するのは国境も家庭も宗教もない金と人だけです。全ては金で計られ、それは、隷属状態の交換をつくりだすのです。そこでは「お客様は神様でございます」であり、金が全てとなってしまうのです。 消費物を作ろうとするものは、金は高い利子を付けられてお金を借り入れ、生産物によって得た利益によって利子を払います。資本のある者は、何もしなくても金だけを持っていることによって儲けることができるのです。自由主義経済学とは自然な経済活動の上に寄生する、自己の最大限の利益を求める資本家のシステムであると言えるのではないでしょうか。 このシステムによって搾取され利用されている者たちが、この「完全犯罪」の仕組みを将来知ることになるだろうとは、もう分かり切ったことでした。実際、19世紀のプロレタリアや、20世紀の第三世界の国の人々はそのことを知ってしまいました。彼らは連帯を組んで低賃金を改正して欲しいと要求しだしました。賃金の改正から、石油の値段の改正、鉄道運賃の改正、電話料の改正・・・もはや、資本家はその支配力を維持できなくなり、誰も思うように儲けることができなくなったかのように見えます。 たしかに今では、資本家のための資本主義は幕を閉じました。かつての本当に人間らしい共同体生活の代わりに成立した、名ばかりの自由・平等・兄弟愛の時代は終わりました。 ヨーロッパ・プロテスタント諸国でここ2世紀の間に起こったことは、騙された人民がこの偽善的システムを転覆しようとしたことでした。そこで、ストライキ、革命、独裁、外国企業の国有化などが起こったのです。 資本主義は金にならないものを全て絶滅に追いやっておきながら、後に金では買えないものがあることに気付きそれを金で買おうとするのです。だから「専業主婦」にも、出産率にも、市民の美徳も、軍人の名誉も、順法精神も、何でもかんでもお金を出そうとするし、お金で解決を付けようとしか考えられないのです。 「湾岸戦争で、私たちは安全がタダでないこと、命をはった人間の努力が世界の安定を支えていることをイヤと言うほど思い知らされたのではなかったか。そして命がお金に換えられない以上、『人的貢献』は日本の義務であることを学んだのではなかったか。湾岸戦争後、日本のある自衛官が、日本人も、湾岸戦争に寄与した、赤ん坊も含め国民一人当たり一万円の負担をした、と力説した。これを聞いたアメリカ軍の将校はポケットから100ドル紙幣を取り出し、これをやるこらオレの変わりに戦ってくれと言い返したという。」(藤岡信勝『屈辱の近現代史』徳間書店pp233-234) 近代資本主義の矛盾を解決するためには、人々はカトリック教会とその教えに立ち戻らなければなりませんでした。しかし、彼らはその代わりに「社会主義」を考え出して、これに解決を求めました。 社会主義の起源は、メソジストの教えから息吹を受けたものでした。英国聖公会の「エスタブリッシュト・チャーチ」は、もちろん聖書に従って、富は天主様から祝福を受けている確実な印である、とあまりにも説教しすぎたからです。英国聖公会は、宗教の色を付けて有産階級と手を結び、貧しいものの搾取に目をつぶりました。この反動として起こったのがメソジストでした。彼らは聖書の別の読み方をしました。とは言ってもやはり同じユダヤ教的な考えで聖書を読み、この地上的な、肉的な読み方をしていたことには変わりありませんでした。 メソジスト主義は、貧しいものへの救いを告げ、悪しきこの世の圧制からの解放を訴えました。メソジストの教えは来るべき王国へと貧しいものの期待を向けさせました。この王国では、正義と全くの平等のうちに全てが、美徳のおかげで繁栄するだろうと。 社会主義は、おとぎ話的な、メシアを待望する民衆の反乱でした。よりよい世界というユートピアの世界を夢想し、社会主義を吹聴する者どもの「預言」に騙され、人民は担がれ、現実に実現不可能なユートピアのために立ち上がりました。社会主義は、自由経済システムの中に隠されている不正義の原因を探るのに確かに優れていたかもしれません。しかし、やはり自由主義と同じ平等と兄弟愛の夢の中に埋没してしまい、この夢の中に解決を探そうと無駄な努力をすることになったのです。 フランス革命の自由、平等、博愛を追求しつつ、特に「平等」を実現させようと、社会主義者は血眼になりました。彼らの見つけた最終の敵は「個人的所有物」でした。彼らは資本主義社会の諸悪の根元がそこにあると信じ、この個人的所有制度を廃止しようと計画するのです。 新社会主義者は、「個人的権力」さえも廃止しようとします。個人は事業を興すことも、投資をどのように方向付けるかも、どのように計画するかも、その力を剥ぎ落とされることでしょう。彼らは資本主義のそのど真ん中をつくのです。彼らによれば本当の経済的民主主義は、生産のあらゆる手段・資本・土地は共同のものとなり、労働者は下から最高の地位にいるものまで事業の運営に参与し、人民は国の全ての経済活動に参与しなければならないとします。 所有物の平等は更に富の公平な分配を要求します。そのために社会主義では収入・利益の再分配が続けられなければならないのです。この社会主義的要求を満たすために、市場は完本的に廃止されねばならない、とされます。解放された人民は、もはやお金を持つ必要がなく、人々の心から「利益」という観念が絶滅されねばならない、と主張されます。人々はものを自由に買ったり売ったりすることはもはや無いでしょう。そうすれば、彼らは利己主義的な自分だけの利益を求めようとすることはなくなるからです。その代わりに、彼らは集団の利益を求めるでしょう。そうした暁に「共生社会」という社会主義の理想が出現するでしょう。 社会主義は、資本主義よりもさらに酷く人間の本性に逆らい、今度は人間の経済活動そのものを廃止しようとします。全てを金の測りで見るように変えてしまった資本主義の「基本装置」である市場を打ち砕き、その流動要素である金を消滅させ、資本主義の主要な原動力である「個人の利益」を絶滅させようとするからです。 ヨーロッパ・キリスト教社会で成立した伝統的な、極めて人間的な、大層自然な、人間の共同体、真の意味での共生共同体の関係は、資本主義によって粉々に砕かれましたが、それでもその社会の絆の要素の一つであった「市場」は保存されました。 社会主義革命によってそれさえも廃止されたら一体何が、一体どんな人間らしいものが残るというのでしょうか。 社会主義は、政治的・経済的に無責任に、幻想によって生きています。社会主義は、情念もなく、コントロールしなくてはならない情欲もなく、米を食わなくても済む肉体を持っているかのように、人間を考えているからです。いわば、かすみを食べて生きている仙人のような人々の寄り集まりで社会が構成されているというユートピアの上に社会を作ろうとしているのです。そのような人間像のもとに全ての社会秩序を、生産機構、経済的構造、交換の規制などを、構成しようとするのです。 そのために社会主義者は全ての権力を国家に帰属せしめます。民主主義を盲目的に信じたその結論が、その信仰の完全な論理的結果が、政治的全体主義なのです。 フランス革命に代表される自由主義革命によって、全ては資本主義の利益のために没収され、ブルジョアジーの時代が来ました。更に、この民主主義革命を完成させるために、人民は国家に全ての権力を与え、その国家によって人民は統治され、裁かれ、管理されるようになるのです。 国家は、社会主義者によれば、人民から由来し、人民によって統治され、国民全体の保護者であり、誤ることがないことになっています。ブルジョアジーに委ねられていた経済的権力は必然的に悪であり、人民に権力が委ねられれば、全ては正しくなり、全ては正義となる、と主張しています。それが、彼らの「信仰」です。 「社会主義的な・自由の・平等の・兄弟愛の社会を建設するのだ。はたしてそれが本当に実現できるのか、機能するのか、そのようなくだらない問題にかまっている暇はない!!」と彼らは言うでしょう。 彼らは個人の所有を廃止します。また、個人的な経済的運営の権力も廃止します。全ては国家のものとなり、国家が唯一の所有者となる。国家権力だけが全ての経済活動のもとであり、それが全てを決めるのです。株式相場も、最高の利益の追求も、需要と供給との調和も、競争も、無秩序な事業開発ももはや無くなるでしょう。国家は、官僚機構によって統制され、テクノクラートが生産の様式から計画、開発、全てを取り仕切るでしょう。高度の情報組織と技術によって人間集団の必要を測定し、過不足無く、資源の浪費もなく、全ては管理されるでしょう。こうして、社会主義国家は「神」となるのです。 20世紀の人類の壮大な社会主義の実験は、彼らの目指していた「自由・平等・兄弟愛」が何かを我々に見せつけてくれました。それは、飢餓であり、貧困であり、死という悲惨な現実でした。党と一体化した国家、全てを牛耳る、全てを搾取する国家は、国の全ての富と自由を独り占めにし、人民にその中から奴隷の受ける秩序と平和のみを与えるだけだったのです。 社会主義の巨大組織は、あまりにもコチコチで固く、その構造は既に化石化し、需要に供給は追いつかず、あそこで不足があるかと思うとここでは過剰があり、全ては無責任となり、全ての製造段階で、全ての階級で、横領・詐欺・汚職がなされ、その腐敗は社会の隅々にまで深く根を張りました。 この腐敗と貧困と絶望を根絶しようと、イデオロギーの統制と圧迫、外国からの全ての情報と活動の禁止、恐怖政治、反動分子の強制収容所への投獄、粛正をくり返しました。 社会主義、それは地上に出現した地獄となったのです。 社会主義が、正常な知性から見て、足りない、狂ったものであることは明らかです。資本主義の足りないところを、国家主義の無能と不治で癒そうとしても無理な話だからです。 「プロレタリア独裁」によって自己統治の計画された「無階級社会」が到来すると言いふらすことは、資本主義の強化によって全てに溢れるばかりの物資と自由と幸せが来ると、自由主義が言いふらしているうそと同じ類ではないでしょうか。社会主義は、民主主義という「宗教」によって、人民を貧困と奴隷状態へと追いやっているのです。 しかし、よく考えると、資本主義も社会主義も共産主義も、人類から天主を取り除こうとする革命なのです。 カトリック(天主の選んだ教皇による統治)からプロテスタント(人民の選ぶ牧師による統治)への反乱は、一君君主制(天主の選んだ王による統治)から、リベラルな秩序(人民の選んだ人民である大統領による統治)へのすり替えを引き起こしました。そして、この自由主義革命の道を完成するために、社会主義革命が生じたのは当然だったように思われます。 そうです、資本主義も、社会主義も、共産主義も都度のつまりは同じ革命なのです。人間が、天主に逆らい、王に逆らい、ついには自分自身に逆らうのです。 「資本主義発展は、何よりもまず封建社会の制度的仕組み――荘園、村落、職人ギルド――を破壊した、というより、その破壊を大いに促進した。この過程の事実とメカニズムとはあまりにも周知のことに属するから、これに立ち入る必要はあるまい。破壊は次の3つの形を取った。 職人の世界は、主として資本主義的企業者から来る競争の自動的効果によって破壊された。萎縮していた組織や規制を排除しようとする政治運動は、原因というよりもただその結果を登録したものにすぎなかった。 領主や小農民の世界は、主として政治的――或る場合には革命的――活動によって破壊された。その際、資本主義はただ、例えばドイツの荘園組織を大規模農業生産単位に転化せしめるごとき、適応的な変形過程の進行係を務めたにすぎなかった。 しかしこれらの産業革命や、農業革命と共に、立法当局や大衆世論の一般的態度もこれに劣らぬ革命的変革をとげた。古い経済組織の瓦解につれて、今までその社会で指導的役割を果たしていた階級や集団の経済的・政治的特権、特に土地を所有する貴族や紳士および僧侶の租税免除や政治上の特権も消滅した。 経済的に見れば、全てこれらのことは、ブルジョワジーにとって多くの束縛の打破と多くの障害の除去とを意味した。 政治的に見れば、それは、ブルジョワジーが卑しい臣下であったような秩序を、その合理主義精神とその直接的利益に一層有利な他の秩序に置き換えることを意味した。 しかし、今日の目からその過程を検討すれば、観察者はかくのごとき完全な解放が、結局のところはたして、ブルジョワジーや彼の世界にとって良いことであったか否かの判断に苦しむかも知れない。なぜならば、これらの束縛は、ただ単に邪魔者であったばかりではなく、それどころか擁護物でもあったからである。先へ進む前にこの点を慎重に究明し、正しく評価しておかねばならぬ。 資本主義的ブルジョワジーの勃興と国民国家の誕生との相関的過程は、16、7、8世紀において、両棲的――それとても、他の全ての場合と同程度に両棲的、ないしは過渡的であったにすぎにが――と見えるかも知れないような社会的構造を生み出した。・・・ 王、法廷、軍隊、教会および官僚は、資本主義過程のつくりだした収益に依存して生活する度合いがますます大となり、封建的な所得源泉でさえも、同じ時代の資本主義発展の結果、増大することとなった。内外の政策も、制度的変革も、ますますその資本主義発展に適応するごとく、かつそれを促進するがごとく形成された。このようになされている限りにおいては、いわゆる絶対君主政体の構造の中における封建的要素は、ただ隔世遺伝の項目にはいるにすぎないものとなる。・・・しかし、一層仔細に見れば、これらの封建的要素が、隔世遺伝の項目以上の意味を持つことが分かる。 いわゆる絶対君主政体の構造の鉄の骨組みは、なお封建社会の人的要素からなっており、この素材は、なお、前資本主義的類型に従って行動していた。こういう人が国家の役所を満たし、軍隊の幹部となり、政策と立案した。そして彼らは、支配階級として活躍し、ブルジョアの利害をしんしゃくしていた、とはいえ、なお自己をブルジョアジーとは切り離すことに留意していた。 その中央高く位する王は、天主の恩寵によって王たるものであった。彼の地位と基礎は、たとえ彼が資本主義の与えた経済的可能性をいかに多く利用したにもせよ、なお歴史的意味のみならず、社会学的な意味においても、以前として封建的なのもであった。 全てかようなことは、隔世遺伝異常のものを意味した。それは2つの社会階級の積極的な共棲であった。その1つ(資本主義)は疑いもなく経済的に他のもの(封建的要素)を支えたが、そのかわり他のものによって政治的に支えられていた。我々がそのような仕組みの長短をいかに考えようとも、またブルジョア自身が当時もしくは後にいたって、それについて――また貴族的穀潰しや、あるいは怠け者について――いかに考えたにもせよ、それがその社会の本質であった。 その社会のみがそうなのであろうか。 イギリスの場合によって最もよく例証されるような、これに続く事態の進行がその答えを暗示する。すなわち、貴族的要素は、まさしく無束縛にして利発たる資本主義時代の終わりに至るまで、社会の主人たるの地位を保ち続けた。・・・ ブルジョア階層のうち経済面を担当する人々も、これに対して対した反抗を示さなかった。・・・彼らがそれに反逆した場合、または反逆することなく、政治の中軸を乗っ取った場合でも、ブルジョア階層は、支配することに目覚ましい成功を上げはしなかったし、それに耐えうるとの証拠をも示さなかった。・・・ ブルジョアジーが支配せんと企図しつつも、なおフランスやドイツの経験が示すように、失敗したことには、一層根本的な理由がある。・・・ 産業家や商人については、・・・彼のまわりには、人を支配するにふさわしい神秘的栄光の片鱗さえも見られない。・・・産業家や商人が企業者である限りは、また指導者の機能をも果たすことは、既に見たところである。しかし、このタイプの経済的指導者は、中世貴族の軍事的指導者のごとく、国民の指導者にまではおいそれとは発展しないものである。反対に彼らを熱中させ、没頭させるものは、元帳と原価計算である。 私は前にブルジョアを、合理主義者であり、かつ、非英雄的であるといった。彼らは、ただ自己の地位を守り、国民(nation)を自己の欲するごとく向かわしめるために、合理主義的かつ非英雄的な手段しか用いない。 なるほど彼は、国民が彼の経済的成果から予期するであろうものを通じて感銘を与えることができ、係争に当たっては自己の立場を主張することができ、金の支払いを約束したり、それを控えるといって脅かしたりすることができ、人夫頭や政治家やジャーナリストなどの怪しげなサービスを雇い込むことができる。だがそれだけのことであるのに、その全てについて政治的価値が多いに課題評価されている。 そしてまた、ブルジョアジーの経験は社会習慣は、その個人的魅力を増大せしむる様なものではない。営業事務所内での天才も、これを一歩出れば――社交室においても、演壇においても――全くの意気地なしという他はないかも知れないし、現にそうである場合が少なくない。彼はこのことを自覚している場こそ、自分にはかまわないで貰いたいと念願し、政治にかかわりたくないと思うのである。・・・商人の共和国は、国際政治の大きな勝負では常に失敗したこと、およびそれは、ほとんどあらゆる緊急事態において、封建的色彩の強い戦争貴族に統御権を譲り渡さねばならなかったこと、これである。 帰結は明白である。すなわち、例外的事態を除けば、ブルジョア階級は、何らかの重要性を持った国ならば普通に直面せざるを得ない内外の問題に当たって、これを上手く処理する資質を備えていない。ブルジョア自身も、それを否定するかに見える一切の言葉遣いにもかかわらず、このことを感じている。大衆もまたしかり。 ブルジョア的素材以外のもので造られている保護的骨組みの内部にあっては、ブルジョアジーは、政治的防衛のみならず攻撃、ことに反対者としての攻撃、においても成功しうると言えよう。しばらくの間は、それが非常に安全だと思われるので、勢いをかって保護的骨組みそのものを攻撃するに至るような余裕も出てくる。・・・しかし、非ブルジョア的な何らかの集団による擁護がなければ、ブルジョアジーは、政治的に無力であり、その国民を指導し得ないばかりか、自分自身の階級利益を守ることさえおぼつかない。それは、ブルジョアジーが主人を必要とするというに等しい。 しかるに、資本主義過程は、その経済機構とその心理社会学的効果とによって、自らを保護してくれている主人を見捨ててしまったか、あるいはアメリカにおけるごとく、主人やそれに代わるものに発展の機会を決して与えなかった。このことの意味内容は、同じ過程から生ずる他の結果によって一層強化される。資本主義発展は天主の恵みによる(Dei Gratia)王を排除したのみならず、その政治的堡塁――それは、もし攻撃に耐えうべきことが分かっていたら、村落や職人ギルドによって形成されていたはずのものである――をも排除してしまった。資本主義の初期にあったようなそのままの形で、その2つの有機体を守り通すことの出来ないものを排除してしまったのはもちろんのことである。しかし、資本主義の政策は、やむを得ざる程度を遥かに越えて、その特別席の中では無際限に生き延び得たと思われる職人をも攻撃した。それはまた農民に初期自由主義のあらゆる祝福――自由な保護無き農業経営と、自分自身の首をつるのに入用な個人主義という綱――を押しつけた。 かくして資本主義は、前資本主義社会の骨組みを破壊する際に、自己の進歩を阻止する障害物を打ち壊したのみならず、更にその崩壊を防いでいる支壁をも崩壊してしまった。 その仮借無き必然性によって印象的なこの過程は、単に制度的な枯れ枝を取り除いたのみならず、それとの共棲が資本主義的図式の本質的要素たりし資本家階層の同伴者をも一層してしまった。 極めて多くのスローガンによって不明瞭になっているこの事実を見いだしたときには、資本主義独特の(sui generis)社会形態と見なしたり、実際いわゆる封建主義の解体の最終段階以外のものであると見なしたりすることが、はたして真に正しいか否かが問われてしかるべきであろう。 全体として見れば、私は、資本主義の特色は、1つの型を打ち出すに足るものであったと信じ、かつ異なった時代や過程にその起源を持つ2つの階級のかの共棲を、例外というよりは、むしろ常態として受け入れたいと思う、――かような共棲は、少なくともここ6000年間、すなわち原始的土地耕作者が馬を駆る遊牧人種の支配に服して以来、常態であった。」 (シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』第2部 資本主義は生き延びうるか 第7章 中山/東畑訳 東洋経済新報社) 非常に残念ですが、ガイア理論はその提唱者の善意にもかかわらず、私たちに本当の解決策を与えてはくれません。なぜならこれは現実のうえではなく、空想と夢の上に成り立っているからです。 何故空想の上に成り立っているかというと、 地球が「一つの生命体」であると主張しているからです。 地球を含む太陽系、銀河系宇宙、また全宇宙の現象だけを眺めて、それの究極の原因である天主を無視しているからです。 全てを創った天主のもつ「天にあるもの地にあるもの全てを、唯一のかしらであるキリストの下に集めると言う奥義」(エフェゾ1:10)を創造以前からの計画を無視しているからです。 アダムとエワの犯した原罪という厳粛な現実を無視しているからです。 キリストの建てたカトリック教会という人類の教師、唯一の救いの箱船、信仰の遺産の保存者を無視しているからです。 ガイア理論の主張者も、その理論を「神話の構築」と言っています。「私達は21世紀の日常生活に通じる、新たなる神話の構築が必要なのではないでしょうか」と。このような理論をそのまま信じるというのは、狂気であると思います。 またなぜシスターが、私たちの主イエズス・キリストを無視して生きる人々を「とても魅力的な人ばかり。彼らの生き方は、私たち現代人のすさんだ心を癒してくれます」と評価するのか理解に苦しみます。シスターにとって、私たちの主イエズス・キリストがどんなに素晴らしいか、私たちを創造され、あがなわれた天主はどんなに憐れみ深いかと言うよりも、むしろ中心は「人間」に行っています。しかしシスターはこう言います。「ガイヤシンフォニーを見ると、神が創造された自然って、人間って、なんてすばらしいんだろうと思ってしまいます。」 本当に人間らしい世界を造るには、天主に全ての権力を奉還しなければなりません。本当の意味での「大政奉還」が必要です。天主の打ち立てた宗教を元通りにし、その正当な権威を認め、伝統的なオイコロギア的な秩序を取り戻さねばなりません。天主と、王と、家庭の父とがその玉座を奪われ、地位を追われ、力を剥ぎ落とされている間は、人間的な社会からますます遠ざかってしまうからです。 そのためにこそ、私たち人類にとって最も必要なことは、天主への従順のうちに生きるということです。天主を中心に生きるということです。人間の自己自賛を止め、私たちの主イエズス・キリストへと向かうことだと思います。 (そのためにこそ、第2バチカン公会議の例えば「現代世界憲章」の
12 「地上に存在するものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならない」 などを見直さなければならないのではないでしょうか?) 地上に存在するものは、その中心および頂点である天主に秩序づけられなければならないのであって、人間といえども、そのもの自体のためではなく、天主の栄光のために天主が望んだ被造物であるからです。 何とも長い返事になってしまいました。お返事になっていることを祈ります。
天主様の祝福が豊かにありますように! トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭) |