マニラのeそよ風

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第19号 2002/07/12   聖ヨハネ・グアルベルトの祝日

聖ヨハネ・グアルベルト
聖ヨハネ・グアルベルト

アヴェ・マリア!

■ 質問です

 初めて、メ-ルを差し上げます。・・・みな、何の疑問も持たず、新しいやり方をドンドン取り入れ、現代社会の悩みは、方法論で解決しようとします。ごミサは、最後の晩餐の繰り返し、食事だとか、信徒も祭司だとか、口での聖体拝領に固執するのはおかしい、とか。・・・キリストの時代から、間がすっぽりと抜け落ちて、第2バチカン以後に飛んだようです。・・・それに追い討ちをかけて、聖職者の犯罪がマスコミで取り上げられています。・・・何故、あのような事件が起こってしまったのか?・・・(○○○より)


■ お答え致します

 ご質問ありがとうございました。

 このところ、アメリカで聖職者の不良行為について大きく取り上げられていますね。私も信じられない思いです。同じ司祭職を持つ兄弟として、悲しく思います。これについてどう考えたらよいでしょうか? 聖パウロは、そのような罪については「あなたたちの間では口にさえするな」(エフェ5:3)と言っていますので、沈黙を守りたいと最初は考えました。そのようなこと口にするのは、恥ずかしいことですし、非常に抵抗があります。

 しかし、あまりにものマスメディアの攻撃に、沈黙を守っているわけにもいかなくなってしまったようです。まず、これはカトリック教会の内外の敵はマスメディアを使った反教会のキャンペーンのようです。何故なら、非常に悲しい残念なことですが、聖職者についてマスコミが騒いでいるようなことは、ほとんどの場合、現代の異常な社会においては、結婚をした人たちによって、あるいはその他の「普通」の人たちによって信じられないほど普通に犯されているからです。教会の外の敵は、私たちの主イエズス・キリストの司祭職の信用失墜させようとし、教会内部からの敵は、司祭の独身制度を攻撃する材料にしています。

 聖ピオ10世のアメリカ管区長であるピーター・スコット神父様は、次のように分析しています。

 第2バチカン公会議以前であれば、もしもそのような犯罪があれば、すぐさま全ての司祭の職務を停止させられ、酷い場合には司祭職それ自体からも還俗させられました(教会法2359条§2)。しかし第2バチカン公会議後は変態者が青少年の霊魂を破壊し躓かせ続けています。何故司教様たちはこのようなことが起こり続けるのを許したのでしょうか? なぜ教皇様はフロリダのパーム・ビーチで、1996年子供虐待で逮捕された人を1998年に別の子供虐待の司教様の後継者に任命されたのでしょうか?ホモセクシュアル(この言葉は口にするにも恥ずかしいので以下はホ_とします)・ネットワークがあるのではないでしょうか?

 犠牲者の少年たちは、純潔を失い、自分たちもホ_となってしまうのです。残念ながら、多くのホ_が、アメリカのカトリック教会に侵入してしまっています。このようなホ_を教区から追放しない限り、「犠牲者とその家族に深い連帯と関心を表明」したとしても、不十分なのです。カトリック教会の聖職者たちから完全にホ_を完全に取り除き絶滅させなければなりません。神学校や修練院からホ_を完璧に追放してしまわなければなりません。このような恐るべき犯罪は、ゼロ・トレランスでなければなりません。カトリック司祭は、普通の職業とは比較に出来ないほど高貴なものなのです。1961年に教義聖省から出された「完徳の身分と聖なる品級への候補者の選択と養成」という文書は第2バチカン公会議以前の教えをうまくまとめているものですが、それを確認しなければならないはずでした。

 カトリック教会の中にある人間中心主義は、カトリック司祭の本当の姿・存在理由・そのアイデンティティーを変質させています。カトリック司祭は天と地との仲介者、第2のキリストであり、罪の償いのために全能の天主にいけにえを捧げるために存在していること、キリストとキリストの教会と婚姻関係にあることを思い出さなければなりません。

 以上がスコット神父様の言わんとすることでした。

 さらに、つい最近「the Latin Mass Magazine」という雑誌(残念ながら、この雑誌は必ずしも全て聖ピオ十世会の見解を取っているとは限らないのですが)を見ていて、X神父様というアメリカ南部の教区司祭が書いた記事も、(1)マスコミの欺瞞(2)現在の問題点は、そのスケールの大きさにあること(3)ホ_の教会への侵入について、次のようなことをいっています。

 X神父様の「見方が変われば・・・」という記事は、次のような内容でした。


(A) 今マスコミが騒いでいる悲劇やスキャンダルについて、見方が変われば夜も安心して眠られるようになります。

(B) 例えば、こんな見方をすれば、どうでしょうか?まずマスコミが騒いでいるけれども、実際自分の教区の神父様が子供に変態行為をする人である確率などほとんどわずかなものに過ぎない。しかも、マスコミの取り上げるケースは実はほとんど子供への犯罪ではなく青年とのホ_行為に過ぎない。また子供に空手を教えるとか自己防衛手段はあるはずだ。云々。

(C)  教会当局は、このような見方を更に進めて、これを教訓に良くなるだろう、教会にはもっと酷い時代があった、教会は生き延びるだろう、といっています。

(D) X神父様は、しかし言います。ちょっと待てよ、と。もっと別の見方があるはずだ。それは、ちょうど○○○さんが書いておられるように、「何の疑問もなく新しいやり方をドンドン取り入れ、・・・キリストの時代から、間がすっぽりと抜け落ちて、第2バチカン以後に飛んだようです。・・・2000年間の教会の罪を恥じて、忘れようとしているようです。それに追い討ちをかけて、聖職者の犯罪がマスコミで取り上げられています」、このスキャンダルは、氷山の一角、カトリック教会の現在の巨大な危機のほんの一部分にしか過ぎない、ということです!その全体の危機を見渡す見方があるはずだ!というのです。

(E) X神父様は、アメリカでの話を続けます。多くのアメリカ人はセックスのことが頭から離れられないようだ、と言います。神学校でも、教区でも、講話会でも、カトリックの黙想会でも、セックスの話を聞かされ、同性愛とかホ_とかレスビアンとかを受け入れよう、それがニュー・エイジの「霊性」だ、と言う話ばかりだというのです。司祭や元修道女あるいは「専門家」と言われる人が、アメリカの学生たちに「性教育」を授け、ここではあまり書きたくないようなテクニックとか体位とか「安全な」何とかを「オープン」とか「開かれた」「教育の自由」の名の下に、彼らに教えているそうです。アメリカの名ばかりの「カトリック」大学は、堕胎賛成派の政治家とかホ_とかレ_とかの団体が活動することを許し、恐るべき変態行為が学内でなされていると指摘します。

(F) 1960年代に始まる「性革命」、ヒッピー共同体の「フリー・ラブ」、ホ_活動は、アメリカの教会に大きく受け入れられてきました。教会では、絶対的な道徳規準など無いという「道徳の相対主義」が教えられ、カトリック信者の信仰生活は危機に瀕したのです。

(G) X神父様はご自分の神学校生活の経験を語って、こう言います。神学校ではホ_の「恵み」を受けた人々がいると言う講義を聴かされ、「聖伝」という名前の「中世の病気」があることを聞かされ、神学生の中には、ホ_活動に関する隠語がささやかれ、「彼」と呼ばれることを苦痛に思う自分の同級生がいること、或いはその他ここでは書きたくないような活動がなされていたこと、「神学校」というよりも「ピンクの宮殿」と呼んだ方が良さそうであったこと、その時代から、X神父様を初めとする普通の神学生たちが冗談半分に「あいつらは将来、教会に莫大な金を使わせることになるだろうな!」と噂されていた連中がいたことを指摘します。

(H) ですから、神父様は、いまマスコミで騒がれていることは、何の不思議でもないと言うのです。神父様はこの事件の「本当の見方」、事実の直視というのは、現在の聖職者の犯罪というものがアメリカにおけるカトリック教会の完全な崩壊を示す多くの印のうちの一つに過ぎない、というものです。アメリカのカトリック教会にはどこにも健全な印が見えない、と厳しく言われます。

(I) アメリカのカトリック教会は成長している、信者の数が増えている、というのは、ただ名前だけのカトリック信者が増えているだけであって、避妊をし、産児制限をし、堕胎をし、離婚と再婚を繰り返す「カトリック」は、その他のアメリカ人とどれほどの違いがあるのだろうか?と自問します。「カフェテリア・カトリック」は、自分の信じたいことや自分にとって都合のいいところだけを選んで摘み食いし、それを「信仰」だと呼んでいるのです。アメリカのカトリックの2割しか主日のミサに定期的に行こうとする人たちがいないそうです。(日本もこれと非常に似ていると言えないでしょうか?2001年度の「カトリック教会現勢」(2001年の1月から12月までの日本のカトリック教会の現状を数字で示したもの)によると、日本人の信者数(信徒、聖職者、修道者、神学生の総計)は、前年度より2704人増えて、44万7944人となり、3年連続の増加を示していますが、主日ミサへの参加者は年々減少する傾向にあります。2001年では12万5千名でした。また受洗者の数は今回、大幅に減り、過去数年で最低となっています。)

(J) この現実直視の見方をすると、まずマスコミが騒いでいるけれども、実際自分の教区の神父様が子供に変態行為をする人である確率などほとんどわずかなものに過ぎない、などというのはあまり元気を出させてくれるものではなりません。

(K) 残念なのは、高位聖職者たちが、自分の目下のこのような暗い行為を知っていたにも関わらず何も手を打ってこなかったと言うことです。子供を守らなかったことです。

(L) ○○○様は、一体誰の責任か?と問いかけていますね。「子供の側にも問題があったのか?その子供の親にも問題があったのか?」と。しかし、X神父様は、子供は自分を防御するすべがなかったと言います。(それはちょうど親の利己主義のために堕胎されて殺されて捨てられる子供たちのようなのかも知れません。)そして、それはちょうどカトリック教会の教義や聖伝、道徳とその教え、信心生活と聖なる典礼、全カトリック文化とも言われるものが、保護を受けるべき方から保護を受けず、攻撃され、乱用され、犯され、捨てられ、闇に葬られているのとそっくりです。

(M) X神父様は言います。1970年代に流行した新しい「神学」とその流行語、その方法論は、もう時代遅れだ!と。カトリックを現代化する、とう標語はもう袋小路で行き詰まっている!と。そのことに多くの平信徒たちも気がついてきました。多くのカトリック信者たちは、もはやどこにも行くところがないのです。そして、行き先を失った多くのカトリック信者は、最もしっかりとし確固とした変わらない大地に戻ってきました。その大地こそ、カトリックの聖伝です。そして、このようなカトリック信者たちは、このカトリック聖伝にこそ確実な真理を見いだすのです。真理に基づく希望は、私たちに現実の本当の見方を教えてくれ、勝利の希望を与えてくれるのです。今マスコミが騒いでいる悲劇やスキャンダルについて聞いても、夜も安心して眠られるようになるのです。


 以上がX神父様の分析です。アメリカの状況は、数年の時差があるかも知れませんが、ほぼ今の日本にも当てはまるのかもしれません(?)。

 同誌の編集長マクルカス神父様は、カトリック司祭から「霊的父親」であると言うことを取り上げ、カトリック司祭職を故意に組織的に世俗化し変質化させてしまったことに、現在の危機の原因があると指摘しています。第2バチカン公会議後の改革の方針はカトリック信仰やカトリック神学とは全く異質なイデオロギーに由来しており、第2バチカン公会議後の改革という蒔かれた種の実りを今刈り取っているのだ、と指摘します。面白い記事でしたが、ここで詳しく述べることが出来ません。これについて述べるのはまた別の機会にすることにします。

 かつてプロシアがフランスと戦争をしていた頃、プロテスタントが大多数のプロシアが攻めてくると言うことを聖ベルナデッタに教えたある修道女は、「シスター、あなたは恐ろしくないの?」と聖ベルナデッタに聞きました。

 聖ベルナデッタは、「プロシアの兵隊は自分の義務を果たしているだけです。私は、悪いカトリックが恐ろしい」と言ったそうです。

 聖ピオ10世教皇様も、カトリック教会内にいて、カトリック教会の信仰を崩壊させているリベラルなカトリックこそ、カトリック教会の最も恐ろしい敵であると言いました。そして敵は神学校の中にさえいる、と。

 最後に、この有名な逸話を付け加えて終わりにしたいと思います。(あまりにも有名なのできっとご存じでしょう。)

 19世紀初頭にナポレオン・ボナパルトはフランスにおけるカトリック教会を支配しようと力を尽くしていました。ナポレオン・ボナパルトは、当時の教皇ピオ7世の政務次官であったコンサルヴィ枢機卿にこう怒鳴りつけたことがあります。「私はおまえの教会を破壊してやる!」と。

 コンサルヴィ枢機卿は「あなたには出来ません」と答えました。

 ナポレオン・ボナパルト「いや、必ず、私はおまえの教会を破壊してやる。」

 枢機卿「過去1900年、いろいろな悪い教皇や不道徳な司祭たちさらに何千もの罪人たちがカトリック教会にいて教会を破壊することが出来なかったというのに、あなたは、生きている間にそんなことが出来るわけありません。」

 カトリック教会の歴史は、戦いの歴史でした。聖徳を勝ち取るための戦いです。カトリック信仰を守るための戦いです。私たちにとってカトリック教会は必ず勝つ、だからといってのほほんとしていることは許されません。妥協することなく、カトリック信仰とその聖伝を守り抜かなければなりません。つまり、ミサ聖祭のいけにえは司祭にとって最も重要なものであり、司祭の心であり、司祭に昔のままの聖伝のミサのいけにえを返すことです。礼拝の方角を人間から天主へとむき直すこと。天主の前で跪くこと。これではないでしょうか。そうすることが、これ以上自己防御のすべもない子供たちを守る唯一の方法であると思います。

 私たちの主イエズス・キリストは聖女マルガリタ・マリア・アラコックにこう言いました。『この心を見よ。これほど人々を愛し、あらゆる恵みを与え続けているにもかかわらず、その限りない愛に対して感謝しようとする心を見いださないばかりか、かえって、忘恩、侮辱、無関心などをもって報いられるこの聖心を。しかも、私を特に愛さなければならない者たちからすら、たびたびそうされるのである。』

 全世界中のカトリック司祭、司教様がたのために、熱烈な祈りと償いを捧げましょう。
 特に罪を償う精神をもって聖体拝領を捧げましょう!
 公教会祈祷文の中の司祭のための祈りを特に捧げましょう!
 多くのお友達の方々に、カトリックの神父様、司教様のための祈りを勧めて下さい。

 長々と書き込みをしてしまいましたが、ご質問に対するお答えになっていたことを祈ります。○○○様がまた書き込みして下さるのを楽しみにしております。


 天主様の祝福が豊かにありますように!
 心からの祈りのうちに

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)