マニラのeそよ風

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第18号 2002/07/11   教皇聖ピオ1世の記念

教皇聖ピオ一世
教皇聖ピオ一世

アヴェ・マリア!

■ 質問です

 現在の日本におけるカトリック教会のミサのあり方に対して多くのカトリック信者が心の中で非常に多くの疑問を持っていることは疑い得ないでしょう。・・・あまりにも正統信仰からかけ離れているから教会としての魅力がなくなってしまっているのです。こうした人々に対して実際的に公開討論を教区司教たちに対して呼びかけてみるのはどうでしょうか。いつも教区司教は提案をして下さいと言います。しかし、肝心な問題となると教区司教もその総代理も担当司教も言葉を曖昧にしたままです。


■ お答えします

 次のようなご指摘をありがとうございます。

現在の日本におけるカトリック教会のミサのあり方に対して多くのカトリック信者が心の中で非常に多くの疑問を持っていること
司祭不足や司祭の高齢化、召命の減少
信徒人口の伸び悩み
政治的運動や社会問題ばかり
祈りや霊性を疎かにし、典礼破壊や祭壇の破壊
政治共同体と教会共同体を混同
あまりにも正統信仰からかけ離れていること
教会としての魅力がなくなってしまっていること、などなど。

 そうですね。多くの方が、体験していることですね。

「手による聖体拝領」は
嫌です!と言うと、
カトリック教会にはいられなくなってしまいます。
ミサの時に跪くと、 頭がおかしいと言われます。
ミサの時に黙って祈っていると、 変人だと思われます。
教会学校で子供に昔の公教要理を教えると、 もう公教要理を教えなくていいです、と言われます。
告解を頻繁にすると、 罪のコンプレックスがあるおかしな人と言われます。
奇跡を信じると、 迷信が好きなお婆さんのようだ、と言われます。
等々  

つまり、カトリック教会の過去は全て投げ捨てられなければならないかのようです。

昔は、こうだったが、今はこうだ。
昔は跪いたが、今は立って祈る。
昔は黙って祈っていたが、今は手をたたいて大声で祈る。
昔は神父様は特別な方だったけれど、今では普通の人。
昔は神父様だけが御聖体を配っていたが、いまでは司祭以外の誰でも配れる。
昔は祭壇は高いところに壁に向かっていたが、今は真ん中の一番低いところにある、
昔は、・・・。

 皆さんもこれを連祷のようにずっと続けることが出来るでしょう。

 ところで、面白いことを指摘して下さいましたね。
 「司教様たちはいつも教区司教は提案をして下さいと言います。しかし、肝心な問題となると教区司教もその総代理も担当司教も言葉を曖昧にしたままです。」
これは言えていると思います。

 第2バチカン公会議のモットーはこうです。
 「教会の民主化」「信徒の草の根の意見を採り入れよう!」
 そこでそれに従って、カトリック信者が昔のままの聖伝に従った教え、聖伝のミサを求めると、司教様や神父様は突然耳が聞こえなくなってしまうのです。
 ダブルスタンダードです。
 カトリック信者が聖伝を求めるときは権威主義であり、カトリック信者が革新を求める時は「教会の民主化」なのです。

 第2バチカン公会議のモットーはまだあります。
 「信教の自由!」
 全ての宗教は素晴らしい!カトリック信者はいろいろな別の諸宗教から学ばなければならない。見学に行きなさい。対話をしなさい。彼らの儀式に与ることによって霊性を深めなさい!と言われています。カトリック信者は、聖霊降臨派、仏教、禅、聖公会、正教会、イスラム寺院、ユダヤ会堂どこでも行くことが出来ます。
 そこで、その声に従って聖ピオ十世司祭兄弟会の聖伝のミサに与ろうとすると、神父様はいきなり怒り狂って彼らは教会から離れている!と言うのです。
 ダブルスタンダードです。
 カトリック信者が、聖ピオ十世会に行く時以外の「信教の自由」なのです。

 これは、第2バチカン公会議の別のモットー「エキュメニズム!」にも適応されると思います。
 正教徒も破門されましたが、破門は解かれました。
 ルターは破門されましたが、破門は解かれたようです。
 フリーメーソンの破門も解かれてしまったかのようです。
 今、破門は誰にも適応されていないかのようです。
 いいえ!ダブルスタンダードです。
 カトリック信者が、教会がやってきたとおりの聖伝のミサに与ったりカトリック教会の昔の公教要理を教えたり、過去の教皇様の教えに「しがみついたり」すると、いきなり「破門だ!!!」と言われるのです。

 私たちが使徒伝承の祖先から伝わる聖伝を守ることだけが、最大の犯罪であるかのようです。これは皮肉ではなく、事実なのです。残念ながら。悲しい時代ですね。


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)