マニラのeそよ風

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第14号 2002/07/07   聖霊降臨後第7主日


アヴェ・マリア!

■ 質問です

 このような対話をさせていただき心から嬉しく思います。またまた意見を述べますが、間違いが有りましたら随時指摘していただければ幸いであります。そこで、その2で神父様が書かれていた事(1+1=2)について私なりの見解を述べさせていただきたいと思います。

 第二バチカン公会議の神学の問題点を指摘するには、それ以前の神学では力不足だと言うことです。つまり、耳を貸して貰えないだろう、という事です。そこで私が自分なりに思いますのは、教義公会議であったトリエント公会議、第一バチカン公会議の聖なる教えを、もう一度洗い直して現代化する事の必要性であります。つまり結果的には、第二バチカン公会議を補足する、という形になると思います。これは現実的に教会を正統化するための最大限の努力だと思います。おそらく、教会は第二バチカン公会議を撤回することはないでしょう。すでに始めてしまった手前の教会のメンツがあるからです。それだったら、世界中の有志が募ってトリエント公会議、第一バチカン公会議の聖なる教えを、現代社会の中に本当の意味(すなわち主イエズスの教えられた意味で)で生かせるはずです。

 私が気を付けなくてはいけないと常々思うことが有ります。それは、現代神学が少々(笑)やりすぎてしまったからといって彼らがすべて間違っているという訳ではなく、同じように彼らから見たら我々が遅れている(!)からといってすべてが間違っているという訳ではない、ということであります。これは両陣営に言えることだと思いますが、ことあるごとに忘れかけてしまう大切なポイントであると思うのです。ですから、よりよい方向へと、すなわち主の方向へとより向かって行くには、両者とも「欠点もある」という事です。歴史の中で完全に主の方を向くことができるのは終末であります。教えは完全に主を指し示そうとしますが、人間は罪深い存在です。

 ですから、私は今後100年後に行われる「かも」知れない「第三バチカン公会議」に目を向けるべきだと考えます。(おそらく今のまま教会が時間を経れば、普遍公会議を開催する必要性が必ず出てくるでしょう。)今教会で右だ左だと言い合って、召命も激減し、各地方教会の分離が起こりつつある現代も又、主のご計画の中にあるものかもしれません。この様な混乱した状況において人々が真剣に主を探し求める、この姿勢こそ信仰者のあり方ではないかと思うのであります。そのために、今第二バチカン公会議主義の嵐が吹き荒れる中「気づきを与えられた小さき者達」がいるのでしょう。ですから、私は前回のご提案でも述べたように、現代第二バチカン神学の土俵に乗って、我々の主張をするべきではないかと考えたのです。1+1=2以外であると教えられても良いでは有りませんか。それだったら、十分にその2以外の答えを吟味(検算)して、それ故起こる不都合を指摘するべきです。それだけではなく、我々の中にある気が付かなかった問題点を指摘して貰えるかも知れません。それは、我々の主の前における成長にも役に立つと思います。こうして、より主に向かって行こうとする姿勢が、今求められているのだと思います。

 私は懐古主義者ではありません。古いものが良い、と只繰り返す者でもありません。私は真理を求めたいのです。そして、今真理は、昔に比べると見えにくくなっている、ということは本当に確かな事なのです。ですから、昔の姿勢を思い出そうと主張するのであって、ただ過去を懐かしむのではないのです。ある意味、本当の進歩主義者なのかもしれないと思います。それは只目新しいものが古いものより良いと主張するえせ進歩主義者と同じではありません。今の資本主義絶対正義社会にあって、右・左、保守・進歩と言葉でレッテルを貼り、そのレッテルの持つイメージが主張に当てはめられてしまう姿勢が問題なのです。主の教えに古いも新しいもありません。真理は一つ。それを求めて行動を起こす事が、例え進歩主義者から「保守」と言われても何の関わりがあるでしょうか。また、アラム語を使用して当時の衣装で過ぎこししなければならないと主張するような者がもし現れて、我々を「進歩主義」と言おうとも、何の関わりがあるでしょうか。求める真理、与えられた真理は唯一なのであります。その唯一の真理を広く世界に拡げるために、現代の進歩的土俵に上がる、いいではありませんか。主が共におられる、それだけで十分であります。

 以上であります。不勉強で高慢な駄文失礼いたしました。聖ピオ10世会様とトマス小野田圭志神父様のますますのご発展と、唯一の真理への世界的普遍的信仰、そして聖伝ミサの復活をお祈り申し上げながら、失礼させていただきます。


■ お答えします

アヴェ・マリア!

 ご意見ありがとうございました。大変興味深く拝見させて頂きました。

 私もこのような対話が出来て嬉しく思います。私たちの対話が有益で実りのあるために、私たちも同じ土俵に載っていることを確認しましょう。そうでないと、私たちがお互いに同じことを語っているつもりでも、実はお互いに別のことを意図していた、などと言うことのないためです。

 まず、このことを確認したいと思います。

 私たちが辺りを見回し、ものに触れ、日々の生活を送るとき、<わたし>以外のものが、厳にある!と言うことです。言い換えますと、眼前にはパソコンのスクリーンがあり、電流が流れ(発電所で作られた電気が今ここまで来ており)、道路には車が走り、自分以外の存在がいる、と言うことです。犬もいれば、猫も、豚も、金魚も、サケも、鯨も、鶏も、雀も、鷹も、鷲も、コウモリも、ヒマワリも、ヒヤシンスも、スイセンも、バラも、イチゴもある、と言うことです。数百万という種類の動物と数千万の種類の植物と数千万の星々が本当に疑いもなく存在している、と言うことです。

 私たちも、自分の力で存在しているわけではなく、両親があり、生を受けたものです。私たちの両親とて同じことです。私たちは、夏には暑い、暑い!と言い、夜になると蚊がブンブン来て刺されて眠られない、と言い、砂糖だと思って塩を入れたらこのコーヒーは不味くなった、などと言い、隣の人が自分の家の前にゴミを捨てれば怒り、冬になると「寒い!凍えそうだ」と言い、もし車が突然来ればよけます。

 これは、いいですよね。もしも「現象学によれば・・・」とか「観念論によると・・・」などという方がいらっしゃいましたら、少し山の中を一人で何も持たずに1週間ほどさまよってみてはいかがでしょうか?と言いたくなりませんか?

 そして、更に確認したいのは、例えば、犬は犬であって、犬が同一の観点から同一の意味において、犬であって同時に犬でない、と言うことはあり得ないと言うことです。これを矛盾律と言いますが、この上に私たちの日常生活と常識と全ての知識と論理とが成り立っています。

 これも、いいですよね。もし、これに同意しないと、私たちの全ての対話は無駄に終わってしまいます。いえ、私たちが普通に生活していくことさえも出来ません。

 もしも万が一「第2バチカン公会議の神学」がこの矛盾律を認めないものであったとしたら、そのようなものは最初からお話になりません。そうだとしたら、有るが無いであって、悪が善であって、真理が偽であって、唯一が多となり、精神異常以外の何ものでもないからです。

 そして、これらのことに同意した上で、もし必要なら喜んで、いかなることに関しても議論を進めていきたいと思います。

 もし必要なら、例えば、地球が太陽の周りを公転しているのか、或いは太陽が地球の周りを回っているのか、とか、光はエーテルという媒体を進む波動なのか、或いは光子という粒子なのか、追試の可能な実験結果に基づいて科学者たちと同じ土俵に立って議論を進めていきたいと思います。これらのことを確認した上で、私たちは更に話を進めていきましょう。

 さて、私たちは、自分の周りに<わたし>以外の数え切れないものがあることを確認します。そして、私たちは、これら森羅万象の第1の究極原因を措定して、天主と呼ぶことにします。唯一の究極原因である天主は、全ての源であり、全ての完全性をすでに無限に持っています。限りのない善であり、天主にはいかなる変化もあり得ません。何故なら、もし変化すると言うことは、不完全であったから完全になったか、或いは完全から不完全になったかのどちらかでしかなく、そのどちらも完全な天主にあり得ないことだからです。全てを創造した天主こそが、真理の基準であって、真理は普遍であり何時どこででも変わらず同じです。

 以上のことに同意して下さって、はじめて話が始まります。そして今同意して下さったこのことの上に、第2バチカン公会議以前のカトリック神学が成立しているのです。

● まず第1に申し上げたいことは、これです。

 私たちが第2バチカン公会議で問題とすることは、信仰と道徳に関することであって、昔を懐かしむことではないということです。アラム語を使用して当時の衣装で過ぎこししなければならないと主張することでもないのです。何故なら、これは信仰と道徳に関することではないからです。

 カトリック信仰は、カトリック教会が信仰と道徳に関することは不可謬であると教えています。私たちはそれを信じています。何故なら、森羅万象を創造した唯一の真理なる天主が、(私たちが好むと好まないと、私たちが信じようが信じまいが、私たちが同意しようが反対しようが)厳にあり、その天主が人となって、私たちに真理を教え、カトリック教会を立て、天主の権威を持って不可謬の教師としたからです。

 例えば、もしも、この不可謬の教師であるカトリック教会が天主の権威と不可謬権を行使して、1+1は、2だ!と宣言したとすると、これはいつでもどこでも1+1は2なのです。

 例えば、カトリック教会は、天主の権威を持って、真の天主が聖三位一体であることを教えています。真の天主が聖三位一体であることは、私たちにとって大変重要なことで、このことを否定しないために多くの殉教者たちは命を失いました。天主が聖三位一体であり、同時にそうではない、ということはできません。(カトリック教会は、ユダヤ教もイスラム教も三位一体の天主を拝んでいないので、真の天主を礼拝していないと教えてきました。)

 または、カトリック教会は、御聖体にはパンの外見の下に私たちの主イエズス・キリストが真に現実に実体的にましまし給う、と教えています。御聖体が真に現実に実体的に私たちの主の御体である、ということは私たちにとってどうでもいいことではないのです。

 御聖体が、真に現実に実体的に私たちの主の御体である、と同時にそうではない、とは言うことが出来ません。(カトリック教会は、プロテスタントも聖公会も御聖体が真に現実に実体的に私たちの主の御体であると認め信じていないので、同じ信仰を持っていないと教えてきました。)

 ご指摘のように、新しいからダメだとか、古いから善い、というのは私たちの判断基準ではありません。右翼・左翼、保守・革新とうレッテルとも関係ありません。私たちの判断基準は、「カトリック教会は、信仰と道徳に関することを、不可謬権を使って昔から常にこう教えている!」と言うことです。

 私たちが、第2バチカン公会議の問題として指摘しているのは、信仰と道徳に関してカトリック教会が荘厳に教えてきた命題の矛盾を、第2バチカン公会議が教えていると言うことです。

 勿論、私たちは、第2バチカン公会議が、また「現代神学」を信奉している方の仰っていることが全て間違っている、と言うつもりはありません。ただ99パーセントの真理のうちに1パーセントの致命的な毒が入っているので、騙されやすく非常に危険である、と言うだけです。

● 第2に申し上げたいことは、これです。

 私たちは、私たちの主イエズス・キリストに倣うべきであって、真理には多数決もなく、「耳を貸してくれるか、くれないか」ということには関係ないことです。私たちの主は、御聖体について暗示するお話をした時、ご自分のところから多くの人が去っていくのを見ました。

 ですから、第二バチカン公会議の問題点を指摘するのは、「第2バチカン公会議以前の神学の力不足」とか言う前に神学以前の問題ではないでしょうか? カトリック教会は、メンツのためにあるのではありません。もし教会がメンツのためにあるのなら、何故ヨハネ・パウロ2世教皇様は、カトリック教会の過去の過ちと言うことで、謝罪したのでしょうか? かつて第2バチカン公会議を主催した教皇様たちは、第2バチカン公会議が不可謬権を行使したとも言っていないし、新しい教えを定義するとも言っていませんでした。第2バチカン公会議の文章は、カトリック教会の不可謬権とは関係のないものです。また第2バチカン公会議の中には、信仰と道徳と関係のない文章さえもあります。それを撤回して、何故いけないのでしょうか?

 カトリック教会の使命は、私たちの主の教えたことを天主の権威を持って教えることであって、私たちの主の教えたこと以外のことを教えることではありませんし、私たちの主の教えたこと以外を教えておいてメンツを保つために、どんなに悲惨な結果を招いてもそれに固守することでもありません。

● 第3に申し上げたいことは、これです。

 問題は、私たちが罪深い存在であるか、どうかと言うことではない、と言うことです。

 人間は罪深い存在です。それは、よく分かっています。私たち聖ピオ十世会が問題としているのは、そのようなことではないのです。問題は「私たち」ではなく、「カトリック教会の不可謬の教え」なのです。

 「私たち」などは、ある意味でどうでもいいのです。私たちは自分の意見や好みについて議論をしているのではないからです。そうではなく、カトリック教会が、誤り得ない天主の権威を持って教えてきた教えが、いま問題となっているのです。これには「欠点」があり得ません。

 今回は、以上の3つの点を明らかにしたいと思います。

 最後に、ご文章から伺える、カトリック教会への愛と、唯一の真理への世界的普遍的信仰、聖伝ミサへの熱意、そして当会とわたしどもに対するお祈りとご声援を心から感謝したいと思います。

 わたしの、説明不足の所、分かりづらかったところ、反対意見、などございましたら、遠慮なくお知らせ下さい。


 天主様の祝福が豊かにありますように!

 心からの祈りのうちに

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)