マニラのeそよ風

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第13号 2002/07/06   初土曜日(聖マリア・ゴレッティの祝日)

聖マリア・ゴレッティ


アヴェ・マリア!

■ Q&A 質問コーナーです

 一つの提案があります。

 今のカトリック教会の現状を鑑みるに、第二バチカン公会議絶対主義の様相を呈している現代において過去のトリエント公会議の聖なる教えを繰り返してもただの懐古主義、復古主義、保守主義者とレッテルを貼られてしまうばかりでは無いでしょうか。その様なレッテルを貼られることによって、さしたる議論もされずにどこかへ追いやられてしまうのは本当に勿体ないと思います。現代教会における神学的状況を見ても、既に第二バチカン公会議をすべてであるように捉える状況が主流を占めている今、過去の回勅や宣言をそのまま繰り返しても耳を貸して貰えないでしょう。それよりも、進歩的と言われる神学の中心地に行って、進歩的だと言われる神学を徹底的に批判研究してその上で、現代神学(第二バチカン公会議神学と言い換えてもよいかと思われますが)の問題点として、貴HPが御主張なさる事を発表されたらいかがでしょうか。あえて相手の立場に、土俵に乗った上で相手の論点の矛盾の中から、我々の主張をするべきなのではないでしょうか。そのために、過去の回勅等を根拠として主張するのではなく、現代神学の抱える様々な問題点を根拠として、主張するべきではないかと思ったのであります。

 一刻も早い全教会におけるトリエントミサの挙式を期待しております。貴会のますますの御発展と、ミサの正統化を祈っております。ありがとうございました。


■ お答えします。

アヴェ・マリア!

 ご提案ありがとうございます。大変嬉しく拝見いたしました。
 今回、ご提案を受けて非常に嬉しく思いましたが、何故かと申しますと、

(1) まず、今のカトリック教会の現状を非常に正確に分析なさっているからです。つまり、現在残念ながら教会は、第二バチカン公会議絶対主義の様相を呈しているということです。言い換えると、今のカトリック教会では、残念ながら、過去の公会議の聖なる教えや歴代の教皇様たちの教えは、さしたる議論もされずにどこかへ追いやられてしまっている、ということです。ご指摘の通り、現代教会における神学的状況を見ると既に第二バチカン公会議をすべてであるように捉える状況が主流を占めています。それは、カトリック教会の過去の教導権を無視し、あたかも第2バチカン公会議の後に突然カトリック教会が生まれてきたかのようです。ベネリ枢機卿がかつてルフェーブル大司教への手紙で書いてきたように「第2バチカン公会議後の教会」を作ろうとしているかのようです。こう表現するのは悲しいことなのですが、現代教会の状況を素直に見るとそのあまりにも過去を否定・無視する態度は「離教的」であるとさえ言えると思います。

(2) また、過去のカトリック教会の不可謬権を行使した教導職や2000年間変わらずに伝わってきた教えを、私たちが拙いながらはっきりと信仰宣言しているところをご覧になり「とても素晴らしいと思いますし、私も同じように思います」とお褒めの言葉を下さり、「教えの本質的部分を変化させるという事無く」「恐ろしく早く進み行く現代社会の中にあって福音をのべつたえるという使命」果たさなければならない、と私たちと同じことを考えて下さっている方を見いだしたからです。教会が使徒継承の信仰を宣言し、私たちもその同じ変わらない信仰を宣言しているのですが、流行を追う方々にとってはあまり気に入らないようです。

(3) 更には、私たち聖ピオ十世会が、カトリック信仰のために戦っていると言うことを良く理解して下さっているからです。つまり、私たちはカトリックの信仰と霊魂の救いのために、あえていわゆる「第2バチカン公会議の新しい神学」に逆らってまでも教会の過去の不可謬の教導職に忠実でありたいと望むのであって、個人的な反感や「誰それが気に入らないから」でもありませんし、教会が認可していない「どこかの御出現によるとどうのこうの」というわけでもない、と言うことを良く理解して下さっているからです。私たちの信仰の根拠はカトリック教会の使徒継承の教えです。教会の教えに基づいて、私たちは第2バチカン公会議のいくつかの内容や新しいミサに疑問があり、それについて神学的な議論をしたいと望んでいます。そしてそのような率直な議論をすることを提案して下さったからです。これこそ聖ピオ十世会が望んでいることであり、このようなご提案を非常に嬉しく思いました。

 ですから「進歩的と言われる神学の中心地に行って、進歩的だと言われる神学を徹底的に批判研究してその上で、現代神学(=第二バチカン公会議神学)の問題点として、聖ピオ十世会がHPで主張する事を発表したらどうか」と言うご提案に心から感謝し、私たちも日本語でこの仕事をしたいと願っています。実際、外国では聖ピオ十世会の司祭たちの研究による、第2バチカン公会議後の新しい神学の問題点についていろいろな論文が発表されています。ルフェーブル大司教もバチカンに「第2バチカン公会議における信教の自由に関する疑問」という論文を提出しています。少なくともそのような先達を参考にしたり、或いはそのような研究論文を日本語で紹介したりしたいと願っています。ところで、それが実現するためには、もう少しご辛抱を願わなくてはならないかも知れません。何故なら、

(1) 私は、カトリックの教えというのはむしろ「完全であれ、天主を心を尽くして愛せ、してもらいたいと言うことを人にせよ」と非常に肯定的なものだと、ますます確信を抱いており、まずカトリック教会の過去の公会議や教皇様たちの素晴らしい教えを知ってもらいたい、カトリック信仰をそのまま包み隠さず知ってもらいたい、という望みがあるからです。私たちは原罪を持って生まれてきたので悪への傾きと戦わなければなりません。しかし私たちの主イエズス・キリストの教えの本質は「何々するな、これをしてはだめ、あれは禁止」という否定的なものというよりも「唯一の真の天主を知り、愛しなさい」ということだと思います。現代神学の批判も必要ですが、まず最初にカトリック信仰の調和に満ちた素晴らしい教えを燦然と輝かしたい、耳をもつ人は聞け!と思っているからです。

(2) 更に、日本はキリストを知らない多くの兄弟姉妹たちがいらっしゃいます。私たちの愛する兄弟姉妹たちの霊魂の救いを私たちは望んでいます。そのような方たちにも分かるような形で、私たちの主イエズス・キリストの教えをのべ伝えたいと思います。ご覧の通り、私たちのホームページはこの理想からは遙かに遠いものですが、それへと向かっていきたいと願っています。私たちの主イエズス・キリストの使徒継承の教えが、伝わるのはホームページによるのではないのですが、それへの助けになればと願っています。

(3) 私たちの主イエズス・キリストは教えるとき、ファイザイ人たちのように自分の考えや解釈を述べたのではなく「権威があるものとして」これはこうである、と教えられました。使徒たちも、使徒たちの後継者も、教皇様もそうでした。教会はいつも権威を持って教えています。ですから、私たちもまず教皇様や公会議の権威ある教えを繰り返したいのです。それが私たちの主イエズス・キリストの教えを正しく理解する近道だと思うからです。

(4) そしてまさしく私たちの主イエズス・キリストの教えを正しく理解するために、カトリック教会の信仰を正しく把握するために、誤りを指摘しなければなりません。私たちの主イエズス・キリストも誤謬を誤謬であるとはっきり言いました。これを見て気づき、毒を兄弟たちが食べているのを見て、沈黙しているのは愛徳に反することであると思います。特に信仰をゆるがせにする時には、信仰を宣言するのは私たちの義務であると思います。そして、現代神学はすでに過去の教皇様や公会議によって排斥されているのですから、私たちはそれを愛徳のために指摘したいと思います。しかも「苦々しい熱心」なしにそれをしたいと願っています。

 それと同時に、疑問もあります。

 一つは、私たちがあまりにもナイーヴすぎないか?ということです。つまり「相手の立場に、土俵に乗った上で相手の論点の矛盾の中から、我々の主張をする」ことが本当に出来るのだろうか?と言う疑問が生じるのです。言い換えると、相手に「矛盾」ということが意味をなすのだろうか?という疑問です。

 相手は1+1=2と同時に1+1=5であり、1+1=9であり、1+1=25であると主張するのではないだろうか、言い換えると1+1=2であり、同時に1+1=2ではないと言うのではないか、と言う疑問です。「私にとっては1+1=2であるが、あなたにとっては1+1=5であって、別の彼にとっては1+1=9なのだ! 1+1=2だけであると考えるよりも「豊か」であり「自由」であり「進歩的」だ!」と相手が考えているのではないか、と言う疑問があります。 そんな馬鹿な!と思われるかも知れませんが(正常な思考を持っている人はそう考えますが)新神学を信じている方々はどうもそうではないようです。

 勿論、1+1=2であって、5でも、9でも40でもありません。1+1=2以外の答えは、誤りなのです。ところで、新しい神学を信じている方々は、「私にとっては1+1=2であるが、あなたにとっては1+1=5であって、別の彼にとっては1+1=9、また別の人には1+1=25なのだ!」といっているように思えてならないのです。

 説明すると、1+1=2 というところで、例えば「真の宗教とはカトリック教会である」とか「人間を救うのはカトリック教会である」とかと読み替えて読んで下さい。プロテスタント(5)は仏教(9)よりも無神論(25)よりも、カトリック(2)に近い存在であるかも知れません。しかし真の宗教ではありません。真の宗教は一つしかないのです。もし、相手に「矛盾」という言葉が意味をなさないとすると、本当に「相手の立場に、土俵に乗る」ことが出来るのかということそれ自体が疑問になります。

 もう一つは、考えの狭い方々がいらっしゃって、客観的な信仰についての議論を、残念ながら個人的な攻撃や批判と受け止める人がいると言うことです。「おまえは俺の言うことが聞けないのか?」とか「おまえはあのような立派な方を批判するのか?あの方は聖人だ、世界平和のために尽くしておられるのだぞ!おまえはあの方よりも偉いのか?」という類です。そのような方は、私たちに口を開くことさえも許して下さらないかもしれません。教会の「平和」のために信仰について語ってはいけない、と言ったりして「平和」を誤解している人々がいることです。

 私たちはこのような疑問が憂慮に過ぎないことを望みます。ご提案にありましたように、愛徳による健全で真摯なカトリック信仰に関する研究と「進歩的と言われる神学の中心地に行って、進歩的だと言われる神学を徹底的に批判研究」が一刻も早くできるようにがんばりたいと思います。

 私たちも、一刻も早い全教会におけるカトリック聖伝のミサの挙式を祈り求めております。全カトリック教会で聖伝のミサが復活した暁には、もっと自由にカトリックの信仰についての再確認がなされると思います。その日が早く来ることを祈りましょう。

 ご提案、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。


 今回は、以前日本における聖ピオ十世会の非公式ホームページの掲示板に書き込みして下さった方の質問とその答えをお送りしました。

 6月29日の私の司祭叙階記念日には、特に大阪の信者さんたちを中心にして大きな「祈りの花束」をいただきました。ロザリオ605環、司祭のための祈り446回、射祷152回、十字架の道行き15回、聖伝のミサ12回、御聖体訪問12回、黙想80回、どうもありがとうございました。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)