マニラのeそよ風

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第10号 2002/06/26   殉教者聖ヨハネとパウロの祝日

イコン:聖ヨハネに inspire する聖パウロ
イコン:聖ヨハネに inspire する聖パウロ


アヴェ・マリア!

 皆さんこんにちは! マニラの eそよ風 第10号です。


聖アルフォンソ・デ・リグオリによる
救霊についての黙想

<罪について>
黙想(1) 大罪の憎むべきこと

その1

 大罪とは何ぞや?聖トマスと聖アウグスティヌスによると、大罪とは主に身を背けることである。主の聖寵を軽んじ、その御親しみを侮ることである。大罪とは主に面と向かって「私はあなたに仕えたくなど無い。私は我がまま気ままに行動したい。御旨に逆らうことになろうと、あなたの敵になることになろうと構いはしない」と言い放つことではないか。

 大罪の憎むべき所以を覚るには、主がいかに尊ぶべき方で、主を辱め奉る人間のいかに身許卑しき者であるかを思わねばならぬ。主は聖の聖なる御方。その御前には、天使聖人ですらあって無きが如しである。それに極めて拙い人間が大胆にもこの至尊無上の主に逆らい奉るのである。

 人が大罪を犯す時は、ただ御稜威極まりなき主を侮り奉るのみではない。なお自分を愛し、自分のために、かたじけなくも御命を擲って下さった恩愛限りなき父君をも辱め奉るのである。これをもっても、大罪のいかに憎むべきものであり、地獄の終りなき苦罰をもってしても、一つの大罪を償うにすら足りない所以が解るであろう。

 例えば、人が大罪を犯す時は何を為さんとするのか?煙の如き名誉を主よりも愛する。取るに足らぬはした金を主よりも大事にする。一時の怒りを、恥ずかしい楽しみを主よりも重んじるのではないだろうか? 主は御稜威限りなき御主であるのに!慈しみ量りなき御父君であらせられるのに!

 ああイエズスよ、主が私の為にかたじけなくも十字架に磔にされて、御身を犠牲に供し給うた事でも思わなければ、私はどうして失望せずにおられよう。私はただ主の御死去に深くより頼み、謹んでこの魂を御手に託し奉る。主はこの魂を救うために御血も御命も擲ち給うた。なにとぞ心から主を愛せしめ、以後は決して主を失うが如きことなからしめ給え。ああ私の信頼、無上の宝にてまします主よ、私は主を愛し奉る。かくまで有難い主の愛をわきまえながら、どうして再び主を離れることができましょう。


その2

 数々のお恵みをほどこして救い上げてやったその人に仇をもって報いられるというのはいかにも心苦しいものである。主はもとより苦しみも悲しみも覚え給わぬ。けれども万一、それを感じられるとするならば、二つと無き御命を擲ってまで救い上げた人間から、無理無法にも侮られ、辱められることを思い給うては、余りの悲しさに消え入りたい心地を覚えられるからではなかろうか?

 してみると、何が憎らしいといっても、罪ほど憎らしいものはない。百度、千度呪っても足りないのは罪である。罪ゆえに私は御慈しみ測られぬ主の御心をどんなに苦しめ奉ったであろうか。

 ああ永遠に地獄の劫火に焼かれつつある霊魂どもよ、汝等は世にある間、罪の恐ろしさを一向に悟らなかったのだ。罪は何でもないものと思っていたのだが、今は果たして如何?・・・汝らの舐めている永遠の苦罰も、その万一にも当たらないのだと、今こそ明らかに悟ったであろう。

 しかし悟るのが余りにも遅すぎた。今となってはその悟りが何の役にも立たないのみか、かえって耐え難い苦しみの基となるばかりであろう。

 罪の憎むべく、恐るべき所以は、御憐れみ限りなき主が、罪を罰するに地獄の終りなき苦罰をもってし給うのを見ても明らかである。罪に穢された天主の正義にお詫びをする為には、天主ご自身がその貴い御命を擲ち給わねばならなかったことを以ってしても、察せられるであろう。

 さても人間の浅ましさよ。地獄の苦罰ほど恐ろしいものはないということは明らかに承知している。それなのにこの恐ろしい地獄に身を投げ入れる罪にはこれを怖れる道を知らない。罪を赦すがために、主が御自らその貴い御血を流し尽くした事も十二分にわきまえている。それにもかかわらず平気で罪に罪を重ねて、少しも悔い改めようともしない。格別の値打ちもない品を失ってすら、悲しんで、悲しんで、心を安んじないぐらいなのに、罪を犯して主を失い奉りながら、一向に悔しいとも思わず、悲しみに胸を破ろうともしない。全くわけがわからない。

 主よ、私はあらゆる苦しみ、悲しみを主に浴びせかけ奉ったにもかかわらず、今なお悔い改めの時間をお与えくださるのは、感謝に堪えないところである。ああ最愛のイエズスよ、私は一心に罪を忌み嫌い、万事に超えて主を愛し奉る。願わくば私の痛悔を一層大ならしめ、私の愛情をいよいよ切ならしめ給え。私が罪を悔やむのは、敢えて地獄の罰を恐れるからではない。ただ主に、ただ限りなく愛すべき主に背き奉った為である。


その3

 君主に仕える近侍の家来が、その君主の御意に背いたと気づいた時は、どんなに憂い悶えるであろうか。今、私は罪を犯して大いに主に背き奉った。例え暫くの間であるにせよ、その御親しみを失った。いかばかり胸を痛め、心を悲しませねばならぬだろうか。呑気に遊びまわっている時ではあるまい。

 誤って毒を飲んでも、体こそ死にもしようが、霊魂には怪我はない。でも人はどんなに注意して、満に一つもそんな過ちをしでかさないようにと、油断の無い目を見張っているだろうか。それに霊魂を殺し、主をも失わせる大罪の毒を避けるという事には、とかく油断がちである、格別用心をしない、気をつけない、なり放題にして打ちやっているとは、どうした訳だろうか?

 「後で告白するさ!」悪魔はこう囁いて私を欺き、大罪の穴に引っ張り込もうとする。ゆめゆめその手を喰らってはならぬ。地獄に泣き狂いしている霊魂の多くはこの手に乗せられたのではないか。

 主よ、私も幾年前から地獄のどん底に歯噛みしていなければならぬ筈であったろう?・・・主が今日まで黙ってお堪え下さったのは、私にいつまでも御憐れみをほめたたえさせ、心の底より主を愛させたいという思し召しからであった。では最愛のイエズスよ、私は謹んで主を讃え、主を愛し奉る。これからはどんなことがあっても、再び罪を犯して主に背き奉らない決心である。こんなにも大きな恩を負いながら、また御心に背き奉るようであったなら、どうして主に見限られることはない、御赦しも蒙れると安心できようか。主よ、決して、決してこのような不幸に遭わしめ給うな。

 憐れみの御母マリアよ、私の為に罪を怖れる恵みを乞い求め給え。アーメン。


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)
ソウルにて




■ ニュース

 今日6月26日の午後、ソウルの聖ピオ十世会の聖堂では、2名の方が洗礼を受けられます。お祈り下さい。