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第6号 2002/06/14   大聖バジリオ


アヴェ・マリア!

 皆さんこんにちは! マニラの eそよ風 第6号です。

■ 6月はイエズスの聖心の聖なる月です (4)

 今回は、ピオ12世教皇が私たちの主イエズス・キリストの聖心について書いた回勅「ハウリエーティス・アクワス」の抜粋を 続けて読むことにしましょう。

 「キリストの人間に対するあの最大の賜物、すなわち、聖体の秘跡にあってご自身をお与えになり、そのいと尊いおん母を与え、司祭職の聖なる位を私たちに分け与えられるおん恵みを施すときのその無限の愛の印である聖なる聖心の鼓動を、だれが適切に描写することができましょうか。弟子たちとともに最後の晩さんを取る前に、聖心は激しい感情にゆり動かされたのです。というのは、主キリストが新しい契約をご自分の流すおん血によって結び、こうして、おんからだとおん血の秘跡が制定されることを予知しておられたからです。この聖心の感動を、次のように弟子たちにお漏らしになりました。「私は苦しみの前に、あなたたちともに、この過ぎ越しを食べることを切に望んでいた」(ルカ22・15)。そして、イエズスがパンを取り、感謝して裂き、弟子たちに与えて『これは、あなたたちのために与えられる私のからだである。私の記念としてこれを行ないなさい』、また、食事ののち、杯も同じようにして、『この杯はあなたたちの為に流される私の血による新しい契約である』(ルカ22・19-20)と仰せられたとき、その聖心の感動は最高項に達したのです。」

 「秘跡であるとともに、生贄であるご聖体と司祭職は、ほんとうに至聖なるイエズスの聖心のこの上もない賜物です。ご聖体は、秘跡として私たちに与えられるものであり、犠牲としてキリストご自身が「日の出る所から没する所まで」(マラキア1・11)絶えずおん父にささげる生贄です。」

 「イエズスの聖なる心臓は、人となったおん子の生命にもっとも深くあずかっており、おんからだの他の器官と等しく、天主の恩恵と全能のみ業を果たすための天主の道具として、使われたのであります(神学大全Ⅲ・q・19・a・1)。それゆえ、その心臓は、おん血を流して、教会と神秘的な婚姻を結ぶため、私たちの救い主を動かした広大な愛のふさわしい象徴であることは疑う余地がありません。「教会をおん自らの花嫁にするため、愛をもって、キリストは苦しみを受けたのであります」(神学大全、補足・q・42・a・1・ad・3m)。教会は、救いのおん血の分配者として、私たちの贖い主の傷つけられた聖心から生まれたのです。そのおん傷口から、すべての秘蹟のあふれるばかりの恩恵がほとばしり出るのです。ここから、教会の子らがその超自然的生命を、受けるということが聖なる典礼のなかに、読まれるのです。「貫かれた聖心より、キリストに結ばれた教会が生まれ、……その聖心から恩恵があふれ出る」(至聖なるイエズスの聖心大祝日の晩課中の賛歌より)。」

 「この聖心の象徴的な意味について、聖トマスは古代教父たちおよび教会の著作家たちがすでに知っていたところを繰り返して書いています。「キリストのわき腹より、洗い清めの水があふれ出、あがないのおん血が迸り出たのです。それゆえ、聖体の秘跡にはおん血が与えられ、洗礼の秘跡は水をもって授けられます。しかし、この水は、キリストのおん血の流れから、その清めの力を受けるのであります」(神学大全Ⅲ・q・66・a・3・ad・3m)と。ここで、兵卒のひとりにより傷つけられ、開かれたキリストのわき腹についてしるされてある言葉は、イエズスの聖心にあてはまるものです。というのは確かに、兵卒が十字架にくぎづけられたキリストの死去を確認する目的で、キリストの心臓をやりの一つきで刺し貫いたからです。イエズスが生涯を閉じた後、何世紀もの間、至聖なるその聖心のおん傷は、天主の愛の生ける表象となっております。この愛のゆえにこそ、天主はおんひとり子を人間の贖いのために渡され、キリストはカルワリオで自らを流血の生贄としてささげるほど、私たちすべてを熱烈に愛してくださったのです。キリストは「われわれを愛し、われわれのために、かぐわしい薫りの生贄として天主にご自分をささげられた」(エフェゾ5・2)。」

 「従って、救い主の人間に対する今も燃えさかる、計り知れぬ愛の自然な、また、もっとも力強い象徴として至聖なるイエズスの聖心を礼拝することを妨げるものは何もありません。この聖心は、たとえこの世の困難にもはや煩わされることがあり得ないとしても、いまだに生き、鼓動しつつ、天主のおん子と一つのペルソナとして不可分に結合され、おん子のうちに、おん子を通して、天主の意志と一致しております。従って、キリストの聖心は天主と人間の愛に溢れています。しかも私たちの救い主として、おん働きと受難と死去をもって獲得されたあらゆる恵みの豊かな宝庫でありますから、聖心は、神秘体の各成員の上にキリストの霊が注ぐ愛の尽きることなき泉であると言えるのです。」

 「キリストが先に教会を愛したように、今もなお三重の愛をもってこの教会を、もっとも熱烈に愛しておられます。その愛は、キリストが私たちの弁護者になるように、そして、取り次ごうとして常に生き」(ヘブレオ7・25)て、おん父より、恩恵と慈悲を私たちのため得られるように促すのです。キリストのきわまりない愛からおん父の方へ迸り出る、その折りは、決して途絶える事がありません。「キリストは、地上での生活の間」(ヘブレオ5・7)と同じく、天国に勝利を飾る今も、おん父に向かい、力ある祈りをなすのです。そして「天主はおんひとり子をお与えになるほど、この世を愛してくださった。それは、かれを信じる人々が皆滅びることなく永遠の生命を得るためである」(ヨハネ3・16)と書かれた、あのおん父に対して、キリストは傷つけられ、なお生きるご自分の聖心をさし示すのです。その聖心は、かつて生命が絶えてから、ローマの兵卒によって、やりで傷つけられたときよりも、さらにいっそう深い愛に燃えておられます。「その見える傷を通し、見えない愛の傷を私たちが眺めることができるよう、(あなたの聖心は)傷つけられたのであります」(聖ボナヴェントゥーラの作品Vitis mystica.c.Ⅲ.n°5)。したがって、「ご自分のおん子を惜まずに、われわれすべてのために渡された」(ロマ8・32)おん父は、この弁護者の熱烈な愛からほとばしる祈りを聞くとき、疑いもなくすべての人々の上に、豊かな恩恵を注ぎます。」

 「私は、至聖なるイエズスの聖心の信心のもっとも内的な本質と、その聖心から湧き出る永遠の富とに関し、その主な点に沿ってお話いたしました。その為に天主の啓示の最初の泉である聖書に遡りました。福音の光のもとに、私は、この信心の根本的な要素が、人となられたおん子の、天主としての愛、また人間としての愛、そして、おん父と聖霊が罪びとに対しいだかれた愛にほかならないことを明らかにしたと思います。なぜなら、聖トマスが、私たちに教えていますように、至聖三位の愛は、イエス・ズキリストの人間としての意志ならびに、尊い聖心の上に豊かに注がれ、私たちを罪の奴隷から解放するため、おん血を流すよう、駆り立てたのである限り、それは、人間の救いの本源であるからです(神学大全Ⅲ、q・48・a・5参照)。「私には、受けねばならない洗礼がある。それが実現するまで、私の悩みはどれほど深かろう!」(ルカ12・50)。」


天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)