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第3号 2002/06/02   聖霊降臨後 第2主日

アヴェ・マリア!

 皆さんこんにちは! マニラの eそよ風 第3号です。

■ 6月はイエズスの聖心の聖なる月です (2)

 6月は私たちの主イエズス・キリストの聖心の聖月です。今年は6月の初金曜日、6月7日が私たちの主イエズス・キリストの聖心の大祝日です。

 イエズスの聖心について、レオ13世教皇は、「アンヌム・サクルム」(1899年)の中で、次のように書かれました。

 「教会が、創立してのちまだ間もないころ、皇帝の重圧のもとに苦しんでいた時のこと、若い皇帝に対して、十字架が空高く現われたことがあったが、これは、やがて教会が勝ちうる著しい勝利の前兆であり、原因でもあった。今日、私たちの眼前に示された、別の神聖な、また、もっとも幸いな前兆を見よ。それは至聖なるイエズスの聖心であり、十字架を上にいただき、炎の中にあって、比類のない輝きを放っている。私たちはその中にすべての希望を置かなければならない。また、そこから人々の救いを求め、期待すべきである」。

 教皇ピオ11世は、「ミゼレンティシムス・レデンプトール」(1928年)のなかで、次のようにいっています。

 「天主は、人類がノエの箱舟から、「雲の間に現われた虹」(創世紀9・13)を和約の印として輝かせたように、混乱と動揺のさ中にある近代に、憐れみ深いイエズスは、戦いにおける確実な勝利を予告する平和と愛の旗印のごとく、その至聖なる聖心を諸国民に高く掲げ示してくださいました。」

 ところでピオ11世の言っている「混乱と動揺のさなか」とは、カトリック教会の司祭たちが残念ながら過去30年ほどの間為した若者たちに対する「不良行為」についてマスメディアが連日取り上げている現在、ますます当てはまるものとなっています。これについて、7月に来日されるウィリアムソン司教様が取り上げていますので、ここにその要旨を述べたいと思います。(司教様のお手紙の全文はご参考のために、最後に貼り付けてあります。)

 ウィリアムソン司教様は、マスメディアが「性的虐待」"pedophilia"という10歳以下の子供に対する犯罪を、10歳以上の青年に対しても使っており、マスコミの「卑劣さ」を指摘しています。なぜなら本来ならそのような罪は、同性愛とかホモセクシュアルという言葉を使うべきであって、マスコミは他方でホ_をあたかも罪ではないかのように取り上げているからです。自然にはする罪であるホ_は、天に復習を叫ぶ4つの罪のうちの一つです。マスコミはホ_の活動を許容させるような記事を盛んに書き立てておいて、カトリック司祭の場合は今度は反対に排斥し出しました。マスコミはカトリック教会の信用を失墜させようとしているのですが、それにしても、火のないところから煙は立たないとの諺のごとく、教会の聖職者たちの行いに問題があったのは事実です。

 ウィリアムソン司教様の指摘する第1はこれです。カトリック司祭たちは、その召命の崇高さの故に、どの様な境遇においてもどの様な場所においても、天使たちのように振る舞わなければなりません。しかしカトリック司祭たちはこの司祭職という尊い宝を、原罪を負って生まれてきた人間性という壊れやすい「陶器の器の中に持っている」(2コリント4:7)のです。このことをよくわきまえているアメリカの人々は身分の低い聖職者の犯した罪よりも、それを見て見ぬふりをし何らの制裁を科さなかった高位聖職者たちの態度に衝撃を受けているようです。なぜなら、高位聖職者たちの態度は、(重大な罪とは言え)もはや肉の弱さによるものではないからです。

 ところでカトリック教会に属する司祭たちが悲しい人間の弱さを見せることがあったとしても、現在の問題はそのスケールにおいて過去を遙かに凌駕しています。カトリック教会の聖職者によるホ_の罪は、たまたま、悪魔からの衝動に駆られてという偶発的なものではなく、なにか「体制的」なものであるかのように思われることが問題です。多くの人々が憤りに思うことは、ここ30年ほど、ホ_の罪が高位聖職者たちによってきれいに隠されていたように思えることなのです。

 残念ながら、アメリカにおいては、ここ数十年ほどホ_の人たちがカトリック教会に侵入していたことは、今や周知のこととなっています。エンリケ・ルエダ神父は、1980年代に「ホ_ ネットワーク」という本を、多くの証拠を持って出版しました。現在、残念なことですが、第2バチカン公会議後の主流の神学校には、ホ_の教授やホ_の神学生がいると話によく聞くようになってしましました。ある司教様は現在の教会の混乱を清めるためにはまず第1に神学校を「漂白」しなければならない、と言っているほどです。別の司教様は、体制によって保護されている変態たちによってハラスメントを受けるのではないかと、神学校に入学することをおそれている普通の青年たちの気持ちがよく分かる、とさえ言っています!

 では、一体何故「体制」がそこまで行ってしまったのでしょうか? この変態保護の体制に対しては2つの体制に関する答えがあります。この2つの答えは、現在あまり、と言うか全然、マスメディアでは取り上げられていません。また、この答えは現在のカトリック教会の高位聖職者たちにとって面白くない話でもあるでしょう。だからこそ、まさにこれは「体制」に関する問題だと言うことが出来ます。第1の答えは、ミサに関することで、第2については天主の十戒に関することです。

 ミサに関しては、ルフェーブル大司教はよく、新しいミサでは自分の神学校を運営していくことが出来ない、と言っていました。ローマは1970年代1980年代、ルフェーブル大司教に新しいミサを飲み込ませようと、ルフェーブル大司教の神学校に新しいミサを導入させようとあらゆる手段を尽くしました。しかし、ルフェーブル大司教はもしそんなことをしたら、自分は神学校をそのまま残して出ていた、とさえ言っていました。ルフェーブル大司教は、真の聖伝のミサがないカトリック神学校など、ウランのない核融合装置と同じだと考えていたのです。新しいミサをもてしては、本物のカトリック司祭を作ることが出来ない、と確信していたのです。

 何故かというと、司祭といけにえとは親密に関連しているからです。司祭のないいけにえの儀式はあり得ませんし、いけにえのない司祭もあり得ません。いけにえは司祭にとって最も重要なものであり、司祭の心であり、司祭からそのいけにえを取り上げてしまったとしたら、司祭の心を引き裂くことになるのです。ミサは、カトリック司祭のいけにえですから、ミサを「食事」にしてしまい、司祭をその「座長」にしてしまうということは、カトリック司祭を司祭ではないものにしてしまうことです。もしそうなってしまったら、自分の存在目的や自分の欲求を満足させるためにありとあらゆる方向へと道を誤ったしまうことでしょう。そしてその一つがホ_の活動だったのではないでしょうか?

 しかし、現在カトリック教会の病はもっと根の深いものがあります。新しいミサが基本的に持っている傾向は、人間を天主の場所に立てて、人間を天主の代わりに崇めることです。つまり、天主の第1戒に背かせる傾向を持っていることです。

 「天主なる主、私である。私以外のどんなものも天主とするな。」(脱出20:2,3) 「実に、天主の怒りは、真理を不正のとりことする人々の全ての不敬と不義に対して、天から現される(18)。 ・・・ 不朽の天主の栄光を、朽ち果てる人間・・・に似た形に変えた(23)。 そこで、天主は彼らの心をその欲に任せ、互いにその身を辱める淫乱に渡された(24)。」

 聖パウロは、天主の十戒のうちの第1戒と第6戒との因果関係を、特に自然に悖(もと)る(=反する)罪に言及して、繰り返し語っています。

 「彼らは天主の真理を偽りに変え、創造主の代わりに被造物を拝みそれを尊んだ(25)。・・・天主は彼らを恥ずべき欲にうち任せられた。すなわち、女は自然の関係を自然に悖った関係に変え、男もまた女との自然の関係を捨てて互いに情欲を燃やし、男は男と汚らわしいことを行ってその迷いに値する報いを見に受けた(27)。」

 聖パウロは、同じことを3度繰り返して言います!

 「また、彼らは深く天主を知ろうとしなかったので、天主は彼らをよこしまな心のままに、不当なことを行うに任せられた(28)。」

 真の天主を礼拝しない罪である偶像崇拝と、人間の肉体の情欲を崇拝することには、深い因果関係があるのです。

 聖ピオ十世会の聖伝のミサに与る方々は、どうぞ、主流派の神父様がたや司教様がたに、そら見たことか、と言うような態度を取ったり、石を投げるようなことはなさらないで下さい。そのようなことをしたら、天主は、そのような驕り高ぶりの罰として私たちをして同じ罠に陥ることを許されることでしょう。

 天主をおそれましょう。1+1=2と言うことを作ったのは私たちではありません。この被造の世界の因果法則や掟を定めたのは、天主です。

 聖パウロが、天主に代わって、第2バチカン公会議後の教会のエキュメニカル体制という、体制に関する問題点を指摘しているのです。

 天主は、公会議後のあまりにも規模の大きすぎる聖職者たちの第6戒に関する不良行為を持って、その根元にある第1戒に対する罪を指摘しようとしているのではないでしょうか?

 現代カトリック教会を、揺るがしているこのホ_ スキャンダルの本当の解決策とは何でしょうか?それは、カトリック司祭が人間ではなく天主を礼拝すること、人間を人間故に愛するのではなく、天主への愛故に愛すること。礼拝の方角を人間から天主へとむき直すこと。天主の前で跪くこと。これではないでしょうか。

 実に、聖アウグスティヌスは、真の天主を見いだし、第1戒に従い、そしてはじめて第6戒に従う力を見いだしたのではなかったでしょうか?

 以上が、ウイリアムソン司教様の言われようとしたことです。

 さて、ピオ11世教皇に話を戻しますと、ピオ11世は言葉を続けてこう言っています。

 「キリストが受難と愛の焔を表わす聖心を私たちに顕示しようとされたのは、全く、慈悲深いイエズスのご計画にほかなりません。つまり、それは、私たちが罪の限りない悪性に目を向けると同時に、あがない主の限りない愛を賛歎して、罪をいっそう強くいみきらい、ますます熱心に愛に対し愛を返すためなのです。」

 「・・・キリストは、マルガリタ・マリアにご出現になったとき、ご自分の愛が無限に深いことを仰せになるとともに、悲しそうなご様子で、恩知らずな人々からどれほど多くの不義不正がご自分に加えられているかということを嘆き訴えられました。この嘆きのみことばこそ、信者の心の中に深くしみ入り、決して忘れ去られるべきではありません。『この心を見よ。これほど人々を愛し、あらゆる恵みを与え続けているにもかかわらず、その限りない愛に対して感謝しようとする心を見いださないばかりか、かえって、忘恩、侮辱、無関心などをもって報いられるこの聖心を。しかも、私を特に愛さなければならない者たちからすら、たびたびそうされるのである。』このような罪をぬぐい去るために適した多くの信心業の中で、特に、ご自分の心にもっともかなった方法として、イエズスは次のことを奨励なさいました。それは、人々が罪を償う精神をもって聖体拝領をすること、それを「償いの聖体拝領」と呼びます。また、まる一時間続けて償いの祈りをささげること、これは「聖時間」というまことにふさわしい名で呼ばれています。以上の二つの信心業を教会は認可しているばかりではなく、さらに、多くの免償を賦与しています。」

 兄弟の皆様、ですから、この6月は特に全世界中のカトリック司祭、司教様がたのために、熱烈な祈りと償いを捧げましょう。

 6月の聖伝のミサの時には、とくに罪を償う精神をもって聖体拝領を捧げましょう!

 公教会祈祷文の中の司祭のための祈りを特に捧げましょう!

 6月7日の私たちの主イエズス・キリストの聖心の大祝日には、教皇ピオ11世の回勅の規定に従って、全世界のすべての聖堂において、私たちの最愛の救い主に対し、公教会祈祷文の中に収められている「人類の忘恩に対する償いの祈り」の祈りを唱えるように致しましょう。

 「この祈願によって、私たちは、すべての罪を嘆き悲しみ、最高の王であり、最愛の主であるキリストの権利が浸きれたことを償うのです。」(ピオ11世)

 兄弟の皆様も、多くのお友達の方々に、私たちの主イエズス・キリストの聖心への信心、カトリックの神父様、司教様のための祈りを勧めて下さい。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
 心からの祈りのうちに

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)



【参考資料】

St. Thomas Aquinas Seminary
RR 1 BOX 97 A-1
WINONA, MN 55987, USA
PHONE (507) 454-8000

THE NEWCHURCH AGAINST NATURE

May 1, 2002

Dear Friends and Benefactors,

For months now, the mass media in the United States have been hammering the Catholic Church for the grave misbehaviour of a certain number of her priests, over the last 30 to 40 years, towards young people in their congregations. Therefore much has been written and said on the problem, much more than I myself know or have read. However, some important truths which bear on the question I have seen mentioned little, or not at all. Let them surface here.

By way of preliminary, let us say where the blame does not essentially belong. It does not essentially belong with the media. This letter frequently calls the media "vile", and their vileness shows up in this case in their using the word "pedophilia" rather than "homosexuality" to name the problem. The word "pedophilia" fellays properly to the molestation and abuse of children, let us say under the age of 10, whereas according to numerous reports the overwhelming majority of the crimes of which the priests are being accused involve adolescent boys, over 10 years old, activity which would normally be called by the h- word.

But for years now the media in their vileness have been conducting a consistent and persistent campaign to legitimize in the popular mind the sin of h-, also called the sin against nature, one of the four sins crying to Heaven for vengeance. How then could the media have glorified h- activity for so long, and then turn around and condemn it in priests? Hence their pretence that the problem is pedophilia, because most people are - still - horrified by the molestation and abuse of small children, whereas they are being - in large part by the media - desensitized to the horror of that sin against nature, crying to Heaven. The media can also be blamed for co-ordinating what is surely a world-wide campaign to exploit to the full this present weakness of the Church. Having been taken largely into the hands of Mother Church's enemies, by the lack of vigilance or care on the part of Mother Church's friends, the media are no friends of the Church, and so they are naturally using to the full this opportunity to pull the Church down. However, there is no smoke without fire, says the proverb. How could the media make smoke unless there was some fire within the Church? If there was no such widespread misbehaviour amongst churchmen, and known to the people, what could the worst of media do? Essentially, the churchmen committing or covering for the sins cannot blame the media.

Nor can they blame the people for being unreasonable, because in at least two respects popular reaction within the United States is seeming to be reasonable.

Firstly, while every Catholic priest should at all limes and in all places, by the sublimity of his calling, behave like an angel, nevertheless he carries the treasure of his priesthood in that weak vessel of clay which is fallen human nature (II Cor. IV, 7), so that none of us who knows human weakness is entirely surprised to find even its worst outbreaks recurring within the priesthood, alas. Reasonably, the American people today are showing themselves less shocked by the lower clergy committing the sins than by the higher clergy covering for them, which is no longer a weakness (however grave) of the flesh.

And secondly, to the people's credit, when they blame the higher clergy for covering for the sins of the lower, they do seem to some extent to be recognizing a prior right of the Church over the State to discipline men of the Church. The people seem to be saying less that priestly crimes are a matter for the State, than that the Church should keep order in her own house, which, as long as the Church does so, is ancient good sense.

Therefore neither media nor people are essentially to blame. We come back to the churchmen. And if, as said, men who are Catholic priests have in all times and places given proof of their human weakness, then what is special about today's problem is its scale. The sin of h- amongst priests seems to be no longer scattershot but rather systemic. And, what angers so many people, it seems to have been systematically swept under the carpet by the higher clergy.

Alas, it is notorious that for tens of years now the Catholic Church has been infiltrated in the USA by h-s. Back in the 1980's, Fr. Enrique Rueda published his book "The h- network" to document this fact with a mass of evidence. Today one learns that the mainstream seminaries are riddled with h- professors and h- seminarians. As one bishop recently commented, a first step in cleaning up the present mess would be to "delavenderise" the seminaries. Another bishop commented how apprehensive are normal (i.e. "straight") young men of entering the U.S. seminaries today, for fear of being harassed by these perverts who are protected by the system!

But how can the system have reached this point? Here is where two systemic answers arise, neither of which is mentioned much today, if at all, and neither of which will be pleasing to today's Catholic hierarchy. That is exactly why there is a systemic problem. The first of these answers concerns the Mass, the second, still more generally, concerns the Ten Commandments.

As for the Mass, Archbishop Lefebvre always used to say that he could not have operated any of his seminaries with the Novus Ordo Mass (NOM). Everything possible was done by Rome in the 1970's and 1980's to make him introduce the NOM into his seminaries, but he said that had he done so, he might as well have put the keys in the seminary doors, and walked away! He himself never put it this way, but as far as he was concerned, a Catholic seminary without the true (Tridentine) Mass is like an atomic reactor without the uranium. There was no way he could make real priests with a dummy Mass.

For, he always said, priest and sacrifice are intimately related. There can be no ritual sacrifice without priest, no priest without sacrifice. The sacrifice is at the heart of the priest, and if you take away his sacrifice, you tear out the heart of the priest. So if you dummify the Mass, which is of course the Catholic priest's sacrifice, then you dumbify the priest. And if you dumbify the Catholic priest, then he is liable to turn in all kinds of dumb directions for substitute purposes and satisfactions, which will include h- activity. I think if Archbishop Lefebvre were alive today, he would say that, given that the Novus Ordo Mass has now been imposed on Catholic priests for 30-plus years, the astonishing thing is not how much h- activity there is amongst priests, but how little!

However, as in the whole of today's crisis of the Church, while the problem of the Mass is the outstanding symptom, the malady is broader and deeper. What the NOM is essentially tending towards is to put man in the place of God, direct violation of the First Commandment, "I am the Lord thy God, and thou shalt not have strange gods before me" (Exodus XX, 2,3). In fact the whole Newchurch's essential drift and aim is the idolatrous putting of man in the place of God. Now what does St. Paul (word of God) say are the consequences of idolatry? See Romans l, 18-31. "Men who detain the truth of God in injustice (18)... changed the glory of the incorruptible God into the likeness of the image of a corruptible man (23), wherefore [I underline] God gave them up to the desires of their heart, unto uncleanness, to dishonour their bodies among themselves (24)".

St. Paul goes on to repeat this cause and effect connection between breaking the First and the Sixth Commandments with specific fellayence to the sin against nature: "Who changed the truth of God into a lie; and worshipped and served the creature rather than the Creator (24). For this cause [I underline] God delivered them up to shameful affections. For their women have changed the natural use into that use which is against nature (26). And, in like manner, the men also, leaving the natural use of the women, have burned in their lusts one towards another, men with men working that which is filthy, and receiving in themselves the recompense which was due to their error (27)". And in case we have still not understood that idolatry is at the heart of the problem, St. Paul says it a third time! - "And as they liked not to have God in their knowledge [I underline] God delivered them up to a reprobate sense, to do those things which are not convenient (28)", and there follows a list of grave sins.

God forbid "Traditionalists" should throw stones at the weakness of mainstream priests, because we could be punished by His allowing us to fall into the same traps. But it is not Traditionalists who made two times two equal four. It is St. Paul, speaking for God, who puts his finger here on the systemic problem of the Newchurch. God uses this sin to highlight idolatry, and He seems now to be resorting to the secular authority to clean this sin out of His Church. Both moves are acts of mercy on His part. May He have mercy upon us all!

More positively, if I know h-, and wish to get him (or her) out of ill, let me do all I can to bring him back towards the true love and worship of the true God. It was when Augustine found the true God and began obeying the First Commandment, that he found the strength to obey the Sixth!

God bless us all, in Christ,
+ Richard Williamson