マニラのeそよ風

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第432号 2015/06/20 聖母の土曜日

Virgin and Child with Rosary (1655), Bartolomé Esteban Murillo
Virgin and Child with Rosary (1655), Bartolomé Esteban Murillo


アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 いかがお過ごしでいらっしゃいますか? 昨年12月以来、ご無沙汰しております。

 今回の「マニラの eそよ風」は、友人と恩人の皆様への手紙 第84号(2015年5月24日)の日本語訳をお送りします。

 第84号の要旨は次の通りです。「マラディアガ枢機卿が、2015年1月20日にした講話で、教会を今日の世界に対して開くために、「あわれみ」ということが第二バチカン公会議によって導入された改革に新しい精神を与えなければならない、と主張した。その「あわれみ」とは、道具としてつかわれ、罪に対する痛悔を要求せず、罪と罪人たちを良しとする視線でしかないかのように思われる。来たる聖年を考慮して、この一面的なあわれみと、本当のあわれみ、つまり "回心と、罪の拒絶とに完全に招くまことのあわれみ" とを識別することが必要である。今年中に捧げる私たちの祈りと償いは、2017年に100周年を祝うファチマのマリアの悲しみに満ちたけがれなき御心の要求への答えとならなければならない。」

 この「友人と恩人の皆様への手紙」を読むと、私たちの主イエズス・キリストの福音の中核をもう一度思いが行きます。

 「一人の罪人がくいあらためれば、くいあらための必要のない九十九人の義人より、天ではよりいっそうの喜びがあろう。」「くいあらためる一人の罪人のために、天主の天使たちは歓喜する。」(ルカ15章)

 天主は、罪人の悔い改めを呼びかけています。それは、アダムの時からそうでした。食べてはいけないと命じられた木の実を食べて罪を犯したアダムは、天主から逃げて隠れます。しかし、天主は、あたかも父親が迷子の子供を探すように、この罪を犯したアダムを探し求めます。「アダムよ、おまえはどこにいるか?」(創世記3章)

 主のあわれみは、罪人の回心を求めて呼びかけ、更に呼びかけ、忍耐強く待ち給うことにあります。そして罪人がもしも天主に立ち戻るのなら、彼らを決して退けません。「私に立ち戻れ、と主は言い給う、私はおまえを受け入れよう、と」(エレミア3章)"revertere ad me, dicit Dominus, et ego suscipiam te."

 「私に立ち戻れ、と万軍の主は言い給う、そうすれば私もおまえたちに立ち戻ろう、と万軍の主は言い給う。」"Convertimini ad me, ait Dominus exercituum, et convertar ad vos, dicit Dominus exercituum."(ザカリア1章)

 イエズス・キリストははっきり言います。ご自分のもとに来るものを決して追い出さない、と。「来る人を私は決して退けない。」(ヨハネ6章)

 「改悛して砕かれ、謙遜な心を、天主よ、御身は軽蔑し給わない。」"cor contritum et humiliatum, Deus, non despicies."(詩編50:19)

 さて、"Iubilaeum Extraordinarium Misericordiae", "Annus Sanctus Jubilaeum Misericordiae"は、各国語で "Année sainte de la Miséricorde"(フランス語), "Holy Year of Mercy"(英語), "자비의 성년 (慈悲의 聖年)"(韓国語)などと訳されています。

 日本語訳についてですが、日本では「いつくしみの聖年」と訳されましたが、ここでは「あわれみの聖年」と訳しました。何故なら、

(1)カトリック教会の公式の祈祷文である「公教会祈祷文」の訳には Miserere nobis!, Have mercy on us! が「我らを憐れみ給え」と訳されているのであって、「私たちをいつくしみ下さい」とはなっていないから。

(2)元来ラテン語の misericordia は、miseria (あわれさ、悲惨さ、みじめさ)を心する(cordia)ことであり、「あわれ」という言葉が入っている「あわれみ」が misericordia に合っているから。

(3)天主が、罪を犯し続ける被造物であるそれ自体で目も当てられないような匙を投げ出したくなるような私たち人間を、憐れに思って下さるのが天主の misericordia であり、天主は私たちを可愛いからではなく、惨めであるが故に悲惨であり無惨であるが故に、憐れんで下さる。正に日本語の「あわれみ」の対象はと、あわれであり、みじめであり、悲惨で目も当てられないようなものであるから。日本語で「あわれむ」とは、(「かわいい」「いとおしい」と思うよりは)「あわれ」に思い、そのみじめさやあわれさから引き出そうとすることだから。この「あわれみ」の概念には、罪という忌み憎むものがあるにもかかわらず、その否定的なものが存在するが故に、それが原因となって「憐れみ」の情が生じ、その悲惨な状況から救い出そうとする、という意味があるから。 たとえば「同病相憐れむ」とは、同じ苦しみ・病気・苦悩・艱難を持つ人々は、互いの辛さがわかるので同情し、助け合う、という意味。

(4)しかし日本語で「いつくしみ」とは、年下の可愛い子供や可愛らしい動物や植物などをかわいがって、いとおしく思い、愛情を注いで、大切に思うことであり、「いつくしみ」の対象は、客観的にも愛するに値するようなものだから。「いつくしみ」の概念には、その対象に否定的なものが無く、かえって愛するに値する肯定的なもの故にそれを「いつくしむ」という意味だから。

 現代では、「いのちをいつくしむ」とか「人生をいつくしむ」「文化をいつくしむ」「くらしをいつくしむ」「自然をいつくしむ」「自分をいつくしむ」「富士山をいつくしむ」「道路をいつくしむ」「春分の日 自然をたたえ、生物をいつくしむ」(祝日法第2条)、「わが町をいつくしむ」「家をいつくしむ」「海の恵みをいつくしむ」「猫をいたわりいつくしむ」などと使われているから。

という以上の理由からです。

 「あわれみ」が、対象の悲惨な憐れな否定的な状況を認めてそれから救い出そうとする、すなわち「あわれむ」ことであり、他方で「いつくしみ」が、対象を肯定的に愛すべき善であると認めてそれをそのまま大切にしようとする、すなわち「いつくしむ」ことである、という私たちの理解が正しいなら、マラディアガ枢機卿の講話を分析したフェレー司教様の言うように、新しい「あわれみ」の概念が、罪を否定せずそのまま容認するゆがめられた「あわれみ」であって、まさに日本語の「いつくしみ」の概念がそのまま当てはまると言うことが理解できます。

 その時、来るべき「あわれみの聖年」を、何故「いつくしみの聖年」と日本語に訳した理由が正に了解されます。

ではごゆっくりお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



友人と恩人の皆様への手紙 第八十四号
2015年5月24日、聖霊降臨の主日

日本語以外のページへ Letter to Friends and Benefactors no. 84
日本語以外のページへ Lettre aux Amis et Bienfaiteurs n°84


親愛なる恩人と友人の皆さん、

 私たちの母なる聖会がその渦中にある危機を、長々と述べ立てる必要はありません。それにも関わらず、いっそう緊迫した問題と混乱との時期へ私たちが追い込まれつつあることを示唆する、憂慮すべきいくつものしるしが、最近数ヶ月の間にありました。教会内での一致が失われているのは、ますます明白になっています。一方では信仰と道徳とに関して、他方では典礼と教会統治との両方へに関して、一致が喪失しています。私たちは、眼前に非常に困難な時代が控えているとみなすのが妥当です。奇跡でも起きない限り、恐れなければならないのは、今、霊魂たちはますます【指導と霊的な助けの無いまま】取り残されていき、教会位階(ヒエラルキー)からの指導を必要としているにも関わらず、そこからのどんな支援も見つけることはないだろう、ということです。


公会議の改革を救うための新たな「あわれみ」の概念

 私たちの言わんとする意図を説明するために一つの例を挙げます。教皇フランシスコがローマ教皇庁の改革についての討議をある枢機卿たちのグループに委ねましたが、その枢機卿たりの取りまとめ役であるオスカー・アンドレス・ロドリゲス・マラディアガ枢機卿がなさった講話がたとえばその一例です。この講話は、2015年1月20日、カリフォルニアのサンタ・クララ大学でなされたもので、──教皇の最も親しい相談相手であるマラディアガ枢機卿が指針としているビジョン(展望)とは何かを示しているために-----有益です。最初の論点は、枢機卿がその改革を実行しようと意志している事実であり──これによって、第二バチカン公会議以来着手された改革のすべてを私たちは理解すべきです──、その改革の数々が取り消し不可能となるようなやり方で、改革を遂行するつもりであることです。絶対に引き返すつもりのない、というこの意向は、偶然にも同じ講話の別の文脈で表明されています。

 しかしながらすでに実行された改革は、危機にさらされており、ホンジュラス人のこの枢機卿はそのことを認めています。何故なら、改革が教会内に重大な危機を引き起こしたからです。【この危機が生じた】その理由とは、あらゆる改革は、霊的なもの、改革の霊魂となる "精神" に生かされていなければならないのにもかかわらず、公会議後の改革はこの原則に則って為されなかった、それどころか、枢機卿によれば、公会議後の改革が、古い精神つまり聖伝の精神に手を付けずにそれを置き去りにしたまま実行され、その結果、改革の一部は理解されず、改革者らが期待していた効果をほとんどもたらさず、教会内に分裂病のごときものを生じさせるにまで至った、と主張しました。

 ロドリゲス・マラディアガ枢機卿は、強く次のように主張します。この教会の危機にもかかわらず、私たちは後戻りしてはならない、と。彼の意見によると、改革に一致した精神が、なおも染み込まれなければならない、改革を動機付け、それにエネルギーを与えるために新しい精神の注入が必要だ、とされます。この精神が、あわれみです。そして教皇は「あわれみの聖年」[訳注: 日本では「いつくしみの聖年」]の布告をしたばかりです……。


イエズスの聖心によるまことのあわれみ

 あわれみとはつまり、どういうことなのでしょうか? あわれみとは、それ自体、すべてのカトリック信者の心にとって大切な言葉です。なぜなら、これは私たちに対する天主の愛を最も感動的に顕示することを意味しているからです。過去数百年の間、イエズスの聖心の御出現は、人類に向けた天主のこのあわれみの力強い啓示以外のなにものでもありませんでした。同じことがマリアの悲しみに満ちたけがれなき御心への信心についても言われなければなりません。それにも関わらず、まことのあわれみは、この最初の天主からの、罪人と罪人のあわれさとに対する天主からの能動的な言い尽くせない感動的な働きかけを暗示しますが、それだけではなく、さらに天主に対する被造物の回心の瞬間において続いています。つまり「天主は悪人の死ではなく、むしろ悪人がその道を改めて生きるようにと望む」(エゼキエル33:11参照)のです。従って、福音書は回心と罪の拒絶と自己犠牲と償いの義務を主張します。聖主はこのように仰せにさえなりました。「悔い改めないなら、あなたたちもみな同じように滅びる」(ルカ13:5参照)と。

 回心へのこの呼びかけが、福音書の中心です。私たちは洗者聖ヨハネにも、聖ペトロにも、この回心への呼びかけを見つけます。説教に心を動かされた罪人たちは何をしなければならないのかと尋ねます。すると彼らは(洗者聖ヨハネと聖ペトロから)この勧めだけを聞きました──「回心して償いをせよ」と。ラ・サレット、ルルドやファチマといったここ最近のご出現において、聖母はまったく同じことを仰せになっています──「祈りと償いをしなさい」と。

 さて、新しいあわれみの新しい説教師たちは、罪や無知や惨めさのために失われた人間たちに対する天主からの最初の一歩をやたらに主張します。そうして彼らは、被造物から来なければならない第二の動き、すなわち改悛、回心、罪の拒絶を、いとも簡単に省略してしまうのです。新しいあわれみとは、究極のところ、罪を容認する眼差しでしかなくなります。天主はあなたたちを愛している……たとえ何があろうとも、と。


償いを要求しない新しいあわれみ

 マラディアガ枢機卿が示したいくつものあわれみの例は、残念ながら疑問の余地がありません。そのようなわけで枢機卿はこう主張します。結婚が崩壊し、新たに「融合した」家庭を始めたキリスト者たちは、教会生活に場所を有する資格が充分に与えられる、難しい話は抜きだ、と……。しかもこう宣言さえするのです。罪の状況にあるまま教会を離れた人々は、聖人たちと等しく天国を有するだろうと。彼は、この気の毒な罪人たちを咎めたという理由で、教会の聖職者たちを明らかに非難しています……。これが新しいあわれみです。これが、教会の制度と道徳との改革に、公会議以来実行され続けてきた改革とさらに現在検討中の新しい改革との両者に、永遠に変更不可能にすべく与えられる新しい精神です! これはきわめて重大です。しかし、このことは、なぜ私たちが「公会議の精神」と呼ばれるものに強固に反対しているのか、それを理解する一助ともなるかも知れません。事実、改革はこの新しい精神の名のもとに、まったく聖伝ではない精神の名のもとに導入されました。この精神が公会議に関するすべてを台無しにしたと、しかも、カトリック的に理解されうる部分でさえも台無しにしてしまった、と私たちは主張します。この精神はこの世のやり方を自分のものとすることです。これは、「親切」「あわれみ」「愛」というの名のもとに、この世の堕落や誘惑を良しとする視点から見ています。例を挙げますと、人々はもう他の宗教が間違っているとは言いません──でも、これはすべての時代の教導職が宣言してきたことです。人々はもうこの世の危険について教えません。「悪魔」でさえもここ50年の間に教会の用語から完全に姿を消してしまいました。この精神こそが、母なる聖会の現在の苦しみを説明しています。教会がこの世へ開かれたにも関わらず、その権威は消えつつあります。聖会は毎日、さらなる成員たちを、さらなる司祭たちを失い、現代社会になんの影響も及ぼしていないと悟るのです。かつては敬虔なカトリック国であったアイルランドでは、同性間の "結婚" が合法化されたばかりで、悲惨な例となっています。

 あわれみを切断することができるでしょうか? マラディアガ枢機卿が述べたように、公会議の改革に新しい精神を与え、聖伝の精神から断絶するという目的のために、改悛(悔い改め)の必要性を切り落としてしまうことができるでしょうか? とんでもありません! 枢機卿はこの講話において、三ヶ月前に聖年の大勅書を提示した教皇フランシスコの考えを代弁しているのでしょうか? それを正確に知るには非常に困難です。何故なら、一部の枢機卿たちが個人的に認め、数名のバチカン専門家たちがはっきりと認めているように、二年の間、ローマから来るメッセージは非常に矛盾しているからです。


切断されたあわれみと、まことの完全なあわれみとの区別をつける必要性

 では、私たちは聖年の恩寵を自らなくしてしまわなければならないのでしょうか? まったくその反対です。恩寵の水門が大きく開かれた時、私たちはふんだんに受け取らなけれはならないのです! 聖年は教会のすべての成員たちにとって素晴らしい恩寵です。私たちは結局のところ、福音の全ページと聖伝の典礼が教えるように、まことのあわれみによって生きています。ルフェーブル大司教様が聖ピオ十世会を導くにあたって基礎に置いていた「事前の識別」を保ちながら、私たちはこの混乱の時代において、一面的なあわれみを拒絶し、十全で完全なあわれみによって生きます。

 私たちが頻繁に遭遇し、間違いなく口にのぼるはずのラテン語はミゼレレ(miserere)です。私たちにとってこの言葉が指し示すものは、自分のあわれさ・みじめさ(miseria)を認め、それから天主に対してあわれみを求めることです。みずからのあわれさ・みじめさに気づくことは、私たちに許しを求めさせ、痛悔で満たし、ふたたび罪を犯さないようにするという意向が伴います。この動きを息吹かせるまことの愛は、罪に対する償いの必要性を私たちに理解させます。こうして犠牲は償いのためのものとなり、天主の正義を満足させるものとなるのです。これらのいろいろな働きが、あわれみの天主の赦しを得る回心のために不可欠です。天主は──まことに──罪人の死ではなく回心して生きることを望まれる方です。永遠の幸福を求めることは、罪の習慣を断ち切ることを望まない人、罪の機会を避け、ふたたび罪を犯さないようにと決心することを真剣に望まない人にはまったくの幻想です。

 惨めな罪人たちの回心が必要であることを言わない「あわれみ」について説教することは、天国のためには全く空っぽのメッセージであり、この世をその愚かさと、天主に対してますます大きくなっていく公然の反逆のうちに鎮静させる悪魔的罠となるでしょう。ところが天国は、こう断言します。「天主を侮ってはならない」(ガラツィア6:7)と。現代世界における人間の生き方は、あらゆる側面から天主の憤怒を呼び下しています。何百万という罪のない子どもたちの母の胎内での虐殺、自然にもとる結びつきの合法化、そして安楽死は、天に向かって復讐を叫ぶ罪であります。あらゆる種類の不正義は言うまでもありません……。


聖母マリアの悲しみに満ちたけがれなき御心によるあわれみ

 このあわれみを求める訴えを真剣にいたしましょう、ニネベの住人たちがしたようにです! 失われた羊たちを探しに行きましょう、霊魂たちの回心を祈りましょう、できる限りあわれみの業を、肉体的、特に霊的なあわれみのわざを実行しましょう。後者のわざは非常に不足しているからです。

 100年以上前、聖母がおん子の復讐のおん腕を引き止めておくのがやっとである、と仰ったのなら……今日、聖母はなんと言われるでしょうか?

 信仰における兄弟姉妹の皆さん、私たちとしては、あわれみの天主に今まで以上に聖性への深い回心を懇願し、天主の無限のおんあわれみの恩寵と赦しを嘆願するために、この聖年を活用しなければなりません。ファチマの聖母が要求されたように、聖母の悲しみに満ちたけがれなきみこころへの信心を実行し、私たちの全力をあげてこれを広めることで、ファチマの聖母のご出現100周年を準備しましょう。私たちは、聖母のご要求が、特にロシアの奉献がついにはふさわしく実行されるように懇願し続けましょう。マリア様に向けられたこの考えとあわれみの聖年との間には、なんの敵対もありません。その反対です! 天主が結びつけられることをお望みになったものを分割してはなりません。つまり、聖主がファチマのシスター・ルチアに説明されたように、イエズスとマリアの二つのみこころのことです。天主のおんあわれみがこの聖年の間に私たちにくださるであろうすべての恩寵から益を得るために、為すべき特別なわざについて、聖ピオ十世会の各管区は、皆さんにお知らせするでしょう。

 私たちは、このようなやり方で、すべての善意の人々を救うために、天主のあわれみ深い御旨にできる限りうまく、私たちの協力をお捧げするつもりです。

 願わくは聖主が皆さんの寛大さを祝福し、この聖霊降臨の主日に、信仰と愛徳の恩寵をあふれるほど豊かに注いでくださいますように。


+ベルナール・フェレー


[1] 「実際問題として、私たちの態度はあらかじめ為される識別に基礎を置くべきです。 (…) つまり、教皇様が聖伝と一致することを言われた時、私たちは彼に従います。信仰に反することや、信仰を傷つけることを奨励し、実行させようとする時、私たちは従うことはできません! このような態度の根本的な理由は、教会、教皇、そして教会の位階制度(ヒエラルキー)は信仰に奉仕するためにあるからです。 彼らが信仰を造るのではありません。彼らは信仰に仕えなければなりません。信仰とは創造されるものではなく、不変のものであり、受け継がれていくものです」(「彼らは主の王冠を奪った」ルフェーブル大司教、 Mgr Lefebvre, Ils L’ont découronné, Clovis, 2009, p. 259.)




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