マニラのeそよ風

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第425号 2013/05/01 勤労者聖ヨゼフの祝日

Saint Joseph


アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 いかがお過ごしでいらっしゃいますか? 明日から秋田の聖母マリア様への巡礼が始まります。カトリック教会のため、教皇様のため、司教様や司祭たちのため、たくさんのお祈りをするつもりです。

 先日、次のような日本のニュースを読みました。とても美しい話で、感動しました。素晴らしいお父さんだと思います。2013年03月02日のことです。

産経ニュース 2013.3.4 23:58
日本語のページへ 命かけ娘を温めた 10時間以上、抱きしめ…死者は9人に

(記事より抜粋) 北海道湧別(ゆうべつ)町で暴風雪の中、凍死した同町の漁師、岡田幹男さん(53)は、長女の夏音(なつね)さん(9)の体の下に両手を回し、娘の体を守るような状態で発見された。夏音さんは低体温症だが命に別条はない。父親が10時間以上も暴風雪から守り、体温で温めたことが娘の命を救った。岡田さんは3日朝、車から約300メートル離れた農業用倉庫前で、あおむけに横たわった夏音さんに覆いかぶさり、凍死しているのが見つかった。両手を夏音さんの体の下に回して抱きしめ、寒さから守るような状態だった。

 捜査関係者によると、発見時に岡田さんはすでに意識がなく、岡田さんの下にいた夏音さんはうめき声を上げ、その後泣き出したという。地元消防団員は「体温を分け与えるようにかぶさっていた。夏音さんが苦しくないよう、呼吸する隙間を空けたままの姿勢だった」と話す。

 岡田さんは、車の燃料がなくなり友人の家まで歩いて行くと知人に電話。その後、行方不明となり、知人が現場最寄りの地元消防に通報した。だが、隊員が出払っていて、さらに約7キロ離れた場所の他の救助隊が出動していた。  低体温症に詳しい苫小牧東病院(北海道苫小牧市)の船木上総(かずさ)副院長は「風雪から守られたこと、父親の体温に保温効果があったことが良かった。亡くなると体温は下がっていくので、もう少し救助が遅れたら娘も危険だった」と話す。


産経ニュース 2013.3.4 22:50
日本語のページへ 岡田幹男さん「妻亡くし2人暮らし」宮下大輝くん「一番元気で明るい子」

(記事より抜粋) たったひとりの娘をかばって父は力尽きた。北海道湧別町で亡くなった漁師の岡田幹男さんは一昨年、妻を亡くし、一人娘の夏音さんと2人暮らしだった。

 母親を亡くすつらい体験をした娘をとてもかわいがり、「一緒に料理を作ると話していた」(近所の女性)という。母親の親戚(しんせき)という同町の鈴木徹さん(60)も「子煩悩なやつだった。本当に子供をかわいがっていて…」と振り返る。

 夏音さんと一緒に朝ご飯を食べ、漁の帰りに児童館に迎えに行くのが日課。漁で取れたカキを一緒に届けてくれたこともあったという。鈴木さんは「兄弟もおらず、近くには頼れる親戚もいない。これから、どうなってしまうのか」と夏音さんの将来を思いやった。


 自分の命をかけて娘の命を守った岡田さんは本当に立派な父親だと思います。このニュースを読んでから、いろいろなことを考えました。日本の持つ最高の富は日本人自身であり、日本の生み出すことの出来る最高の富は、自動車でもなく空気清浄機でもなく、それらよりも貴重な日本人であること。子供と将来の世代を大切にすることこそ、私たちにとって一番大切なことだということ。

 私たちは将来の世代に、彼らが背負いきれないような負債を残すべきではありません。出来ることなら、支払いきれないような負の遺産を残すべきではありません。私たちの世代がおもしろおかしく乱費したために未来の世代に彼らが払いきれない借金を作るべきではありません。「負の遺産」で二つのことがあります。一つは国家の国債による借金です。例えば2011年度では、日本の国家歳出の約23%が国債の返済に充てられており、国家収入の約半分があらたな国債でまかなわれています。

 国家の借金を返済するには、税収がなければなりません。税収を上げるためには景気が良くなり、デフレから脱却する必要があると考えられています。ところで、デフレについてとても説得力のある良書があります。それは藻谷浩介著『デフレの正体』です(推薦します)。この分析によると、日本は内需が縮小しているのでデフレになっているのです。一番の解決は、日本に多くの子供たちが授けられることです。

 バブル経済を起こすことによってでは、デフレから脱却できるとは思えません。一時的には景気が良くなるかもしれませんが、それは根本的な解決ではありません。かえって将来バブルがはじけたとき、こんどこそ取り返しの付かないほどの大惨事になるのではないかと恐れます。今度のバブル破裂は、空前のものとなり日常生活を直撃するだろうからです。バブルがはじけないようにさらにバブルを起こさせ、さらに大きくした後の破裂だからです。

 日本の国債という借金や財政赤字もそうですが、二つ目の「負の遺産」として考えたのが、原発の使用済み核燃料です。私たちが使う電気の後始末を、一万年以上も私たちの子孫に処理を依頼する「負債」として残すわけですから。これ以上、将来の世代たちに放射能汚染の危険という負債を残すべきではないと考えます。

 確かに、原子力産業は、海外に売る商品として成り立つかもしれません。中国とかインドに売りつけて(?)、現在の日本の経済に貢献するかもしれません。しかし、日本が原発の輸出をしても、その原発がもしも事故を起こしたとすると、そうしたら日本が責任をとらされるに決まっています。日本のせいだ!と。シナリオとしては、もしも責任をとらないなら日本製品を世界中がボイコットするのではないでしょうか。日本は、ただ言うことを聞くしかないのではないでしょうか? 原発はアメリカとかフランスとかに任せて、日本はもっと良い点で世界をリードしたらいいのではないでしょうか? 日本はもっと安全でクリーンなエネルギーで世界に貢献することが出来るのではないでしょうか?

 日本は原子力の平和利用を通じて、核兵器の材料になり得るプルトニウムを持っているので、外交的には、潜在的な核抑止力として機能しているそうです。しかし、それは本当なのでしょうか?(現在、日本が保有する核兵器に転用可能な核物質であるプルトニウムの量は、2010年の推計で約45トンあるそうです。8kgのプルトニウムがあれば核爆弾1発が製造可能とすると、約5600発、国内保有分の約10トンだけでも1250発の核兵器を持てるそうです。)

日本語のページへ 核情報 > 日本が保有する2010年末のプルトニウム量、45トン─核兵器5600発分以上

 西村吉雄という人によると、日本が現在、公式に保有していることになっているプルトニウムは国内と、英仏に預けてある分を合計すると、多分、1万発ぐらい作れると言っています。

日本語のページへ Japan Business Press > 原発は潜在的核保有国となるための隠れ蓑

 しかし、抑止力になると言うよりも、むしろ原発の施設はテロリストの的になったり、敵からの攻撃の的にならないでしょうか?敵国は原発に普通のミサイルを落とせば、それだけで電源を失わせ、被曝させ、日本全国にプルトニウムをまき散らすことが出来るのですから。いえ、ミサイルを落とさずとも、テロリストがコンピュータ・ウイルスで原発を暴走させてしまうかもしれません。

 確かに、不足分を火力発電で補うために必要な燃料費は3兆円を超えるかもしれません。料金に転嫁すると家庭で約2割、産業では4割近く値上がりしてしまうかもしれません。産業界には大打撃となってしまうかもしれません、近視眼的には。しかし長い目で見ると、核のゴミを出さないことによる利益と、節約と自然のエネルギーの利用で、日本の将来にとって大きな利益と平和のもとになるでしょう。娘のために、娘の命を自分の体で守った岡田さんのことを知り、上のようなことを考えました。

 さて、今回は、友人と恩人の皆様への手紙 第80号の日本語訳をご紹介します。これは、二週間前に既にヨゼフィーナさんによって大変立派に翻訳されていたのですが、私の仕事の都合で発表するのがこんなにも遅れてしまい、愛する兄弟姉妹の皆様にはお待たせしてしまいました。ご理解を願います。

 聖ヨゼフよ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



友人と恩人の皆様への手紙 第八〇号
二〇一三年四月十五日

Mgr Fellay


親愛なる友人と恩人の皆様へ

 この手紙を書き上げるまで皆さんを待たせ続け、今となっては大変長い時間がかかってしまいました。このご復活節に、喜びをもって、私たちは自らの立ち位置を知りたいと望み、教会の現状について二、三の考察を差し上げたいと思います。

【導入】

 ご存知のように、聖ピオ十世会は、私たちの状況を正常化しようというベネディクト十六世の試みの最終的打診に続いて、二〇一二年のほとんどの間、微妙な立場に置かれていました。一方ではローマの提案に付随してきた要求──私たちが署名できなかった、そして今なお署名できない要求──により困難が生じました。他方では教皇様のご意志、あるいは教皇様が私たちに譲歩しようとしていることを、正確に私たちが知ることを許さなかった、聖座の明瞭さに欠けていたこと、による困難です。こういった不確かさが引き起こした問題は、二〇一二年六月十三日以降、はっきりした確認をもって、すなわち同じ月の三十日に、ベネディクト十六世ご自身が、教会法的正常化のために私たちに課された諸条件を、明確かつ曖昧さを残すことなく詳しく説明している手紙によって消滅しました。

 これらの条件は教義的な本性を有するものです。つまりこの条件は第二バチカン公会議とパウロ六世のミサの完全な受諾を要求しています。そして、エクレジア・デイ委員会副委員長、アウグスティン・ディノイア大司教が、去年の暮れに聖ピオ十世会の会員たちに通達した手紙で書いたように、教義的レベルに関して、私たちは依然として一九七〇年代に取りかかったのと同じ所に立っています。

 ローマ当局によるこの見解に私たちは残念ながらただ同意するしかありません。また、本会の創立者マルセル・ルフェーブル大司教の分析──それは公会議に続く十年間と死に至るまで変わることはありませんでした──が今現在でも当てはまることを認めるのみです。大司教様の非常に緻密な洞察力、それは同時に神学的かつ実用的でもありますが、公会議の開催から五十年を経た今日も、依然として有効なのです。

 私たちはこの分析を思い起こしたいと思います。この分析は聖ピオ十世会が常に自分のものとし続け、聖ピオ十世会の教義的立場及びその布教活動の指導原理となっているものです。すなわち、教会を揺るがしているこの危機には外的原因もまた存在すると認識しつつも、公会議そのものが教会の自己破壊における根本的役割を果たしている、ということです。


【一九六六年に書いたオッタヴィアーニ枢機卿への手紙】

 公会議の終わりにあたって、ルフェーブル大司教様は 日本語以外のページへ 一九六六年十二月二十日付のアルフレッド・オッタヴィアーニ枢機卿への手紙 の中で、教会のあらゆる場所で公会議が引き起こした大破壊を説明しました。私はこれを二〇〇五年九月二十九日付の友人と恩人の皆様への手紙・第六十八号ですでに引用しました。今日、この手紙から数節の文章をもう一度読み直すのは有益なことです。

==引用開始==

 公会議は現代世界における輝ける雲(例えば、真理を明確に宣言すること)となるべく準備されていた一方で、もしも公会議が現代の諸問題に関して、確実な教義の荘厳な宣言を含む準備された草案のみを使用していたなら、誰もが以下のことを断言できるし、残念ながら断言せざるを得ません。

 「つまり[ほぼ一般的に言って]、公会議が改革を始めた時、教会の正真正銘の教導権によって、聖伝の宝に決定的に属しているものとして教えられてきた真理の確実さを揺るがしたこと。」

 「それは、司教らの裁治権の伝達についてそうであるし、啓示の二重の源泉について、聖書における聖霊の息吹(霊感)、義化のための聖寵の必要性、カトリック洗礼の必要性、異端者、離教者、異教徒に於ける聖寵の命、婚姻の諸目的、信教の自由、終末について、等々についてもそうである。これらの基礎的な点に関して、聖伝の教えは明らかで、カトリック大学などで一致して教え続けられてきた。ところが第二バチカン公会議の多くの文献ではこれらの真理に関してそれを疑うことを許している。」

 「その結果は、早くもカトリック教会の生命において、導き出され適応された。つまり、

  • 教会、秘蹟の必要性に関する疑いは、司祭召命の消滅へと導いている。

  • 全ての霊魂が「回心」する必要性とその本性とに関する疑いは、修道生活への召命の消滅へと導いており、修練期間において、聖伝に従う霊性は崩壊し、宣教を無用なものとさせている。

  • 人間の尊厳の高揚、良心の自律、及び自由の高揚によって、権威の正当性に関する疑いと従順の義務に関する疑いが引き起こされ、教会から始まって修道会、司教区、世俗社会、家庭といった全ての社会を揺るがしている。」

 「傲慢の当然の結果は、目の欲、生活のおごりの芽が成長することである。現代、どれ程まで道徳的廃退がカトリック出版物のほとんどに行き渡ってしまったかを見るのは、最も恐るべき状況確認の一つであるかもしれない。カトリック出版物において何らの慎みもなく、性について語り、あらゆる手段を使って産児制限すること、離婚の正当性、男女共学、男女交際、キリスト教教育の必要手段としてのダンス、司祭の独身制などについて話題にしている。

  • 救われるために聖寵が必要であることへの疑いは、洗礼を過小評価させ、洗礼を延ばし延ばしにし、悔悛の秘蹟をうち捨てさせている。これは信徒らの態度ではなく、他でもない特に司祭らの態度のことである。御聖体に於ける現存についても同じである。あたかも現存を信じていないように行動するのは司祭らである。御聖体を隠したり、御聖体に対する尊敬の印を全て省略し、御聖体の名誉のための儀式を全くしないことによってである。

  • エキュメニズムと信教の自由の宣言に由来する、救いの唯一の源泉としての教会の必要性に関する疑い、唯一の真の宗教としてのカトリック教会への疑いは、教会の教導権の権威を崩壊させた。実にローマはもはや唯一必要な " Magistra Veritatis (真理の教師) "ではなくなっている。」

 「事実によってこれは動かし得ないことであるが、第二バチカン公会議は考えることも出来ないようなやり方でリベラルな誤謬を伝播することを促したと結論付けなければならない。全ての教皇たちがかつて予言していた通り、信仰、道徳、教会の規律はその基礎から揺るがされた。」

 「教会の崩壊は速い足取りで進んでいる。司教評議会に与えられた過大な権威によって、教皇は無力となった。(第二バチカン公会議後の)たった一年だけでも、何と多くの悲しい例を見たことであろうか! しかしペトロの後継者は、そして彼だけが、教会を救うことが出来る。」

 「教皇様が、信仰の力強い擁護者たちによって取り囲まれるように。教皇様が重要な諸教区に信仰の擁護者を任命するように。教皇様は、反対を恐れず、離教を恐れず、第二バチカン公会議の司牧的配慮を問題視することを恐れず、重要な文書によって、真理を宣言し誤謬を訴追してくださるように。」

 「教皇様が、司教様らが、良き牧者に相応しいように、信仰と道徳を個人的に、そしてそれぞれの司教区において立て直すように彼らを勇気づけて下さるように。勇敢な司教らを支え、彼らをしてその神学校を改革するように、神学校において聖トマス・アクィナスに従った勉強を復興させるようにさせるように。修道会の総長を励まし、修練院と修道院とにおいてキリスト教修業の基本原理、特に従順を維持させるように励まして下さるように。カトリック学校、健全な教えの出版事業、キリスト教家庭からなる会の発展を励まして下さるように。最後に、誤謬を述べる者たちを叱責し彼らを黙らせて下さるように。毎週水曜日の訓話は、回勅や教書、司教らへの書簡の代わりにはなりえない。」

 「おそらく私がこのように発言するのは無謀かもしれない! しかし私がこの文章を書いたのは、熱烈な愛による。天主の栄光を求める愛、イエズスへの愛、聖母マリアへの愛、主の教会への愛、ペトロの後継者でありローマの司教かつイエズス・キリストの代理者への愛によるものである。」

==引用終了==


【一九七四年の宣言】

 一九七四年十一月二十一日、エコン神学校への使徒的訪問の後、ルフェーブル大司教様は、かの 日本語以外のページへ 有名な宣言 においてご自分の主張を要約する必要性があるとみなしました。その宣言は数ヶ月後に、聖ピオ十世会の不当な、私どもの創立者とその後継者たちが、まったくの無効であると常に考えてきた、教会法的弾圧を生じることとなりました。この極めて重要な宣言は、本会の全会員のものである信仰宣言をもって始まっています。

==引用開始==

 「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる」

 「私たちは、しかしながら、第二バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否した」

 「実に、これら全ての改革はカトリック教会の瓦解と司祭職の崩壊、いけにえと秘蹟の無化、修道生活の消滅、大学・神学校・公教要理における自然主義とテイヤール主義、教会の荘厳教導権によって何度も排斥された自由主義とプロテスタント主義とに由来する教育のために貢献したし、今でも貢献し続けている」

 そして、この宣言はこの数行をもって締めくくられました。

 「私たちの霊魂の救いのために、教会とカトリックの教えとに忠実である唯一の態度は、改革を受け入れることを断固として拒否することである」

「それ故、いかなる反乱も、苦々しさも、憎悪もなく、私たちは常なる教導職の星の導きの元、司祭養成の事業を続ける。私たちは聖なるカトリック教会に、教皇様に、そして未来の世代に、これよりも偉大な奉仕をすることが出来ないと確信している」

==引用終了==


【一九八三年の司教宣言】

Bishop Antonio de Castro Mayer  一九八三年、聖伝のための戦いの意味を思い起こさせるため、日本語以外のページへ ルフェーブル大司教様はアントニオ・デ・カストロ・メイヤー司教様との共同署名による司教宣言 を、ヨハネ・パウロ二世へと送りました。その中で、大司教様は再度、公会議後の改革と至るところに広がる破滅的な精神が引き起こした大破壊を非難しました。大司教様はとりわけ、偽りのエキュメニズム、司教合議制、信教の自由、教皇権、そして新しいミサの主旨についての以下の主張を強調しました。


偽りのエキュメニズム

 「この宗教統一運動はピオ11世が回勅 "Mortalium animos" の中で教えたものと反対である。この教皇はこう言った。"この点に関して非カトリック者がキリスト者の諸教会の一致を実現させようとして使っている手段のこの複雑な宗教統一運動とこの問題の根源にある、ある誤った意見をここで示し排斥するのが適当である。この意見を支持する者たちはキリストのこの言葉を常に引用する。「彼らが一つとならんことを。一つの群れ一つの牧者とならんことを」(ヨハネ17:21、10、16)そして彼らはこのキリストの言葉は一度も実現したことのなかった望み、祈りを表現していると主張している。彼らは実にキリストの本当の教会が持つべき印である信仰と統治の一致が実際的に今日に至るまで決して存在したことがなくまた今日でも存在していないと言いたてている。" 」

 「カトリックの道徳と法律が排斥するこの宗教統一運動はついに「非カトリックの役務者」から悔悛、御聖体、終油の諸秘蹟を受けることを許すに至ってしまった(新教会法典Canon 844)そしてカトリックの聖務者に御聖体の秘蹟を非カトリック者に配ることを許可し「宗教統一的なもてなし」を促進させている。」


司教合議制

 「第二バチカン公会議の文書 "Lumen Gentium" によって既に暗示された教えが今度は新しい教会法典によって明確に採択された。それは、教皇を含めた司教達の団体は同じく教会において最高権力を享受し、それは常住し恒常的であるという教えである。」

 「この二重の最高権力という教えは教会の教導職の教えとその実践に反している。特にこれは第一バチカン公会議とレオ13世の "Satis Cognitum" とに反している。つまり、[教会の聖伝によれば]ただ教皇だけがこの最高権力を保持し、教皇が適当だと判断する限りにおいてまた非常事態において、これを教皇が他のものに伝えるのである。」

 「この重大な誤謬に教会の民主主義的な方針が付け合わされている。つまり、新教会法典が定義するように「天主の民」に主権が存すると言われている。このヤンセニスト的な誤謬は、ピオ6世がこれを勅書 "Auctorem Fidei" によって排斥している(Dz.2592)。」


信教の自由

Pope Pius IX  「第二バチカン公会議の宣言 "Dignitatis humanae" は、「宗教の事柄に関し」人間に誤った自然権があることを断言している。このことは過去の教皇の教えと反対であり、彼らは厳しくかかる冒涜を否定している。」

 「ピオ九世は、"Quanta Cura"とシラブスの中で、レオ十三世は "Libertas Praestantissimum" と "Immortale Dei" の中で、ピオ十二世はイタリアのカトリックの法律家達に対してした演説"Le Riesce"の中で、人間理性と典からの啓示がかかる権利を打ち立てることを否定している。」

 「第二バチカン公会議はどこででも「真理は真理に固有の力でしか押しつけられることができない」と信じ宣言している。これはピオ六世がピストイア公会議のヤンセニストたちに反対の声を挙げて教えた教えと完全に反対である(Dz.2604)。公会議はついに真理を支持しない権利、真理に従わない権利を宣言し、政府に、真理の宗教と偽りの諸宗教との法的平等を確立するようにさせ、宗教を理由に差別をもはやしないことを強制するという愚かさにまで達した。」

 「この偽りの人権が公会議によって認められたその結果として、私たちの主[イエズス・キリスト]の社会統治の基礎が破壊され、宣教地における教会が、霊魂達がそのくびきの下にいるサタン的な力に対抗する戦いをし、我らの主を多くの人々の精神と心において統治させようとする権威と権力をゆるがせにしている。宣教精神は極端な改宗を勧めるものとして断罪されるだろう。」

 「宗教に関する国家の中立は、国家の大多数がカトリックである場合、我らの主とその教会にとって屈辱的である。」


教皇の権力

 「たしかに、教皇の権力は教会において最高権力である。しかし、この権力といえども天主の権力に従属するものであるから、絶対で無制限ではない。そしてこの天主の権力は聖伝、聖書、教会の教導職によって既に公布された諸定義によって表明されている(Dz.3116)。」

 「教皇の権力はその権力が教皇に与えられた目的によって制限されそれに従属している。この目的は第一バチカン公会議の憲章 "Pastor aeternus" の中に明らかに定義されている(Dz.3070)。教会の構造を変更し、それを「天主の権利」に対して「人間の権利」と呼ぶことを主張することは、たとえば、信教の自由において、新しい教会法典によって許可された「御聖体によるもてなし」において、教会の中における二つの最高権力の肯定においてなされたことは、耐え難い権力の乱用である。」

 「これらの場合において、またその他のこれに似たような場合において、全ての聖職者とカトリック信者にはこれに抵抗し、従順を拒む義務があることは明らかである。盲目的従順はその時異常であり、誰一人として天主よりもむしろ人に従順だったことの責任を免れ得ない(Dz.3115)。もし悪が公であり、霊魂にとって躓きの対象であるときには、この抵抗は公でなければならない(S.Th.,2ae2ae,q.33,a.4)。」

 「以上述べたことは、権威の下にある者らと全ての正統的な権威との関係を規定している倫理の基本原理である。」

 「今や、聖伝とカトリック信仰に堅く留まるもののみが罰を受け、異端説を唱え、あるいは本当の涜聖をやり遂げた者どもは全く心配すらしないと言う事実から、この抵抗が正しいことであることの確証を見いだす。なぜなら、これが権力の乱用の論理だからである。」


新しいミサ

 「トレント公会議の第二十二総会でなされた教えとは反対に、またピオ十二世の回勅 "Mediator Dei" とは反対に、ミサにおける信者の参加の余地を誇張し、司祭の地位をただの座長におとしめ、蔑ろにした。御言葉の典礼の地位を誇張し、罪の償いのためのいけにえという地位を蔑ろにした。共同体の食事と言うことを誇張してそれをし神聖化し、しかも、全実体変化による御聖体における主の現存への敬意と信仰を犠牲にしてまでもそうした。」

 「聖なる言語を廃止することにより無限にミサ典礼様式を多元化し、世俗的なあるいは異教的な要素を持ち寄ることによりそれを世俗化させた。また信者の本当の信仰と本当の敬虔の念を犠牲にしてまでも誤った翻訳を広範囲に広げた」

==引用終了==


【ルフェーブル大司教様のアシジの集会に対する抗議】

 一九八六年、ルフェーブル大司教様はアシジの諸宗教会議に猛烈に抗議なさいました。それはカトリック教会での前代未聞のスキャンダルであり、何にもまして、天主の十戒の第一戒「われを唯一の天主として礼拝すべし」への違反でした。アシジの集会の中で、キリストの代理者は、公に全宗教の偽りの神々を所望するため、その代表者たちを招待しました。私どもの創立者はのちにこう言われました。カトリックの心を持つすべての者には耐え難いこの集会を、大司教様は司教聖別に取りかかることを可能にするため、以前から懇願していた天からのしるしの一つとしてみなした、と。


【シュミットバーガー神父様の一九九一年の手紙】

Father Schmidberger  一九九一年二月二日付の友人と恩人の皆様への手紙・第四十号で、聖ピオ十世会第二代総長フランツ・シュミットバーガー神父様は、聖ピオ十世会全体における疑問を取り上げ、信仰に反する現代の誤謬についての簡潔な要約の中で、カトリック的立場をもう一度述べました。また、私たちは同僚数名に、さまざまな職務におけるこれらの主張のすべてを携帯用冊子のようにしてまとめてくれるよう頼みました。その冊子はそれ以来増刷を重ねており、その中にはマチアス・ガウドロン(Matthias Gaudron)神父様による優れた著作 日本語以外のページへ 「教会内における危機に関する公教要理」 という本が含まれています。


【二〇一三年現在、同じ原理による、信仰を守る同じ戦い】

 現在でも私たちは同じ路線に沿って、ルフェーブル大司教様とシュミットバーガー神父様が代わる代わる宣言したことを繰り返すだけです。お二人が非難したすべての誤謬を私たちは非難します。私たちは天と教会の権威者たちに、とりわけ新教皇にしてキリストの代理者、ペトロの後継者なる教皇フランシスコに、霊魂たちの滅びをお許しにならないようにと乞い願います。なぜなら霊魂たちはもはや正しい教義、啓示された信仰の遺産、それなくして誰も救われることはできず、誰も天主を喜ばせることができない教義を教わらないからです。

 本質的なもの、人生の目的と生命、救霊から自らを引き離す罪の重大さを人々から隠すなら、人々に仕えるため自らを奉献することに何の意味があるでしょうか? 貧しい人々、困窮した人々、老齢の人々、そして病人たちのためにする愛徳のわざは、常に教会のまことの関心事であり続けています。私たちはそういったことから逃げてはなりません。でもそれがもっぱら人間中心の慈善事業になってしまうなら、そのとき教会はもはや自らの使命を実行してはおらず、霊魂たちを天主へと導いてはいないのです。教会の使命とは、信仰、希望、愛、そして恩寵という超自然的手段によってのみ、故にこれらに反対するすべてのこと、すなわち信仰と道徳に反する誤謬を非難することによってのみ、真実に実行され得るのです。なぜならその非難の欠如の故に人々が罪を犯すなら、永遠の罰を受けるからです。教会の存在理由は、永遠の滅びに陥る不運を避けさせるべく、霊魂たちを救い、霊魂たちを助けることだからです。

 こういうことが明らかになったからには、この世を喜ばせることはどうしてもできません。この世は歴史が教えるように、教会にたびたび激しく反抗するからです。

 さて、私たちは二〇一三年のご復活を迎えており、教会内の状況はほとんど変化していないままです。ルフェーブル大司教様の言葉は預言的口調を帯びています。[大司教様が言われた]すべてのことが実現し、救霊のメッセージをその牧者たちからもはや聞くことはない霊魂たちのさらなる不幸に対し、すべてのことが実現し続けています。

 私たちは、この恐るべき危機の継続と、パウロ六世も認めた教会の自己破壊を押し進めている高位聖職者たちと司教たちの数の多さに怯むことなく、自らの能力の限界まで、教会はそのドグマも道徳も変えられないと宣言し続けています。というのは、誰であってもこの尊敬すべき制定に対して、本物の大惨事を引き起こすことなく、手を加えることができないからです[訳注:手を加えて教会の信仰や道徳らを変えようとするなら大惨事となるのは必須である]。外的形式に関しての本質的でない修正はされなければならないことがありますが──すべての人間的制度でも起きるように──すべての世紀に先んじて教会を導いてきた原則に反する決定は、どんな場合にもされ得ないのです。


【聖ヨゼフに対する奉献】

 二〇一二年七月に総会が決定した聖ヨゼフへの奉献は、この決定的時代にふさわしく行われているところです。なぜ聖ヨゼフへの奉献なのでしょうか? 聖ヨゼフは聖会の保護者だからです。聖ヨゼフは、天主なるおん父が天主なるおん子に関して彼にお委ねになった役割を、キリストの神秘体のために果たし続けています。キリストが教会のかしらであり、神秘体のかしらであるが故に、救い主であり人となられた天主のおん子の守り手の責務を負ったヨゼフは、引き続いて、今、その使命をおん子の神秘体全体へと広げられたのです。

 ちょうど聖ヨゼフの役割が非常に控えめで、大部分隠れておられたように──完全に効果的ではあったものの──今日、この保護者としての役割もまた優れた思慮深さとともに果たされています。聖ヨゼフへの奉献は数世紀にわたってようやく明示され、ますます明確になりました。最も偉大であり、最も目立たない聖人の一人です。聖ヨゼフを全教会の保護者として宣言したピオ九世にならって、この役割を確認し聖会の保護者なる聖ヨゼフへの素晴らしい祈り──私たちは毎日聖ピオ十世会において唱えています──を導入したレオ十三世にならって、聖ヨゼフに対して非常に特別の信心を持っておられ、その名を付けられた聖ピオ十世[ジュゼッペ・サルト]にならって、私たちは、教会史の中のこの悲劇的時代において、この聖ヨゼフの信心とそのご保護を、私たち自身のものとして選び取りたいと思います。


【結論】

 聖ピオ十世会の親愛なる友人と恩人の皆さん、皆さんの祈りと寛大さ、ルフェーブル大司教様が引き受けた教会の復興の働きへの援助に対し、皆さんへの私の感謝を表しつつ、私の心のすべてを挙げて皆さんを祝福致します。その上、皆さんの家族がカトリックの聖伝に忠実に留まるため必要とする天主からの恩寵を、聖ヨゼフが皆さんのために勝ち得てくださいますよう懇願致します。


+ ベルナール・フェレー


英語訳は次にあります。
日本語以外のページへDICI: Letter to Friends and Benefactors (April 2013)