第416号 2011/01/25 聖パウロの回心の祝日
アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、 昨年の8月15日付けでマニラの教会と学校の責任を受け持つようになって満5ヶ月になります。 ここマニラではいろいろなことがありました。 まず、私たちの教会の屋根の修理とペンキ塗り、教会の装飾と金箔の張り替え、学校の規律の強化、聖ピオ十世会の40周年行事も含めたマックファーソン神父様の歓迎会、9月の司祭の黙想会、10月7日には私たちの教会と学校、また教会の全ての信徒を聖母の汚れなき御心に奉献(全ての信徒がサインをしました)、10月30日にはお昼の12時から夜の12時まで、フィリピンでの生命と家族に関する天主の法が守られるための聖体礼拝とその日の荘厳ミサがテレビでの生中継、10月31日の王たるキリストの祝日とその聖体行列、国会の公聴会に出席(三回)、フルーガー神父様をフィリピンに迎えたこと、12月8日の無原罪の御宿りの祝日の準備(教会の飾り付けなど)とその荘厳ミサ、ミサ・デ・ガロ(早朝のノベナ・ミサ)、「出産健康法」に反対するためのロザリオの十字軍、聖イグナチオによる霊操の5日間の黙想会(男性のため)、さらに年を明けると、御公現の荘厳ミサ、教育省による学校の監査(学校運営の許可の更新のため)、2010年度の会計報告の準備、来る6月から始まる新学年度のためのハイ・スクールの準備、新年から教会の経理と学校の経理との職員の完全な分離、2月の司祭研修会(2月7日から11日)の準備、ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のフィリピン訪問(2月25日から3月10日)の準備など、様々な行事や出来事がありました。 教会のために働いてくれている方々がより効果的に仕事が出来るように、一緒に働いてくれている神父様たちがより司祭としてよく聖務を遂行することが出来るように、一緒に生活しているブラザーたちがいつも天主様を愛するために毎日を奉献することが出来るように、学校の生徒たちや教師たちが、安全に秩序だって学び教えることが出来るように、祈り働いております。 愛する兄弟姉妹の皆様からの暖かいご声援やお心遣い、優しいメッセージ、お便り、ご親切な配慮、などをいただき、とても嬉しくとても励まされ、毎日の責務を出来るだけ善く果たそうとしております。 さて、大変遅れましたが、聖ピオ十世会総長のフェレー司教様の「友人と恩人の皆様への手紙」第77号の日本語の訳が出来ていますので、愛する兄弟姉妹の皆様の元にお届けいたします。 天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように! トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.
聖ピオ十世会総長の
親愛なる友人と恩人の皆様へ 四十年前の1970年11月1日、ローザンヌ・ジュネーブおよびフリブールの司教であるフランソワ・シャリエール司教様が聖ピオ十世司祭兄弟会の創立布告文書に署名されました。その当時、私たちがこの四十年間をたどってきた道のりを苦労の内に歩まなければならないだろうなどと誰が考えたことでしょうか? 何故なら、この創立の日以来、本司祭会が直面した出来事の総ては、あらゆる想像を絶するものだからです。そもそも、五年後に本司祭会を打つことになっていたあの不当な廃止が始まります。オッディ(Oddi)枢機卿は、何故聖ピオ十世会がこの状況にあるのかその理由を要約してこう言います、ルフェーブル大司教は公教会への余りに大きな愛から行動してしまったのだと!聖ピオ十世会が受けた排斥の驚くべき数々を説明するためには、むしろ意外な論拠でした。それでも確かな事は、本司祭会が教会史上類のない運命を知ってしまったということです。 四人の司教聖別は、本司祭会がほとんど創立初期から巻き込まれてしまっていた論争を確かに増幅しました。それにもかかわらず、この論争は、カトリック教会の最も重要な諸原理の保存を大切にしなければならないとうする人々の心を動かす事を決して止める事はありませんでした。彼らは、 “信徒(フランス語で fidèles 忠実であるという原意)” という自分たちの肩書きを誇りにして、これらの本質的な要素<原理>に極めて堅く結び付き“聖伝主義者”というレッテルを付けられるに値する程でした。彼らは、論争や破壊また革命を嫌悪しているにもかかわらず、初期の頃から此の方、権威に公然と楯突く反逆者であるとか、反対者であるかのように見なされたのでした。彼らはこの権威の承認を誠実に望み、それでいて断固として反対も主張しているのです。 そうです、短い歴史の間に私たちが直面して来た一連の論争は、自らが忍んできた試練を回想した時の聖パウロの言葉を、深く湧き起こる驚愕をもって私たちに復誦させるのです:「名誉の時も、恥辱の時も、悪評の時も、好評の時も、(天主のしもべとしての)自分を主張する。偽り者と思われても真実であり、無名の人のようであるが人に知られ、死に赴く人のようであるが生きており、罰を受けた者のようであるが死に渡されず、悲しみに沈むようであるが常に喜び、貧しい者のようであるが多くの人を富ませ、何も持たぬ者のようであるがすべての物を持っている。」(コリント後書6:8-10) ところでこれらの熟慮を、私たちはさらに遠くまですすめる事が出来ます。それは厳密に言いますと、私たち自身の従順のために、それもとりわけ永遠の公教会によって宣言された様々な真理に対する忠誠のため、この公教会によって排斥された誤謬に対する私たちの対立のため故に私たちが罰されているのを見ると、なおさら考察が進みます。 これこそが、私たちに公教会に於いて今日、権威を持っている人々から余りに多くの呪いの言葉を得させてくれたものです。今日でさえ、私たちを離教者だと見做すか、さもなければ、そう断言さえ人々がいるほどです。ただ単に私たちは、救霊の福音を広める事のみを望んでいるだけにも拘らず、私たちの活動や計画は多くの方によって危険だと見做され、私たちの活動の取るに足らないものでさえ、それとは完全に見合わない反応を引き起こしています。彼らは悪魔自身から身を守る為であっても、これより大きな予防策を採るでしょうか? 実に私たちは、聖母マリアに向かい預言者シメオンが告げたあの印を、つまり聖主の逆らいの印を身に帯びているのです。仮にそれが私たちの心に多くの苦しみや、多くの無理解を引き起こすとしても、私たちは何があろうと、聖主の御苦難に与り、崇高な至福八端に、それも聖マテオによって挙げられた最後の至福に与ることを嬉しく思っています:「私のために人々が罵り、責め、さらに数々の讒言を言う時、あなたたちは幸せである。喜びに喜べ。あなたたちは天に於いて大きな報いを受けるだろう。」(マテ5:11-12) これら全ての要素は、教会はこの世にあって“戦闘の教会”という名を持っている事を私たちに思い起こさせます。何故なら、兄弟会は常に戦わなければならないからであります。聖主から教会に割り当てられた究極目的は、霊魂の救いであり、戦い無くしては達成出来ないものです。この戦いは基本的に霊的ですが、現実のものであり、ここかしこで程度の差こそあれ、一時的な傷跡を残しています。 原罪がもたらす傷<弱さ、無知、悪意、肉欲の四つ>をもって悪魔が支配するこの世に生まれて来た、哀れな霊魂たちを悪魔から取り戻すため、私たちの聖主イエズス・キリストは、悪魔との決定的な戦いをしました。この戦いはあらゆる時代に存在する戦いであり、それを忘れる事は、人類の大いなる歴史に関して、理解することをできなくさせてしまうでしょう。私たちは、日々この戦いの傷跡を身に帯びており、そのことは大いなる喜びの機会です。霊性の著者たちは、試練というものを常に良き印と見做し、更には<天主による>寵愛の現れとして考えてきました。今日の人々は、これらの霊的な戦いの基本的真理を忘却しており、それどころかこの真理を拒絶さえしようと、あらゆることをしています。そこで、私たち自身の肉体の内にこのような真理を生き生きと保つ事を以って、自分たちの小さな役割を果たすことは嬉しい事です。 私たちが平和を望まないということではありません。平和というものは、天主の善き御摂理のままに、定められた時間に来るものであり、私たちは天主を急かすことを望みません。 これに関しては、尊敬する本司祭会創立者のマルセル・ルフェーブル大司教様が私たちの為に辿られた小道にきっちりと従います。それはカトリック信徒に訪れ得る、いとも恐ろしい試練という暗い影、つまり、ローマ当局またそれどころかキリストの代理者にさえも反論するという状況に置かれるという試練においてのただ中にあって輝く小道です。 この四十年は、確かにルフェーブル大司教様の判断力が如何に正確であったかを示す教訓で満ちています。第二バチカン公会議について申し上げるなら、それは私たちが経験している危機の原因、つまり司祭職の退廃、そして教義の弱体化、さらに俗世界や他宗教に対する教会の前例のない親睦、そして自由主義の原因となりました。しかしまた、施すべき治療法については、それはカトリック教会の数世紀に亘る規律と、教会の教義への忠誠とに懸かっているのです。 本当に、私たちには何一つ発明する必要などないのです!聖主が御自身の教会にお与えになった手段は、依然相も変わらず実り豊かであり、永遠に実り豊かであり続けるでしょう。何故ならそれは私たちの創造主にして救世主である天主より由来するものでありますから。 また信仰と恩寵は時間と空間に関するあらゆる境遇、全ての偶有性の限界を超えています。と言いますのも、この信仰と恩寵との両者は、本質的に、人間本性や人間が有する諸能力および様々な希望を越えているからです。これらの手段は固有の意味で超自然的なのです。 従って、ルフェーブル大司教様の小道は依然として現在のものです。ルフェーブル大司教が30年~40年前に行ったことは、今でも完全に当てはまります。このことは、このような司教様を私たちに‐‐‐そして全公教会に‐‐‐お与え下さった天主に対して、大いなる感謝を要求するのです。仮にこの司教様が公教会に於いて与えて下さった貴重な指示が守られるなら、キリストの全神秘体<=公教会>はより健康になるでしょうし、そう長くない内にこの危機から抜け出すだろう事は確実であります。しかし、公教会で進行している事柄を目撃すると、仮に希望の微かな光がここかしこに現れているとしても、全体的にはこの教会という船は、第二バチカン公会議に於いて口火を切られた道のりを辿っていると認めなければなりません。この経過は、確かにベネディクト十六世によって以前よりはやや遅くなりました。しかしそれでも、パラシュートによって落下速度が落とされたとは言え、墜落速度の弱まった自然落下をこえるものではありません(=たとえその悪化の速度が弱まったとはいえ、カトリック教会の危機は依然と悪化している)。 *** ルフェーブル大司教様が託して下さった教えの中で、彼が互いに親密に関連していると見做している二つを私たちは強調したいと思います。 第一は、私たちの聖主イエズス・キリストの社会的王権について、言い換えるなら、万物が全てこの御方によって、またこの御方の為に創られた(コロ1章)、全宇宙の創造主である真の天主にして真の人なる聖主イエズス・キリストの敬称と権利についてです。「私には天と地の一切の権威が与えられている。」<マ 28.18> この聖言葉は、主の御唇から私たちに語られました。この王権は、例えイエズス・キリストの第一の使命が人類の救いであるにせよ、だからといって、この第一目的に役立てる為に御自分の別の特権を使うことをやめることはないとよく表現しています。キリストの掟が息吹く原則が染みこんだ市民社会が、自然法と永遠法とに適合した法を用いることで、霊魂たちにこの有益な影響力を発揮する時、人々はどれほどより容易に救霊を全うする事でしょうか!このような市民社会がどれだけ多くの利益を、市民社会の構成員である人間たちに、つまり天主が超自然の目的ゆえに創造し給うた人間たちに与える事が出来、さらに与えるべきであるか、その全てをすっかり悟るためには、深く考え込む必要などありません。大司教様は、銘(めい)碑(ひ)にでも刻まれるべき文章で、この問題を要約されました:「聖主イエズス・キリストの社会的君臨ということが、もはや我々の指導者praepositiたる人々の関心事や活動の中心ではなくなったためにこそ、人々は天主や司祭職の意味を見失ってしまった」と。世俗に追従する事を望み、彼らは天主という本質的なことを視界を失ってしまったのです。天主が人々を御自分へと導く為にお選びになった人である司祭についても、同じ事が言えます。 第二バチカン公会議の終わりに際して既にパウロ六世はこう言っています。他の如何なるものにもまして、教会は人間への崇拝を行う、と。ヨハネ・パウロ二世は、教会の人間中心主義について語っています。上述の表現は、明らかに第二バチカン公会議以降に起きた方針変換を示しています。つまり、教会の新しい関心事が人間であるということです。 今まで教会の関心事は---また、何時の世もそうでなければなりませんし、それ以外の目的など存在しないのですが---救霊とは切り離せない天主の栄光でした。天主に仕え、天主を褒め称え、天主に栄光を帰する事こそ、人間の生きている理由であり、従って教会の生きる理由でもあるのです!世の中の風潮に倣ってしまうなら、それはあたかも私たちが、天主を忘れたかの様です。何故なら、天主の神殿の中においてでさえても、この神殿で人間崇拝を代わりに行っているのですから。 願わくは、公教会当局が、我らの聖主なる天主に俗世界に於いて有すべきその地位を返還しますように。そうすれば、公教会の復興はまるで奇跡に因るかの如く後に続くでしょう!もちろん、全てを混同してはなりません。カトリックの教義は、教会と市民社会とが、各々が固有の目的と手段を持っている二つの完全無欠な異なった社会であるという事を常に認識して来ました。しかしこの事は、二つの社会のどちらからも天主を排除する事を意味しません。 自由主義および社会主義の世の中は、天主の頸(くび)木(き)から解放される事を望んでおりますが、人間という被造物にとってこれ以上に致命的なものは何一つありません。創造主からの独立を切望することが、今日ほど遠く常軌を逸脱した事は一度としてありませんでしたが、その現代社会の現状は、日々自らの無分別な計画の惨めな結末をさらに広く蔓延させているのです。至る所、不安定や恐怖が存在しています。本当にこの支配者たちは、来る(きたる)数年間に向けて何を計画中なのでしょうか? またビジネスマンや経済学者たちは何を考えているのでしょうか? 「イエズス・キリストに君臨する時が来なければ、国家に存続する時もやって来ない。」(ピー枢機卿)超自然のものに限らず、全てのものはキリストの内にその持続性を見出すのです。天主なき世界には意味はないのです。それは不条理なものとなってしまいます。全被造物に共通の目的は、天主の内に存在しますし、何時までも天主の撃ちにあり続けるでしょう。従って、正真正銘の平和と繁栄をこの世に於いて獲得する最高の手段とは、この世界を創られた御方を尊重し、彼に服従する事なのです。 それこそが今日の世界に公教会が想起させるべき事であり、それこそが司祭たちの介入する場所なのです。この司祭の使命に就いては、ルフェーブル大司教様が私たちに思い起こさせています。これが第二の教えであり、それは第一の教えと親密に関連しています。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 堕落した世界は、原罪後の人間本性同様、御父によって送られたキリストの外にその完成を見出す事は出来ません。たとえ聖主の御使命が本質的に超自然なものであるにせよ---何故ならこの使命は、天主の正義を満足させる十字架の犠牲(いけにえ)による、人類の救いや贖いや罪からの浄めと関係しているのですから---超自然の目的に運命付けられた人間に、それと同時に、人間的かつ市民的な社会の成員である人間に関わるのです。従って人間が聖化されるなら、当然の事として人々は人間社会に対して最大の善をもたらすのであります。救霊の御計画には、対立もしくは矛盾の余地など存在しません。その反対に、超自然も自然も自分に固有の場所と秩序に留まりながら最大に調和することがまた最高に望ましいのです。 ですから、大司祭なる聖主の犠牲の永続化にすっかり捧げられた司祭というものは、天主に当然与えられるべき崇拝と崇敬をその天主に捧げ、それと同時に人類に天主の恩恵をもたらすのです。 常に世界はこの仲介を必要として来ましたし、この仲介こそが第二のキリストalter Christusとして、人類の将来に於いて中心的役割を果たす司祭の職務として常にあり続けているのです。 「キリストに於いてすべてを復興する」とは、その他いろいろの中から自由に選択するもののひとつではあり得ません。それはものごとの本性から、また、創造された存在という身分から生ずる現実かつ真実の必然なのです。現代社会が、このような講話に耳を閉ざしていようが、この真理はそれにおかまいなく真理として留まります!この現代社会に、それが持っている夢を追求させるなら、世界がその間違いに気づいて目覚めたとき、それだけいっそうの痛みが伴うだけでしょう!しかしながら、今まで無かった以上に教会にはこの世界に対して何かを言い続けなければなりません。そして常に同じ事を言うことでしょう。 この過去数年の出来事は、現在までの所は極めて弱いものではありますが、それでも非常に現実的な聖伝への帰還に向けた若干の動きを示しています。確かに聖ピオ十世会が重要な手助けをすることが出来るでしょう。しかし本司祭会のローマとの関係に於いて、何かより具体的なものを予測する事は依然としてなかなか難しいのです。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 最後に、私たちはマリア信心を続け、聖マリアの汚れなき御心への奉献の必要性を確認し、私たちの祈りのキャンペーンを続けたいと思います。聖母の聖寵の玉座を攻め立てましょう。私たちの捧げるロザリオという多数のバラを使って私たちの敬意を彼女に捧げましょう。そこで私たちの願いをしつこく繰り返し、私たちの嘆願を強めましょう。願わくは彼女の悲しみに満ちた汚れなき御心が凱旋しますように!彼女がこの祝されし時の到来を早めて下さいますように!と。 親愛なる友人と恩人の皆様、私たちは日々の祈りと感謝の祈りに於いて皆様の事を忘れていません。何とぞ天主が、皆様の寛大さ故に、とりわけ永遠の恩寵によって百倍にも報いて下さいますように、そして皆様方を豊かに祝福して下さいますように。
2010年11月28日 + ベルナール・フェレー司教 |