マニラのeそよ風

 トップ  >  「マニラのeそよ風」一覧

第413号 2010/04/8 私たちの主イエズス・キリストの復活の木曜日


アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

 まず愛する兄弟姉妹の皆様に心からのお礼を申し上げます。聖ピオ十世会総長のフェレー司教様によって第3次ロザリオの十字軍が起動しましたが、日本からは聖母の汚れなき御心に12万環のロザリオを捧げようと目標にしました。すると、数多くの愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力とご理解によって、なんと、415456環もの多くのロザリオが集計されました! この数以外にも、ご報告のなかった、或いはご報告が出来なかった愛する兄弟姉妹の皆様のロザリオも数千、数万環とあることを私は確信しています。そこで、すくなくとも、聖母の汚れなき御心に(四捨五入で)42万環のロザリオが捧げることができました。本当に嬉しいことです。天主様に感謝!

 実は、昨年2009年は、聖テオファン・ヴェナール(Saint Theophane Venard 時にはテオファノ・ベナールとかテオファヌ・ベナールとも言われています)の生誕(1829年11月21日)180周年であり、聖ピオ十世教皇による列福(1909年5月2日)100周年でした。

 日本の大変お世話になったパリ外国宣教会の宣教司祭たちの大先輩であり、幼きイエズスの聖テレジアのお気に入りの聖人であった、ベトナムでの殉教者、聖テオファン・ヴェナール。

 1837年、やはりベトナムのソンタイ(Son-Tay)で、110回のむち打ちのあと、絞首刑を受けて体を解体されたパリ外国宣教会のコルネ(Cornay)神父の殉教を9歳の時に知り、「僕も、トンキンに行きたい!僕も殉教したい!」Et moi aussi, je veux aller au Tonkin! Et moi aussi, je veux mourrir marytr! と言ったのでした。そして24年後、1861年2月2日、テオファン・ヴェナールは31歳、ハノイで殉教の鮮血を流すのでした。

 聖テオファン・ヴェナールのモットーは、「喜び万歳!Vive la joie」「心を高く上げよ!sursum corda!」でした。喜びの聖人!

 殉教の前に、自分の父に、こんな手紙を書いています。

 「花園の主が、ご自分の楽しみに春の花を摘み取るように、刀の軽い一降りが私の首を切り離すでしょう。私たちは皆、天主様がご自分の時に、或る花は少し早く、或る花は少し遅く摘み取り給う、この地上に植えられた花。或る者は赤い薔薇の花、或る者は処女のような百合の花、或る者は謙遜なスミレの花。皆、各自私たちに与えられた色と香りに従って、御稜威の主かつ師なるを喜ばせ奉るように努めましょう。私は、小さきカゲロウのようなはかない者、私がお先に参ります。」

"un léger coup de sabre séparera ma tête, comme une fleur printanière que le Maître du jardin cueille pour son plaisir. Nous sommes tous des fleurs plantées sur cette terre que Dieu cueille en son temps, un peu plus tôt, un peu plus tard. Autre est la rose empourprée, autre le lys virginal, autre l'humble violette. Tachons tous de plaire, selon le parfum et l'éclat qui nous sont donnés, au Souverain Seigneur et Maître. Moi, petit éphémère, je m'en vais le premier."

 幼きイエズスの聖テレジアは、聖テオファン・ヴェナールが殉教した38年後の2月2日付けで、ベトナムの福者殉教者への詩を詠んでいます。(日本語の訳はまたの機会にご紹介します。)

Au Bienheureux Théophane Vénard.

Tous les élus célèbrent tes louanges,
O Théophane, angélique martyr !
Et je le sais, dans les saintes phalanges,
Le Séraphin aspire à te servir.
Ne pouvant pas, sur la rive étrangère,
Mêler ma voix à celle des élus,
Je veux du moins, sur cette pauvre terre,
Prendre ma lyre et chanter tes vertus.

Ton court exil fut comme un doux cantique
Dont les accents savaient toucher les coeurs,
Et, pour Jésus, ton âme poétique,
A chaque instant, faisait naître des fleurs...
En t'élevant vers la céleste sphère,
Ton chant d'adieu fut encore printanier ;
Tu murmurais : « Moi, petit éphémère,
« Dans le beau ciel, je m'en vais le premier! »

Heureux martyr, à l'heure du supplice,
Tu savourais le bonheur de souffrir !
Souffrir pour Dieu te semblait un délice ;
En souriant, tu sus vivre et mourir.
A ton bourreau tu t'empressas de dire,
Lorsqu'il t'offrit d'abréger ton tourment
« Plus durera mon douloureux martyre,
« Mieux ça vaudra, plus je serai content! »

Lis virginal, au printemps de ta vie,
Le Roi du ciel entendit ton désir;
Je vois en toi « la fleur épanouie
Que le Seigneur cueillit pour son plaisir ».
Et maintenant tu n'es plus exilée,
Les bienheureux admirent ta splendeur ;
Rose d'amour, la Vierge immaculée
De ton parfum respire la fraîcheur...

Soldat du Christ, ah ! prête-moi tes armes ;
Pour les pécheurs, je voudrais ici-bas
Lutter, souffrir, donner mon sang, mes larmes ;
Protège-moi, viens soutenir mon bras.
Je veux pour eux, ne cessant pas la guerre,
Prendre d'assaut le royaume de Dieu ;
Car le Seigneur apporta sur la terre,
Non pas la paix, mais le glaive et le feu.

Je la chéris cette plage infidèle
Qui lut l'objet de ton ardent amour;
Avec bonheur je volerais vers elle,
Si mon Jésus le demandait un jour...
Mais devant lui s'effacent les distances ;
Il n'est qu'un point tout ce vaste univers !
Mes actions, mes petites souffrances
Font aimer Dieu jusqu'au delà des mers.

Ah ! si j'étais une fleur printanière
Que le Seigneur voulût bientôt cueillir !
Descends du ciel à mon heure dernière,
Je t'en conjure, ô bienheureux Martyr !
De ton amour aux virginales flammes,
Viens m'embraser en ce séjour mortel,
Et je pourrai voler avec les âmes
Qui formeront ton cortège éternel.

2 février 1897.


 そこで、日本にも、ゆかりの深い大聖人ですが、あまり知られていませんでした。日本に幼きイエズスの聖テレジアを紹介して下さったブスケ神父様が、聖テオファン・ヴェナールの本を50年以上も前に出版してくださっています。そこで、この偉大なる殉教者を日本の愛する兄弟姉妹の皆様にもう一度紹介するために、ブスケ神父様の本を、私の要請で、父がタイプうちしてくれました。ブスケ神父様の本の内容に少し手を加えながら、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介したいと思っています。

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!
ファティマの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.


罫線


福者テオフアノ・ベナールの伝と其書翰

シルペン・ブスケ譯

聖テオファン・ヴェナール
聖テオファン・ヴェナール

はしがき

 「おゝテオフアノ。天使の如き殉教者よ。
 総ての天使諸聖人は汝を賞讃(ほめたた)ふ、・・・
 我、七絃(げん)琴(きん)を手にとりて
 卿(おんみ)の徳を讃(ほめ)揚(あ)げん。・・・
 嗚呼幸なる殉教者よ。清浄なる百合の花よ。クリストの勇士よ」

 此れは私がさきに小さき花と題して邦訳致しました自叙伝の著者斯の有名なる聖女小さきテレジアが叫ばれた御言葉であります(小さきテレジアの詩百二頁参照)。

 テオフアノ師は今を距(さ)る凡そ六十七年前に安南国東京(トンキン)で名誉の殉教を遂げられた御方でありますが聖女小さきテレジアは生前深く此の聖殉教者を尊び常に其の徳行を讃(たた)へて居られました其の親愛なる姉等に対する話の中に「テオフアノ師は愛らしい聖人である彼の生活は全く尋常(ただ)の生活であった彼は熱心に無原罪の聖母マリアを愛し且つ其の親兄妹に対する愛情が深かった。私の霊魂は酷(よ)く彼の霊魂に似て居る」(小さき花四一0頁参照)との一節があります訳者も亦此の理想的な純潔な聖人の徳を慕ふて居る一人であります。

 私は甞(か)って幼少の頃彼の伝記を読んで深く感激し宣教師となって彼の徳に肖(あや)かろうと決心致したのであります。今回其の伝記と書翰(しょかん)を邦訳して発行する事に致しましたが彼の伝記は既に亜米(あめ)利(り)加(か)地方げは広く愛読され各階級の方々の賞讃を博して居ります。其の単純質朴(しつぼく)なる性行。玲瓏(れいろう)玉の如き品性。清楚淡泊な信仰。縦横不羈の才気が皆溌剌として紙面に躍るの感があります不幸にして訳者の不肖な筆先が其の機微に触れる事の拙(せつ)なる誹(そし)りを免るゝ事が出来ませんけれども尠(すくな)くも之を繙(ひもと)く人は其の年齢と境遇の如何を問わず或種の教訓と霊感を享(う)けられるだろうと思います。

 ポペール霊父が「此の子供は其の唇に美しき薔薇の蕾を啣(ふく)み其の耳朶(みみ)には楽しくさえずる小鳥を宿らせて生まれたのであろう其の生も死も始終優美なる微笑であった」と激賞されましたが実に其の教訓は個人に対したものと凡ての者に対するものとを問わず得意の温情が漲(みなぎ)り芳しい徳の花弁を散らして居ります。其の模範的殉教乃至は家族の面々に宛てたる訓戒等は両親の許にある青年子女を始め学生修道者神学生司祭宣教師等の活模範として推奨すべきものであります。然かも其の無邪気な快濶さと公正なる判断を以て与えられたる其の麗しい教訓は必ず或る種の魅力を以て読者の心を徳の道へ導き暗黒の社会に一道の光明を与えて稗益する所があろうと確信致します。

 訳者 シルベン・ブスケ識


 第一章

幼少時代のテオフアノ(1829年~1841年)ベルエール(Bel-Air)の丘・・・聖召(おんまねき)の前徴・・・ドウエ学院(1841年~1847年)テオフアノの天稟の性質 初聖体拝領・・・母の死去・・・姉メラニーと親密なる友情

 仏国の東部ドーセーブル(Deux-Sèvres)県、パルテネ市を距(さ)る北数哩(すうまいる)の、深い豊饒(ゆたか)な谷間に、チユエ(Thouet)と呼ぶ谷川に沿うて、一の小さな町がある。ポアチエ(Poitiers)司教区に属するセンルー(Saint-Loup-sur-Thouet)と云う町で四面は数多の丘に回(つつ)繞(ま)れ、少し距(はな)れると見えない程の片田舎ではあるが、神の撰み給うた聖(とうと)い町で、是こそ遠国に、神の教えを布き、殉教の栄冠を戴いた、我がテオフアノの生地である。

 ヨハネ・テオフアノ・ベナール(Jean-Théophane VÉNARD)は、西暦1829年11月21日、聖母の奉献の祝日に、センルー(Saint-Loup)で生れたが、之れは実に妙(いみ)しき因縁であって、彼が最後の日まで増大しつゝあった、聖母に対する信仰の、瑞(めでたき)兆(しる)しとも謂うべきものであろう。

 彼は幸福にも、現今(こんにち)稀に見る、宗教と徳行を以て其の精神とする、淳朴なる家庭に育った其の父ヨハネ・ベナールは、アンジエ(Anger)の出身で、教区内の子弟の教育に従事し、30年来其の学殖(がくもん)を傾倒(かたむけつく)して、忠勤を尽くしたが、後に教職を罷(や)めてセンルー(Saint-Loup)の区役所書記に就任し此処で終生、其の卓識と熟達なる敏腕を振って、公共事業に貢献した人である。

 其の母マリアゲレーは温良敬虔(けいけん)質素な賢婦人で、其の夫婦の仲に6人の子供を挙げたが、季(すえ)の2人(Joséphine と Antonin)は生まれて間もなく夭死(わかじに)し、後にメラニー(Mélanie)、テオフアノ(Théophane)、アンリ(Henri)、ユゼブ(Eusèbe)の一女三男が残った。

 テオフアノは斯様(かよう)な特性を具(そな)へたる両親の擁護の下(もと)に著しく発育し、夙(つと)に其の前途に嘱望せらるゝ様になった。同時に彼の信心は其の天賦の質性(せいしつ)に依って、既に聖寵に照らされたかの様に、其の行為の上に顕われ、又、其の人格の上には慈母の愛らしい淑(しと)やかな気象と、厳父の確固不抜の性格とが調和して、仄(ほの)見える様になった。

 稚(ちいさ)き頃より他の学生と打(うち)交(まじ)って居たが、父は彼が入学の当初より、既に一般の模範とする事が出来たのである。彼は斯様な徳の外に、尚、謙遜と純朴の徳を具え、孤独を愛し黙想と読書の趣味を有(も)って居た、当時、父は或る土地を開拓(ひらい)て居たが彼は、其の命(いいつ)けられる儘に、牧場や又は丘の上で、牛や山羊を牧(ぼく)しながら自分の希望を充(みた)す事が出来たのは幸いであった。

 此の牧場や丘は、此の殉教者が聖召(おんまねき)を蒙るに尤も因縁の深い、重要の場所であって、其の追憶は、到底、其の記憶より消去(きえさ)る事の出来ない物であった。

 センルー(Saint-Loup)の郊外は、実に人目を惹(ひ)くぜ絶勝の土地であって、其の間を流るゝチユエ(Thouet)、セブロンの渓流が巧みに交錯し、無数の丘陵や谷を形成して居る。其の二つの磧(いしがわら)の中間に、ベルエール(Bel-Air)と名づくる景色の好い丘があって、春の季節などには其の景色がいとも長閑(のどか)で頗る詩趣(ししゅ)に富んで居る。其処に九歳の小牧童テオフアノは、折々其の愛する姉と共に、仲睦まじく敬虔(けいけん)に、愉快に、歌を謡(うた)い書物を読み、或はあどけなく、路傍の蟻にパンの屑等を撒き与え、或は丘の頂に上り、或は傍らの森に入り、又は丘の麓の曠(ほろ)い野原を逍遥(しょうよう)して、楽しんで居た。折々姉が不在の時には近所で山羊に草飼う娘が、傍らテオフアノの守をする事があった、此の娘は、教理の研究或は信心を強める目的の為めに、時々其の土地の司祭の所へ行って、其の希望する書籍を求めて居ったので幸いに、テオフアノは之を声高に読み上げて、其の友の信仰を強めると同時に、自分の心に徳行(とく)の種を蒔て居た。其の多くの書籍の中で、彼が最も好んで居たのは、布教年報であった。

 其の感激すべき記事を見て、彼の心は燃え立ち屡(しばしば)彼はもっと険阻な絶壁を攀(よ)じ登り又は世界の端(はて)に、他の群(ひつじの)羊(むれ)を牧する事を仮想することもあった。(布教区に往て、未信者伝道に従う事を意味す)

 一日最近に殉教された、敬愛するカロロコルネー(Jean-Charles Cornay )の伝を読んで、其の苦難と死去の記事に痛く感動し、其の心臓は忽ち布教熱に燃え、思わず「私も東京(トンキン)に行って、殉教者となろう」と叫んだ程であった。

 或るとき彼は、ベルエールの丘の麓の牧場で、父と共に、年にも似気(にげ)ない荘重(まじめ)な話をして居たが、突然父に向って

 「お父様!、此の牧場は幾何(どの)位(ぐらい)の価格(ねだん)があるものでしょうか」

 と尋ねたから、父は怪訝(けげん)な顔をして、

 「さあ・・・確かな事は解らぬが・・・何故?」

 というと、テオフアノは之に答えて、

 「お父様が若し之れを私に与(くだ)さるならば、私の持分ですから之を売って、学資にしようかと思いまして・・・」

 父は、こんな真面目な、而も意義ある問いに非常に駭(おどろ)いた。而(そ)して其の返事を延ばして勘考する事にした。併し此の牧場は、後日売らなかったばかりでなく、此の時から一層貴重な物となった。それは実に小さきテオフアノの将来の問題に就いて、父の心を照らす悟りの曙光(しょこう)となったからである。此れを以て観(み)れば、如何にベルエールの丘、其の森、其の牧場が、此の殉教者の聖召(おまねき)に対して、重要なものであったかが解る。是こそ実に天主が其の聖慮(おぼしめし)を遂げられる為に、利用なされた土地であった。

 乃でポアチエ司教閣下も此の意味に於いて、其の講話の中に

 吁々(ああ)・・・チユの谷に聳(そび)ゆる幸いなる丘よ。・・・九歳の牧童が其の足を運(はこ)びし、祝せられたる山の逕(こみち)よ。・・・今や牧童は、殉教の御光を戴いて神の御前に。・・・甞(かつ)ては殉教を夢み、今や之を実現せり。・・・吁々(ああ)今後汝の花は愈々(いよいよ)麗(うる)しく、汝の芝生は愈々軟らかく、汝の水は愈々澄み渡り、汝の景色は愈々美しからん。春の微(そよ)吹く風も床しき香りに馨(かを)るならん・・・良き意志の香りに神聖の発散に、聖寵の天来の芳香に・・・」

 斯くて、幼きテオフアノは、やがて全教区内の子供等と共に、主任司祭の許に至り、ラテン語の初歩を修学し、業(ぎょう)了(おわ)るとともに、中学校に入る事となった。

 当時ポアチエ区内に、学識徳望(とくぼう)勝れたる一人の司祭があって、アンゼ教区のドウエ(Doué-la-Fontaine)と云う小さな町にかなり隆盛(さかん)な中学院を経営して居られたが其の校長はセンルー教区に39年間勤めて居られた司祭の兄弟であった。テオフアノは1841年10月丁度十二歳の時に一人の友人と共に、其の学院に入学した。其の友人と云うのは甞(かつ)て彼と親密な交際をして居た者で、爾来(じらい)彼等の友情は愈々濃(こまや)かに、双方の心が融合(とけあ)うて、一つになる程であった。そこで両人は其の後、別れても、其の幼い時の親密な友情を、決して忘れるような事はなかった。分れて十年の後ラオフアノがパリに到着した際に、懐奮(かいきゅう)の情に駆られ、其の懐かしい追憶の数々を左の如く述べたのを見ても解るであろう。

 「余は外国布教会の神学校に入学する以前に、一人の忠実なる友を有って居た。余より一年前に、同じ谷の、同じ鐘楼の下で生れ、又、同じ司祭から洗礼を授かり、同じ学校の机に、相並んで学び、相共に遊んだ者である。何時も全善(ぜんぜん)に在(まし)ます天主の御摂理(みはかり)に依って、同時に別の所へ移し植られ(ドウエの学校)其処に待って居られた他の司祭の心と、其の手に抱かれたが、此の若い友は才智勝れ、謹厳にして賢明であったから間もなく上級に進んだそれは誠に当然であって、其の為め吾等の友情に、何等影響を及ぼすような事はなく、各々其の自然の成行きに満足して居た。

 モン・モリヨン(Montmorillon)神学校は、実に優しい敬虔(けいけん)な憶(おも)いである。余の友は暫時其処に留まって後、他の処へ転校し、彼処(かしこ)に於いて益々、其の徳行と学識を研(みが)く事になったが、余は獨(ひと)り旧神学校に残り、日夜彼を追慕してやまなかった。天主は吾等の幼少の頃より、両人の霊魂を結び付け、倶(とも)に同じ思想を以て、同じ目的に進む為に、同じ道に依って、両人を導いて下さったが、ついに吾等は訣(わか)れねばならぬ事になった。吁々(ああ)、願わくば吾等他日天国に於いて相見えん!!!」

 話しは前に戻って、中学校に入学したテオフアノは愈々学業に精励し、遂に他の若い学生の完全なる模範とされた、休憩時間に於ける彼は、最も元気よく陽気に快濶で誰彼の差別なく愛嬌よく、親切を旨として交わって居った。

 或る時その徳望を妬(ねた)んで、彼をいじめようと企んだ者が有ったが、あくまでも寛大な彼は、自ら進んで和解し、寃罪を詫びる事があった。そして彼は少しも之を意に介せず甞(かつ)て彼を虐(いじ)めようとした者に対しても、通例(つね)の通り些(すこ)しの隔(へだ)心(て)なく、愛嬌を湛(たた)え微笑を含んで交際した。此れ誠に彼が霊魂の純潔と無邪気との反映である。又、彼は、信者の霊魂を養う所の、普通信仰の業に対しては、当初から些(いささ)かの困難をも感ぜず、易々と之を実行した。之は寧(むし)ろ彼の心情が之を好愛し之に対する趣味をもって居たからである。

 聖母に対する彼の信仰は、又、非常なものであって其の幼き愛を聖母に献げ、聖母崇敬に関する、総ての良き敬虔(けいけん)な事業に携(たずさ)わって居た。中学に入って二ヶ月の後、無原罪の聖母の祝日に当って、彼は毎日念(こん)珠(たつ)をくる決心を立てた。やがて勝利の聖母会に入会して、聖母の子となったが、それに引続いて布教会に入り、後日の健闘を予期して、其の大事業の一員となった。そして其の辛酸多き克己(こっき)の生涯に対する修業をして居った

 或る冬の厳寒、彼は其の手足の凍瘡(しもやけ)に悩まされて居たが、或る日教師が彼に向い自分の室の暖炉に、暖まるよう勧めたが彼は之を謝絶して、

 「先生!、此の位の事は何でもありません。先生が昨今御話しになりました宣教師は、どれ程、難儀して居られるか知れません」

 と云った。彼は其の奇麗な霊魂に、益々虔(けん)信(しん)と愛徳を増そうと努め、種々有益な書を読んだが、中にも「小神学校の記念」と題する書は彼を極度に益したものであった。

 彼の最も幸福なる初聖体受領の日が近づくに従って彼の霊魂は日に増し、潤沢(ゆたか)なる恩寵(おんめぐみ)を享(う)けた。世の多くの子供たちは、不幸にも往々厳格な覚悟もなく、唯、形式的に聖体を拝領する者があるが、テオフアノは全く之と反対で、長時日(ながいあいだ)黙想を続けて仕切りに之を熱望し、少なからず恐懼(おそれ)の念を抱いて居た、其の家族に宛てた手紙の一節を見ると、

 「永く待ち憧れた日が漸く近づきました。嗚呼!此れは私の生涯に於ける最も良い日であります。嗚呼!初聖体拝領!、私の歓喜はどれ程でしょうか。其の喜びを制する事はとても出来ません。切望私が良く聖体を拝領することが出来まするよう、私に充分の覚悟をさせて戴くように聖母に御祈り下さい。それは私には此の大きな業(つとめ)に対する、充分なる否、不充分な準備さへも、出来ぬからであります。尚、私が貴方達に対して致しました過ちを御赦免(おゆるし)の上、私を掩祝(えんしゅく)して下さる様御願い申します」

 如斯(かよう)に初聖体拝領の重要な意義を弁(わきま)えたる彼は、其の生涯を決定すべき、此の大いなる業に対して、充分の準備をしたことは明瞭である。彼が其の定日の前に、一種の不安を感じたのも、蓋(けだ)し無理もない事である。随って其の当日は彼に取っては、実に満悦(よろこび)の日であったに相違ない。某教師の言葉を以て見ても、彼の喜悦(よろこび)がどんなであったかが解る

 「彼は其の栄誉(ほまれ)を、口に述べる事さへも出来ない程であった」と云うて居る。

 聖(おん)主(あるじ)は霊妙なる恩寵(おめぐみ)を垂れて、彼の霊魂を整調(ととの)へ、且つ、神聖なる喜悦(よろこび)を以て、彼に天恵を充たしめ給うたのである。又、虔(しん)信(じん)なる彼は天主が慈愛を垂れて、人の霊魂に顕われ給う耶蘇の甘味を、悉く心に感じたのであった。従って宣教師たるべき聖召(おまねき)に対する熱望が彼の胸奥(むね)に益々熾(さかん)に燃え起つに到ったのは、蓋(けだ)し必然の事と云はねばなるまい。

 此の時より彼は聖体に対してより大なる信仰を顕わし、やがて屡(しばしば)之を拝領する事を許さるゝに至って、其の極めて重大なる意義を充分に弁(わきま)え、自然聖堂に留まって、永く時を過ごす様になり殊に放課時間中でさえも、聖体を訪問する事を好む様になった。教師の話に、

 「余は毎々聖堂の戸を開いて、彼の黙想を覗いて見たが、余儀なく彼を促がして友達と遊ばせる様にした」

 という一節がある。テオフアノは初聖体拝領当日、聖寵の霊泉(いずみ)に其の力と勇気を汲んだ。それは聖(おん)主(あるじ)が、他日彼をして踰(こ)えしめようとせらるゝ大いなる試練に対して、彼の霊魂を準備させる為、極めて必要な事であった。

 二ヶ月の休暇が過ぎて、彼は更に温き家庭の生活から離れる事となった。其の時、母の与えた慈愛深き接吻は、最後の訣別(わかれ)ではなかろうかと疑われたが、其の後、三月を経て1843年1月11日慈母(はは)は4人の子供を天主と夫に託して、静かに此の世を去った。子供等の嘆きは非常なものであったが、殊にテオフアノは母の夭折(わかじに)を聞いて痛く悲しんだ。其の哀しみは到底筆に述べ難い程であった。しかし、こんな歎きの中にも彼は、己を忘れて、他を慰める事に務めた。左に記す書翰(しょかん)は十三歳の彼が健気にも、其の家族に寄せたる慰藉(なぐさめ)の言葉である。

 「神与え神奪う。願わくば聖名(みな)の尊まれん事を!。之れは聖ヨブの言葉ですが。此の際、私等は、ヨブに倣(なら)はねばなりますまい。吁々(ああ)親愛なる姉弟よ。神は小さき鳥さへも、世話して下さるのだから、況(ま)して我等を棄て給う事はありますまい、私等は神を信頼しましょう。敬愛する父上様。父上が私に、母が大変弱いと書いてよこされました時には、私は実に惑(まど)いました。そして、私の涙と祈祷とを以て我等幼い者を保護して戴く為、も少し母を生存(いきながらえ)さして下さる事と思って居ました。併し、校長様が漸次(だんだん)不幸の近くのを、知らして下されました。母の死は、全能なる天主の定め給うた、時期が来たからであります。天主は彼を引き取り、先に天国に登った二人の弟と同に、我等を保護させて下さる聖慮(おぼしめし)でありましょう。吁々(ああ)、今一度・・・願わくば聖名(みな)の尊まれん事を・・・。こんなに天主は現世の被造物(つくられたもの)を、試み給うのであります。それで私等は此の場合、信仰の楯を被(かぶ)り宗教の塁によりすがらねばなりません。宗教は私等の愁欺(なげき)を慰める唯一のものであります。

 私は此の報を聞いて、以上無く悲しみますと共に、母の霊魂の救極(たすかり)の為に、私の祈祷が聴き入れられる事を切望致します。嗚呼(ああ)、希(ねがわ)くば今母の霊魂が撰(せん)民(みん)を待つ天の光栄(さかえ)を、享有(うけ)しつゝあらん事を!」

 実に彼の母の死は、酷(ひど)く彼等を愁欺(なげき)の淵に沈めたのである。然しまた其処に一縷(いちる)の慰さめが、無いでもなかった。それは彼の母が熱心なる信仰生涯を遂げた為め誰しも彼の霊魂の救極(たすかり)に就いて、選民の数に入る資格があることを、天主が認め給う事に疑いを挿むものがなかったことである。それがあらぬか天主は、確かなる保障を、テオフアノに与え給うた。それは彼の勇気を鼓舞し、心を慰める為かれに幻影(まぼろし)を見せしめ給うた事である。則ち此の虔(しん)信(じん)なる少年は、慈母(はは)の死後間もなく、彼が天国に於いて、光栄(さかえ)を享(う)けつつある事を見たと云う、深い確信を有って居たのは事実である。しかし彼は之に就いて、固く沈黙を守って居たのをみれば或は其れが真実であったかもしれない。そして此の事あって後、数年を経ても此の幻影(まぼろし)の思い出は彼の心に留まり其の家族と離れる際には何時も彼の上に行われたる、天の恩恵(めぐみ)について、之を告げる事を慣例(ならわし)として居た。

 「私は慈母が天国に居られる事を断言致します。私は汝(あなた)等(がた)を慰める為に、之を云うのですから、誰にも咄(はな)しては不可(いけ)ません。母が没(な)ななられた頃、私は一夜(あるばん)夢現(ゆめうつつ)の中に居りましたが、天使が現れて私の手を執(と)り、光り輝く所に伴(つ)れて行かれました。そして、私は其所に私等の最も哀慕(あいぼ)する母(は)様(は)が居られたことを、明瞭(はっきり)と認めました」

 此の頃よりテオフアノと姉メラニーとの仲は次第に親密の度を加え其の友情は益々濃(こまや)かになって彼が殉教の刃に斃(たお)れる迄、絶えず親しい文通(たより)を取り交(かわ)して居た。彼は其の文面に彼の総(あら)ゆる心情を吐露(あらわ)して居ったので其の書翰(てがみ)は即ち、彼の虔(しん)信(じん)と友愛の記念ともすべく、又、同時に彼の鑑識の表象(あらわれ)とも、謂(い)うできものであった。

 ポアチエ同教(しきょう)閣下もそれに就いて斯う云われた事がある。

 「恁(かか)る有益なる書簡(てがみ)の中に、彼の深い感情精緻(せいち)なる理解、優雅なる想像、適確なる、判断に伴う聡明と穎(えい)才(さい)が窺(うかが)われる。一度之を繙(ひもと)けば人、皆、其の優しい感に打たれる。余(わたくし)等(ら)は再三之に、接吻し、且つ涕(なみだ)を以て其の数頁を汚した事さえあるが、今茲(ここ)に之を謝さなければならぬ」

 1844年の冬、其の姉に送った手簡(てがみ)の一節に

 「愛する姉上様、今度は貴(あ)姉(なた)に申上げましょう。、吁々(ああ)、私の感情を貴(あ)姉(なた)にいい顕(あら)わす事は私にとって、どんなに嬉しい事でありましょうか。私は一日も貴(あ)姉(なた)の事を考えない日とてはありません。それは其の筈でしょう、貴(あ)姉(なた)は私の最も親愛なる御方だからであります。

 「ああ此の冬はテオフアノは、さぞかし寒い事だろう、自分は斯うして、火の側に居るのに、と貴(あ)姉(なた)は必ず云っていらっしゃるでしょうと、私は確かに信じてます。しかし御安心下さい。勿論寒気に悩んでは居りますが、雪や氷の上を滑って遊んで居ります只今余り寒くありませんので、少しの暇を利用して私の心情を打明けたいので御座います・・・」

 尚、之に善い訓誨(おしえ)を書添え、其の末文に、或る犠牲を献げて若干の貯蓄をし、其の金で姉に些(いささ)かの贈物をなし、小さき弟等にも、何か褒美を与えようと、思って居る事を認めてあるが、之を以て見てもいかに其の友情の麗(うるわ)しく、又、其の贈物が彼の優しき志によって、いかに彼等にとって貴重なる物となったかが察せられる。其の後アンリーも同じ学院に入学したが、彼が其の小さき弟に対する、万端の世話を見た人は、均しく其の友情の濃(こまや)かなるに感激した。実に彼は、其の兄たる勤めを一時も欠かさなかったのであった。

 1845年ドウエの学院の内に、聖母の会が創立せられた。彼は喜んで之を姉に通知し、以来彼は層一層、聖母に対して、其の愛を献ぐる事が出来た。

 間もなく聖堂の納室係りを命ぜられた之は勿怪(もっけ)の幸いで、素(もと)より彼の望む所であった。

 是れ聖母の祭壇を飾る役務(つとめ)に託(かこつ)けて、屡々(しばしば)祈祷に行く便宜(べんぎ)を得るからである。彼の書簡(てがみ)の一節に

 「昨日私は放課時間に、念(こん)珠(たつ)を繰(く)る為、聖堂に行きましたが、何故か心が憂鬱(ふさ)いで小供の様に泣きました。しかし貴(あ)姉(なた)は私が泣き上戸(じょうご)でない事は御存知の筈です。今、私は、涕(なみだ)を流して、どんな幸福(さいわい)を味うたかを、申上げる事が出来ませんが。真個(ほんとう)に私は幸福(さいわい)でありました」  といい、又、或る日同じく書を寄せて、

 「親愛なる姉上様、私の勉強中に、屡々私の心が貴(あ)姉(なた)の処へ、飛んで行く事が御座います。丁度私の目の前に、貴(あ)姉(なた)が歌いながら仕事をなさったり、話したりなさる御姿が見えるようで些細(ささい)な事にも私の心が貴(あ)姉(なた)に付き纏(まと)うて居るようでございます。例えお互いに離れて居りましても、私等の思いが絡(から)まって居るのでしょう。私共の祈祷は同じ目的であります。お互いの為に、敬愛する父上の為に、友人の為に祈るのは、何と美しい事ではありませんか。

 祈祷(いのり)は霊魂を慰める為に、甚だ有効なもので言葉に述べがたい程の平安を起こさせます

 例えば、村の祝日の時の事を追想(かんがえ)て御覧なさい。聖体拝礼の式に、聖母マリアは其の周囲の燭光(ともしびのひかり)を浴びながら、優しく微笑(ほほえ)まるるかのように、見えたでありましょう。

 其の時私は貴(あ)姉(なた)の事を思って居りました、定めて貴(あ)姉(なた)は晩課(ばんのつとめ)を誦(とな)へて居られたでしょうが、私が貴(あ)姉(なた)の為に祈るように、貴(あ)姉(なた)も私の為に御祈り下さった事と思います。そして祈った時に幸福(さいわい)で、又、平安な感じが致しましたでしょう・・・私は貴(あ)姉(なた)等(たち)と一緒に居りとう御座います。吁々(ああ)、何時私共は再度離れない時が来るので御座いましょうか。何時相共に苦しみ相共に、喜びを分け、同じ楽しみを味わって暮す事が、出来るのでしょうか」

 斯様(かよう)に彼は既に其の頃から、数年の後に家族と永い訣別(わかれ)をせねばならぬ事を、前以て彼等に覚悟させたのであった。併し彼の心の奥には、聖寵と本性との烈しい争いが始まって居った。

 以上述べ来った事は、未来の殉教者の、中学時代の事蹟(ことがら)であるが、実に栴檀(せんだん)は嫩(ふたば)より芳(かんば)しくで、彼の言葉行いは既に、老熟の果を結ぼうとして居った。次章には彼が青年時代の事(こと)蹟(がら)を録(しる)すが、彼が長ずるに従って、又、其の業蹟(おこない)が益々吾人(われら)に稗益(ねき)する所があるのを見るであろう。


罫線