マニラのeそよ風

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第407号 2009/01/30 童貞殉教者聖マルティナの祝日

エル・グレコ 聖母子と聖マルティーナ、聖アグネス (1597-99)
聖母子と聖マルティーナ、聖アグネス (1597-99) / エル・グレコ


アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、いかがお過ごしでしょうか?
 今年の1月21日、司教聖省長官であるジョヴァンニ・バッティスタ・レ枢機卿は、教皇ベネディクト十六世の名前において、次のように発表しました。

「(前略)
 ベネディクト十六世教皇様によって特別に私に与えられた権能に基づき、この教令の効力により、1988年7月1日にこの聖省によって宣言された自動破門(latae sententiae excommunication)の刑罰を、ベルナール・フェレー司教、ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教、リチャード・ウィリアムソン司教、およびアルフォンソ・デ・ガラレタ司教にたいして元の状態に戻し(remit)、私は、上記の日付で出された教令を、今日の日付より、いかなる栽治権上の効力を失ったと宣言します。」



'Operation Survival' on June 30th 1988.  From left to right:  Bishops de Galleretta, Tissier de Mallerais, de Castro Mayer, Archbishop Lefebvre, and Bishops Williamson and Fellay


Based in the faculty expressly granted to me by the Holy Father Benedict XVI, in virtue of the present Decree, I remit to Bishops Bernard Fellay, Bernard Tissier de Mallerais, Richard Williamson, and Alfonso de Galarreta the censure of latae sententiae excommunication declared by this Congregation on July 1, 1988, while I declare deprived of any juridical effect, from the present date, the Decree emanated at that date.

Rome, from the Congregation for Bishops, January 21, 2009.
Card. Giovanni Battista Re
Prefect of the Congregation for Bishops



 これに対して、聖ピオ十世会の総長であるフェレー司教様は次のようなお手紙を信徒の皆様に書き送りました。日本語訳をご紹介致します。

 昨年列福された百八十八名の福者たちの喜びと重なって、この「破門」の教令の撤回は、私たちにとって極めて大きな喜びとなりました。キリシタンの方々も、ラテン語の祈りを唱えながら七代にわたって見続けてきたキリスト教禁止の高札が日本国内から取り去られたとき、どれ程大きな喜びを懐いたことでしょうか!毎年正月になされていた踏み絵が終わったとき、どれ程大きな満足を得たことでしょうか!

 もちろん、高札が取り去られたとしても、いったん江戸時代の間に押しつけられた偏見の刻印はすぐに消え去るものではありませんでした。あれほど熱烈に日本人に受け入れられたキリスト教は、今後は、差別と先入観を堪え忍ばなければならなくなりました。

 ああ、どれ程多くのキリシタンたちが、津和野を始めとする各地に「旅」に出たことでしょうか!どれ程多くのキリシタンたちが「旅」の途中、牢獄で命を落としたことでしょうか!これは、迫害されて村八分のようにされた者でなければ、理解できない苦しみでしょう。どれほど多くのキリスト教徒が、キリスト教徒であるというがために、けなされ馬鹿にされてきたことでしょうか。

 愛する兄弟姉妹の皆様、たとえ「破門」が無効だと言われたとしても、私たちは多くのカトリック信徒の方々から、もしかしたら、誤解や偏見を受け続けるかもしれません。今まで「他の宗教の批判は絶対にしてはいけない」というエキュメニズムの方針の名の下で、聖ピオ十世会だけについては、あること無いこと批判されてきました。その刻印が人々の心に深くのこってしまったがために、聖ピオ十世会が主張していないことも主張していることにされ、ヒステリックに悪者にされ続けるかも知れません。私たちがしていないこともしていたと批判されるかも知れません。他の人々がやってもそれは非難されなくとも、私たちがやると重大な犯罪であると主張されるかもしれません。偏見と無知と誤解から。

 私たちは、先祖の信仰にならって、そのような誤解をする人々を赦しつつカトリック信仰の道を歩むことに致しましょう。私たちは、過去の教会の不可謬の教えを、歴代の教皇様たちの教えを、深く学び信仰を深めていきましょう。

 聖ピオ十世会がローマに提示してきた二つのことは、今、明らかになりました。聖伝のミサが一度も廃止されたことがなく全世界の全ての司祭のためのものであること、聖伝は破門されていないこと。これについて、ロザリオの元后である聖母マリア様に感謝いたしましょう。またベネディクト十六世教皇様に感謝致しましょう。

 それと同時に、これでカトリック教会の危機が終わったのでは決してないと言うことを確認致しましょう。私たちにとって最も大事なこと、最も核心的なこと、もっと真剣なことは、これから始まるからです。私たちは、最も本質的なこと、つまり、カトリック信仰について話さなければなりません。聖三位一体の栄光のため、私たちの主イエズス・キリストへの愛のため、天主の御母聖マリアへの信心のため、教会への愛のため、教皇様への愛のため、司教・司祭・全信徒の方々への愛のため、この世の救いのため、霊魂の救いのために。

 現在カトリック教会を覆う信仰の危機、この原因である新しい教え、カトリック信仰ではない新しい教え、第二バチカン公会議を機会に取り込まれた革新的な教えについて、私たちは説明を求めなければなりません。そして、カトリック教会の全体の善のために、教会に聖伝が一日も早く市民権を取り戻すように祈り働かなければなりません。

 愛する兄弟姉妹の皆様のますますのお祈りをよろしくお願いします。

 天主様の祝福が豊かにありますように! 

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.



聖ピオ十世会総長フェレー司教様の手紙
メンツィンゲンにて、2009年1月24日


いとも親愛なる信者の皆様

The Most Reverend Bernard Fellay, Superior General of the Society of St. Pius X  この手紙と同時に出された報道発表において次のように伝えたように、「1988年6月30日ルフェーブル大司教様によって聖別された司教たちの破門は、司教聖省により1988年7月1日の一教令によって宣言されており、私たちが常に抗議していたものであったが、教皇ベネディクト十六世の命により、同じ司教聖省の2009年1月21日付けの別の教令により撤回され」ました。

 これは、2008年の王たるキリストの祝日にルルドにおいて皆様にお願いした祈りの意向でありました。皆様は私たちの期待を遙かに超えてそれに応えて下さいました。何故なら、聖ピオ十世会の司教たちという人格を通して、近くであるいは遠くで聖伝に愛着を持っている全ての人々に重くのしかかっていたこの汚名の終焉を聖母マリア様の御取り次ぎによって得るために、百七十万三千環のロザリオの祈りが唱えられたからです。

 教皇様にこの一方的で好意的な勇気のある行為をするように息吹いて下さった童貞聖マリアに感謝を致しましょう。私たちの熱心な祈りをお約束致しましょう。

 この行為のおかげで、聖伝に愛着している全世界のカトリック信徒の方々は、自分の先祖の信仰を守り抜いたことを不正にも汚名を帰せられ排斥されることはもうないことでしょう。カトリックの聖伝はもはや破門されてはいないのです。

 カトリック聖伝は、それ自体として、一度も破門されていたことはなかったのですが、しかし非常にしばしば事実上、残酷に破門されていました。それは、幸福なことに教皇様が2007年7月7日の自発教書『スンモールム・ポンティフィクム』で注意を喚起して下さったように、トリエント・ミサが、それ自体として、一度も廃止されていたことがなかったのと全く同じです。

 1月21日の教令は、昨年12月15日付けのカストゥリヨン・オヨス枢機卿への手紙を引用しています。この手紙の中で私は「私たちの主イエズス・キリストの教会、すなわちこれはカトリック教会でありますが、この私たちの主イエズス・キリストに」対する私たちの愛着を表明しました。そしてそこにおいて、私たちがこの教会の二千年の教えを受け入れていること、及び、ペトロの首位権への私たちの信仰を再確認しました。この首位権の教えが足踏みにされている現在の教会の状況により私たちがどれ程苦しんでいるかを、私は書きこう付け加えました。「私たちは、自分の血で使徒信経を書き、近代主義に反対する宣誓、パウロ四世の信仰宣言に署名する準備があります。私たちは、第一バチカン公会議まで、全ての公会議を受け入れ自分たちのものとします。しかし、「その他の公会議とは違った」(ヨハネ二十三世とパウロ六世の講話を参照のこと)公会議であることを望んだ第二バチカン公会議については、私たちは保留することしかできません。そしてそうすることによって、私たちは創立者であるルフェーブル大司教様によって残された行動方針に忠実に留まることができると確信しています。そしてこのルフェーブル大司教が一刻も早く名誉を回復することを期待しています。

 また、教会が「必要である」と認めている、永遠の教導権に対立している教義に関する問題について話し合いをすることを私たちは希望しています。前例もないほど今日教会を揺さぶっている危機を私たちは目の当たりにせずにはいられません。

 召命の危機、宗教の実践の危機、公教要理の危機、秘蹟を受ける人が少なくなっている危機、・・・。私たちよりも前に、パウロ六世は「サタンの煙」が教会に侵入したこと、そして教会の「自己破壊」についてさえ語っていました。ヨハネ・パウロ二世はヨーロッパにおけるカトリックは「静かな背教」状態であると言うことを躊躇しませんでした。

 教皇職に登座する少し前、ベネディクト十六世御自身は、教会を「あちこちからあいた穴から浸水してくる船」に喩えていました。

 私たちも、ローマ当局とのこの話し合いにおいて、現在の状況の深い理由を調べ、それに対応する対応策を提示し、教会の堅固な復興に至ることを望んでいます。

 親愛なる信徒の皆様、カトリック教会は、その母なる童貞聖マリア様の御手の中にあります。私たちは天主の童貞母に私たちを委ねます。私たちは聖母マリア様に永遠のミサ聖祭の自由を、全世界どこでも全ての人々のために求めました。私たちは聖母マリア様に破門の教令の撤回を求めました。私たちは私たちの祈りにおいて、聖母マリア様に、上智の座である聖母マリア様に、当惑している霊魂たちが極めて必要としている教義に関する無ければならない照らしを求めましょう。

メンツィンゲンにて、2009年1月24日
+ベルナール・フェレー


Mgr Fellay, Supérieur Général de la FSSPX
Menzingen, le 24 janvier 2009

Bien chers fidèles,

The Most Reverend Bernard Fellay, Superior General of the Society of St. Pius XComme je l’annonce dans le communiqué ci-joint, « l’excommunication des évêques sacrés par S. Exc. Mgr Marcel Lefebvre le 30 juin 1988, qui avait été déclarée par la Congrégation pour les Evêques par un décret du 1er juillet 1988 et que nous avons toujours contestée, a été retirée par un autre décret de la même Congrégation en date du 21 janvier 2009, sur mandat du pape Benoît XVI". C’était l’intention de prière que je vous avais confiée à Lourdes, le jour de la fête du Christ-Roi 2008. Vous y avez répondu au-delà de nos espérances, puisqu’un million sept cent trois mille chapelets ont été récités pour obtenir de l’intercession de Notre-Dame la fin de cet opprobre qui pesait, à travers la personne des évêques de la Fraternité, sur tous ceux qui étaient attachés de près ou de loin à la Tradition. Sachons remercier la Très Sainte Vierge qui a inspiré au Saint Père cet acte unilatéral, bienveillant et courageux. Assurons-le de notre prière fervente.

Grâce à ce geste, les catholiques du monde entier attachés à la Tradition ne seront plus injustement stigmatisés et condamnés pour avoir maintenu la foi de leurs pères. La Tradition catholique n’est plus excommuniée. Bien qu’elle ne l’ait jamais été en soi, elle l’a été bien souvent et cruellement dans les faits. Tout comme la messe tridentine n’avait jamais été abrogée en soi, ainsi que l’a heureusement rappelé le Saint Père par le Motu Proprio Summorum pontificum du 7 juillet 2007.

Le décret du 21 janvier cite la lettre du 15 décembre dernier au cardinal Castrillon Hoyos dans laquelle j’exprimais notre attachement « à l’Eglise de N.S. Jésus-Christ qui est l’Eglise catholique », y réaffirmant notre acceptation de son enseignement bimillénaire et notre foi en la Primauté de Pierre. Je rappelais combien nous souffrons de la situation actuelle de l’Eglise où cet enseignement et cette primauté sont bafoués, et ajoutais : « Nous sommes prêts à écrire avec notre sang le Credo, à signer le serment anti-moderniste, la profession de foi de Pie IV, nous acceptons et faisons nôtres tous les conciles jusqu’à Vatican I. Mais nous ne pouvons qu'émettre des réserves au sujet du Concile Vatican II, qui s'est voulu un concile "différent des autres" (cf. discours des Papes Jean XXIII et Paul VI).» En tout cela, nous avons la conviction de rester fidèles à la ligne de conduite tracée par notre fondateur, Monseigneur Marcel Lefebvre, dont nous espérons la prompte réhabilitation.

Aussi souhaitons-nous aborder ces entretiens - que le décret reconnaît « nécessaires » - sur les questions doctrinales qui s’opposent au magistère de toujours. Nous ne pouvons que constater la crise sans précédent qui secoue l’Eglise aujourd’hui : crise des vocations, crise de la pratique religieuse, du catéchisme et de la fréquentation des sacrements…Avant nous, Paul VI parlait même d’une infiltration des « fumées de Satan » et de « l’autodémolition » de l’Eglise. Jean-Paul II n’a pas hésité à dire que le catholicisme en Europe était comme en état d’ « apostasie silencieuse ». Peu de temps avant son élection au Souverain Pontificat, Benoît XVI lui-même comparait l’Eglise à un « bateau qui prend l’eau de toute part ». Aussi voulons-nous, dans ces entretiens avec les autorités romaines, examiner les causes profondes de la situation présente et en y apportant le remède adéquat, parvenir à une restauration solide de l’Eglise.

Chers fidèles, l’Eglise est entre les mains de sa Mère, la Très Sainte Vierge Marie. En elle, nous nous confions. Nous lui avons demandé la liberté de la messe de toujours, partout et pour tous. Nous lui avons demandé le retrait du décret des excommunications. Nous lui demandons dans nos prières, à elle qui est le Siège de la Sagesse, ces nécessaires éclaircissements doctrinaux dont les âmes troublées ont tant besoin.

Menzingen, le 24 janvier 2009

+ Bernard Fellay