第406号 2008/12/03 聖フランシスコ・ザベリオの祝日
アヴェ・マリア! 愛する兄弟姉妹の皆様、いかがお過ごしでしょうか? 聖フランシスコ・ザベリオの祝日のお祝いを申し上げます。 私たちの主イエズス・キリストは言われました。「もし一粒の麦が地に落ちて死なないなら、ただ一つのまま残る。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する人はそれを失い、この世でその命をにくむ人は、永遠の命のために、それを保つだろう。私に仕えたい人があれば、従ってくるがよい。私がいるところには、私に仕える人もまたいるであろう。」 この日本の地に最初にまかれた一粒の麦が、スペインから来られた聖フランシスコ・ザベリオだったとすると、この「一つの麦」から、今回は別の「一つの白米」が生まれ落ちたようです。一つの白米、これを一白米と縦に書くと、百八十八となり、日本の188名の福者となったからです。 さて、今回は、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されている「待降節」のお説教の(一)待降節の心得の中から(1)「眠りを覚ませ」をご紹介します。 天主様の祝福が豊かにありますように! トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind. 祝祭日の説教集 浦川和三郎(1876~1955)著 (仙台教区司教、長崎神学校長 歴任) 待降節 (一)待降節の心得 いよいよ待降節となりました。待降節とは主の御降誕を待つと云う意味で、旧約時代の人々が大凡(おおよそ)四千年の間(ヘブレア文に従い)救い主を待ったと云う所から、今も毎年四週間づつ、御降誕前の準備をする事に定めてあります。昔、洗者ヨハネが主の先駆(さきがけ)となって人々に悔(くい)悛(あらため)を勧めた時、人々は深い夢から醒めたかの様な心持になって、今更の如く我が身の罪を恐ろしく感じ、「何を為(し)たら可いのでしょう」と口を揃えて尋ねました。我々も御降誕が眼前にさし迫って来るに随い、イエズス様の施し給う聖寵を戴くが為「何をしましょう、何うしたら可(い)いでしょうか」と我と我が心に尋ねて見なければなりません。その為には(1)旧約時代の預言者等の如く眠りを醒まし、(2)聖母マリアの如く心を清浄にし、(3)洗者ヨハネの如く主の先駆を務める必要があるのであります。 (1)眠りを醒ませ 眠りを醒ます!何処を見廻しても人は皆、孜々矻々(ししこつこつ)と立ち働いて居る、朝は星を戴いて家を出で、晩は月の光を踏まなければ帰宅せぬと云うほどに、毎日々々働いて居る、それに持って来て「眠りを醒ませ」と云うのは如何にも不思議のようであります。然し聖会が待降節の第一主日のミサ文中に「兄弟等よ、眠りより起(お)くべき時は既に来れり」と云う聖パウロの御言(みことば)を読み聞かして居るのを以て見ると、世の中には随分眠りを貪って居るものがあると云う証拠ではありますまいか。実に大概の人は何処にか金の生(な)る樹はあるまいか、福の神が待って居まいか、と眼を皿にして見廻って居るが、然し其の心の中に分け入って見ると、全く眠って居る、「救(たす)霊(かり)に注意する人でなければ眼を醒まして居るのではない」と云うボスエ司教の言を真(まこと)とせば、今の時代ほど人が活潑に働いて居る時、夜の目も合さぬ位に東奔西走して居る時は少ないが、また今の時代ほど「眠りより醒むべき時は既に来れり」と声を限りに叫ばなければならぬ時代はありますまい。 実に当代の人は其の智慧を充分に働かして、色々と学問の研究に没頭して居るが、ただ最も大切な救(たす)霊(かり)の学問だけには全く眠って居る。其の体を働かして様々の職業に有らん限りの力を傾け尽くして居るが信者の勤めを果たすと云う点に就いては全く眠って居る。心を上げて天を眺めることがないものだから、愈々、下へ下へと落ち込んで行き,聖パウロの所謂「肉的人物」、即ち霊魂(たましい)を有(も)たない禽獣(きんじゅう)同様の人間になってしまう。禽獣同様に其の眼は地上にのみ注がれ、其の望みは現世だけに限られ、ただ食べるが為、飲むが為,着るが為、身を楽しませるが為にだけ働いて居る、そして飽くまで食べ、飽くまで飲み、望み通りに着、望み通りに楽しまれたら、もう全く満足し終わって、ゴウゴウと高鼾(たかいびき)をかき、心地よき熟睡に入り、些しも霊魂の事を思わない、行く末のことを慮らない、天主様に就いても、醒めてから直ぐ差し出さねばならぬ一生涯の総計算書に就いても、全く無関心で、一度でも考えたことすらないと云う位であります。 斯(こ)う云う塩梅(あんばい)に眠って居る人も、今こそ目を醒さねばならぬ時となりました。頭を擡(もた)げて自分の行く末を考へねばならぬ時となりました。 皆さんはカトリック信者である、熱心なカトリック信者である、それは疑いを容れざる所ですが、然しこの世智辛い浮世を渡るにつけ、毎日毎日せっせと働かなければ食べられぬと云う有様である所から、自然現世の事にばかり気を奪はれて、後の世の方をお留守になし、体の眼が明き過ぎて、霊魂(たましい)の眼が眠ってしまうと云うことになっては居ませんでしょうか、「兄弟等よ、眠りより起(お)くべき時は既に来れり」 皆さんはカトリック信者である、天主様の存在を固く信じ、毎日毎日使徒信経を誦(とな)へて居られる、然し実際の行為に立ち入って見ると、天主様は皆さんの為に全くのエトランゼー(外国人)否な厄介な代物の如く扱われ給うのではないでしょうか。なるほど毎日天主様の為に幾らかの時間を割(さ)いて居られるでしょうが、然しその時間を成るべく少なく、ぎりぎりにして、漸く朝夕の祈祷(いのり)の時間だけに縮(ちぢ)めて居られることはありますまいか。その祈祷も何んな風に誦へて居られる?、無駄話をし、無駄遊びをして、一時間も二時間も費やしながら、天主様と朝夕、御話しをする僅か十五分の時間すら惜しんで、余りに長過ぎると思いなさいませんか。仕事片手に、ふらふらと居眠りながら、その大切な祈祷を誦(とな)へなさるのじゃありませんか。ひょつとすれば、犬や猫の如く何の祈祷も誦へないで、そのまゝ寝込んでしまい、又何の祈祷も誦へないで、其のまゝ起きて食べると云う塩梅ではございませんか、「兄弟等よ、眠りより起くべき時は既に来れり」 皆さんはカトリック信者である、天主様の御摂理を信じて居られましょう、慈愛(いつくしみ)に満てる眼を始終我々の上に注ぎ、如何なる父親も及ばぬ親切を以て我々の身を護り給う天主様、その天主様の御命令なり御許可なりが無くては何一つ我々の上に出来するものはない、しかもその御命令になること、御許可になることは、皆、我々の為を思い給へばこそ、と固く信じて居られるに相違ありません。然るに何かの災難に遭う、病に罹る、悲しい目を見ると、忽ち失望する、力を落す、折角、祝福を与へたい積もりで、自分を打ち給う天主様の御手に接吻することはさておき、何とかして之を排(は)ね返そうとして居ることはないでしょうか。「兄弟等よ、眠りより起くべき時は既に来れり」。 日曜日を正しく守るのは霊魂上のみならず、肉体上にも天主様の祝福を戴く所以である、その反対に「悪銭身に着かず」で、日曜日を守らずして働いても、天主様の掟を破ってお金を儲けても、却って貧乏の基(もと)だとは、まさかお忘れになっていらっしゃることもありますまいが、動(やや)もすると許可も受けず、ミサの代りの祈祷(いのり)も誦(とな)へないで、働く人がある、たとへ許可を受けて居るにせよ、其の許可は日曜日に働かねば食べられぬとか、向うの都合で日曜日を休む訳には行かぬとか云う人の為に与えられる許可であるにも拘わらず、そんな必要もない人までが、矢張り日曜日も平日同様に働いて居ると云うことはありませんでしょうか、「兄弟等よ、眠りより起くべき時は既に来れり」 皆さんはカトリック信者である、人生の目的が天主様であり、天国であることは飽くまで御承知の所でありましょう。然るにその天主様を目指し、その天国を目標として進んで居るカトリック信者にして、往々路草を喰い、ただただお金を溜めよう、名誉を漁(あさ)らう、身に安楽をさせようとばかり心掛けて居ることはありませんか。天国に登る旅路の疲労(つかれ)を休めるが為にとて、余りにも軽卒な慰藉(なぐさめ)を求めようとすることはありませか。何(ど)んなものでも読もう、何んなものでも観よう、何んなものでも知ろうとすることはありませんか。それは未だ假睡(うたたね)に過ぎないかも知れぬが、油断をすると、やがては深い熟睡に陥らんとも限りませんよ、「兄弟等よ、眠りより起くべき時は既に来れり」 実に今です、今こそ目を醒ますべき時、眠りより起き上がるべき時であります、救い主御降誕の福音をかたじけのうしたのは、安い眠りを貪って居たベトレヘム人でなく、目を醒まして居た牧者(ひつじかい)等(たち)でした。彼等は目を醒まして居たお陰で、賎しい牧者(ひつじかい)の身を持ちながら、真っ先に救い主を礼拝することが出来ました。然らば我々も主の御降誕を祝して、其の雨降(あめふら)し給う聖寵を豊かに蒙らんと欲して居る以上、是非とも目を醒さし眠りより起き上らねばならぬじゃありませんか。 「兄弟等よ、眠りより起(お)くべき時は既に来れり」 |