マニラのeそよ風

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第404号 2008/05/01 私たちの主イエズス・キリストの昇天

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 私たちの主イエズス・キリストの御昇天の祝日のお祝いを申し上げます。

 今回は、聖ピオ十世会総長の「友人と恩人の皆様への手紙 第72号」をお届け致します。天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.



聖ピオ十世会総長の
友人と恩人の皆様への手紙 第72号
2008年4月14日 メンツィンゲンにて

親愛なる友人と恩人の皆様、

 トリエント・ミサが決して廃止されたことがなかったと認めた自発教書「スンモールム・ポンティフィクム」は、ローマと聖ピオ十世会との関係の将来に関して、幾つかの問いを発しています。幾人かの人々は、保守的な環境にそしてまたローマにさえおり、教皇様はこのように(自発教書発表という)極めて寛大な行為をしたのだから、これ自体で、私たちに対する善意を持っているという明らかな印を与えたことになる、従って、聖ピオ十世会にとって残るのは一つのことだけだ、つまり「ローマと同意のサインをする」ことだ、という議論する声を響かせています。残念ながら、私たちの友人の中にも、この幻想の罠に捕らえられてしまっている人々もいます。

 この復活節のお手紙の機会に、もう一度、現在の困難の時期における私たちの行動の原理を思い出すことにしたい、そして、自発教書によって典礼に道が開かれたことを別とすれば、基本的には何も変わっていないということを明らかに示す最近の出来事を指摘したい、と思います。それは、これらのことからどうしてもそうならざるを得ない結論を導き出すためです。

 私たちの行動を規定する基本原理は、信仰の保全です。何故なら、第一バチカン公会議の言うように、信仰無しには誰も救われることが出来ず、聖寵を受けることも出来ず、天主に嘉することができないからです。典礼問題は第一のものではありません。典礼問題は、信仰の変質の表現としてのみ、そして天主に当然なされるべき礼拝との関係においてのみ、第一の問題となります。

 第二バチカン公会議において、教会観に関して、特に教会とこの世との関係について、その他の宗教との関係に関して、国家との関係に関して、また教会自身についても、方針のきわめて顕著な変化があります。これらの変化があることは皆が認めていますが、その評価については人によって様々です。今までのところ、これらの変化は、極めて深いものとして革命的なものとして提示されてきました。第二バチカン公会議に参加した枢機卿の一人は「教会におけるフランス革命」とさえ言うことが出来たほどです。

 ベネディクト十六世は、まだ枢機卿であったとき、この問題を次のように提示していました。 「六十年代の問題は、二世紀間の「リベラルな」文化によって表明された最善の価値を獲得することであった。これは事実、教会の外で生まれたものであるとしても、清められて訂正されれば、世界観においてその場を見つけることが出来る価値である。そして(第二バチカン公会議では)それをした。[1]」 

 この同化という名前において、新しい世界観が、そして世界を構成するものについての新しい見方が押しつけられました。基本的に肯定的なものの見方、そして新しい典礼様式の基本概念となったのみならず教会を世界に提示する新しいやり方、超自然・永遠と言うよりも、より水平線的な、人間的で地上的な問題を提示するようにもなったのです。

 同時に、その他の宗教との関係も変容しました。第二バチカン公会議以後、ローマは他宗教に関して否定的なあるいは低い評価をするような判断を全て避けてきました。例えば「偽りの宗教」というような古典的な表現は、教会用語から姿を消してしまいました。カトリックの宗教により近い宗教を表現するときの「異端的」とか「離教的」という用語も消えてしまいました。これらは特に「離教的」という用語が、時々使われることがあるかも知れませんが、それは私たちのために使われるだけです。「破門」という教会用語も同様です。エキュメニズムといわれる新しいアプローチは、皆が信じていることと正反対に、カトリックの一致に戻る、ということでは全くなく、回心をもはや必要としない新しい種類の一致を確立することです。

 キリスト教の名前をもつ諸団体に対しては、新しい観点が確立しました。これは正教の教会とにおいてより明らかです。つまり、バラマンドの同意において、カトリック教会は公式に、正教徒をカトリックに改宗させないこと、正教会と協力することを約束したのです。文書「ドミヌス・イエズス」において言われた「教会の外に救い無し」というドグマは、新しいものの見方に合わせて再解釈が必要となりました。つまり、「教会」の範囲を拡大すること無しにこのドグマを維持することが出来なくなったのです。これは『教会憲章』の中で与えられた教会の新しい定義によって実現されました。キリストの教会は、もはやカトリック教会ではないのです。キリストの教会は、カトリック教会において存する、ということになったのです。「キリストの教会がカトリック教会においてのみ存する」ということだといってみても無駄です。聖霊の働きについて、カトリック教会の外の「キリストの教会」について、人々が主張する道が残るからです。「他宗教も救いの要素を奪われてはいない、・・・ 「正教会」も、その中にキリストの教会が建てられている真正な部分教会となる」などと。

 これらの新しい見方は、他宗教との関係をもちろん大転換させました。表面的な変化だけを語るのは不可能です。まさしく、私たちの主イエズス・キリストの教会に押しつけられようとしている新しいそして極めて深い変化なのです。それゆえに、ヨハネ・パウロ二世は教会論に関する神学のこの部分において本質的な変化があることを認めて「新しい神学」とさえ言っています。一体どうしてこの教会に関する新しい理解の仕方が、教会の伝統的な定義とまだ調和することが出来るのか、私たちにはただ単純に分かりません。この見方は新しく、根本的に別のものであり、従って、異端者たちや離教者達という悲劇的にも教会を離れ、洗礼の信仰を踏みつけた人々とに対して、過去とは全く別の態度を取るようにカトリック信徒に義務づけるのです。異端者や離教者達は、もはやこれからは「離れた兄弟達」ではなく、「全く交わりにいるのではない」兄弟達であり、キリストにおける洗礼によって、失い得ない一致によって、私たちと「深く一致している」ことになったのです。教義と信仰聖省が最近発表した、subsistit という用語に関する説明は、このことを極めて良く明らかにしています。教会は新しいことを教えることが出来ない、と認めつつ、第二バチカン公会議で導入された新しいことを断言しているのです。

 福音宣教ということについても同様です。私たちの主イエズス・キリストの呼びかけに答えるという全てのキリスト者の聖なる義務がまず言われます。「全世界に行って、全ての被造物に福音を伝えよ。信じて洗礼を受けるものは救われ、信じない者は滅ぼされる。[2]」しかし、すぐ後で、この福音宣教とは異教徒達だけのためのものであり、従って、キリスト者もユダヤ教徒たちもこれの対象ではない、と付け加えているのです。つい最近、カスパール枢機卿とベルトーネ枢機卿とは、聖金曜日のユダヤ教の人々のための新しい祈りについての論争について、教会は彼らを回心させることはないと断言しました。

 これに更に、信教の自由に関する教皇の立場を付け加えましょう。すると、私たちはこの数年の間に信仰を守る闘いは決して減少したのではない、と容易に結論を出すことが出来ます。自発教書は、典礼のレベルでより良い方に変わっていくという期待を導入しました。しかし、教会の生活の他の領域では、それに対応する当然あるべき対策が取られているのではありません。

 公会議において導入されまた公会議後の改革で導入された、私たちが告発する(私たちが告発するのは教会がすでにそれらを排斥しているからです)全ての変化は、良しとされています。以前との違いがあるとすれば、これからは、同時に「教会は変わらない」と断言しながら変えていることです。つまり、これらの変化はカトリックの聖伝のラインに完璧に一致していると言いながらの変化です。教会はその聖伝に常に忠実でなければならないということが言われると同時に、用語のレベルでの大変革があり、これは多くを混乱させることになります。事実が、(教会は変わらないという)新しい断言に対応していないかぎり、40年間の危機にもかかわらず、無数の空っぽになった修道院、放棄された司祭館、人のいなくなった教会にもかかわらず、ローマが公会議の方針をやり続けようとしているという意志を変わらずに持ち続けていると結論しなければなりません。その間に、カトリック大学は、無茶苦茶を教え続け、公教要理の教えは知らされないまま残り、カトリック校は特別にカトリックとしては存在しなくなり、カトリックは絶滅品種になっていのです・・・。

 だからこそ、聖ピオ十世会は「同意のサイン」をすることが出来ないのです。聖ピオ十世会はミサ聖祭の古い敬うべき典礼様式を再導入しようと言う教皇の意志を率直に喜びますが、しかし全司教団の時には凶暴な抵抗をも見出しています。絶望することなく、また忍耐を失うことなく、私たちは同意の時はまだ来ていないと認識しています。しかしながら、だからといって期待し続けることが出来なくなるわけでも、2000年の大聖年より定められた道を歩み続けることが出来なくなるわけでもありません。私たちは教皇聖下に、1988年の破門の教令の破棄を求め続けます。何故なら、これは教会により大きな善をもたらすであろうと確信しているからです。また私たちは皆さんにこのことが実現するよう祈りなさいと励まします。しかし、教会の基本原理に、とりわけ信仰に基礎をおかない実用的な同意を取り付けようと考えもなく突っ走るのは、極めて不賢明で性急でありましょう。  ロザリオの新しい十字軍を、私たちは皆さんに呼びかけるのですが、これは教会が2000年の聖伝を再発見し取り戻すためです。これについて幾つかの点をはっきりさせたいと思います。私たちが考えていることはこうです。皆さんがそれぞれ毎日、定期的な時間にロザリオの祈りを唱えます。私たちの信徒の方々の数と世界中に広がっているのを考えると、日夜絶え間なく何時でも警戒して祈る声が天に上がっていることになるでしょう。天の母の凱旋を望み、私たちの主の御国が「天にある如く地にも」来たらんことを望む声が天に上がっていることに。

+ベルナール・フェレー

[1] 月刊誌「ジェズ」1984年11月号 72ページ
[2] マルコ16:15-16