マニラのeそよ風

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第400号 2007/12/08 聖母マリアの無原罪の御宿り

Tota pulchra es, Maria! et maluca originalis non est in te!

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、

 聖母マリアの無原罪の御宿りの祝日の喜びを申し上げます。

 「マニラの eそよ風」は天主のお恵みと兄弟姉妹の皆様の応援のおかげで、今回で第400号を迎えることが出来ました。天主に、そして兄弟姉妹の皆様に、深く感謝いたします。

 前回お送りした総長の「友人と恩人の皆様への手紙第七十一号」では、フェレー司教様は「ロザリオの永久の十字軍」について話されました。

 「この祈りが教会の善のために、霊魂の救いのために、いつも絶え間なく天に昇り続けますように!」「全教会をロザリオの鎖で囲みたい」「カトリックの聖伝がその全てを伴ってあるべき場所にもう一度戻されるために、聖母の汚れ無き御心の凱旋の日まで、ロザリオの永久の十字軍を起こしたい」と言われました。

 この言葉を聞くと、ファチマのシスター・ルチアとフエンテス神父様との会話の内容を思い出します。

 「聖母がいとこたち並びに私自身に、天主は世界に二つの最後の救済策をお与えになっていると言われたからです。これらの救済策とは、聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心に対する信心です。これらは他の救済策はないだろうということを意味する最後の二つの救済策です。」

 「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

 シスター・ルチアはこう言いました。

 「聖なるロザリオに関しては、神父様、ご覧ください。私達の生きるこの最後のときに当たって聖母はロザリオを唱えることに新しい効果を与えてくださいました。たとえそれがどんなに難しくとも、この世的なあるいは、特に霊的な問題、私たち一人一人の個人的な生活上の問題、家族の問題、この世のすべての家族の問題、修道会の問題、民族の問題、国家の問題などなど私たちがこの聖なるロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。もう一度言います。それがどれほど困難であろうとも、私たちが聖なるロザリオの祈りによって解決し得ない問題はありません。ロザリオを唱えることによって私たちは自分を救い、聖化し、我らの主を慰め、多くの霊魂の救いを勝ち取るのです。ですから私たちのいとも聖なる母、マリア様の汚れ無き聖心への信心をもたなければなりません。そして聖母を仁慈・善良さ・赦しの座であると考え、天国への確かな門であると考えなければなりません。」

 私たちは、ロザリオの祈りによって勝ち取られた多くの勝利を思い浮かべます。

 例えば、第二次世界大戦直後、オーストリアは連合軍によって四つの部分に分割統治されました。アメリカ、イギリス、フランス、ロシアです。ロシアは首都ウィーンを含む最も豊かな地域を統治しましていました。戦略上大変重要な地域なのでもちろんロシアは大量の軍隊を送り込みました。

 1945年11月25日、総選挙によって共産党は敗北し、165議席中4議席しか獲得することが出来ませんでした。しかしながらオーストリアの共産党新聞である「国民の声」紙は「われわれは戦いに負けたが、戦争は始まったばかりである。われわれは必ず勝利する」と報道していました。モスクワはこの統治地域を自分の領土にするために殺人や犯罪を増加させていました。

 その時です、ペトロ・パルヴィチェック神父様(Petrus Pavlicek)が1946年に捕虜から帰国しオーストリアの愛する母 (Magna Mater Austriae) 聖母マリアの聖地マリアツェル(Mariazell)へ感謝の巡礼をしました。パルヴィチェック神父様が祖国を共産主義の手から解放するにはどうしたらよいか聖母マリア様に祈っていたところ、「私が言うことを実行しなさい。毎日ロザリオの祈りを唱えなさい。平和がやってくるでしょう」という声を聞きました。

 良く考えた後1947年2月2日、ファチマの精神に基づく、償いのロザリオの十字軍を起こしました。神父様の目標はこれでした。

天主に対して犯される罪の償いのため、
罪人の回心のため、
世界、とくにオーストリアの平和と救いのため。

 一年後の1948年、オーストリアの著名な政治家であったフィーグル首相(Chancellor Figl)を含めて1万名がこの十字軍に名前を登録しました。信者は祖国の解放のために家庭でロザリオの祈りを唱えると約束し、教会では公にロザリオの祈りを唱え、町や村で数百名、数千名が行列でロザリオの祈りを唱えることも頻繁でした。

 1949年、オーストリアの政治的な状況は悪化していくばかりであり、チェコスロバキアやハンガリーは共産主義の手に落ちてしまっていました。カトリック教会は迫害され始めていました。ミンゼンティー枢機卿(Cardinal Mindszenty)は裁かれ処刑されました。

 新しい選挙が近づくと、ペトロ神父様はロザリオの十字軍を強化して対抗しました。公の祈りの5日間、ウィーンでは告白の行列が日夜列びました。選挙の結果、共産党は5席しか議席を獲得することが出来ませんでした。その当時、ピオ十二世教皇はある別のオーストリアの司祭にこう語っていました。

 「ウィーンはヨーロッパの最後の砦である。もしもウィーンが落ちるなら、全ヨーロッパは共産主義の手に落ちる。もしもウィーンが立ち留まるなら、ヨーロッパも立ち続ける。ウィーンのカトリック信者は生ぬるくいる権利がない。ウィーンの人々に何度も何度も語りなさい。彼らに教皇はたくさん祈っている、そうだ、オーストリアのために教皇様はたくさん祈っていると伝えなさい。」  ペトロ神父様は9月12日に終わる3日間の公の祈りの集会を開きました。これは聖母マリア様の聖名の祝日で、オーストリアに侵略しようとしたイスラム軍をウィーンでソビエスキが勝利した日でもあります。ウィーンの大司教はためらっていました。カトリック信者たちはこの招きに応じないかも知れないと。しかしフィーグル首相は後代司教に答えました。

 「たとえたった2名しかいなかったとしても、私はそこに行きます。祖国のためにそれをする価値があります。」

 その祈りの集会には、三万五千名がロザリオとロウソクを手に持って、フィーグル首相を先頭にロザリオの祈りを唱えました。その当時、共産主義者らは軍事クーデターを企んでいました。ジェネラル・ストライキも実行され、首相官邸も占拠されました。しかし反共産主義者ユニオンはこれに対抗し、ストライキは破られ、革命的クーデターは失敗に終わりました。その当時、ロザリオの十字軍の登録メンバーは二十万名でした。

 しかしベルリンにいたロシア外相モロトフ(Molotov)は、フィーグル首相にこう挑戦しました。「希望は持つな。ロシア人は獲た獲物は決して放さない。」これを受けて、フィーグル首相はペトロ神父様に「十字軍メンバーがさらにもっと祈るように命じて下さい」と伝えました。

 1955年4月、十字軍のメンバーは50万名に登り、新しい首相ラアブ(Raab)は、モスクワに召喚されました。彼には何が起こるか分かりませんでした。モスクワで5月の13日の夕方に、共産党幹部との面接の後、彼はこうメモを残しています。

「今日はファチマの日。ロシア人はまだ心を頑なにしている。天主の御母聖マリアへの祈り。聖母マリア様がオーストリアの国民を助け給わんことを。」

 人間的に言うと、全ては失われていました。ところが丁度その1955年5月、モロトフは突然オーストリアの独立を許すと発表したのでした。10年間、出口のない戦いが続けられたのち、魔法の煙のように共産主義の脅威は立ち消えてしまったのです。ロザリオの聖月、1955年10月26日に最後のロシア兵がオーストリアから出て行きました。この日はオーストリアの国民の祝日になりました。

 ウィーンの英雄広場では政治家や司教たちの臨席の下、壮大な感謝の儀式が催されました。この席で皆はこぞってロザリオの聖母マリアこそがこの勝利の原因であると宣言していました。

 1885年9月21日、将来の聖ピオ十世であるサルト大司教もこう書いていました。

「私の愛する子供達よ、私たちの生きる現代には、服従することを拒む嘆くべき知的傲慢のために、人々の心は腐敗しキリスト教道徳を傷つけ、道を誤らせているので、信仰の凱旋を確実にする確かな手段として、ロザリオの玄義を黙想する以外には何もない」と。

 この「マニラの eそよ風」400号では、愛する兄弟姉妹の皆様にロザリオの祈りの重大性と共に、共産主義の危険性を知っていただきたいと思い、終戦直後にやはり日本を代表するカトリックの政治家であり知識人であった田中耕太郎の「クリスト教と共産主義」をご紹介したいと思います。

Tota pulchra es, Maria! et maluca originalis non est in te!
聖母マリア無原罪の御宿りよ、我らのために祈り給え!
ロザリオの元后、我らのために祈り給え!
聖母の汚れ無き御心、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.


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クリスト教と共産主義
田中耕太郎

田中耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)10月25日 - 1974年(昭和49年)3月1日)


一 共産主義の諸問題

 共産主義の問題は、いろいろな方面からして検討され得るのであります。元来共産主義は経済理論でございますが、この経済理論としての共産主義は、日本でも相当研究論議せられて参りました。御承知のように、慶應大学の小泉信三博士は、専門の経済理論の方面から、特に共産主義の批判をいたしておられるのであります。併しながら共産主義は、単なる経済理論に尽きていない所に問題があるわけであります。普通、共産主義と申しましても、いろいろ広い意味の共産主義の中には、原始的なもの、又クリスト教的なもの、或いはクリスト教を自己流に変形して、これと共産主義的思想との結合を試みたクリスト教社会主義というようなものもございます。

 私が今日お話申し上げようと考えておりますのはマルクス主義的唯物史観的の共産主義に限るのでございます。左様な意味の共産主義は、これは一種の社会哲学、或いは歴史哲学、或いは世界観、或る意味においては信仰とでも言うべき人間全体、或いは社会全体に関係して参るものでございます。


二 共産主義の弾圧

 前世界大戦の直後から、日本でも社会運動が非常に盛んになって参りまして、いわゆる民主主義の傾向が、丁度今日のように勃興して参り、同時に資本主義的経済の持っている欠陥を、どういう方向から是正して行くかということについて、いろいろな主張がなされ、この主張の中に最も目立っているものが、マルクス主義的共産主義であつたわけであります。

 左様な風潮は、殆ど日本のインテリゲンチア[知識階級]全部を風靡していると言ってもよかったのであります。勿論、学生、殊に経済学を学んでいる者、或いは、社会学とか、或いは法律学を学んでいる者の多数は、マルクス主義的共産主義の説明に共鳴し、又は少なくとも明白な批判的立場をもっていなかったと申していいのであります。

 ところが世の中が変わって参りまして、世論はファシズム的の極端なる国家主義的の方向に傾いて参りました。左様な風になって参りますと、今度は共産主義に対する弾圧が加わって、マルクス主義も国禁の思想になってしまったわけであります。右翼陣営の方からは勿論、マルクス主義に対するする攻撃がなされておりました。

 ところが左様な攻撃というものはむしろ日本の特異性、日本の歴史、或いは国体というものにマルクス主義と、いうものが合わないという見地からのみなされておったように思うのであります。本当にマルクス主義に対する広い意味の批判というものは、なされていなかったのではないか。若し国体とか、或いは日本精神とか日本の歴史とかいうものに合わないという意味で、マルクス主義を採用すべきでないとするならば、或いはドイツにおいて、或いはお隣りの中華民国において、マルクス主義が採用されてならないという理由にはならない。

 私自身としては先程申しましたように、法哲学を研究しておりまして、勿論マルクス主義に対する批判的の態度を取って参ったのであります。併しいわゆる日本的の、日本本位のマルクス主義の批判というものは、これは批判になっていないじゃないかという風に考えます。批判すべきものがあるならば、これは人類普遍の立場からでなければならないのであります。何処の国においても、何処の、何時の社会においても、間違っているということが証明されなければならないものである。

 ところでマルクス主義の批判というものは、外国においては非常に多いのであります。外国では実に汗牛充棟もただならぬ、各方面の著書論文が出ているのであります。左様な方面からのマルクス主義の批評をするのには、マルクス主義がどういうものであるかということを述べなければならない。然るに従来はマルキシズムというものは、こういうものであるということを述べることもできなかったのであります。従って批判もできなかったのであります。

 経済学では、とくに経済学説史の講義において教授はマルクスに全くふれないで、その部分を全然ブランクにするというような状態でございました。私自身は法哲学の歴史、法思想の歴史を述べます際に、これはどうしても無視してはならない。これを一応紹介しなければ批評もできないのだというわけで、或る程度の分量をそれに割愛いたしました。私は宣伝するのでなく、学問的の研究や批判ならば差し支えないと考えてやっておったわけであります。

 併しそれには、共産主義の内容がどういうものであるかということも、やはり一応説明しなければならなかったわけであります。併し法哲学の、而もその一部分の歴史の説明でありますから、左様な点においては、極右の陣営の注目も、余り引かなかったのではないかと存じております。


三 共産主義の風潮

 終戦後になり言論の自由の波に乗って、再び二十年前と同じような状態が繰返されるようになりました。多数の知識階級のマルクス主義に帰依しているような状態は、以前のよう、或いはそれ以上と言ってもいいのではないかと思います。又学生には更にこの主義に追従している者が多いのであります。

 併しながら今日の状態では、二十年前の状態と比べて見ますると、学者は別問題といたしまして一般人、特に青年層、或いはその中でも学生は以前の、二十年前のマルクス主義学生、マルクス青年達と比べまして、マルクス主義に対する教養が更に一層乏しいということを発見するのであります。マルクス主義というものが根本的にどういうものであるか、ということは殆んど分かっていない。これが分かって、或いは共産主義者、或いはマルクスボーイになっているわけではない。こういう風に感ぜられるので、従って彼等はただ時勢の力、或いは流行に追従して、或いは単に新しいものに飛びついていく、或いは何か世の中を良くしていこうという、一つの有力な試みであるから附いて行こうというよう、簡単な動機に出ているのではないかと思うのであります。

 そこで左様な青年層に共産主義がはびこっている状態に対して、我々は前のような、或いは日本精神とか、日本の歴史、日本の国体というものにマルクス主義が合わないのだということで以て封抗するということはできない。併しながらもしマルクス主義が、人類普遍の原理に照らして見て、こういう所が間違っているのだということを一言でも言い得るならば、それに対して再び反駁するよう自信を持っている青年達は、極めて少ないのではないかという風に考えられるのであります。

 左様な意味におきまして、私はこの人類普遍の原理に基づいて、マ'ルクス主義というものをどういう風に見なければならないかについて考えてみたいのであります。

 人類普遍の原理と申しますと、一口でいえば自然法(ロー・オブ・ネーチュア Law of Nature)つまり古今に通じて、或いは東西に施して悖(もと)らない人間の使命、殊に普遍人類的の道徳観念であります。この自然法からどういう風に批判されなければならないものであるか、ということを申し上げて見たいと思うのであります。併しこれは単なる道徳的の感想を申上げるというわけではないのであります。もしそれならばそれは哲学ではなく、学問ではない。そうとすれば、つまり現在の思想の戦いにおいて、何らかの客観性を以て主張され得るところの、左様な武器ではないということになります。この問題については理論的にどういう風な批評が可能であるか、ということを考えて見たいと思うのでございます。


四 クリスト教の力

 現在のヨーロッパにおきまして、マルクス主義に対するもの、対抗するところの大きた勢力は何であるかと申しますると、これは申すまでもなくクリスト教でございます。このマルクス主.義は、そのクリスト教の力を十分意識しているのであります。従ってそれが全面的に宗教を否定する立場に立っていることは御承知の通りであります。いろいろな宗教の中でマルクス主義が最も脅威を、感じておるのがクリスト教であります。

 又このクリスト教の中でも、カトリック、プロテスタントという大きな流れがございます。彼等はとくにカトリックを恐れているのであります。何故かと申しますとプロテスタントはいろいろ各派に分れている。何百という派に分れています。その中には何れの教会に属しないような人もあり、或いは教会に属しておっても教会制度というものが小規模であるし、また教会の権威というものが確立している程度が、カトリックに及ばない。ところがカトリックにおいてはローマ教皇の強権というものがあり、教会の団結、組織と秩序というものが非常に堅固であります。

 左様な形式的の方面も、思想的に申しましてクリスト教神学と結びついておる政治哲学、社会哲学、或いは文化哲学、或いは経済哲学を持っているところに由来しているのであります。従ってカトリック教会は、マルクス主義の理論と十分闘って行くことのできる信仰の遺産というものを持っているのであります。この故に終戦後におきまして、各国で実際政治の分野におきまして力トリック的色彩の政党が、共産主義の陣営に対する最も有力な敵となっているのは申すまでもない所であります。これはつまり形式的には教会の組織、団結の力、それは民族を超越する国際的の力である。実際的には、カトリックの社会哲学、政治哲学、文化哲学、経済哲学に基礎を置いておるからであります。私自信の今日お話し申上げる所も結局左様な点を、つまりクリスト教、とくにカトリックの立場からマルクス主義がどういう風に批評されているかということを申し上げて見たいと思います。


五 世界観の対立

 マルクス主義に対しては、前に申し上げましたごとく、或いは価値論、或いは恐慌論というような、左様な純経済的の方面から申しまして、専門家の方からいろいろな批評が成り立ち得ることは御承知の通りであります。宗教的な世界観から見まして、クリスト教と最も正面衝突をするという問題は、一体どこにあるかと申しますと、人間というものの考え方であります。

 人間とは何ぞやと、いう問題において、マルクス主義の世界観と、クリスト教的の世界観とが根本的に対立するのであります。クリスト教的世界観におきましては、人間はこの世界と同じように目に見える部分と、目に見えない部分とから成り立っておるというのでございます。世界全体が単に我々が目に見、耳に聞き、手で触れることができるもののみから成り立っているものではない。ヴィジブルのものばかりではなくして、それとインヴィジブルのものとから成立っているというのであります。これはカトリックの神学の根本になっている。そこに二つの世界があるわけであります。

 この二つの世界が結びついているものが、現在の世界であって、又我々個人について考えて見ましても、すなわち、肉と霊とから成り立っている。そうしてヴィジブルとインヴィジブルとの間にどちらに優位をおくかという問題につきまして、ヴィジブルなものは、インヴィジブルなものの手段でしかない。我々に本当に価値のあるものはインヴィジブルなもののであり、それが人間の価値であり、それを完成して行くことが人生の目的であり、ヴィジブルのものはインヴィジブルなものの手段たる意義を持つかのような考えであります。

 ところが世界観の中には、その価値判断について間違ったものがあるのであります。いろいろな世界観を分けて考える極端な例として考えると、ヴィジブルの世界ばかりが本当の実在する世界である、インヴィジブルなものは存在しない、こういう見方がある。もう一つはその逆でありましてインヴィジブルのものだけが本当に実在するものである、ヴィジプルのものは実在しない、こういう考え方がある。世の中というものは皆イルージヨン―――迷いだというような世界観もあるわけであります。併しながら我々が実際に視覚そのものから考えて見まして、世界というものは現にある、目に見えるものがある。これを否定するわけには行かない。併しながら目に見えるものを肯定するが故に、目に見えないものを否定するという考え方も間違っている。目に見えないものもある。そうするとどっちが一体人生の目的、世界の歴史の目的であるかということになると、ここで世界観的の対立になるのであります。


六 二つの考え方

 それでクリスト教においてはヴィジブルなものがインヴィジブルなものの手段になる、従って、我々は鉱物、植物、人間以外の動物の世界から、我々の生活のためになるものを利用することになる。元来世界歴史、人類の歴史の究極点は一体どこにあるかということになると、それは神の意図が地上に支配を及ぼして天国がこの世に実現されることである、天国の概念は目に見えるものを考えているのではない。目に見えない世界を考えているのであります。左様な意味で、目に見えるものと見えざるものとの価値判断において、目に見えないものに重きを置き、それを目的として目に見えるものを、目に見えないものに奉仕せしめるという考え方であります。

 ところが、マルクス主義の立場はどういうものであるかと申しますと、その点が目に見えないものを否定する考え方に行っておるのでございます。目に見えないものはこれは実在しない。そういう考え方はポジティヴィズム的、つまり実証主義的の考え方、或いは具体的に申しますと、自然科学的のものの考え方であります。

 世界は物質のみから成り立っている。しからば、物質というものをどう考えるか、その本体は何処にあると考えるかというと、それはアトム、即ち極小の単位である。あるいはモナード、一種の力という風に考える。こういう考え方が哲学界において支配しておった。

 これは御承知の通りであります。併しながら、左様なアトミズム的の考え方、これは世界の、或いは宇宙の秘密を我々に示すことではない。左様な考え方を以てしては、ミロのヴィナスの彫刻のうるわしさ、或いはベートーヴェンの音楽の深みというものを説明することが出来ないわけであります。

 左様な、つまりアトミズム的或いはマテリアリズム的の考え方が、哲学の歴史上において、ギリシア以来存在しておりますけれども、しかしそれは決して有力ではなかったのであります。この物質主義的実証主義的の考え方が、マルクス主義と言われているわけであります。


七 マルクス主義の理念

 この物質主義的、唯物主義的の考え方が、マルクス主義においてどういう風な形を取って現れて来たかと申しますると、つまり物質、これはマルクス主義においては経済に置き換えられるが、この経済というものがすべてのイデオロギー、すべての理念形態の基礎になるという結論に到達するわけでございます。

 自然界の、或いは宇宙の秘密は全部物質によって説明されるという考え方と平行して、人間の社会生活のあらゆる現象は、経済でもって説明される、或いは宗教にしろ芸術にしろ道徳にしろ、いろいろな制度にしろ、法律にしろ、全て経済に原因を持っている。従って、経済が変化するならばこれらの或いは宗教、或いは道徳、或いは法律制度、或いは文化一般、これは全部変わってくるものであるという前提のもとに立っているのであります。これがつまりマテリアリズム、マルクス主義の基礎になっている唯物史観のマテリアリズムの方面であります。

 もう一つは、マルクス主義唯物史観はどういう見方をしておるかというと、考え方が歴史的であります。唯物史観、------- ドイツ語で言うと、マテリアリスティッシェ・ゲシヘツアウフファッスング ------ この歴史観、マルクス主義の根本的の立場は、一口で申しますと、歴史的の相対主義であります。人類の歴史は原始時代から今日に至るまで、経済によってずっと支配されてきたという風な考え方でございます。而もその経済の歴史というものは、つまり生産手段が一体誰に属するかというその事実によって支配されてきている。そこには社会発展の歴史は、経済発展の歴史によって規定され、経済発展の歴史は、これは生産手段が何人(なにびと)に落ち着くかということによって規定せられるというわけになるのであります。


八 唯物弁証法の理論

 マルクス主義の歴史観には御承知のようにヘーゲルの弁証法が入って参ります。へーゲルの論理学によりますると、ここに一つの命題がある、それに対する反対の命題がある、即ちAといつ命題がある、それに対して、ノンA、Aでないものがある、その第二の命題は第一の命題を否定するものである。この第一と第二の命題が、両者を含み且つ超越する第三の高次的の立場に解消する。即ち第一と第二の命題の対立が発展して、第三のものに止揚される、アウフヘーベンされる。つまり綜合であります。

 第一の命題はテーゼ (正) といわ.れます。これに対する反対命題が定立される。それはアンチテーゼ (反) であります。それがジンテーゼ (合) にまで止揚されるのであります。そういう論理が、へーゲルの哲学の根本になっておるのであります。

 このヘーゲルの哲学をマルクス主義が取入れたわけであります。従ってマルクス主義の中で、最も根本的な特色はどこにあるかというと、そのマテリアリズム的経済史的歴史観と、その歴史観が弁証法的の見方である点にあります。

 左様な見方を具体的に適用したのが、階級闘争論であります。階級闘争論によれば、人類の歴史の弁証法的発展というものは、これは結局相争う階級の間の関係になって来ると、いうわけであります、特にマルクス主義によって詳細に述べられているのは、中世の封建的な経済が市民階級の勃興で自己矛盾で崩壊して、自由主義的、資本主義的の経済が発生し、それがさらに自己矛盾で、というのはブルジョア階級に対しプロレタリア階級が勃興し、資本主義が崩壊し、プロレタリアートの独裁が必然的に実現する過程であります。かような経済の遍歴は、さつき申しました或る命題に対して反対命題が対立し、それが綜合されるということ即ち正、反、合という形において発展して行くわけであります。


九 その歴史の叙述

 以上述べましたように、マルクス主義の説明によりますと、世界歴史はそういう風に、規則正しく発展して行くわけである。少なくとも我々世界人類の歴史として知っているところの或いはバビロニア、或いは中華民国四千年の歴史の時から、その流儀でずっと行っていなければならん筈であります。併し唯物史観の論者の説明は、古代や中世のことは極めて簡単である。むしろ中世の末期には、封建主義的の経済が崩壊して、資本主義段階にだんだん入って来る。そうして資本主義が爛熟期の域に達し、更にコミュニズムの勃興から、資本主義が崩壊して行くという過程を詳細に述べている。中世まで遡る、或いはローマ時代まで遡るということになると、説明は甚だ貧躬だということになるわけであります。

 封建主義的の経済が、資本主義的の経済に推移するという方面を、我々研究して見て随分興味もあり、又随分学ぶべき所もあり、経済史的に見ましても非常に鋭い観察をしている、公式的になり過ぎて誤っている点もないでははい。併しながらそこに又多分の真理を含んでいることは、これは否淀できません。或いは全体から言いまして、人間の物の考え方や社会生活において、これが弁証法的の発展を遂げている方面が全然ないとは言えない。


一〇 共産党宣言の楽観主義

 併しながらそればかりでもって世界歴史を、人類の文化を、或いは政治生活を、もれなく説明できるというということになると、甚だ疑問なわけであります。事実かような歴史観の最後の段階はどうな'っているかというと、結局ユートピア的になっている。

 マルクス主義的共産主義のエッセンスをまとめたような共産党宣言の最後の段階を見ますと、実に楽観的な、お目出たいユートピアに終っているのであります。

 その説明によりますと、つまり資本主義的経済が、或いは暴力革命によるか、或いは自然の推移によるか、これは別問題といたしまして、結局崩壊し労働者独裁の社会が実現する。しからばこの社会というものは一体どういうものであるか、これは階級としては労働者ばかりになってしまうわけであります。勿論その社会におきましては、階級闘争というものはない。各人の自由な発展が、すべての人間の発展の条件であるという組織になる。つまり精一杯各人が自由を発揮して、而も他の者が自由に発展することを妨げない。いわゆる心の欲する所に従って行動しても、矩(のり)をこえない、他の人の自由と抵触しないというような状態、つまり人間が聖人でなければ達し得られないような、そういう状態を考えている。同時に又左様な世の中においては、人が人を支配するということはない。人の支配の代わりに物の管理というものが、代って来るというととを言っている。この現世において、一体物を支配するのに、人の支配なくして可能であるかということが問題であります。今仮にそれができても、人間は物の番人になってしまうということになるわけであります。

 要するに各個人の自由なる発展が、すべての人間の発展の条件であるという組織が成立する。これがつまり歴史の終わりになる。これが彼らが非科学的であるという批評をするところの、ユートピア的社会主義の思想に帰着するのであります。勿論マルクス主義には、従来のユートピア的社会主義において認められないところの、世界人類の経済の発展についての科学的な説明はある。併しながら終末観、というのは、人類の歴史の終わりに関する説明になって来ると、突如非科学的になっている。そこに人間の現実に甚だ遠いものがあると私は見るのであります。そこに又マルクス主義が宗教的だという批評を受ける点があるのであります。


一一 ユートピア的結論

 マルクス主義は、宗教は阿片だと称しており、あくまで科学的でないという根拠の下に立っておるが、科学的であるというところのマルクス主義が、非常な空想的ユートピア的の結論に達しておるというところに、大きなマルクス主義の矛盾があるのではないかと思うのであります。

 若し世界歴史が弁証法的に正、反、合の過程の下において発展して行くという前提の下に立ちますれば、それは、それは終わりがないことになる。人類社会が存続する限りは正、反、合の形は繰り返されて、無限に継続されて行く筈であります。又これでお終りだということは、言い得られないわけであります。仮にかような社会が成立したとしても、そこに又矛盾が生じて来て、これに対するところのそれを正とする、そうして又更に反とし、合の形を取って、それに対して又今度はそれを正として反というものが現れることになって、停止する所を知らざること.になりはしないか。

 過去の人類の歴史全体を通じて、マルクス主義が言っているように、世界の歴史は進行していたかというと、その点はそうでないのみならず、その点に関する説明は非常に不十分である。又将来社会についても、預言以外には何物もないということになる。預言の点は甚だユートピア的であるということになるのであります。

 或るイギリスの思想家は指摘しております。マルクス主義は終末観的の方面においてクリスト教に似か寄っている。つまり宗教的のものを持っているのだということを言っております。マルクス主義の一種の魅力もそこにある。将来観というものを出して、希望を抱けるという一種の預言的の意味を持っていると言っているのであります。

 これは正にそうであります。青年層を握っておる魅力のあるのも、正にそこから来ると思います。マルクス主義の理論じゃない。マルクス主義のむしろ宗教的の方面に引きつけられているということになっている。もしそうならば、今まで存在している所のすぐれた宗教に、我々は解決を求めなければな.らないのではないかという論になって参るのであります。


一二 宿命論的性格

 この際付け加えて申上げますが、マルクス主義の歴史観によりますと、こういう結論が生じて来るのであります。人類の歴史は只今申上げましたように、だんだん動いて行く、ということになると人間の自由意思という、ものは否定せられることになる。我々は川の流れになぞらえて説明すれば、世界歴史の大きな流れの上を泳いでおる。どうせ海に入るんだ、だから人間が泳こうが泳ぐまいがそんなことには関係ない、来るべきものは必ず来るということになる。そうであれば人間の努力というものの意味がなくなるのであります。

 我々は何んらかの理想を持ち、世の中をそういう理想的な社会にして行かなければならないという目標を持ってこそ、初めて努力するということになって参るのであります。

 然るにどうせ世の中は、こうなって行くんだ、さつき申しました共産党宣言の終わりの方にある世の中が到来するのだ、.即ち正、反、合の形によって歴史が変化するのだ、資本主義は自己矛盾によって没落する、そうして労働者独裁の状態が実現するのだということであれば、何を好んでマルクス主義の運動をやる必要があるか、非常な犠牲を払って、自他の生命まで賭してやるとか、或いは暴力革命をやって、かような目的を達する必要があるかということになって参らざるを得ない。左様な意味にたいしてマルクス主義は宿命論的な性格を持っている。これはすべての歴史観に通ずる欠点であると言っていいと思います。

 人間の歴史を研究するということは極めて必要であります。併しながら歴史を研究するのは、それによって我々は、何かを学ぶためであります。我々は過去において、或いは世界人類が、或いはある民族がどういう風に成功し、又は失敗をして来たかという跡をたどり、その原因をきわめ、今後我々はどういう風に向いて行かなければならないかという目標を決定し、我々の参考に資するために歴史を学ぶのであります。つまり、歴史を研究するのは、それを批判せんがためであります。

 ところが歴史というものの研究は、左様な批判的方面に貢献しないで、むしろ現実を肯定し、それに盲従する方面に赴きやすいのであります。

 世の中の変遷というものは、これは事実だ、これは止むを得ないものだ、人間は如何ともすることはできないのだ、人間は歴史の赴くままに流れて行くより仕方がないという、とかく諦め的な考え方に陥り易いのであります。

 唯物史観によると、とも角そういうことになる、我々は手を拱(こまね)いて、世界経済の変遷を傍観している、我々がやきもきしても仕様がない、生れるものは月満ちれば生れる、到来すべきものはだまっていても到来するのだという消極的考え方になるのであります。


一三 主体性の問題

 そこでこの頃思想界において、大いに論議されております主体性論というような問題が起って来る。つまり人間は自由意思の主体であります。我々は我々の行動なり、或いは人類の運命を決定する力を持っていなければならぬという考え方と、マルクス主義の唯物史観とが、どういう関係になるかということが問題になっている。この頃これがむしかえされて問題になっていることはおかしなことです。

 この問題は随分前から十九世紀の終わり頃から、とくに前世界大戦後から非常に論ぜられている根本問題であります。若し我々が、自由というものを固く執って動かないとするならば、我々は世界歴史に積極的に働きかけ、創造的役割を演じて行かなければならないのであり、その歴史に動かされるべきものではない。勿論歴史を無視することはできません。人間の社会において存在する大きな流れ、むしろ自然法則とも言うべき流れを尊重しなければならない。でありますから法律を制定します場合においても、統計というものを利用しなければならない、大数の法則を、我々は尊重しなければならないわけであります。

 ただ我々は無批判的に、大数の法則そのものに副うて行動するということであるならば、何もしないでいい、我々人間の自然の傾向に委せて置けばいい、ということになるのであります。

 我々は個人的にも社会的にも或る目標を以て行動する、その目的を実現せんがために努力する。言い換えれば、我々はいわば社会理想を持って、その理想を実現せんがために努力するというところに、人間の生活の意義があり、人類社会の発展、世界歴史の意義があるのであります。


一四 普遍的真理の否定

 マルクス主義的決定論、即ちすベてが歴史によって定まるという宿命観によれば、理想実現の努力である革命ということも説明ができないわけであります。

 左様な立場かち言いますならば、真理というものが存在しないことになる。口に真理を説くことがあっても、それは歴史的なものだ、だかち常に変わることになるのであります。唯物史観によればさっき申しましたように、経済がすべての基礎になるわけであります、経済があらゆるイデオロギーの株小僧になる、道徳とか宗教とか文化とかいうようなものは、その下部構造の上に存在する上部構造だということになると、絶対普遍の真理或いは道徳というものは存在しないといつことになるわけであります。

 道徳が認められても、それはせいぜい階級道徳以外には何もない、階級道徳、自分たち仲間だけの間の道徳というものが存在するのみである。その道徳は他の階級の者には通用しないということになるのであります。

 ところが実際マルクス主義を信奉している人達は、左様な理論を持ちながら人類普遍の道徳に従って行動していないわけではない。道徳を無視するような者は仲間の間でも評判がわるい。又彼等は階級を異にする人々にも、同じ道徳を要求する。しかし我々はこれを自己矛盾だと考える。

 マルクス主義者に似たような考え力はナチズム、ヒットレル(=ヒットラー)主義の考え力にもあります。ヒットレル主義の理論は、すべてを人種でもって説明しようといたしました。古今東西を通じて謬らない道徳や原理や、精神文化というものはない、道徳、宗教、法律などは、人種に固有のもので、人種がちがえばそれぞれちがっており、全人類共通のものはないという考え方であります。


一五 ナチズムとマルクス主義

 そうすると日本とドイツの間に国際条約が結ばれる、防共協定が結ばれるということ自身が、矛盾であつたわけであります。というのは、ナチスの人種理論によれば、日独両国間には共通の法律観念、国際的の正義の観念が存在しない、つまり共通の分母が存在しないのに、その上に条約という法律関係が発生する筈がないのであります。

 それと同じく、厳格に階級的の道徳観を主張する唯物史観、マルクス主義の立場から申しますと、彼らが有産階級特権階級とする資本家や地主と、無産者即ちプロレタリアとする労働者や農民との間には、全然共通の道徳的、法学的の観念はないということになります。両者間には正邪善悪の標準が全く違って来る。そうなりますと、同じ人間の関係でも、結局人間と人間との関係ではなくて、人間と野獣との間の関係、或いは野獣相互の間の関係ということになるのであります。

 ヒットレル主義の理論によりますと、仮に、アフリカの黒人をドイツ人が、虐殺したといたします。或いは、黒人国を侵略して滅ぼしてしまったといたします。この場合には、ドイツと黒人との間に、国際法違反の関係というものは成り立たない。ただ獅子が羊を食い殺してしまったというだけの関係しか成り立たない。それは純然たる実力関係以外の何ものでもないのであります。

 要するに、マルクス主義によれば階級相互の間の関係においても、単なる実力関係が存在するのみで、道徳関係はその間に存在し得ず、又法律関係も存在し得ないということになるわけである。ところがさような理論を唯物史観論者は決して実行はしておらず、又実行できるものでもありません。仮に彼らが敵視しているところの資本家が、労働者を理由なしにぶん殴つたとしましよう。この労働者は勿論大いに憤慨するでありましょう。

 これに対して資本家の方で『君が憤慨するのはおかしいじゃないか、君等の立場からすれば君と僕とは道徳が違うので、全く別な世界に生きているのだ、わが輩の道徳によれば人を殴るということは間違っている。併し君から間違っているという非難を受ける理由がないのだ、君と僕との関係は、君の方の理論では、全く実力関係だ、弱肉強食の関係になるのじゃないか、共通の道徳があってこそ、君は僕を非難することができるが君はその共通の道徳観念を否定しているのじゃないか』とこう言つたとする。その場合に労働者は何と答え得るか、全然答弁ができないと思うのであります。


一六 「搾取」の理論

 そういうふうに考えて参りますと、マルクス主義者が盛んに非難する、資本家の「搾取」ということ自身が、おかしいことになる。

 共産党宣言、その外のマルクス主義の文献を見ますと、搾取に対する強烈な憎悪の念が現われております。人間が他人に対して憎悪の念を懐く場合があることは事実であります。しかしながら宗教的に見ればそれは人間の罪悪から来ているもので奨励すべきことではありません。しかし、かような宗教的見地からの批判は別として、人間が不正義に対して憤慨することは、当然であります。

 搾取というのは、これは、若し真に搾取が行われておったとするならば、どういうことであるかというと、つまり資本家が労働者に帰属すべきものを、自分に留保して与えないということであります。そうしますと、そこに正義、不正義の観念というものが存在することを前提といたします。

 例えば労働の結果は、労働者に全部帰属しなければならないという原理があるとすれば、これは一つの道徳であり、法律上の原則であります。

 抑(そもそ)も物に加工した者がその加工の結果として、その物の所有権を取得するのか、或いはその所有権が材料の所有者に移るのかという議論が、ローマ法における有名な論争の一つであります。従って搾取に対する憤りも、取るべからざる物を取るつまり他人に属すべき物を取ってしまったというところに、そこに不正義が行われていたというところに、或いは少なくとも反道徳的の行動があるということに対する非難でなければならないわけであります。

 ところがもしマルクス主義の階級道徳、つまりクラッセン・モラールという立場を厳格に守りますならば、搾取に対する憤りといりものは、これはあり得ない筈であります。何となれば、超階級的法律なり道徳原理なりは、マルクス主義においては認められないからであります。

 ですから搾取はこれは事実上の問題、単に一匹の犬が見つけて来た肉の一片を他の犬が来てさらってもっていつたようなものであります。それは搾取じゃないのです。搾取が行われるためには搾取の事実を肯定し、それを非難するためには、私有財産制度が認められなければならない。自分の物、他人の物という区別があってこそ、搾取に対する非難が成立し得るということになるのであります。


一七 愛と共産主義

 かように考えて見ますると、マルクス主義の根本的の建前におきまして、いろいろの矛盾が発見せられるのであります。なおその以外の具体的の問題に入って二、三説明したいと思います。

 例えば共産党の指導者の一人が、大陸から帰って来て、共産主義者の行動が国民に反感をもたれている事実を見て、国民に愛されるような、共産党でなければならないと申しました。その「国民」というものは、自分らの仲間だけを考えているわけじゃない、労働者の間の問題でなく、一般国民全体を含むと解釈しなければなりません。そうであるとすれば国民に共通の超階級的「愛」の道徳の存在を肯定していることになるのであります。

 それはそれといたしまして、愛というものは唯物的な共産主義の世界観のどこから出て来るか問題であります。これは実際人類普遍の道徳である同胞愛というものから出て来なければならない。愛を説くとするなら、唯物主義を却って理想主義精神主義の立場に帰らなければならない。

 そうすると、さつき申しました階級闘争理論と、一体どう調和をつけることになるかということが問題になって参るのであります。そこにマルクス主義者が愛を説くことの、一つの矛盾があるのであります。


一八 社会を動かすもの

 さらに全体として見れば、マルクス主義、唯物史観の理論は、経済を人間の社会を動かして行くところの、最も根本的な力だと見ているのであります。

 ところがその断定自身がこれは誤っているのであります。これは宗教、道徳、法律、芸術の発達史を一瞥すれば、極めて明瞭であります。とくに宗教の歴史然り。法の歴史然り。

 具体的に申しあげますと法律にはいろいろございますが、例えば商法のごときは、殊に資本主義的の経済の特色を反映しているものとして、それを研究するために、マルクス主義の傾向を持っている経済学者の書いた書物のごとき、随分役に立ちます。殊に株式会社に関する本質的の問題の研究のごときは、その方面によって示唆を得るところが少くないのであります。併しながらこれを、法律全体に推し及ぼすことはできないのであります。法律の根本精神は勿論のこと、或いは正義だとか、衡平だとか、或いは、人道、さような要求から出ているところの法律の根本原理は説明できないのみならず、各個の法律の内容に立ち至って考えて見ましても、経済に全くの関係のない法律は沢山あります。而も社会生活上極めて重要な法制で経済以外の要素を以て内容を与えられており、又指導されているというものが多々あるのみならず、経済的の現象であると考えられるようなものでも、その指導原理は一体どこから来ているかというと宗教なり道徳なりに由来しているような問題が、沢山あるのであります。

 例えば婦人の地位のごとき、マルクス主義者の説明するところでは、やはり経済の変遷のみから説かれているのであります。併しながらクリスト教的の人類愛の観念、人間が本質的において等しく神の子であり、平等なものであるという観念が、婦人というものの地位の向上に役に立っている。

 或いは奴隷の解放然り。これは単なる経済問題ばかりではありません。なお細かいことになりますが、私の専門の商法から例を引きますと、海難救助の制度の確立したことなどもその一つであります。欧洲の中世においては、海難の場合に掠奪するのが沿岸の領主の権利(所謂海賊権)だと認められておった。さような制度が否定せられ、ついに近世の海難救助の制度ができ上がったのは、中世のカトリック教会のいい意味の干渉に端を発しているわけであります。

 さようなことを述べますと、数限りもなくある。法というものは決して階級闘争の結果のみから生じたのじゃないのみならず、外の非常に多くの別なエレメントが関係しているということが明瞭になるのであります。


一九 クリスト教と労働

 「働かざる者は食うべからず」という労働運動のスローガンがあります。これは一体どこから来ているのか知っている人は少ないと存じます。これは聖パウロが「テサロニケ後書」の第三章第十節に言ったことから来ている。つまりそれは元来クリスト教から来ているスローガンでありまず。これは人間が、アダムとエワが原罪を犯し、楽園から追われて以来、額に汗して苦労してこの世の中で生活し抜かなければならない。つまりクリスト教的考えで、従ってこの世の中に生きて行く以上は労働しなければならない。なお神が宇宙創造の際、六日間働かれたのであるから、人間も働かなければならず、従って労働は神聖なものであるという観念も、クリスト教的の考えであります。

 労働というものはどういうものであるかというと、神の国をこの世の中に実現せんための各個人個人が捧ぐるところの犠牲であります。人間は自由を与えられているから自由に我々は働く、而も喜びを以て働く、この労働の目的は一体何処にあるかというと、神の国をこの世の中に実現していくために小さいものでありながら、理性を与えられている被造物として、アクティブに参加(パーティシペイト)する、そこに労働の意味があるわけであります。従って「働かざる者は食うべからず」は決して唯物史観の論者が援用すべきものではないのであります。

 労働者を尊重し、その正しい利益を保護するという精神自身は、これはやはりクリスト教の思想であります。不正義に対する憤りの感情や、或いは不正に富んでいる者に対するクリストの厳格なる批判というものは、聖書のあちこちに現れております。貧しい者に対する本当に心からなる同情は、つまり社会主義的の要求を満たし、而もそれを一歩、いや一歩ではありません、はるかに超えるものであります。マルクス主義において存在しておりますところの矛盾である、不正義に対する憤り、それはクリスト教の立場からのみ説明せられ、又解決せられ得るところであります。


二〇 正義の観念の差異

 クリスト教は正義を、この世の中に正義が行われるということを強く主張しております。併しながらそれと同時に、冷たい主義だけでこの人生及びこの社会というものを神の国に近づけて行くことにできない。もっと大きな精神は愛であります。この愛を離れてはクリスト教の世界観が存在しえないと言ってもいいのであります。

 ところが共産主義的の理論によりますとどうなりますか。正義も否定せられ、愛も否定せられる。人間はどういうことになるかというと、それを奪われると、人間は自由や人格の尊厳を奪われてしまう。人生の目的はパンを得ることになる。かくして人はパンのみによって生きるものであるという結論を、肯定する外はないことになるのであります。

 さような考え方によればどうなるか。これはつまり人間の動物化ということになります。折角我々が何千年の歴史を通してこれだけ人間が道徳的にも進化して参っている、文化的にも進化して参っている。それを逆に動物的な原始状態にまで逆行させようとする思想であります。

 勿論、世界の思想史を見ますと、さような状態を礼賛した人も沢山おります。或いはそういう状態が人間の本来の状態だ、人間社会の状態だというふうに見ている学者もあります。東洋においては韓非子のごとき、そういう思想家であります。西洋においてはマキヤヴェリー、或いはホッブズ、或いはジャン・ジャック・ルソーの初期の思想はそれであります。社会主義者なんかの間にもそういう考え方があります。マルクス主義も結局人間を動物視する、そういうような考え方に帰着するのではないかと思います。


二一 人間の機械化

 更にもう一つは、マルクス主義によれば人間を動物化すると同時にこれを機械化するということになるのであります。一方社会経済の発達とともに、生産過程において分業が微細化するに従って人間は機械に隷属するようになる。それから解放されるのは人間の自由の要求である。しかるにマルクス主義は労働者の解放を叫びながら、やはり人間を経済に隷属させようとする。人間は単に物の管理者に下落してしまう。人間はそうありますと機会の番人になる、或いは大きな機械の一つの歯車になるということになります。そこには何らの発揮さるべき自由もなく、創意もないということになります。


二二 インカ帝国の実例

 私はここに一つ非常に面白い例を申し上げて置きたいと思います。

 今かち四百年余り前、スペイン人が南米大陸を発見して、それによって滅ぼされたインカ帝国は、原始的な農業的共産主義の国でありました。この国というのは、これはさような国柄としては実によく運営されておりました。

 インカ帝国では外敵を征服すると、この征服された異民族を王化に潤おわせるために、首府の近郊にある土地を与えて、そうして始終監督して感化されることになっていました。階級としては、軍人の階級以外に手工業階級、或いは兵器を造るところの階級、それから農民、それから宮廷自身に仕えている階級がある。それに又神官階級というものがありました。職業というものは世襲的になっていました。従っておのおの自分の好むところによって、職業を選ぶわけにば行きません。農民、工業者、軍人その他それぞれ皆、数は決められておりました。

 その社会の運営というものは実によく行われておりました。土木事業は発達し、アンデス山脈を縦断して立派な道路が通じておりました。農業用の灌漑施設も完備し、又国政に必要な統計も完備されていました。又医術も発達し頭蓋骨を切って脳の手術をしていたという話もあります。食糧は飢饉の場合に備えて、十年も十五年も倉の中に溜められておりました。

 ですからそういうふうに、農民にしろ、或いは兵隊にしろ、いろいろの階級の者は、決して食うに困らなかった。その代り、国家的の統制というものは国民生活のすみずみにまで及んでおった。婚姻のごときはその一例です。この頃、婚姻の儀式を簡単にやる一種の生活改善の一つの方法としまして集団結婚というのが主張されております。大勢の者が一堂に集まって、個々的に三三九度をやる代りに一度に儀式をやってしまうというようなことであります。これは蒋介石の新生活運動にもあつたようでありますが、併し日本でもそういうこと考えている人々も髄分あると思います。  ところがインカ帝国では一年に一遍、婚姻の日というものを決めまして、そうして新郎新婦を全部同じ場所に集めて、皇帝が臨席して、そうして結婚式をやりました。


二三 インカ帝国滅亡の原因

 さようなふうなところまで国家的の統制が及んでいる農業的共産主義の社会としては、理想に近いようなことになっていました。ところでさような国がスペインのピッサロ将軍の僅か二百足らずの手兵(しゅへい)と約六十の騎兵によって滅ぼされてしまったというのは、どこに原因があるかというと、民が物質的には非常に幸福であったが、併し精紳的に全く自由がなかった、従って人格の発露たる真の道徳的活動もなく、又創造的な文化もなかったからだと思われます。即ち国民は皆労働蜂のように、或いは労働蟻のように、何ら理想もなく、ただ権力によって指導されて国家や経済の奴隷となって盲目的にはたらき、その日その日を暮していたというところに、インカの国家の欠陥があつたのじゃないか。私はこれが現代的な工業的の共産主義の国になっても、やはり結局同じことであると思います。

 さような状態においても、民主主義や文化国家の基礎である自由は存在せず、人間は機械化される、或いは労働蜂になってしまうのであります。


二四 クリスト教の理想

 最後にクリスト教とマルクス主義との根本的の関係でございますが、元来クリスト戦というものは、純然たる地上の王国を建設しようという目的ではございません。クリスト教は資本主義とか共産主義とかいうような経済組織や経済政策ではありません。クリストの意図は、つまりこの世の中を天国に近づけて行く、神の意思を地上において実現するということになったのであります。だからカイゼルのものはカイゼルに返せ、神のものは神へ、この世の中の事柄、即ち政治や経済や学問は、直接にクリスト教の目的ではなく、クリスト教は霊魂の世界のみに関係するのであります。

 即ちこの世の中の現象のうち、例えば自然科学だとか、或いは純然たる物的技術、さようなものは宗教の範囲外である。又経済理論もそうでありましよう。インフレをどういうふうにして克服するか、米の配給機構をどうするか、或いは石炭の増産をどういうふうにしてやるか、これはクリスト教の本質とは関係のない単なるテクニカルな問題であります。

 併しながら世の中に関する事柄の中にも、霊的生活に関係のある問題が多く存在しております。とくに政治問題、経済問題、或いは教育問題で精紳的な方面を持っている、種々な問題がございます。例えば教育の問題のごとき、一体教育の理念はどういうふうなものであるか。教育は国家や民族の手段たる人間を養成するのでなくて、立派な人間を作るために行なわれなければならない。然らばその立派な人間とは一体どういうものであるかということになって来る。それは人生の目的が果してどこに置かれなければならないかということになりますと、これは世界観の問題になります。従って又信仰の問題になって参るのであります。


二五 政治の目的と宗教

 このことは国家、従って政治の目的についても同様であります。新憲法において人類普遍の原理が謳われている。民主主義の原理が人類普遍の原理と認められている。

 併しながら人類普遍の原理はどういうものであるか。国家目的として、自由、平等、博愛、正義、人道、文化、或いは最大多数者の最大幸福、或いは共同の福祉とかいうようなことが、問題になって参ります。共同の福祉とは一体何であるか。それは物質的の幸福を意味するのか、又はそれに限らず精神的の幸福にも重きをおくのか、或いは文化と申しましても、その文化にも物質的文化と精神的文化とあり、何れに優位を認めるのか。かような諸問題について、その解決は、価値判断の基礎にある世界観が関係して参るのであります。

 かような意味において、経済問題にしても、その性質如何によっては宗教と、或いはクリスト教との接触面を持って来ます。経済倫理というものが説かれるのはかような理由によるのであります。従って、或いはカトリックの経済倫理、或いはプロテスタント、とくにピューリタンの経済倫理というような区別が出て参るのであります。

 従って宗教は現実に働きかけ、それをよくする力をもっていなければならない。それは人間の改造を来すのであるから、政治、経済、文化等あらゆる人間の活動と無関係ではない。この故に宗教がこの世の政治、経済、教育というものには全く無関係で、ただ我々の純然たる内面的生活にだけ関係するものであるとし、神の国は我々の心の中にあるものだというようた考え方を、我々は否定するものであります。


二六 真理の尊重と実現

 我々の心の中のものと外部のものとは常に流通し合っているのであります。我々の心の中に考えたことは外に実行しなければならない。宗教は単なる敬虔なる心の状態、或いは感情ではございません。又単なる解説の感情に止まっているべきものでもないのであります。やはりこの世の中に生きている以上は、我らは正邪善悪の区別というものをはつきり掴み、又我々は愛を実行しなければならない。愛は他人との関係において、又神との関係においてあるわけであります。我々は神の国を、地上に実現することに努力しなければなりません。

 我々は真理を尊重する、又真理を実現しようと努力する。併しながらその真理の尊重、真理の実現は、政治、経済、学問、芸術、あらゆる方面において関係して参るのであります。さような意味において宗教というものは現実的でなければならない、信仰は具体的に我々の行動に現われて来なければならない、又それを現わすように努力しなければならないわけであります。


二七 クリスト教と共産主義の衝突

 かようにしてクリスト教が実践的になって参りますと、勢いマルクス主義や共産主義的の運動と正面衝突を来たすということになります。それはマルクス主義の唯物主義と、クリスト教の、愛を基調とする精神主義であります。

 世の中にはいろいろな宗教がございます。併しながらその思想的体系において、又組織において、又これまで与えたところの世界歴史に対する倫理的、文化的及び政治的影響において、クリスト教程偉大なものはないと言っていいのじゃないか。又現在の状態においても影響を与えつつあり、又世界の人類の上に大きな浸力を持っているわけであります。言いかえれば、クリスト教は他の諸宗教に比較して一層積極性を持っており、又最も具体的である。それは単なる哲学の体系とか、倫理道徳の抽象的な原理というわけではないのであります。それは我々の日常生活そのものに積極的に働きかける力を持っているわけであります。

さような意味においてクリスト教は共産主義と第一線において正面衝突する地位にあるのであります。同じクリスト教でも、カトリック即ち正統的なクリスト教は、何百という分派になっているプロテスタント諸教会に比較して、共産主義に対し明白に強硬な態度をとっています。プロテスタントの諸派と雖(いえど)も、彼等がクリストを信じその愛の教を信じているのでありますから、国家や社会の改革、社会悪の除去、人類愛の実現に対し熱意をもっているのは当然でありますが、しかしプロテスタンチズムにおいては、信仰の内容が各人の良心、その主観に従ってまちまちであり、客観的な信仰箇条とそれから流出する倫理的に首尾一貫した具体的な主張をもっていないのであります。

 ところがカトリック教会は二千年来の伝統、その間に蓄積された信仰の遺産をもち、人生及び社会の重大問題について、明瞭な解答を与え得るのであります。即ちカトリック教会はさような問題、例えば労働問題、或いは教育問題、国際問題、世界平和問題、婚姻や家族の問題、或いは私有財産制度の問題、いろいろな問題について、クリスト教の根本精神と真の人間性に立脚した正しい解決を示しております。それはカトリック教会は聖職者や信者のみならず、一般世間に対しても、指導的役割を果すために、ローマ教皇のエンシクリカル(回勅)を出して社会、国家観、人類に関する重大問題について、クリスト教的態度を宣明して参りました。


二八 労働問題についての態度

 例えば労働問題についての根本的の態度は、今から五十年くらい前、一八九一年に教皇レオ十三世のレールム・ノヴァールム(Rerum Novarum)という回勅が出ております。

 又それから四十年後の一九三一年に、教皇ピオ十一世のクァドラジェジモ・アンノ(Quadragesimo Anno)という回勅が出ております。その原文はいずれもラテン語であります。ラテン語の最初の二字が回勅の名称にて呼ばれていまして、各国語に翻訳されております。

 これらは権威ある法哲学の書物などに引用されており、社会問題、労働問題に関する古典としての価値を持っています。

 レールム・ノヴァールムは最も進歩した労働憲章であるといってもいい。それは資本と労働との間の正しい関係を示したものであります。それによって各国の資本家たちは、エゴイズムを抑制し正しい意味の労働者の利益を保護すべきことを教えられました、又労働者は労働者としての義務を守るべきことを教えられました。

 労資の関係について闘争的の原理を排して、労資共存共榮の観念、正義及び愛、即ちジャスティス・アンド・チャリティーから労働問題を解決する態度に出ているのであります。しかも問題の取り扱いは――――これは他の回勅も同様でありますが―――――非常に根本的でありまして、人間の使命、国家の意義、国家の使命、私有財産制度の基礎、唯物史観的共産主義の批判、家庭の権利、両親の教育権等、人生及び社会の重要問題に関係しておる一大政治哲学、社会哲学の体系を展開しております。レールム・ノヴァールムは、各国の労働問題に大きな影響を及ぼし労働立法に好い刺激を与えました。さらに四十年を経過し、労働組合が段々盛になりクリスト教信者として共産主義的組合に加入することや、ストライキ権が問題になってきました。一九三一年に新たに回勅、即ちクァドラジェジモ・アンノが発布されました。これはレールム・ノヴァールムの精神を新しい事態に適合することを目標としてクリスト教的カトリック的社会革新、ことに労働問題解決の原理を宣明したものであります。(邦訳としては、エンデルレ書店発行、ゲッベルト編「基督教と社会再建」がある。)

 その外、或いは教育について、或いは婚姻について回勅が出ております。教育に関するものは、自由主義的、無政府主義的、唯物主義的に流れているのを是正し、とくに、両親の自然法に基づく教育権を高揚した回勅、婚姻に関しては、男女間の性道徳が乱れ、友愛結婚、試験結婚等が流行し、離婚が増加する病理的現象を批判し、クリスト教的家庭のあり方を示したものであります。自由主義や唯物主義的共産主義の思想の普及は、必然的に教育問題と家庭問題とくに婚姻問題に影響し、教育の堕落と家庭の破壊とを招来致します。教育と家庭とは相互に極めて密接なる関係をもっているのであります。

 かようにして近代思想の渦中の中に適従するところを知らない者に対して、人間としてクリスチャンとしての正しい態度を示し指導的役割を勤めたものがこれ等の回勅でございます。(これ等の回勅は上智大学内カトリック中央出版部から邦訳がでております。)


二九 私有財産制の問題

 共産主義の批評として、私有財産制度を何故に維持しなければならないか、という問題があります。私有財産制、これは人間性に基づいている制度即ち自然法上の制度であります。動物は外敵や自然の脅威に対し、自己の生存に必要な本能と、肉体的諸条件とを自然に具備しているから、財産を必要としないが、人間は動物に負けている諸能力を神から与えられた理性の力で創造して、自己及び家族の生存と発展を計るのである。

 人間は労働によって、自己の使命達成に必要な外部的条件を造り出す。労働によって獲得したるものはその人に帰属する。そこに私有財産制度の起源があるわけであります。所有権は一種の人格の発展延長とも言うべきものであり、国家権力を以てしても否定できない自然法上の権利、即ち基本的人権の一種であります。

 この私有財産制度というものは、家族の維持に必要である。ここに家族というのは、日本のいわゆる新憲法によって廃止せられた家族制度のことではありません。ファミリー即ち家庭であります。これは国家社会の構成要素で、道徳の揺籃であります。私有財産は特にこの家庭の維持のために必要である。若し私有財産制度が廃止せられるならば、家庭が維持できなくなり、家庭は解体する外はない。とくに両親が自分の子女を教育することは不可能になる。その結果として子供は国家に管埋してもらうということになる。そうなると本当の教育は行われなくなり、非常な人間性に反する結果となるのである。

 元来、両親というものは、自然法上教育権を神から輿えられている。自分の子供を、つまりネクスト・ジェネレイションであるところの自分の後継者を養育するというのは、人間の大きな使命であります。動物と違った使命であります。動物は本能的に極(ご)く最初の期間だけ子供を肉体的に育ててあとは勝手に放置してしまい、親子の関係もそれで解消する。ところが人間の場合には親子の関係が一生涯続く。而もその教育は単に食わせるだけではなく、本当に精神的な教育を施し、道徳的に立派な人間に育てるということを親は望むのである。子供を教育するというのは、親の正しい要求、人間性から来ている要求である。その要求が私有財産制度を廃止することによって否定せられることになるのである。要するに共産主義においては子供は国家の管理に移され、真の教育ができなくなるというのが、カトリック側からの共産主義反対の根本理由の一つであることを申上げたいと思います。


三〇 共産主義の婚姻観

 その外、共産主義の結論として、昔のユートピア的社会主義の主張したように、女まで共有してしまうというよりな、そういうことはまさか主張されませんにしても、一夫一婦の制度、つまりクリスト教が主張して、参ったことろの男女の間のピューリティー、純潔の道徳というものは、全く眼中に置かれなくなります。従って婚姻というものは、公なことではなく、プライヴェートなことになる。婚姻自身が否定され、離婚は勝手氣儘(かってきまま)になされる、又婚姻以外の性的結合というものが、自由放縦になされるということにたる。離婚が自由に行われる結果どういうことになりますか。子女の不幸は申すまでもないことでありますし、又その結果として婦人が非常に不利な地位に立つことになる。これは共産主義的自由離婚制を徹底する場合に於ける実情であります。

 さようなふうに共産主義制度が実際に行われた結果は、どうかというと、教育なり、或いは家庭なり、或いは婚姻、男女関係というものについての秩序、人倫の大本であり国家社会の基礎である道徳が破棄せられることになります。なぜかというと、これは人間の本当の道徳的使命を否定し、人間を本能や物質の奴隷にし、人間を或いは動物化し、或いは人間を機械化することになるから、我々が、今まで自明の原理、神聖な原理だと思っていた人類普遍の道徳が否定せられる。人類普遍の道徳は存在しないで、単なる或時代、或いは支配階級だけの道徳だというふうに主張するのである。その結論たるや、家庭、社会というものを破壊に導くに至るのは当然であります。さような意味において、クリスト教は正しい意味において保守的な役割を演ずるのであります。


三一 クリスト教の使命

 併しながらクリスト教は保守的の役割を演ずるのみならず、又進歩的の役割を演ずるのであります。上に述べましたごとく、過去における世界歴史上クリスト教が果したところの重大な役割を考えますと、時代に先んじて進歩的である。

 又労資の問題についても、保守的の方面と同時に又進歩的の方面におても正義と愛による解決を主張して参りました。

 これはさつき申しましたレールム・ノヴァールムという回勅が出て、各国の資本家――――――カトリックの間にもエゴイスト的な資本家も絶無ではなかったのでありますが、―――――そういう者が反省せしめられた。この回勅によって真の意味の社会政策が考えられ、労働者の福祉というものを、本当に増進しなければならないという精神が盛んになって参りました。

 さような意味におきまして、マルクス主義者が矛盾して心の中に持っている正義感、或いは人道的に見て、不正なる抑圧に対する反抗、搾取に対する批判というようなものは、クリスト教はその気持ち自身はこれを是認いたします。

 併しながら彼らのような論理、彼らのような方法によらず、本当に人間性の解放という、非常に迂遠なようであるが、本当に正しい又最も確実な道を選んで進もうというのが、これがクリスト教の立場であります。

 クリスト教の立場においては、世界恒久平和の実現について、ユネスコ憲章の前文にある心の中における平和の防衛が確立されなければならぬごとく、社会的正義の実現についても、人間の精神の改革向上を離れては存在せず、これを無視しては、あらゆる外部的改革は砂上の楼閣にすぎぬことを確信するからであります。


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