第397号 2007/08/14
アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか? 明日の八月十五日は、聖母の被昇天の祝日ですね。 汚れなき栄光に満ちた天主の童貞母の被昇天! 天主の御母であり、罪の汚れなき完璧な被造物である聖母マリア様! この聖母マリア様が不完全で弱い罪人なる私たちのために与えられたとは、何という慰めでしょうか。そして聖母マリア様は、私たちの弱さを決して叱らず忍耐され憐れみ、このつまらない私たちのために常に祈っていて下さる! 聖母マリア様こそ私たちの希望、天主聖三位一体が私たちに下さった「和合と平和の最終的な希望」であり「世界の人々の最も大きな希望」、聖母マリア様こそ「この地上の人間社会の発展のために、超越的な愛に満ちた天主の計画の反映」だと思います。 被昇天の聖母よ、我らのために祈り給え。 元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されている「聖母の被昇天」のお説教をご紹介します。 祝祭日の説教集 浦川和三郎(1876~1955)著 (仙台教区司教、長崎神学校長 歴任) 八月十五日
(一) 聖母の被昇天 本日は聖母の被昇天で、それは聖母の幸福なる御死去、光栄(さかえ)なる御復活、天国への慶(めでた)き御凱旋を祝賀する日なのであります。 (1)-幸福なる御死去- 聖母は原罪にも自罪にも汚れ給うたことがないので、一つも良心の責めを感じ給はぬ、世物(せぶつ)に愛着し給うこともない。平和な希望の中に、快い愛熱に燃えきれて、安らかに最後の目を瞑(ねむ)り給うのでありました・・・我々も聖母の如く幸福な死を遂げたいと思はば、聖なる一生を送らなければなりません。罪を避け、世物に囚(とら)われず、天国を目指しつゝ進んで行く傍(かたわ)ら、聖母に向って「罪人なる我等の為に、今も臨終の時も祈り給え」と叫ぶことを怠らないようにせねばなりません。 (2)-光栄なる復活- 完全なる清浄(しょうじょう)、汚れなき一生、終生童貞、邪欲を知らぬ肉体、神の御母(おんはは)としてはキリスト様にその肉体を提供し給うたなど、是等(これら)の特典によりて、聖母の御肉体は死後少しも腐敗せず、間もなく光栄(さかえ)を帯びて復活し給うたのであります・・・我々も光栄の中に復活するには、清浄に生きなければならぬ。して清浄なる一生を送り、光栄なる復活の幸福を得んがため、聖母の御伝達(おとりつぎ)を以って主に嘆願し、「清き一生を与え、安全なる道を備え給い、以(も)ってイエズスを仰視(あおぎみ)、常に相喜ぶを得せしめ給え」と始終叫ばなければなりません。 (3)-天国への慶(めでた)き凱旋- それこそ深い深い謙遜の酬(むくい)でありました。聖母は神の御母と選(えら)まれ給うた時、自ら主の召使(めしつかい)なりと謙遜し、御子(おんこ)が十字架上に御死去あそばすまでも御後(おんあと)に従い、それから長く長く沈黙を守り、人に知られず、世に隠れ、ただ主にのみ生きて行かれました。その感ずべき謙遜の報いとして、如何(いか)なる天使聖人等(たち)も遥(はる)かに及ばないまでに高く挙げられ、天の元后の御位(みくらい)に据えられなさったのであります・・・我々も高く天に挙げられる為には、今の中(うち)に深く身を卑しめ、聞(きこえ)を世に求めず、ただ主に知られ、その御旨(みむね)に適(かな)い奉ることのみを務めなければならぬ。それと共に始終聖母に向って「自ら上(あが)るものは下げられ、自ら下がるものは上げられるべし」と言う御教(みおしえ)の真髄を悟るの聖寵(せいちょう)を請求(こいもと)め給えと嘆願いたしましょう。 (二) 聖母の被昇天 アダムが一たび罪を犯しましてから、子孫たるものは皆死なねばならぬことになりました。ただ聖母だけはアダムの子孫とは云え、原罪の汚(けが)れに染まずして生まれ給うたのですから、必ずしも御死去なさらねばならぬ筈でもなかったのであります。然(しか)し御子(おんこ)さえ御死去なさったのに、自分ばかり死なずして天国に昇るのは本意でないと思召しめされまして、やはり人並みに御死去なさいました。 それにしても聖母の御死去は他の人のそれとは大いに異なって、実に何よりも楽しい、福(さいわい)な御死去であったのであります。 (1)-聖母には世物(せぶつ)への執着心がなかった- 我々が「死」と云う一語を耳にすると、覚えずぞっとして戦(ふる)い上がるのは他ではない、浮世の事物(もの)に執着して居るからであります。一生懸命に財産を貯えよう、誉れを重ねよう、愉快を極めようと、ただそればかりを考えて月日を送って行く中(うち)に、突然死がやって参りまして、「俟(ま)て、その財産は茲(ここ)に捨て置け、その地位に離れよ、その獨児(ひとりご)に、その最愛の妻、(夫)に暇(いとま)乞いをせよ、この愉快は今日限りだぞ」と云い渡したものなら、誰だって何とも知れぬ悲哀(かなしみ)に胸を破られずに居られますでしょうか。 然るに聖母ばかりは、御存命中、少しも浮世の事物(もの)に心を奪われ給うたことがない。人に敬われようだの、財産を貯えようだの、身に愉快を極めようだの、そんな慾は一つもございませんでしたから、愈々(いよいよ)ここを立つと云う場合になっても、そんな事物に心を引かれ給う気遣いがありません。聖母は浮世に心がなかった代りに、天国を一心に恋い慕うて居られました。殊(こと)に御子の御昇天後と云うものは、聖母は明け暮れ天国を眺めて、「彼所(あそこ)に私の愛する御子(おんこ)が在(ましま)す、私は一刻も早く死にたい、死んで御子の御前(みまえ)に行きたい」とあこがれて居られました。随(したが)って死は聖母の為には何よりの愉快でございました。死は御別れでなくて、その何よりも愛する御子の御前に行くのでした。その最愛の御子と一つになるのでした。楽しいのは尤もではございませんか。 我々も一度は死なねばならぬが、果たして何(ど)んな死を遂げますでしょうか、それは今の心掛け一つであります。今(いま)浮世(うきよ)の事物(もの)より心を引き離して、只管(ひたすら)天国を望み、イエズス様を愛し、その聖心(みこころ)を喜ばせ奉るべく努めて居ましたら、必ず聖母の如く安心してこの世を立つことが出来るに相違ありません。之(これ)に反して専ら浮世の事物に溺れ、天国を忘れ、イエズス様をそち除(の)けにし、罪を犯そうと、天国を失おうと、そんなことはお構いなしに、唯(た)だ唯だお金を儲けよう、偉い人と言われよう、愉快を極めようと、そればかりを考えて月日を送って行きましては到底立派な死を見ること出来る筈がありません。 (2)-聖母には罪の気懸かりがなかった- 我々は臨終に際して、窃(ひそか)に越し方を振りかえって見ると、何(ど)うしても安心が出来難い、十五年、二十年、五十年と云う長い間には、随分罪を犯して天主様に背いて居る、何うも不安で堪(たま)らないのですが、聖母にだけは、そんな不安が全くありません。既に原罪の汚れなくやどされ給い、それからも一つの小罪すら犯し給うたことがない。一つの物でも言い損じなさったことがない、徳と云う徳は何(いず)れも完全に行って居られる。生まれ落ちてから此(こ)の方、力の限りを尽して天主様を愛し給うたのですが、その愛徳は恰(ちゃう)当(ど)、太陽が東の山の端(は)に出て、だんだんと高く天に昇るが如く、最後の目を瞑(ねむ)り給うまで、一日でも一時間でも衰えることなく、益々(ますます)熾(さかん)に燃え立つばかりでございました。実に聖母の御心(みこころ)は一つの小罪にでも汚れ給はない上に、有(あら)ゆる善徳に飾られ給うのでありました。 我々も是非聖母の如く立派な死を遂げねばなりませんが、その為には亦(また)聖母に倣(なら)い、力の限り悪を避け善を行うべく務める必要があります。罪と云う名の付いたものは、たとえ如何ほど軽い小さなものでも、決して之を犯さない上に、其の身、其の身に相応(ふさわ)しい善を行い、徳を修めて、霊魂を美々(びび)しく飾り立てねばならぬ。固(もと)より我々は修道者でないから、朝も晩も信心に従事して居る訳には行かない、聖母とても然(そ)うでした。毎日毎日人も及ばぬようなことばかりをして居られた訳ではない、家を持ち、夫を持ち、子を持って居られました、賄(まかな)いもなさったでしょう、拭き掃除もなさったでしょう、洗い濯(すす)ぎもなさったでしょうが、そんなことをする中(うち)にも、天主様を忘れず、専ら天主様の為め、天主様を愛する心でやって行かれましたから、一口の物を仰有(おっしゃ)るにも、一足(あし)動かしなさるにも、それが皆天主様の御前(みまえ)に大いなる功績(いさを)となったのであります ― 我々にも、各自(めいめい)の身分や生活の程度に応じて尽すべき務めがありますから、罪を犯さないように注意した上で、其等(それら)の務めを忠実に、熱心に果たして行きさえすれば、やはり聖母の如く沢山の徳を重ね、功績(いさお)を積むことが出来るのであります。 (3)-聖母には行先(ゆきさき)の心配がなかった- 人は自分の行き先が分かりませんから、天国でしょうか、地獄ではないでしょうか、天主様と共に永遠に楽しむべきでしょうか、悪魔や悪人と共に終(おわり)なく苦しまねばならぬのではないでしょうかと気遣いますから、死ぬのがなかなか恐ろしいのであります。 然るに聖母には行き先がちゃんと分かって居ました。自分は一の小罪をも犯した覚えがない、行うべき筈の善徳は皆行って居る、今死んでも「なぜこんなことをしました?」と咎(とが)められる気遣いもなければ、「何故之を怠りました?」と責められる心配もない。御子(おんこ)は諸々の天使聖人等(たち)を従えて、お出迎えになり、「もう貴方の戦いは終わりました、早く天国に凱旋して勝利の冠を戴きなさい、早くこの涙の谷を去って、限りなき福楽(たのしみ)の御国(みくに)へお出(い)でなさい」と云って下さいます。聖母の御喜びは果たして如何(いか)ばかりでございましたでしょう。 我々も聖母の如き立派な最期を遂げねばなりませんが、今の様な生活をして居ては、果たして聖母の如く安心して死なれますでしょうか。為すべからずことを毎日、幾(ど)れだけ為して居ますか、為さねばならぬことを毎日幾(ど)れだけ怠りて居ますか、今死んで天主様の前に呼び出されたら、「なぜ斯(こ)んなことをした? なぜ是れ是れの事を怠りた?」と咎められることばかりではございますまいか。 凡(およ)そ影と云うものは形が写るのですから、形が円(まる)ければ影も円く写り、形が歪んで居ると影もまた歪んで写るものである。人の最期も、その一生の行いの影で、一生の行いが正しければ、必ず立派な最後を迎えること出来ますが、その一生の行いが歪(ゆが)んで居ては、とても最後ばかりが正しい筈はありません。今日(こんにち)聖母の立派な御最期(ごさいご)を仰視(あおぎみ)ると共に、其の立派な御最期こそ、実に聖母の立派な御行(みおこな)いの影に外(ほか)ならぬことを考え、各々(おのおの)之(これ)を鑑(かがみ)として自分の行いを立て直すようにせねばなりません。聖母は我々が善い最期を遂げるのを深く望んで居られますので、心から御憐れみに信頼(よりたの)み、罪を犯して居る人は早く告白して赦しを蒙(こうむ)るようにし、幸いに罪の気懸かりがないならば、ただそれだけに満足しないで、聖母に倣い、いよいよ善を行い、徳を励む様に務め、善き最期を遂げる為の準備をして置かなければなりません。
(三) 聖母の被昇天 聖母の被昇天とは(1)聖母が慶い御死去を遂げ、間もなく御復活になったこと、(2)霊魂肉身共に天にお昇りになったこと、(3)天に於いて御子の右に据えられ、天使と人類との元后に立てられ給うたことを祝うのであります。 (1)-聖母の慶い御死去と御復活- 聖母は原罪も自罪もなく、あらゆる美徳に輝いた一生を送られたので、その御死去は如何にも慶(めでた)い福(さいわい)なものでございました。口伝(つたえ)によりますと、聖母の御永眠の折り、使徒等は主の聖教を宣伝(ひろ)めんが為め、世界の四方に散々となって居られましたが、聖トマを除くの外は、一同聖母の御側に集まって来て、惜しき訣(わかれ)を告げられました。 今が今まで杖とも柱とも頼んで居た聖母に愈々訣(わ)別(か)れねばならぬかと思って、非常に悲しんで居られますから、聖母は之を慰めて、「私は天に昇っても決して卿(あなた)等(たち)を忘れませぬ、却って生きて居る中よりも、卿(あなた)等(たち)の為になるよう、周旋して上げます」とお約束になりました。 やがて御子の御出迎えを受けて眠るが如く息絶えられ、御霊魂はそのまま天に昇られました。 使徒等は泣く泣く御死骸を墓に葬りました。 墓には三日の間というものは、絶えず天使等の奏(かな)ずる楽しい音楽が聞こえて居ましたが、三日目になると、それがハタと聴こえなくなりました。 恰(ちょう)ど其の時、聖トマが来合わせまして、責めて聖母の御死骸になりとも御目に懸かりたいと申しますから、墓を開いて見ますと、御死骸は見えませんで、ただ御死骸を包んだ捲(まく)布(ぬの)だけが残って居ました。 そこで使徒等は、聖母が御子と同じく三日目に甦って天に昇られたもんpと信ぜらるを得なかったと云うことであります。 之を口(つ)伝(た)えにあるばかりで、何処まで信を置くに足るものであるか、何とも確言は出来ません。 然しながら、原罪の汚れに染まずしてお生まれになり、神の御子を九ケ月間もやどし給うたその聖母の御肉体が、他の人々のと同じ様に腐って蛆虫の餌食となるべきはずでないことだけは、察するに難(かた)からずでありましょう。 兎に角、聖母が霊肉諸共(もろとも)天に昇られたことは信仰箇条にこそ入って居ないが、聖会一般に然う信じて居る所でありますから、我々も之を信じ、天使聖人等と心を合わせて、聖母に慶賀(およろこび)を申し、併せて何うしたならば、自分も聖母の後から天に昇ること出来るかと云うことを考えて見なければなりません。 (2)-天に昇るには罪の汚れがあってはならぬ- 聖母は原罪の汚れなくおやどりになったのみならず、一生の間、一つの小さな罪にでも汚れ給うようなことがありませんでした。「童貞の中にて最も聖なる童貞」だの、「汚れなき御母」だの、「最(い)と潔(いさぎよ)き御母」だの、と呼ばれ給うほどに清浄(しょうじょう)潔白であらせられたから、御肉体までが腐らずして天に昇ること出来たのであります。 凡て汚れたるものは天には昇れません、天主様は至聖其の物に在して、少しの汚れあるものでも、天国に入るのを許し給はぬのであります。 だから汚れて居る人は聖母の御伝達(おとりつぎ)を祈り、今の中に早く痛悔(つうかい)して其の汚れを清めて戴くようにし、此後は注意の上にも注意をして、成るべく罪の汚れに染まないよう、務めなければなりません。 (3)-天に昇るには謙遜であらねばならぬ- 聖母は非常に謙遜であらせられました。 聖母は一度でも「我身は神の御母でござる」とか、「天使と人類の元后でござる」とか、大きな顔をなさったり、他人を顎の先きで使い廻したりし給うようなことがなく、却って「我は主の婢なり」と云って、天主様の前にも、人の前にも謙遜して居られました。「自ら上(あが)るものは下(さ)げられん、自ら下がるものは上げられん」とイエズス様はおっしゃつたが、実に聖母ほど謙遜して身を下げたものはありませんでしたから、また聖母ほど高く挙げられたものもなかったのであります。されば天に昇るには是非とも謙遜であらねばならぬ。謙遜は徳の礎、天に昇る階子(はしご)の第一段、幾ら他の徳に秀でて居ても、謙遜がないならば、それこそ礎のない家、一度は必ず仆(たお)れるに極まって居る。謙遜でさえあらば、家庭に浪風は立たない、嫁と姑との間ですら互いに謙遜であるならば、仲の悪くなる気遣いはない。謙遜だと隣近所とも睦ましく暮らして行ける。他(ひと)のことを謗(そし)ったり、嘲(あざけ)ったり、腹を立てたり、妬(ねた)んだりするはずもありません。天主様の前に出ては自分の罪を思って謙(へりくだ)り、人の前に出ては、人の長所を見、自分の短所を思って謙遜して行くから、罪を犯す憂いもなく、人からも天主様からも愛されて、天国に昇られることは請け合いであります。 (4)-天国に昇るには善業の功(いさお)を積まなければならぬ- 聖母は現世(このよ)に在(ましま)す間、非常に天主様を愛して居られました。天主様を愛して居られましたから、天主様の聖心(みこころ)に戻ると思うことは一つもなさいません。其の反対に天主様の御望み遊ばすことならば何んなに辛かろうと、苦しからうと、喜んで之を果たされました。天主様のお望みに従って、三十年の間もナザレトの貧しい家に、普通(なみなみ)の婦人の如く貧しい生活をなさいました。天主様のお望みに従って、何よりの寶たる御子さえも快く犠牲として献げられました。天主様のお望みに従って、御子が御昇天遊ばしても、御自分は猶長く、其の愛する御子と離れて、此の涙の谷にお留まりになりました。斯の如くして聖母が一生の間に積み重ぬ給うた功(いさお)といったら、それこそ数えも測(はか)りもされたものではなかったのであります。実に聖母は寝ても起きても天主様を愛し、何事も天主様の御光栄(みさかえ)の為にと云う心でやって行かれましたから、その為し給うことは、片手を挙げ、片足を動かしなさる様なことでも、そのお流しになる一滴の汗,一雫の涙に至るまでも、皆大きな功(いさお)となったのであります。で天主様は一々聖母の功(いさお)を数え上げて、此れを諸々の天使聖人等の上に取挙(とりあ)げ、心も言(ことば)も及び難い御褒賞をお与えになりました。天主様が聖母に報い給うたのは、原罪の汚れなくやどされ給うたからではなく、神の御母であらせられたからでもなく、その原罪の汚れなき童貞、その神の御母に釣合うだけの善業を励み、御自分を深く愛し給うたからでありました。我々もただキリスト信者であるから、天国の報いを受けられるものゝ如く思って安心してはなりません。天主様は位や身分に報いを与え給うのではない、徳に報い、功(いさお)を賞し給うのですから、誰にしても毎日毎日天主様の御前に徳を積み、功(いさお)を立てる様、励まなければなりません。然しその為には必ずしも人目を驚かす程の大きなことをするには及びません。聖母もナザレトに在す時は、賄(まかな)いをしたり、洗濯をしたり、裁縫をしたりするような並々の婦人の為る仕事をして居られたのであります。さすれば何人にしても、各自の身分、職業に応じて、為すべき筈の事を辛くとも、苦しくとも、天主様にささげて遣って行く傍(かたわ)ら、告白や、聖体の秘蹟を成るべく屡(しばしば)々授かり、信者の務めをきちんと果たし、誠意こめて天主様を愛し、人を愛して行くならば、思わず識(し)らずの中に沢山の功(いさお)を立て、天国の大いなる御褒美を戴くことが出来るのは疑いを容れざる所であります。 (5)-聖母は天に昇りて御子の右に据えられ、天子と人類の元后に立てられ- 浪風荒き浮世の海を渡って居る人々を特別に保護して、天国の港に安着せしむべき役目を仰せ付かりなさったのであります。 其の為に聖寵の庫(くら)は聖母の御手に托(あづ)けられ、如何なる聖寵でも望みのままに与えるを得給うのであります。 斯くの如く、聖母は殊の外、御権能(おんちから)の勝れさせ給う上に、御慈悲(おんなさけ)もまた非常に深く、御自分に頼り縋(すが)るものを一度でも見棄て給うたことがありません。 我々が今日まで罪を犯しても其の罰を蒙らなかったのと云うものは、実にこの御母の御陰によるのであります・・・今日まで肉身の上に、霊魂の上に、毎日毎日沢山の御恩を戴いて居るのも、この御母が天国の庫(くら)を開いて、御恵みを雨降らして下さったからであります。 此の後も願いさえすれば、頼り縋(すが)りさえすれば、溢(あふ)れんばかりに与えんものと、両手を拡げてお俟(ま)ち遊ばすのでありますから、何人(だれ)しも一生の間に戴いた御恵みを深く感謝すると共に、我が身を残らずこの慈愛深き御手に捧げて、その御保護を祈らねばなりません。 斯くの如くして現世(このよ)に於いては、聖母を愛し、聖母の子女(こども)となって居ましたならば、後、天国に於いて、聖母の御膝下(ひざもと)に引き取られ、永遠きわまりなく楽しむことが出来るのは、間違いのない所であります。
(四)聖母の被昇天 聖母マリアは(1)幸福な御死去を遂げ、(2)死後間もなく甦って天国に入り、(3)その尽せぬ光栄、言うべからざず福楽を得、天使と人類の元后に立てられなさいました。被昇天の祝日はこの三つを記念するが為に定められたものでありますが、之を記念するに付けて我々は (1)-少なからぬ教訓を与えられます- 実に聖母が天に於いて戴きなすった光栄の冠を打ち眺めなさい。 その冠に輝いて居るダイヤモンドは一としてその尊い汗と涙の結晶たらざるものがありますでしょうか、成るほど聖母は原罪の汚れなく宿されなさいました。母胎に在す時から豊かな聖寵を忝うせられたのでした。然し聖寵は天主様の賜である、天主様の賜を戴いたばかりでは、天国に酬いられる訳のものではない、ただ聖母はその戴いた聖寵を一つも無駄にせず、一々之を利用して、善を行い、徳を積み、如何なる天使、聖人も遥かに及ばない程の功績を重ねなさったから、亦、如何なる天使聖人も遠く及ばない程の報酬(むくい)を蒙られたのであります。 我々が天に於いて戴くべき光栄の冠も、やはり現世に於ける勤労(ほねおり)の大小に応ずるのである。すべて主の喜びの中え入り、天使聖人等の列に加えられる人、「善にして忠なる僕(しもべ)よ」と云うお誉めに与(あずか)る程しの人は、何れも勤労を厭わなかった人である。自分に托(あづ)けられたタレントを夫々(それぞれ)に利殖した人である。洗礼の時に戴いた無罪の衣をそのまゝ保存した人である、或いは過って一応は之を汚したにせよ、痛悔(つうかい)の水に之を洗い、償いの涙に之を晒し清めた人である、始終(しょちゅう)、警醒(けいせい)し、熱心に祈り、活発に立ち働き、気強く堪忍んで悪を避けるのみならず、またよく善を行った人、倦(う)まず撓(たゆ)まずキリスト教的に之を行った人であります。 斯る人こそ天主様の豊かな祝福を忝(かたじけな)うすることが出来る、天国の有難い、言うに言われぬ御褒美を擅(ほしいまま)にすることが出来るのであります。誰にしてもそんな功徳を、そんな善業を携えなくては、決して天国の門は潜(くぐ)れない、絶対的に潜(くぐ)れないのであります。天主の御母と雖も、この一般的法則を免除され給うことは出来ないのでした。 で或る婦人がイエズス様に向かい「福なる哉(かな)、汝を宿して胎(はら)よ、汝の吸いし乳房よ」と申しました時、イエズス様は何とお答えになりましたか。 「寧ろ福(さいわい)なる哉、神の言(ことば)を聴きて之を守る人々よ」(ルカ十一ノ二十七)と仰(おっ)有(しゃ)ったじゃありませんか。 (2)-自ら顧みて愧(はずか)しく思わねばならぬ- 天主様の尊前(みまえ)には、身分とか、家柄とか、地位や、財産や、学問や、そんなものは一向通らない、奮(ふる)い家柄に生れ付いた、名声を世界に轟かして居る、財産は豊かだ、地位は高い、威権は赫々(かっかく)として学問は深い、技倆(わざりょう)は勝れて、何をやらしても屹(き)っと成功する、と云う程ですと、人は皆,感心して、ワイワイと賞め囃します。殆んど神様ででもあるかの如く、盛んに祭り上げてくれますが、然し天主様から見ると、それが果たして何になりますでしょう?寧(むし)ろ進んでそんなものを軽んじる人、そんなものに気も心も移さない人こそ、天に於いて大いに報いられるのである。却って其れ等の長所を持って居ながら、天主様の聖寵を失い、その御詛(おのろい)を蒙り、永遠に排斥され終わる様な人も多いものではありませんか。聖母マリアが天の高きに取上げられ、天使と人類の元后に立てられ、御子の次に位すると云う程の光栄を擅(ほしいまま)にし給うに至ったのも、決して財産や、地位や、名誉や、学識や、そんな物の為ではない、否、神の御母と云う世にも比(たぐい)なき御位の為でもない。ただその偉大なる善業の為でした、ただ如何なる天使聖人も遥かに及ばない程の功徳を積み給うたからでした、ただ神の御母に相応しき徳の光に輝いて居られたからでございました。翻(ひるがえ)って考えて見ますと我々は始終何を思い、何を望み、何にあこがれて居ますか、善業の富ですか、浮世の財宝(たから)ですか、徳の光ですか、名誉の輝きですか、天主様の御寵愛ですか、世の名声、人の信用ですか・・・自ら顧みて顔を赧(あか)める所がありませんか。 (3)-自ら以って慰める所もある- 聖母マリアが天国の大いなる光栄に辿(たど)り着き給うたのは、原罪の汚れなくやどされ給うたからだ、天主の御母に在(ましま)したからだとするならば、我々は失望落胆せざるを得ない、自分はそんなに貴い身ではない、そんなに沢山の聖寵も特典も戴いて居ない、到底天国えは昇れぬ、と力を落としてしまい、善を修めよう徳を積もうと云う気も自ら失ってしまわぬにも限りません。然し実際はその反対で、天国の光栄は我々の心掛け如何に依るのである。熱心に天主様の御掟を守り、忠実に自分の務めを果たし、何時も何事に於いても天主様の思召しを推戴(おしいただ)き、その御計いに従い奉るならば、それで十分善を修め、徳を研き、案外の大きな功績(いさを)を立てることが出来るのであります。聖母マリアが全くそうでした。イエズス様は御自分の御母として財産(たから)に富み、身分の貴(たか)い婦人(おんな)をお選(えら)みにはなりませんでした。聖母は実に貧しい婦人で、毎日額に汗をたらしてセッセとお働きになりました。聖ヨゼフの大工小屋の陰に、貧しい職人の妻に似合った賎しい仕事をして世を渡られました。業その物は如何にも些細(ささい)な、全く取るにも足らぬのでしたが、然し天主様を熱く愛し、その思召しを果たしたいと云う美しい心掛けで、すべてをやって除けられたから、その為し給う所が一から十まで偉大なる功績(いさお)となりました。天国の美しい冠と輝くに至ったのであります。我々もこの御手本に則(のっと)らねばならぬ。内に在って洗濯やら、賄いやら、裁縫やら、子供の世話やら、始終そんなことをやって居るにせよ、朝早くから外に出て夜は晩くまで真黒くなって働くにせよ、たとえ其れ等の業は人目に何の価値 (ねうち)もない、極めて賎しい拙(つま)らないものゝ様に見えましても、若し聖母の如く熱く天主様を愛し、天主様の為に、天主様に献げて之をきちんと果たして行きますならば、その拙(つま)らない様な業も天主様の御目には如何に尊(とうと)く見えますでしょうか、如何に勝れたる褒賞(ほうび)に値するのでございますでしょうか・・・ |