第393号 2007/07/03 殉教者聖イレネオの祝日
アヴェ・マリア! 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか? 実は私は同じアジア管区のニュージーランドに来ています。何故なら、聖ピオ十世会の修道院のあるワンガヌイには日本からのご家族の娘さんが私たちの学校で勉強していますし、ウェリントンにもニュージーランドの方とご結婚なさって聖伝のミサに与る日本の方がおられるからです。その4名の娘さんたちは大変しっかりしておられ、大変うれしく思いました。長女と三女は大きくなったら修道女になってフィリピンに行きたいとのことです。天主様の祝福がこの娘達の上に豊かにありますように! ニュージーランドには聖ピオ十世会の司祭が現在三名おり、八月からはもう一名加わって四名になるそうです。何故なら、ここワンガヌイに大きな聖伝のカトリック信徒の方々の共同体があり、学校があり、聖伝のドミニコ会修道院があり、もっと多くの司祭が必要だからです。また、ワンガヌイからウェリントン、ネイピアー、オークランド、クライストチャーチ、などを始め、ニュー・カレドニアにも聖伝のミサをたてに司祭が派遣されているからだそうです。 ニュージーランドは、水が多く、緑が多く、鳥が鳴き、虹がよく見え、とても美しいところです。私たちの修道院と教会のすぐ隣は、大きなゴルフコースがあって芝生が青々としています。 昨日は聖母の御訪問の祝日でした。天主の御母聖マリアが老女聖エリザベトを訪問なさったことを祝う日です。また同時にこれは、天主の童貞母の胎内におられた私たちの主イエズス・キリストが、母の胎内にいた洗者聖ヨハネを訪問なさったことです。(イエズス様は後に、洗者聖ヨハネの洗礼を聖化するために洗者聖ヨハネから洗礼を受けられもします。)つまり、上のものが下のものを助け・聖化するために訪問したことです。 この大自然には秩序があります。超自然にも秩序があります。全ては天主から自然の恵み、そして超自然の恵みを受けます。そして天主はそれを直接私たちに与えるのではなく、他の人々を通して私たちにお与えになろうと秩序を創りました。天主は太陽を通して熱と光を私たちに与えます。天主はお父さんお母さんを通して子供に生命を与えることを望まれました。同じ天主は、天主の童貞母を通して私たちの主イエズス・キリストをこの世に与えることを意志されました。天主は天使たちの秩序を創り、大自然の秩序を創り、人間世界の秩序を創り給うたのです。そしてこの秩序において、上のものが愛をもって下のものを助けることを望まれました。これが現実です。 お母さんは生まれたばかりの赤ちゃんに、愛によって最高のものを与えるのです。何故なら、人間は平等ではないからです。お母さんは上に立つものであり多く持つものであり、赤ちゃんは下のものでありほとんど持っていないからです。上に立つものは、じっと手をこまぬいて、何の為す所もなく、高所の見物をして居るのではなく、愛を持って、太陽のように、自分の光で照らし出し、温め輝かさねばならないのです。 超自然の秩序においても、そうでした。私たちの主イエズス・キリストは太陽となって、聖母マリア様を通して、エリザベト一家を照らし、温め、輝かしたのです。何故なら、人間には秩序があり、平等ではないからです。何故なら、天主は人間本性を除いて、人間を全く同じには創らなかったからです。全ての人間には天主が望んだ特別の役割があり、聖母マリアと聖ヨゼフ、諸天使、諸聖人、聖職者などが天主様と私たちとの間の仲介者となってくれているのです。 もしも全ての人間が平等であるという幻想を抱いてしまったとしたら、家族には上も下もなくなり、互いに助け合うこともなくなり、自分のやるべき仕事もなくなり、アイデンティティーを失い、ついには、母親は嬰児を遺棄することも困難を感じなくなるでしょう。人間はすべて等しく「王」になり、祖国を失い、ついには家族を失い、核化し、孤立してしまうでしょう。私たちは、一個の消費者となり、或いは労働力の一つとなり、全てはお金ではかられるようになるのでしょう。その時、民主主義的人間のやることは投票することだけかもしれません。 現実を無視して、全ての人間が同じだと思いこむと、たとえば教育では全ての生徒は同じでなければならない、だから落ちこぼれがいてはならない、ゆとり教育だ、ということになるのではないでしょうか。「やれるもんなら教えてみろ」という態度を取る学生の最低ラインに水準を合わせて、皆に同じことを教える(教えない?)ようになるのではないでしょうか。或いは、先生も生徒もない、教師も学生も同じだ平等だ、という幻想を抱くことになれば、教室には秩序も規律も無くなるでしょう。先生は「座長」「司会者」になって、主体が生徒になります。その時、師たる先生はどうして教え育むことができるのでしょうか? 何故なら「現実を無視して全てが同じ」という態度は、全てを主観・相対の中に閉じこもらせて、真理は頭の中にしか存在しない、いえ、ついには現実は存在しない、真理は存在しない、と言い出すでしょうからです。真理がなければ何を教育する (educere) のでしょうか? 自分の夢想・幻想・誤謬から (ex) 現実へと真理へとどうやって導く (ducere) というのでしょうか。 天主の創り給うた秩序を無視して、全ては同じだと主張することはつまりは、人間が天主無しに別の世界を創りあげようとすることに繋がります。プロテスタント主義が、聖職者も諸聖人の通功もなく、全てキリスト者は同じだと言って別の教会を創ったのと同じです。だから今、現実を無視して全ては同じだという幻想の上に、同性愛の「結婚」とか、人工的に家族を創りあげる「家族計画」などが創りあげられようとしているのではないでしょうか。まさに現実という規制を投げ捨てて、幻想の中の新奇なことを追求していることではないでしょうか。 今から百年前に聖ピオ十世は近代主義を排斥する『ラメンタビリ・サネ』(1907年7月3日)を発表しました。その中で聖ピオ十世はこう言っています。 「真に嘆かわしい結果をもたらしながら、究極の原因の探求において全ての規制を投げ捨てて現代は頻繁に新奇なことを追求し、人類の遺産を遺棄している。従って、それは極めて深刻な誤謬に陥っている。特にこの誤謬が聖なる権威や聖書の解釈そして信仰の主要な玄義に関わる時それは更に深刻である。多くのカトリック著者らが教父や教会自身によって定められた限度を遙かに超えていることも極めて嘆かわしい。高度な科学知識や歴史的探求(と彼らの呼ぶこと)の名前において、彼らはドグマの発展を求めているが、現実はドグマの腐敗に他ならない。・・・」 私たちは現実に戻らなければなりません。天主の創られた現実の世界に。その秩序が守られた時に初めて私たちに平和が訪れるでしょうから。 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え。 今回は、聖母の御訪問の祝日に因み、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されている「聖母の御訪問」のお説教をご紹介します。 祝祭日の説教集 浦川和三郎(1876~1955)著 (仙台教区司教、長崎神学校長 歴任) 七月二日 聖母の御訪問
(一)御訪問の理由 聖母が遠い困難な旅行をも厭わず、ユダの山地の町にエリザベトを御訪問になった理由は三つ。
(1)- 己が胸襟を打開けるが為め (1)-己が胸襟を打開けるが為め- 聖母は賎しい人間の身を以って神の御母と選まれ、その御胎には全能全知の神をやどし参らせて居る、この常ならぬ御恵みをそのまま胸の中に秘蔵(かく)して置くことは出来ない、是非とも之を打ち開けて、神様の御憐れみを讃(ほめ)め称(たた)えたいは山々であるが、然し誰にでもそう無暗やたらに之を打ち開けるのは聖母の謙遜が許さない、だがエリザベトならば、近い親戚ではあるし、其の身も一方ならぬ御恵みに浴して居るし、お互いに共鳴する所があるから、安心して之に心を打ち開け、我が身の幸福を告げ、共に喜び、共に主の御恵みを讃め称えて貰うことも出来るのでありました。 我々とても身の喜びやら、心の悲しみやらを自由に打ち開けること出来る程の確かな友人、そんな友人を探し求めるのは悪いことではない、ただそれに就いては十分心を用いて居るか、軽卒に流れることはないか、余りにも人を信用し過ぎることもありはしないか、注意せねばならぬ・・・なお心を打ち開ける中に、隣人にたいして不満を洩らし、時としては神様の御摂理までも非難するに至らないか、或いは又天の賜を誇り顔に物語り、謙遜を傷つける様なことはないか、其の辺も篤と考慮すべき所でありましょう。 (2)-従姉に祝意を述べるが為- 是まで石婦(うまずめ)であった従姉のエリザベトが、天の御恵みにより、懐胎して早や六ケ月にもなると知り給うた聖母は、何とかして之に祝意を述べたい、従姉の喜びを共に喜びたいと思って、旅立ちなさったのであります。 聖母のこの温かい感情、喜べる人と共に喜ぶと云うこの美しい感情を我々も持ちたいものであるが、実際は如何でしょう?果たして隣人と喜びを共にし、悲しみを共にし、福(さいわい)をも禍(わざわい)をも共にして行こうと心掛けて居ますか。友人なり隣人なりの身に幸福があり、不幸が起る毎に、之を訪れ、慶賀を述べ、悔やみを言い、之を慰め、之を引き起(た)てるべく務めて居ますか、却って下劣な、厭(いと)うべき嫉妬心より、他人の幸福を悲しみ、その不幸を喜ぶ様なことはありませんか。 (3)-従姉に手伝うが為め- エリザベトは老年である上に、早や懐胎六ケ月に及んで居る。何かにつけて不自由がちである、人手を要することは言う迄もない。聖母はそれをお察しになり、少しでも彼女にお手伝いをし、その不自由を軽くしたいと思って、態々(わざわざ)その家を訪れ、三ケ月の間も滞留(とどま)って、何くれとなく面倒を見て上げられたのであります。 聖母のこの心からなる御奉仕を見て、我々も大いに悟る所があり、則(のっと)る所があらねばならぬ ー 然し実際はその反対に出で、手伝はねばならぬとは思いながら、うるさがるやら、労を厭(いと)うやらして、見ぬ振り知らぬ振りをしては居ませんか、困った人を救い、苦しめる人を助け、悩みに沈める人を慰めるのは、基督信者の基督信者たる所以でございましょう - 兎に角、必要を感じて居る人の為に幾分の時間を割き、幾分の金銭を投げ、幾分の骨折りを厭はないと云うことを、聖母の御手本によって学びたいものであります。 要するに隣人にたいして心から親切を尽くし、我々の訪問する人の上に、何か超自然的影響を及ぼすべく決心いたしましょう。然しその為には「イエズスの生命が我が身に顕(あらわ)れる様」(コリント後四ノ十一)務めなければならぬことを忘れてはなりません。 (二)御訪問の事実 聖母は神の御召(おめし)に応じ、救(たす)霊(かり)の恵みをエリザベトの家え携え行き、其処に三ケ月の間も御滞在になりました。 (1)-聖母の御旅行- 聖ルカは聖母のこの御旅行を簡短に約(つづ)めて、「マリア起(た)ちて山地なるユダの町に急ぎ行けり」(ルカ一ノ三九)と言って居ます。 天主様が何か重大な使命を或る人に授け給う時は、之に「起(た)て」と命じ給うのが常であります。アブラハム、ヤコブ、ヨズエ、エリア、使徒等も皆そう云う命を受けて居る。例えば晩餐を終り、いよいよゲッセマニーの園え出かけようという時、主は使徒等を促して「立て、いざ此処より去らん」(ヨハネ十四ノ三)と宣(のたま)うたでしょう。 聖母にも同じく命じ給うた、聖母はその命に応じて起ち給うた。聖母が天主様の御声に従い給うその迅速さを見なさい、少しも躊躇せず、早速、「ハイ」と答えて起ち上がりなさいました。 エリザベトの住んで居る町はナザレトからは五六日もかかる遠方で、しかも山地の町でしたから、随分と険阻で、難渋な路を辿らねばならなかったでしょうが、聖母は決して愚図愚図なさいません。急いで行かれました。聖母は実に「活きた顕示台」でした、人となり給える神の御子を携(たずさ)えて居られましたので、それに元気づけられ、急ぎ足で、その山地の町え駈け登りなさったのであります。 我々も身にイエズス様を携えて居るならば、我が身が「活きた顕示台」となって居るならば、イエズス様の御生命が我々の身に顕れるに至るならば、必ずや困難を物ともせず、善業を目指して勇往邁進することが出来るのであります。 愛は遅疑(ぐずぐず)を知らない、飛び立って事を為すものであります。聖母がエリザベトを訪問する為め、急いで行かれたのは、一分間でも遅れるとそれだけ神の御光栄、エリザベトの喜びを、ぬすむ譯になるかの如く思われたからである。我々も不幸、災難、病苦、貧困に悩める人がある時、直ぐに起ち、急いでその家を訪れましょう。我々がその家に這入る時は、聖寵の時を報ずる鐘が鳴るのです。しかもその聖寵は、我々が入って行くのを俟(ま)って居る。神の光は我々と共にしか這入らないのです。愚図愚図してはなりません。飢えに泣いて居る者に、死に瀕して居る者に、罪に溺れ、神に遠(とおざか)かって居る魂に、パンを、慰めを、真理の光を携(たずさ)え行(ゆ)いて、之を照らし、之を強め、之に忠告し、之を神に近づかせましょう、善に立ち帰らせましょう。 (2)-聖母の御挨拶- 聖母はエリザベトの家に辿りつくや、自分から先に言を掛け、御挨拶を述べられました。 すると聖母の御胎に在(ましま)したイエズス様は、その御挨拶によりてヨハネを照らし、彼の原罪を清め、御自分の先駆者(さきがけ)たるに要する聖寵を豊かに恵み、併せて母のエリザベトをも聖霊に満たし、御托身の玄義と聖母の御光栄(みさかえ)とを知らしめ給うたのであります。 今日と雖(いえど)も、やはりすべての聖寵は聖母の仲介によりて我々に分配されます。然(そ)うです、聖母は人類の元后に立てられ給い、聖寵の庫(くら)は聖母の御手に托(あず)けられてあるのですから、聖寵を蒙りたい人は、是非とも聖母に駈けつけ、その御情けに縋(すが)らなければならぬ。聖会が聖母を讃(ほ)めて「天主の聖寵の御母」と申し奉るのは、斯んな理由に基ずくのであります。 (3)-三ケ月間の御滞在- 聖母はエリザベトの家に御滞在になること三ケ月、その間、聖母とエリザベトと、イエズス様とヨハネとが如何なる談話(はなし)を交え、互いに相照らし、相温め,相強めて行かれるのであったかを思いなさい。エリザベトは聖母が神の御母に選まれ給うたにつけて祝賀を申し述べ、聖母は直ちにその誉れを天主様に帰し、「我が魂、主を崇(あが)め奉る」と云う名高い讃美歌を詠まれました。 聖母が御滞在になって居る三ケ月の間、エリザベト一家に漾(ただよ)いし空気は如何に清く、聖く、温かいものでありましたでしょうか。聖母の御訪問を一口に言えば愛の玄義でした。愛はじっと手を拱(こまぬ)いて、何の為す所もなく、高所の見物をして居るものではない。愛は世にその光と熱とを漲(みなぎ)らす太陽の如く、光らねばならぬ、温めねばならぬ、きらきらと輝かさねばならぬのであります。 聖母が恰(ちょう)当(ど)そうでした。その御胎に在(ましま)すイエズス様が然うでした。太陽となってエリザベト一家を照らし、温め、輝かしなさったのであります。 我々もカトリック真理を持って居る、すべての光と愛の源なるイエズス、キリストを胸に抱いて居るのですから、この信仰の光を発し、イエズス、キリストの善と美とを洽(あまね)く世の人に知らしめ、以って暗に迷える人々を照らし、罪に凍(こご)えし魂を温め、之を助けて善業の光に輝かす様、務めなければならぬじゃありませんか。 |