マニラのeそよ風

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第391号 2007/06/24 洗者聖ヨハネの誕生の祝日

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 今日は洗者聖ヨハネの誕生の祝日ですね。公教会でその誕生日を祝うのは、私たちの主イエズス・キリストと天主の御母聖マリアと洗者聖ヨハネだけです。何故なら、この三名だけが原罪の罪なく生まれてきたからです。

 ところで、先日、日本での聖伝のミサで兄弟姉妹の皆様とお会いできて何と幸福だったでしょうか! 大阪では21名の方々が土曜日に、東京では39名(ミサ聖祭のあとで遅れていらした方を入れると40名)の兄弟姉妹の皆様が聖伝のミサのお恵みに与ることが出来て、大変うれしく思いました。

 ローマのコルネリアと云う賢婦人は、一日友人から金銀の装飾品を見せびらかされたとき、「私の誇りは是です」と云って友人に自分の子供達を指さして見せたとのことですが、私たちの主イエズス・キリストを愛し、隣人愛に尽くし、聖伝の信仰を守ろうと努力なさっている兄弟姉妹の皆様は私の喜び誇りであると思っています。

 さてソウルでは昨日、マリア・クララさんが洗礼のお恵みを受けました。兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い致します。

 今回は、洗者聖ヨハネの祝日に因み、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されている「洗者ヨハネの誕生」のお説教をご紹介します。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

六月二十四日 洗者ヨハネの誕生

(1)-洗者ヨハネはイエズス様の先駆者となり、イエズス様をお迎え申す為に人々の心を準備すると云う重大な天職に当るべく生まれた御方であります。大なる預言者、婦人から生まれた者の中に是ほど勝れた人物は未だかって見ない、とイエズス様から称えられた程の御方であります。

 父母の身になって見ると、そんな偉い子を持つことが出来たらば、何んなに幸福でございましょうか、然し「瓜の蔓に茄子はならぬ」もので、両親の感ずべき徳行、人に飛び抜けた熱心が結晶してヨハネとなったのだと云うことを忘れてはなりません。

 一体親と云うものは、子女(こども)に体の格構や、その容姿を譲るばかりではありません。また其の気前、其の習慣、その善なり悪なりの種子を譲るのであります。ですから子の親となるには、前以(もっ)って大なる準備が必要であります。清い青年、徳の香(かおり)床(ゆか)しい処女が天主様の思し召しに従って結婚し、結婚後にもいよいよ熱心に天主様に事(つか)え、注意して貞節を守り、苟(いやしく)も罪に汚れないようにしてこそ、初めて天主様の祝福を蒙り、立派な子女(こども)を与えられ、自分等(たち)の美しい気前、習慣を之に譲ることが出来るのであります。


(2)-ヨハネが生まれたと云う噂を伝え聞いた人々は「この児は如何な人物になるでしょう」と語り合ったと云うことであります。親たる者は我子に就いてやはりこの問いを発して見なければなりません。「この児は如何な人物になるでしょう。天主様の祝福を受けるべき児なんでしょうか。詛(のろい)を蒙る様な児にはなりますまいか、天国に楽しむ聖人となりましょうか、地獄に苦しむ悪人には成り果てますまいか」と。して返答は其の児に施す教育の如何に書き出されるのであります。若し親の教育の善(よ)かった為に、生まれた子が天主様のお選びを得て、熱心な司祭、優良な修道者となることが出来るならば、親の身に取っては、如何にも幸いの至りであります。ザカリア夫婦は唯だ子を与えられたから仕合せだったのではありません。其の子がキリスト様の先駆者(さきがけ)たるべく召し出されたからそれで幸福であったのであります。

 たとえそんな慶(めでた)い身分に選ばれないでも、人は皆、天主様を認め愛し、之に事えて天国の終なき福(さい)楽(わい)を蒙るべく召されて居ります。然るに親の教育が行き届かない為に,其の児が天主様を認め愛する代りに、却って世間を慕い愛し、天主様に仕え奉る代りに、ただもう世間の栄華、身の快楽に溺れ終りには救霊までも失う様な不幸に陥ったら、其の責を負うべき者は獨り其の子ばかりではありますまい。

 ローマのコルネリアと云う賢婦人は、一日友人から金銀の装飾品を見せびらかされて、「私の誇りは是です」と云って其の二子(ふたりのこ)を指(ゆび)さして見せたと云う話しであります。実に正直で、勤勉で、天主様を愛し、人を愛する子は、現世(このよ)に於いても、後世(のちのよ)に於いても、天主様の前にも人の前にも、何たる名誉、何たる誇りでございましょうか。


(3)-洗者ヨハネはキリスト様の先駆者(さきがけ)と云う重大なる責任を負わねばなりませんので、まだ母胎にやどって居る時から、既に聖母の御訪問を忝(かたじけな)うして、その原罪を赦されました。夙(はや)くから荒野に引籠って身を苦しめ、熱心に祈り、徳を積んで、その天職を全うする為の準備を怠りませんでした。

 人は皆夫々(それぞれ)に天主様から使命を定められて居ります。聖ヨハネの如く救い主の先駆者に選まれる人もあれば、一家の主人、子の親となって、其の子弟を立派に教育して行く役目を仰(おおせ)付かる人もあります。

 或いは司祭となり、修道者となって、身を修め人を教える天職を授かるやら、或いは家を立て妻子を養って行く一方から、救霊事業に力を尽すべく定められるやら、色々目的は違って居るが、何れにしても、夫れ相当の準備を要することは申す迄もない所であります。 して青年処女時代は、天主様から定められた使命を果たすの準備期であります。

 固(もと)より学問も修めねばならぬ、職業も習はねばならぬが、亦夫(そ)と共に他日その使命、その天職を全うし得るだけの下拵えをもして置かなければなりません。

 然るにこの大切な時を空しくして、信心の務めを怠り、罪悪に耽(ふけ)り、天主様も何も忘れたかの様に、何の準備も致さないで居ては、他日その使命を果たさねばならぬと云う段になった時、果たして何うなりますでしょうか。

 天主様は一日(あるひ)聖ビルジヅタに「洗者ヨハネの誕生に当って、悪魔は落胆して口惜しまぎれに泣き狂ったが、反対に天使等(たち)は喜び踊った」とお告げになりました。

 考えても御覧なさい、自分の生まれて洗礼を受けた時、悪魔が泣き狂い、天使は喜んで小躍りされたか否かと。

 天使を喜ばすのも、悪魔を小躍りさせるのも、青年、処女時代に修養を積むと積まぬとに由(よ)るのではありませんでしょうか。