第388号 2007/06/09 聖母の土曜日
アヴェ・マリア! 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか? 有名なドン・キホーテ・デ・ラマンチャは、みずからを遍歴の騎士と思い込み、世の中の不正を正す旅に出るのですが、30から40の風車を見て、それを巨人だと思いこんでしまいました。 最後の騎士(ラスト・サムライ)であるドン・キホーテは、この風車を近代機械文明の先駆と思ったのでしょうか? 来るべき産業革命と高度技術文明、チャップリンの揶揄する機械仕掛けで非人間的なモダンタイムズ、コンピューターとインターネットと携帯との高度工業文明の曙を見つけたのでしょうか? 風車に、キリスト教世界の騎士道の理想と対立する、人間中心の天主不在の冷たい巨人のような世界の到来を認めたのでしょうか? ドン・キホーテは、風車に向けて全速力で突撃しますが、巨人はそのまま無傷で残り、我らがドン・キホーテは吹き飛ばされて野原を転がるだけでした。 ウィリアムソン司教様が、昨年日本に来られた時、家族を守るお話をして下さいました。 人間の霊魂の聖化が教会にとって大切なワインだとすると、家族はワイン・ボトルだ、良質のワインをそのまま保つためには、ワインを入れる瓶が綺麗でなければならない、家族が良ければ、ワインも良いまま残る、だから、私たちはカトリック家庭の的を家庭から取り除かなければならない、コンピューター・ゲーム、インターネット、テレビなどがそうだ、できれば大都会ではなく自然に触れることができるところに住むように、等々。 ウィリアムソン司教様のお話しは、現実味のないことだったのでしょうか? 私たちは、サンチョ・パンサのように「現実的な」指摘をすべきなのでしょうか? そんな最近、岡田尊司著『脳内汚染からの脱出』という本に出会いました。それによれば、テレビゲームを50分間しただけで、覚醒剤を静脈注射したのとほぼ匹敵する状態が脳の中で起きているそうです。ゲーム・ネット依存は、薬物依存・ギャンブル依存と何ら変わらないメカニズムで起こっているのです。しかも薬物中毒と同じく、ゲーム・ネットを長期間使用すると、脳の重要な機能が低下するという後遺症状態が発生するのです。無気力となり、神経過敏になり、妄想的傾向を持ち、精神障害や行動障害を引き起こすのです。 とても興味を持ったのは、テレビが子供を攻撃的にするということです。 8歳までにどれだけテレビを見ていたかによって、30歳までに犯した犯罪行為の程度を予測できるし、30歳の時点での攻撃性の強さや犯罪歴は、8歳の時点でどれだけテレビを見ていたかに左右されているのです。コンピューター・ゲームはすなわち「殺人ロボット養成マシーン」(113ページ)なのです。残虐な極悪犯罪を子供が平気ですることができるようにする機械なのです。被害者の痛みを屁とも思わない、共感性の著しく欠けた子供達を生産する工場なのです。「たおやかな女性や育ちのいいお坊ちゃん」であっても人を滅多切りにしたり放火したりして平気なのです! 人を人とも思わない野獣のような人間を創りだしているのです。 愛する兄弟姉妹の皆様、子供達にテレビを見せないで下さい。コンピューター・ゲームを与えないで下さい。お願いです。常識ある親は、子供に麻薬を買い与えたり、覚醒剤を注射するなど、子供の人生を破壊するようなことは決してしないでしょう。しかし、テレビやコンピューター・ゲーム、インターネットなどは、人間の脳に覚醒剤と同じ影響を与えているのです。特に年端の行かない子供にとっての影響ははかりしれません。コンピューター・ゲームは「おもちゃ」ではありません、麻薬です。治療よりも予防です。 また大人の皆さんもコンピューターやインターネットに注意して下さい。18歳になったら何をしてもいいということはありません。見てはいけないもの、してはいけないことがあります。私たちは常に・どこでも・カトリック信者として生活しなければなりません。私たち聖ピオ十世会の司祭とても同じことです。そして司祭たちにコンピューターのしように関して制限を設けてくれる長上に感謝します。愛する兄弟姉妹の皆様も、コンピューターの奴隷にならないようにどうぞ御注意して下さい。 ■ さて、大阪の信徒の方々で有志の方々12名の方が、4月から5月5日まで次の意向で真位置にロザリオを一環以上捧げて下さいました。 「汚れなき聖母の御心よ、私たちの祈りを取り次ぎ給え。聖なる伝承のトリエント・ミサ聖式が世界中で、特に日本で、本来の栄光を回復し、主イエズス・キリスト様の信仰が正しく広がりますように!」 素晴らしいお祈りをありがとうございます! ■ フランス在住の聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っておられる日本の女性の方がこの度、プロテスタントからカトリックに帰正されるそうです。兄弟姉妹の皆様の暖かいお祈りをお願い致します。これを機会に彼女が唱えなければならない、信仰宣言をここに写しておきます。 トレント公会議の信仰宣言 (Professio fidei Tridentina) 私(氏名)は聖なるローマ教会で使われている信経(ニケア・コンスタンティノープル信経)に含まれることすべてと、その各部分を固く信じ、宣言します。すなわち、 我は、唯一の全能の聖父(ちち)なる天主、すなわち、天と地、見ゆるものと見えざるものの創り主を信じ奉る。また、天主の御一人子、唯一の主イエズス・キリストを。すなわち代々の前に聖父より生まれ、天主よりの天主、光よりの光、真の天主よりの真の天主、創られずして生まれ、聖父と同一本質なり、全ては主によりて創られたるなり。主は、我ら人間のため、又我らの救いのために天より下り、聖霊によりて御托身し給い、童貞マリアより、人となられ給うた。更には我らのためにポンシオ・ピラトの管下にて十字架に付けられ、苦しまれ、葬られ、聖書にありし如く三日目に蘇り、天に上がり、聖父の右に座し、生ける人と死せる人とを裁かんために栄光を伴って再び来たり給う。その主の御国は終わることなからん。 また、生命の与え主(ぬし)なる主なる聖霊を。聖霊は聖父と聖子とより発出し、聖父と聖子と共に礼拝され、共に栄光を受け給い、予言者を通して語り給いし。また、一、聖、公、使徒継承の教会を信じ奉る。我は唯一の罪の赦しのための洗礼を宣言し、死者の蘇りと来世の生命とを待ち望み奉る。アーメン。 私は使徒および教会の伝承、その他この教会の規定と憲章を固く認め、受入れます。私は聖書を、聖にして母なる教会が今まで主張し、今も主張している意味に従って認めます。聖書の真の意味を決定し、解釈するのは教会の任務です。私は、教父たちの一致した意見以外の意味で、聖書を受入れたり、解釈したりすることを、決していたしません。 全人類の救いのために、私たちの主イエズス・キリストが制定した新約の秘跡が七つであることを信じます。すなわち、洗礼、堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の七つがあり、全ての人に全ての秘跡が必要ではないけれども、恩恵を与えるものであることを信じます。洗礼、堅信、叙階を繰返して授けることは汚聖の罪であることを。上にあげた秘跡の荘厳な執行にあたって、カトリック教会が認めている儀式を受入れ、認めます。 原罪と義化について、トレント公会議において決議され、宣言された全体と各部分を信じ、受入れます。 ミサにおいて生者と死者のための真実で正しいなだめのいけにえが、天主に捧げられること。至聖なる御聖体の秘跡の中に真実に、現実に、実体的に私たちの主イエズス・キリストの御体と御血が、その魂と神性とともに実在すること。パンの全実体が御体に、ブドー酒の全実体が御血に変化し、この変化をカトリック教会が全実体変化と呼んでいることを信じます。一つの形色のもとにキリストの全体と真の秘跡を受けることを信じます。 練獄が存在し、そこに留められている霊魂を信者の代祷によって助けることができると固く信じます。キリストとともに天国にいる聖人を尊敬し、彼らに祈りを捧げるべきこと、また聖人は私たちのために天主に祈っていること、聖人の遺物を尊ぶべきことを信じます。キリストと終生童貞である天主の母および他の聖人たちの像を持ち、保存すべきであり、それに対してふさわしい栄誉と崇敬を捧げるべきであると強く主張します。贖宥の権力がキリストによって教会に残され、それを活用することはキリスト信者にとって非常に有益であると確信します。 聖、カトリック、使徒伝来のローマ教会は、全てのキリスト教会の母であり、教師であることを承認します。使徒たちの頭である聖ぺトロの後継者であり、イエズス・キリストの代理者である教皇にまことの服従を誓います。 聖なる規定と諸公会議、特に聖なるトレント教会会議およびバチカン公会議による全ての伝承、定義、宣言、特に教皇の首位権と不可謬権についてを疑うことなく受入れ、宣言します。これに反する全てのこと、および教会によって非難され、排斥され、呪われた全ての異端を、同じように非難、排斥し、呪います。 これなしには誰も救われることがない、この真のカトリックの信仰を、今ここに、私は自発的に宣言し、真実に信じます。私(氏名)はこの信仰の全体を、天主の助けによって、最後の息を引きとるまで、傷つけることなく堅く守り、宣言します。また私に従属する者および私が司牧している者たちによって、これが信じられ、教えられ、説かれるように、全力を尽くすことを誓い、約束します。天主と天主の聖福音書が私を助けてくださるように。 ■ 今回は、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されている「ドミヌス・ヴォビスクム」のお説教をご紹介します。 祝祭日の説教集 浦川和三郎(1876~1955)著 (仙台教区司教、長崎神学校長 歴任) ドミヌス・ヴォビスクム (1)-今日は初めて皆様に御話し致しますのですから、御意見がましいことは後廻しと致しまして、ただ「ドミヌス・ヴォビスクム」と云う我々信者の身に取って最も芽出度く、有難い御言(おことば)を申し上げることに致しましょう「ドミヌス・ヴォビスクム」とは、「主、汝等と共に在(ましま)さんことを」と云う意味で、言(ことば)の上から申しますと、至極簡単でございますが、然し意義はなかなか深くて長い。すべての有難い、芽出度い事は此の短い一句に籠ってあると云っても可い位であります。一体人は自分独立(ひとりたち)で、少しも他の助力を籍(か)らずに世渡りをすると云うことは、六ケしいものであります。 そこで天主様が初めてアダムを造り、之を楽園に置き給うた時も、「人獨(ひとり)なるは善(よ)からず」と曰うて、エワを造り、之を配偶としてアダムにお与えになりました。 アダムの如き福楽、円満な身でありながら、なを其の通りだとするならば、況(ま)して其の他のものに於いてをやであります。 思わぬ疾病に取つかれるとか、不時の災難に襲われるとか、はては盗賊に付け狙われる、仇敵に悩まされるとか云うのは、毎日のことで、 何うしても「人獨なるは善からず」であります。 是は肉体上に起る危険、災難に過ぎませんが、霊魂上に至っては猶更であります。現世は戦いの場面かも我々に向って攻め寄せる敵は所謂(いわゆる)「此の世を徘徊するサタン及び其の他の悪魔」でありますから、愈々「人獨なるは善からず」であります。 抑も宗教と云うものは世人の考えて居る様に決して厭世(えんせい)主義でもなければ、消極的でもない、人性の弱点ばかりを指摘して、悲観的思想を注ぎ込むと云う様なことは大いに非とする所でありますが、然し事実が今申しましたような事実である以上は、何とも致方はございません。実際、霊魂の此の世に於ける有様と云うものは、幼子が途中で守を失ったか、盲目が杖を奪い取られたかの様な塩梅で、誠に以って剣呑(けんのん)至極であります。その心細い、不安な、何うなることかと案じ煩って居る所に「主,汝と共に在さんことを」と曰って戴くのは、何よりも有難い、芽出度い、力強いことではありますまいか。 天主様が御自分で、この身に付き添って下さる、吾(わが)杖となり、吾守りとなり、吾親とまでなって下さるとは、是ほど喜ばしい、安心なことがありますでしょうか。 天主様さえ私に付き添うて下さらば、天主様さえ我(わが)有(もの)となって下さらば、何が別に不足がありましょう。天主様の内には万(すべ)ての善が、万ての福がちゃんと備わってあるのじゃございませんか。 天主様は実に我々の家督である、我々の敵に対する強大な武器、此の世の旅の親切な案内者である。 斯う云う天主様が我等と共に在し給うとするならば、何が一つとして不足に思うことがありますでしょう、之に就いて有難いお話があります。 (2)-修院長の聖アントニオが甞(かつ)って終夜魔群(まぐん)と戦い非常に疲れ、弱り込んだ眼を挙げて天を眺めますと忽ち不思議な光がパッと閃いて修院の棟を貫き、暗黒を破って輝きましたので、魔群は怖れて逃げ去り、聖人の身に負わされし無数の深手浅手も立(たちどころ)に平癒(いえ)ました。聖人は漸く安堵して声を挙げ、イエズス様を呼ばゝりて「主よ、敵は斯くまで私を苦しめて居ましたのに、主は何処に在(ましま)したのですか、何故早く彼等の乱暴狼藉を差し止め、私をお救い下さらなかったのですか」と申しますと、御返答の声が朗らかに聞こえました、「アントニオ、私は戦いの初めから汝の傍に居て、仔細を見て居たのです。汝はよくも勇ましく戦いました。是からも汝の傍を離れず、汝の名を世に高くなして上げましょうよ」と。有難いことではございませんか、「私は戦いの初めから汝の傍に居て、仔細を見て居たのです」と、実に天主様は我々の戦い振りを御覧になって居る、天主様の為にと思って、人知れず色々の艱難苦労を堪え忍ぶのを一々御照覧あって、力を付けて下さる、奨(すす)めて下さる、励まして下さるのであります。聖書に「主の御目は義人等の上を顧み、御耳は彼等の祈りに傾き」(ペトロ前三ノ一二)とありますのは、此の辺の道理を述べたものではありますまいか。 聖アントニオに限らず、すべて天主様に一身を献げた人々は、天主様と共に居る、と云うのを此の世に於ける唯一の楽(たのしみ)としたものでありますが、又、実際これよりも大きな幸福は此の世に有られぬのであります。聖書を見ますと、天主様の特別の御恩や御保護を指して「天主様が共に在し給う」と云うように書いてある、例えば天主様はアブラハムに其の特別の御保護を約束して「我、汝と共に在(あ)らん」と曰(のたま)い、ヨゼフがエジプトの宰相となってエジプト全国が祝福を蒙った理由を述べて「蓋(けだ)し主、彼と共に在しければなり」(創世記三九ノ二三)と録(かきしる)してある。大天使ガブリエルも聖母に向って「主、汝と共に在す」(ルカ一ノ三八)と挨拶を述べました。終にイエズス様はいよいよ此の世を去ると云う時、何時になっても聖会を保護して渝(かわ)るまじきことを約束して「看(み)よ、我は世の終まで日々汝等と共に居るなり」(マテオ二八ノ一九)と曰うたでございましょう。斯様な訳で、旧約時代よりユデア人は互いに挨拶を交わす時「主、汝と共に在さんことを」と云う言を用いたものであります。後で聖会はそれを受け継いで凡百(すべて)の祈祷の中に之を用いて居ます。 特にミサ聖祭の中には四回までも信者の方を向いて之を繰り返し、天主様が何時も信者の身に付き添って下さるように、天主様と共に凡百(すべて)の幸福が其の身の上に雨降されるように、聖会の名を以って希(こい)願うと云う意味を表して居ります。 しかもこの御言(みことば)を誦(とな)える時の儀式を御覧なさい。先づ祭壇に接吻します。祭壇はキリスト様の像(かたどり)ですから、之に接吻するのは、取りも直さずキリスト様に接吻するので、キリスト様より凡百の幸福を汲み取って、之を信者に分配(わけあた)える、と云う意味を示すのであります。それから信者の方に向って、両手を拡げますのは、キリスト様より汲み取った御恵みをば広い心で以って豊かに分配すると云う意味を表すのであります。 (3)-「ドミヌス、ヴォビスクム」とは斯うした有難い御言(みことば)でありますから、私は只今之を皆様の上に誦(とな)え、天主様が何時も皆様に付き添い、その凡百(すべて)の幸福を恵んで下さいますようにお願い致したいのであります。 皆様、心を広くして、この大きな賜を受取って、之を大切に保存して下さい。 もし自分の心の器が小さくて、この無限の寶を容れるに足りない、とお思いになる御方は、何うぞ聖母マリアに御願いなさいませ。 聖母マリアは連祷(れんとう)にもあります通り、「霊妙なる器」、「崇(あが)むべき器」、「信心の優れたる器」であらせられますから、この器に盛りますと決して澪(こぼ)れる気遣はありません。 何うぞ皆様聖母に御願いして、その澪(こぼ)れぬ、不思議な器を貸して戴き、この無限の寶をそれに貯える様に致しなさい。 天主様さえ我(わが)有(もの)にすることが出来ましたら、此の世ながらの天国でございましょう。 もし一家が天主様を我(わが)有(もの)としましたら、其の一家は天国、もし一国が我(わが)有(もの)としましたら、其の一国が天国、全世界が我(わが)有(もの)としましたら、全世界が天国でございましょう。 そうなって参りますと、此の世も実に楽しいもので、決して味気ない涙の谷ではありますまい。 そこで私は此処にお集まりの皆様に、幾度(いくたび)も幾度も「主、汝等と共に在(ましま)さんことを」と申し上げて、そうした楽しい天国が皆様からボツボツ始まって、次第に日本全国に及んで行く様に、それを一心に希望いたす次第であります。 (続く) |