マニラのeそよ風

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第386号 2007/03/23

聖ピオ十世国際神学校での叙階式、エコン(スイス)
聖ピオ十世国際神学校での叙階式 / エコン〔スイス〕

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか? 2月と3月の東京のミサ聖祭の後には、兄弟姉妹の皆様と聖ドンボスコの映画を鑑賞でき、うれしく思いました。その前の「コマーシャル」の部分では、フランス管区で作った「聖伝のミサの捧げ方」のDVDや、フラヴィニー神学校での聖伝のミサ(Sancta Missa)、エコン神学校:開かれた扉(Econe, Porte ouverte)、などをご覧になったことも感謝します。

 さて、聖ピオ十世会総長の友人と恩人の皆様への手紙 第70号の日本語訳ができましたので、兄弟姉妹の皆様にお届けしたいと思います。



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聖ピオ十世会総長の
友人と恩人の皆様への手紙 第70号
2007年2月25日 四旬節第一主日

親愛なる友人と恩人の皆様、

 私たちは、もっと前からこのお手紙を皆様のもとにお届けし私たちの大切な聖ピオ十世会のニュースをお知らせしたいとずっと思っておりました。私たちがこれをお届けするのを延期したのは、トリエント・ミサの執行の許可に関する自発教令(モートゥー・プロプリオ)が発表されると数ヶ月前に予告されていたので、発表の後に私たちの立場を皆様に説明しようと望んでいたからです。何故なら、昨年十月に、聖伝のミサ自由化のために霊的花束を私たちが集めている間、これに関して教皇ベネディクト十六世がもうすぐ自発教令を出すだろうと言う兆候が様々なところで見られたからです。しかし、或る司教たちの強烈な反対によって、教皇様は「しばらくの間」この教令を先延ばしにせざるを得なくなったようです。

 この「しばらくの間」は、今や「長期間」になりつつあります。そこでこの状況に関する私たちの態度を皆さんと分かち合うのをもはや待っているわけにはいかなくなりました。

 まず、皆さんに寛大な祈りを暖かく感謝させて下さい。聖ピオ十世会の総会は十月末までに百万環をお捧げするという目標を立てていました。刈り入れは実に溢れるばかりで、私たちは教皇様に最終的に二百五十万環をお捧げすることができるほどでした。教皇様宛に私たちのお手紙をつけて霊的花束をお渡しし、その手紙で「私たちはこの具体的な行為によって教会とキリスト教社会の再建築に協力したいという私たちの意志を示すことを望んだ」と指摘しました。この恐るべき危機は、第二バチカン公会議以後教会を苦しめていますが、キリストの代理者である教皇様を始めとして教会位階当局の側からの広大な努力と極めて大きな決意なしには、この危機は終わることがないということは、私たちにとって明らかです。現状では、悪い習慣によって創られた死をもたらす毒薬に打ち勝たなければならないからです。つまりキリストの花嫁である教会の教えと全面的に対立する誤謬や異端また他の立場、キリストの神秘体に潜り込んでしまったそれらの誤りを論駁しなければならないと言うことです。天からの力強い助けなしに良い結果は期待することができません。ですから私たちは、教会における改善を得るために、聖母マリア様と私たちの主イエズス・キリストに向かったのでありますし、向かい続けています。

 たとえ今に至るまで良き結果が出ていなかったとしても、十月の間、私たちは永遠のミサ聖祭に関する出来事を目撃してきました。これらは過去十年間一度も見たことがなかったことです。何故なら、いつもなら、ラテン語典礼に愛着するのはノスタルジアのせいだとか、特別なセンシビリティー(敏感さ)のためだとか、というスローガンで片づけられるのですが、今回は真面目な議論が出されました。トリエント・ミサを司祭が自由に捧げることができるようになると、教義上の問題を作り出す、と。反対者たちは私たちにこう言うのです。このミサ(聖伝のミサ)は、第二バチカン公会議の成果を危険にさらす、と。この突然の発見に私たちはどうして喜ばないわけがないでしょうか。

 もし私たちが今回、特にフランスの司教らによって、また同時にローマとドイツとで出された議論を良く考えると、司教たちは事実上、この聖伝のミサを恐れています。ローマでさえも、古きミサに戻る可能性を素描しながらも、パウロ六世の改革が失敗だったと言わないように極めて用心深くなっています。進歩派たちの恐れはあまりにも大きく、ローマはトリエント・ミサを司祭が捧げても良いという広範な許可を出すために極めて長い間にわたっていろいろな議論をし尽くす必要があると言うほどです。私たちの手紙に対する礼状も返答も、教皇様からもバチカンからもまだ私たちが受け取っていないのは、これらの事情で説明されます。

 現状では、このいろいろと噂されている自発教令の正確な中身について私たちはまだ知っていませんが、私たちは将来のために幾つかの結論を引き出すことができますし、そうしなければなりません。

1.過去十年の間ローマからの公文書がどのように司教や信徒によって受け入れられてきたかということを考察するならば、私たちはこう言わなければなりません。大部分は全くの無関心のうちに受け取られ、ローマが勧めた対策は無駄になった、と。それが典礼における平信徒の地位に関することであろうが、もっと最近では典礼法規に関することであろうが、或いはまた、「ドミヌス・イエズス」であろうが、堕胎と安楽死を排斥する文書であろうが、公文書は現実的な効果が全くなかったと言わざるを得ません。聖伝のミサに関する自発教令も同じ運命をたどるのではないかと思わざるを得ません。

2.しかしながら、文書は制限を加えると言うよりも自由を拡げるということですから、また更には、これはこのことに関心を持つ人々に向けて出されるのですから、信徒の方々と司祭たちの期待は、ある国々においては当局をその死への毒薬から起こし、当局の聖伝のミサへの抵抗を妨害するかもしれません。これが、何人かの司教たちが、自分の司教区で典礼のアナーキー(無政府状態)が起こる危険があると警告する時に、司教たちが考えていることです。現実に起こっている新しいミサでの無数の形態のことを考えると、この突如と起こった「分裂」の虞は一体どこから来るのかと不思議に思います。その反対に、聖伝の典礼は、一致の要素であったと常に証明されています。特にラテン語というその聖なる言葉のおかげでです。

3.この自発教令が大衆運動によって支持されるというのはありそうもない話です。古い典礼を望んでいる司祭や信徒の方々というのは比較的に少数です。その他の人々はすでにこれへの味わいや興味を失ってしまっています。全教会において、この崇敬すべき聖なる典礼様式、数世紀の長きにわたってキリスト教世界を聖化してきたこの典礼様式が、その名誉ある地位を回復するためには、多くの真剣な努力が必要であることでしょう。

4.むしろ、これはゆっくりと始まる運動であり、失われた典礼の豊かさと美しさとが再発見されるにつれて、少しづつその力を得ていくでしょう。トリエント・ミサが存在する権利を認めることだけで(この聖伝のミサは一度も廃止されたことがありません!)、それは徐々にその存在感を感じさせていくことでしょう。何故なら、新しいミサはこれに対抗できないからです。

5.どう転がっても、古いミサを捧げても良いという広範な許可は、教会にとっての祝福です。確かに、この文書の発表は、公式の教会が聖伝に近づいてきたという印象を作り出すために、「私たちの間に」何らかの混乱を引き起こす可能性もあります。この自発教令が出されると、ローマが新たな一致を呼びかけることでしょう。聖ピオ十世会にとって、ミサ聖祭のより大きな自由化は、聖伝の復興への一歩として喜びの元となります。しかし、聖伝自己防衛の年月と「私たちの牧者であるべき人々」に対する闘いとから生まれた不信は、簡単には消し去ることができません。新しいミサは、ここおよそ四十年の間教会を苦しめてきた危機の原因であるよりも、むしろ結果であると考えなければなりません。言い換えると、その他の絶対的に本質的な正常化を伴わない限り、古いミサが戻ってきただけでは、実際上私たちの状況は変わらないでしょう。

6.エキュメニズム、自由放埒主義(リベラリズム)、そしてキリスト教の花嫁である教会を汚しているこの世の精神は、いまだに公会議後の教会を動かしている指導原理です。これらの原理は、天主の精神、キリスト教精神を殺しています。私たちは教会危機の根元をかつてないほどよく理解しなければなりません。それは自発教令によって作り出されるであろう新しい状況に盲目的に突進することから、私たち自身を守るためです。私たちの教会法上の正常化のために必要な方策のことを考える前に、これらの問題を深く議論することが不可欠です。私たちは、これらの議論がなされる前に、私たちの言う前段階、前提というものの実現の要求をローマが遂に理解してくれたと期待します。何故なら、いわゆる前段階の一つは自発教令によって果たされることになるだろうからです。四十年間の間、私たちは毒を飲み込むことを拒んできました。このためにこそ、私たちはのけ者にされてきています。そしてローマは、私たちを受け入れるためにこの毒を飲むことを(多かれ少なかれ隠された)条件として課しています。ですからエキュメニズム、信教の自由、団体主義は、私たちが譲ることのできない争点として残っています。

7.以上述べてきたことは、単なる予想にすぎません。具体的な状況、つまり、自発教令で実際使われている言葉使いにより、私たちは別の区別や明確化を計らなければならなくなるでしょう。

 四旬節に入ります。天からの賜は私たちを清める祈りと償いの業によって得られると言うことを、天主は清い謙遜な心の祈りの方をもっと喜んで聞き入れられるということを忘れないようにいたしましょう。ですから、私たちの祈りの十字軍を続けましょう。そしてこの祈りに自発的な償いを付け加えましょう。それは、教会聖職者達が私たちの霊魂に与えるのを堅く拒んでいるものを、天から「ねじり取る」ためです。たとえ天主が私たちの懇願を聞いて下さらないように見えたとしても、がっかりしないようにいたしましょう。天主は私たちに試験を与えています。天主は私たちがもっと大きな功徳を積むことをお望みなのですから。

+ベルナール・フェレー

【フランス語】
外国語サイト リンク http://www.dici.org/fraternite_read.php?id=000112&loc=fr
外国語サイト リンク La Porte Latine - Lettres aux amis et bienfaiteurs n° 70

【英訳】
外国語サイト リンク SSPX USA - Superior General's Letter to Friends and Benefactors #70
外国語サイト リンク La Porte Latine - Letter to friends and benefactors n° 70

【イタリア語】
外国語サイト リンク La Porte Latine - Lettera agli amici e benefattori n° 70



 長くなりますが今回も元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されている御説教の中から「聖体拝領に要する四行為」をご紹介します。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

聖体拝領に要する四行為

聖体拝領に要する行為は、信仰、謙遜,痛悔、希望の四つであります。

(1)-信仰 ― 聖体を拝領する時は、その聖体の中に主が真に在すことを固く信じて疑ってはならぬ。我々の肉眼に映る所は、パンの形色のみであっても、実は耶蘇基督の御肉、御血、御霊魂、天主性までも、この形色の下に隠れましますのである。嘗(か)ってユデア国に生まれ,千難万苦を嘗(な)め、十字架上に御死去なさいました耶蘇基督様・・・今、天国に於いて,無上の光栄を帯び、御父の右に座し給う耶蘇基督様・・・世の終には万民を裁かん為に、大なる御威光を輝かして来り給うべき耶蘇基督様が、今このパンの形色の下に隠れて、我々の心に臨み給はうとするのであると云うことを、銕(てつ)石(せき)をも貫く信仰もて堅く之を信じ、露(つゆ)許(ばか)りも疑ってはならぬ、
「我はトマの如く御創(おんきず)を視(み)ざれども、主の我が神なるを公言して憚らず・・・」、
「主よ、我は信ず、されど我が信仰の弱きを助け給え」

(2)謙遜 ― 来り給うべき主は如何なる御方・・・受け奉るべき私は何者?・・・彼の御方こそ、無上至尊の神様・・・その御前には赫灼(かくしゃく)たる太陽も其の光を失い、爛々たる月、星も其の美しさを失い、際涯(はてし)なき天地も広しとするに足りないのである・・・然るに私は何者?・・・塵,芥(あくた)にも等しきもの・・・恩に報いるに仇を以ってした罪人・・・如何してこの無上至尊の神様に、ちかづき奉ること出来ましょう!天地も容れ能はぬと云う広大無辺の神様を、この卑しい,汚らはしい私の心の家に宿し奉ることが出来ましょう・・・聖母マリアは其の心の清浄潔白なること、天使も遠く及ばざる程でしたが、それでも主が其の御胎(ごたい)にやどらせ給はうとするや、謙遜の情に得(え)堪(た)えず、「我は主の御召使なり」と申されました。況(ま)して罪悪に充ち満てる我が身だもの、謙遜の上にも謙遜せずに居られますでしょうか。

(3)-痛悔 - 犯した程の罪はその大小を問わず、軽重を論ぜず、すべて之を憎み嫌い、深く悔い悲まねばならぬ。

 たとえ告白の秘蹟を以って、その罪は赦されて居るにせよ、一日罪に汚れたる身は、以って至聖至潔なる御主の御前に出るに堪えない。況(いわ)んやこの御主をば手に取り抱き、之と一致し、之と融合し、全く一つ身ともなり奉るに於いてをやです・・・嘗(か)っては大罪小罪に汚れたるこの口に、如何して天使のパンを戴き奉ること出来ましょう、嘗(か)っては悪魔を宿したこの胸に・・・世俗や肉慾の住所(すみか)たりしこの心に、如何して至尊の神様を案内し奉ること出来ましょう。斯う思って深く罪を痛悔しなければならぬ・・・主よ、私の罪を赦し給え、限りもなく愛すべき主をば愛し奉らずして、悪魔を愛し、世俗を楽しみ、主を打ち棄て奉ったことを、私は深く悔い悲しみます、何うぞお赦し下さいませ・・・。

(4)-希望 ― 聖ヨハネ金口(きんこう)は曰いました。

「赤子が母の乳房を握る時、如何なる熱心を顕(あら)わすかをみよ」と、聖体は実に我等の霊魂の乳、有ゆる美味を含める天来の食物である。

 諸々の奇(く)しき恩(めぐ)澤(み)、慰(なぐ)籍(さめ)、愛情の溢るゝ珍味であることを思はば、誰しも熱く熱く之を望むべきではありませんか、渇ける鹿が渓(たにがわ)の水を喘(あえ)ぎ慕うことの如く、旱天(ひでり)に農夫が雲を望むことの如く、飢えたる者が食を探し、病者が医師に依り頼み、乞食が富者(かねもち)の門を叩いて哀れみを請うことの如く、我々の霊魂の渇きを医(い)やすこの甘露をば、我々の霊魂の飢えを飽かしめるこの珍味をば、我々の妙薬、我々の寶、我々の慰、楽しみなるこの耶蘇をば喘(あえ)ぎ慕い、願い求めずに居られますでしょうか。

(続く)