第373号 2007/01/02 私たちの主イエズス・キリストの聖名の祝日
アヴェ・マリア! 愛する兄弟姉妹の皆様、 新しい2007年のお喜びを申し上げます。兄弟姉妹の皆様にとって天主の恵みと祝福に溢れる良き年となりますように、謹んでお祈り申し上げます。 昨年のクリスマスには、日本から2名の方がソウルで御降誕の聖伝のミサに与りにいらして下さり大変うれしく思いました。 ここマニラでは、クリスマスの直後より男性のための霊操による黙想会が開かれ、7名の方が参加しました。 12月にはアルゼンチンで聖ピオ十世会の4名の新司祭が誕生、オーストラリアでは3名の新司祭が誕生しました。 クリスマスの神秘を黙想しながら、新年を天主の御母聖マリア様に奉献致しましょう。天主の童貞母であり無原罪の御宿りである聖母マリア様に。天主の実体的愛である聖霊の御力により御子私たちの主イエズス・キリストをお宿しになった聖母マリア様に。 何故なら、天の王、君主の君主、絶対の主権者であるイエズス・キリストの母親であるということは、すなわち女王(元后)であるということだからです。聖母マリア様は、天主の母となることに同意した時、その功徳によって元后の位に上げられたからです。聖トマス・アクィナスによれば、童貞聖マリアが、永遠のみ言葉を御胎内に宿し生むことに同意し給うた時、聖母マリアは天主の御国の半分を勝ち取った。それは童貞聖マリアが憐れみの元后となり、イエズス・キリストは正義の王となるためであった」からです。 聖ベルナルドはこう言います。「童貞聖マリアが、憐れみの元后であるのは、聖母マリアは天主の憐れみの深淵を聖母のお望みの人に誰でも、お望みの時にいつでも、思いのままに開くことができるからである、それは聖母マリアが彼を保護するならば、どれ程の悪人であっても罪人であっても失われることがないためである。」 聖グレゴリオ7世教皇はこう言います。「聖母マリアがより高くましましより聖であらせられれば聖であらせられるほど、罪人が自分の生活を改めようという望みを持って聖母マリアに助けを求めるならばどんだ罪人であっても、より大いなる甘美さと同情を持って聖母マリアはこのような罪人に接し給う。」 聖母マリアは、天主の御母、天地の元后(女王)であり、憐れみの母です。私たち罪人が天主へとたどり着く門であり、聖母マリアの憐れみを受けることのできない罪人は誰もいません。もしも聖母マリアの助けを求めさえするならば、誰であっても童貞聖マリアの取り次ぎによって、天主の憐れみと祝福を得ることができるからです。元后、憐れみ深き御母なる聖母は、私たちがその聖名を呼び求めることだけを待っておられるからです。 ですからこの2007年の始めに、童貞の内にていとも尊き童貞にこの新年を全て聖母マリアに奉献致しましょう。天主の童貞母は、それを私たちの主イエズス・キリストに捧げて下さるからです。そしてイエズス・キリストは聖母マリアからのものであれば、決して拒否することができないからです。聖母の汚れ無き御心に、願わくはイエズス・キリストが私たちの愛を受け取って下さるようにお願い致しましょう。 聖母マリアと共にクリスマスの黙想をしながら、聖アルフォンソ・デ・リグオリの作った「馬小屋の幼きイエズスに」という歌をご紹介します。 馬小屋の幼きイエズスに
我が愛し奉るイエズスよ、
裏切りの世よ、さらば、我はおぬしを捨つる。
我が幼子よ、御身は胸の中にて震え給う、
愛は御身を征服したり。愛は御身をがんじがらめと縛りたり。 A Gesu Bambino nel Presepe.
Ti voglio tanto bene, o Gesu mio,
Tu tremi, o Ninno mio, ma dentro al petto
S. Alfonso Maria de Liguori S. Alfonso Maria de Liguori / Canzoncine spirituali / IntraText CT - Lettura del testo / --241-- (この歌の英語版は、 「マニラの eそよ風」324号をご覧下さい。) それでは、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の死せる信者の記念の日の(四)煉獄の霊魂を救うに最も有効な方法としてのミサ聖祭、をどうぞ黙想下さい。 祝祭日の説教集 浦川和三郎(1876~1955)著 (仙台教区司教、長崎神学校長 歴任) 十 一 月 二 日 (四)煉獄の霊魂を救うに最も有効な方法としてのミサ聖祭 (1)-墓と煉獄とは不思議な関係を有するかのように思われます。即ち墓は譬えば肉体の煉獄で、煉獄は霊魂の墓である。墓の中では、肉体が壊れ、姿が変わってしまう。煉獄では霊魂が汚点を磨き落として立派な姿になり変わる。墓は肉体が犯した過失を復(む)酬(く)いられる処で、煉獄は霊魂がその重ねた罪を罰される処である。墓の中には、肉体が天使の喇叭(らっぱ)によって復活する時を竢(ま)って居るが、煉獄では、霊魂が世の人の助けによって、天国え蘇(よみ)生(が)えるのを竢って居るのであります。 然らば何うして煉獄の霊魂を蘇生えらせることが出来ますか。彼等を蘇生えらせるのは、「我は復活なり、生命なり」と称し給うたイエズス、キリストの功徳によるの外はありません。嘗(か)って御主はラザルの墓の前え行かれました。墓からは屍の腐った臭い香(におい)が出て居るのでした。それにたった一口、「ラザル、外え出よ」とお命じになりますと、ラザルは忽ち蘇生えつて出て参りました。 然し主の御血には御言(みことば)以上に力があります。ミサ聖祭に於いて献げられるその貴い御血の功徳を以ってすると煉獄の霊魂すらも救い上げて謂はば天国え蘇生らせることが出来るのであります、私は今席、(イ)ミサ聖祭は煉獄の霊魂を慰める方法の中で最も有効である。 (ロ)最も有効にして且つ平易な方法である、と云うことを申上げたいのであります。 (2)-ミサ聖祭は煉獄の霊魂を慰めるに最も有効な方法である。公教要理には「祈祷,、善業、贖(しょく)宥(ゆう)、殊にミサ聖祭を以って煉獄の霊魂を助けることができます」と教えてありますが、実に煉獄の霊魂を救い上げる方法は一にして足りない。然し其の中で最も有効なのはミサ聖祭である。イエズス、キリストの御体、御血の献げられ給うミサ聖祭であります。 旧約時代には三通りの祭が行われたものでした。第一は天主を礼拝し、その無上の主にて在(ましま)すことを尊ぶ為の祭で、之を燔(はん)祭(さい)と称し、犠牲を残らず焼いて献げるのでありました。第二は平和の祭と称し天主から戴いた聖恩を感謝する為、或いは新たに聖恩を請(こい)求める為に献げる祭。第三は贖罪の祭と称し、天主の正義を宥(なだ)め、犯したる罪の赦しと、其の罪に当る罰の赦しとを蒙る為に献げるのでありました。 新約時代になりましてからは、祭と云えば唯ミサ聖祭一つでありますが、此の祭は旧約時代の祭の功徳を残らず兼ね備えて居るのみならず、天主をほめ尊ぶにしても、その聖恩を感謝するにしても、その御心を動かして聖恩を乞い求めるか、その御怒りを宥めて罪の赦しを蒙るかするにも、到底旧約時代の祭の及ぶ所ではありません。取り分けこのミサ聖祭を以っては、我々の数重ねた罪の償いが確かに赦されるのであります。聖パウロは曰(い)って居る、「もし牝山羊、牡牛の血、及び若き牝牛の焼灰を注ぐ事が、穢れたる人々を肉身上に於いて潔めて聖とするものなれば、況や聖霊を以って己が穢(けが)れなき身を神に献げ給いしキリストの御血は我等の良心を潔(きよ)むべきをや」(ヘブレオ九ノ十三)と。 そこで我々の罪がどんなに大きく又多いにせよ、主の聖なる御血がたった一滴でも之が上に注がれたら、以って之を洗い潔めるに余りあるのである。 聖アウグスチヌスは曰いました「天主が汝に罪の赦しを与え得給うと知りたいですか、耶蘇(イエズス)基(キリ)督(スト)が汝に罪の赦しを得させんが為に、何をお与えになったかを見なさい。耶蘇基督はその貴い御血をお与え下さったじゃありませんか」と。 実に耶蘇の御血ほど貴いものが世界に又とありますでしょうか。天にも地にもこの御血に比べらるべきものは他に何一つとしてありますまい、たとえ天主が正義によって我々を罰しようとし給うでも、この御血さえあらば、充分に之を償うことが出来ます。よしや我々の負債は限りない、我々の罪は数えも測(はか)りもされないほどである、我々の受くべき罰は永遠に窮まりなかるべきであるにしても、狼狽(うろた)えるには及ばぬ。耶蘇の御血には限りなき力がある。其の一滴を以っても数限りなき罪を悉く消滅し、永遠の罰をも赦していただくことが出来る。して耶蘇はただ一滴や二滴の御血を我々にお与え下さったばかりではない、実にその貴い御血を悉(ことごと)く搾(しぼ)り尽くして一滴も余さずお与え下さったのであります。 耶蘇の御血はただ生きた人の為になるのみならず、亦、死んだ人の為にもなる、この御血が煉獄え流れ下ると、忽ちにしてその恐ろしい火を消し、其処に苦しんで居る霊魂を救い上げ、天国の門を開いてやることが出来る。だから「キリストの御血は天国の鍵である」と聖人等から云はれるのであります。 (3)-茲に興味深い問題が一つあります、ミサ聖祭の功徳は無限であるが、基督はその無限の功徳を無限に施しなさるのでしょうか。之を解決するが為には、先ずミサを献げる司祭が蒙る功徳と、司祭が何某(なにがし)の為にと云って回向(えこう)する其の功徳は別にして、一般にミサを拝聴して蒙る功徳に就いて少し御話いたしましょう。 第一ミサ聖祭は之に参(あづ)与(か)る人に特別の聖寵を蒙らしめるのである。この聖寵は我々の準備次第で多いことがあり、少ないことがある。すべて秘蹟を授かる時は、相当の準備さえあらば、必ず聖寵を蒙ることは蒙るのですが、然し信心が篤(あつ)ければ篤いほど、聖寵の蒙り方が多くなる。二合の信心を以って聖体を授かれば、二合だけ聖寵を戴き、五合の信心を以って拝領すれば五合程の聖寵を戴く。一升一杯の信心で拝領すれば亦それほどの聖寵を忝(かたじけな)うするのであります。ミサ聖祭も恰(ちょう)ど夫(そ)れと同じく、之を拝寵する人の信心次第で幾(ど)れだけでも聖寵が蒙られる。其の信心は何処迄も増されるのでありますから、ミサの功徳も殆んど限りない迄に蒙られる訳であります。そこで何人(たれ)にしてもミサを拝聴する時は、成るべく熱心に之を拝聴するように注意しなければなりません。 第二、ミサの功徳は拝聴する人の数に応じて横に広く遠く延長(のび)る。百人居れば百人に、千人居れば千人に其の功徳が施されるのですから、唯一人でミサを拝聴するから、多く功徳を蒙る、百人や千人一緒に拝聴するから其の功徳が少なくなると云う気遣いはない、もし拝聴者の数の多くなるに随って功徳の減少を来たすものとすれば、ミサを拝聴する時は、聖堂の門を締め切り、自分一人で拝聴し、功徳を丸儲けに儲けるようにしますでしょうが、実際は其の反対で、聖会はなるべく多くの人にミサを拝聴させ、拝聴する人の多い時は、特別に蝋燭を多く点(とも)したり、聖歌を歌ったりして、盛んに執行するのであります。 第三、ミサ聖祭の功徳によって、如何なる恩恵でも請い受けることが出来る。実にミサ聖祭は十字架の祭と同じ祭である。随ってミサ聖祭に於いて御願いをするものは拙い我々でなく、天主の御子である。「是ぞ我が心を安ずる愛子なる」と天父に呼ばれ給いしイエズス・キリストである。御父は何うして其の御獨子(おんひとりご)の御願いを、十字架の上に死する迄も従い給うた其の御獨子御自分の光栄を計るが為に、身を無きものとされた其の御獨子、御自分の愛の為に犠牲となられた其の愛子の御願いを謝絶するを得(え)給(たま)うでございましょうか。 聖パウロは曰いました「キリストは肉身に在(ましま)しゝ時、祈祷と懇願とを献ぐるには、大いなる叫びと涙とを以ってし給いしかば、其の恭しさによりて聴(きき)容(い)れられ給えり」(ヘブレオ五ノ七)実にイエズスは御受難の節に当って、神の貴きを持ちながら、唾に汚れ、血潮に塗れ、頭には茨を冠りて御父の御前に拝伏しなさいました、天地万物の御主たる身でありながら、口には酢と苦(にが)肝(きも)とを味はされ、喉は焼くが如く渇き、両眼には涙の瀧を溢らして、罪深い我々の身代わりとなりて、御父に謝罪して下さったのである。全能全知の神の御身に在しながら、手足は十字架に釘つけられ、脇腹は槍もて突き通され、其の罪一つない御体は一面に傷だらけとなり、我々に代わって罪の赦しをお願い下さったのであります。御覧なさい、其の御顔の唾を、其の御手足の釘を、其の御脇を刺し通せし槍を、其の十字架を、御傷を、御涙を、御血を、此等が皆声を揃えて我々の為に憐れみを叫んで居るのであります。何者か敢えて此声に心を動かさないで居られましょう。神殿の幕が二つに裂けたのは当然である、地が震動いたのは当然である、岩石が破れたのは当然である。天主の御怒りが宥まり、悪魔が其の折角鷲(わし)攫(つか)みに攫(つか)んで、居たものを取り逃がし、地獄の門は閉ざされ反対に天国の門が大きく開かれたのも決して不思議ではありますまい。 (4)-イエズスはこの十字架の聖祭が如何なる効果を有するかと云うことをよくよく御存知あそばすのでありますから、毎日祭壇の上に於いて、献げ方こそ異なるが、やはり同じ祭を献げ給うのである。やはり鞭(むちう)たれ、茨を冠(かむら)せられ、唾を吐きかけられ、御血に塗(まみ)れた体になって、その貫(つらぬ)かれ給える御手を挙げ、御足を示し、その刺され給える御脇を開き、天父に向って叫び給う「憐れみの御父よ、この罪人を憐れんで下さい、彼等は盲者も同然で何をして可いか分からないで、悪事を働いたのでありますから、何うぞお赦し下さい、彼等が籠じ込められて居る牢獄の門を開き、彼等の繋がれて居る 銕(く)鎖(さり)を断ち切って、折角私が斯(こ)んな辛い目を見て、贖(あがな)ってやった霊魂でございますから、何うぞお救い下さいまし」と。この強いお叫びの声には、御父と雖(いえど)も何うして御耳を傾け給はぬはずがありますでしょうか。 ミサは煉獄の霊魂を救うに最も有効にして且つ平易なる方法である。 (5)-ミサ聖祭は煉獄の霊魂を慰めるに最も有効な方法である。なぜならば他の祈祷や、善業や、贖宥(しょくゆう)やと云うようなものは、之を行う人が先づ成(せい)聖(せい)の聖寵を有(も)って居なければ格別の効(かい)がない。断食をしても、施しをしても、其の他の善業を果たしましても、大罪を抱いて居るとすれば、煉獄の霊魂の為に大した慰安(なぐさめ)とはなりません。 所でミサは然うでない。何時でも有効である。拝聴者の心の状態が如何であるにせよ、之を献げる司祭の心の如何に拘わらず「某(なにがし)の為に」と云う意向を以って之を献げさえすれば、必ず其の霊魂の為になる、なぜかと云うに、ミサはイエズス・キリストが、自ら御自分の名を以って献げ給う御祭である。随って何時でも限りなく天主の聖心に適(かな)う、天主はミサを捧げる司祭の手が汚れて居るか、拝聴する信者の心が罪に黒ずんで居るか、それを顧み給はずして、ただ最愛の御子の汚れなき御手を顧み給う。そのミサに於いて犠牲、且つ司祭にて在(ましま)す御子の美(うる)はしき御心情を打ち眺め給うのであります。 尤も熱心な司祭、罪のない司祭が心を籠めて献げるミサと、不熱心で罪に汚れて居る司祭の献げるミサとの間には、少しの異なる所もないとは申しませんが、然しミサの重(おも)なる効果は、其の犠牲たるイエズス様、第一の司祭たるイエズス様より来るのですから、司祭や信者の心の如何に関わらず、間違いなくその効果を生ずる。随って煉獄の霊魂を慰めるのに是れほど有効な方法はないのであります。 (6)其の上、ミサは最も平易な方法であるー皆さん、煉獄の関門を打ち破らうと思いなさいますか、天国の門を大きく推し開いてやろうと思いなさいますか。神の羔が献げられ給う時、その汚れなき御血に皆さんの指を染めて之を天に上げなさい。天国の門が如何ほど厳重に構えてあるにしても、この御血の力にだけは抵抗は出来ない、直ぐ「ギイ」と大きな音がして開いてしまいます、天使等は急いで煉獄の底に降り、そこに繋がれて居る霊魂をお救い上げ下さるのであります。 ヘブライ人が、アラビアの荒野で天主に不平をならべた時、天火が降って一(また)瞬間(たくま)に一万五千人を焼き殺しました。然し大司祭のアヽロンがモイゼにせき立てられ、急いで香炉に乳(にゆ)香(こう)を入れて天主に献げますると、その恐ろしい天火は忽ち消(きえ)失(う)せたと云うことであります。 ミサ聖祭を以って煉獄の火を消すのはより容易であります。皆さんの愛する人が恐ろしい火に焼けて居る、連(しき)りに皆さんの救助を祈って居る、それも六(むつ)ケ(か)しいことを願うのではない、ただ「ミサを一つ献げて下さい」と願って居るのである。聴き容れて上げて下さい。さすればイエズス・キリストは必ず御血を濺(そそ)いで、その霊魂の焼けて居る火を消し、之をお救い上げ下さるに違いありません。 そうするが為には、そんなに沢山のお金を要する訳でもありません。少し晩酌を控えるか、お肴を節約するかすると、一円か二円かのお金は直ぐ出て来ましょう。考えても御覧なさい、天主の御子は彼等を救い上げんが為、御血を流し給うた、其の苦痛を免れしめんが為、自ら苦しみ給うた、罪のない御体に鞭を加えられ、茨を冠(かぶら)せられ、鉄(かた)釘(くぎ)に打ち貫(つらぬ)かれ、有(あら)ゆる責め苦に遭はされ給うたじゃありませんかそれに一杯の晩酌を。一皿のお肴を控える位が何でございましょうか。 斯う云う次第でございますから、煉獄の霊魂を救う為の最も有力な方法として、皆さんは成るべく屡(しばしば)ミサ聖祭を献げて戴く様にし、又出来れば毎日でもミサ聖祭に与(あずか)って、祭壇上なるキリストと心を合わせ、声を合わせて、煉獄の霊魂の為に、天主のお憐れみを祈る様にお心掛け下さらんことを切にお勧め致して置きます。 (続く) |