マニラのeそよ風

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第378号 2006/11/27

聖ピオ十世会インドの修道院、聖フランシスコ・ザベリオの聖像
聖ピオ十世会インドの修道院、聖フランシスコ・ザベリオの聖像


アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 全世界で祝う祝日ではありませんが、実は今日は、1830年パリのリュ・ド・バックでお現れになった聖母マリア様の不思議のメダイの祝日でもあります。

 それでは、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されていた「聖フランシスコ、ザベリオに対する九日修行」第四日をご紹介します。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

聖フランシスコ、ザベリオに対する九日修行

(第四日) 聖フランシスコ人を愛し、救霊事業に熱中し給う

 人に対する愛は聖フランシスコの胸中深く刻まれてありました。病める者、悩みに沈める者を憐れむことは慈父の如く、己は教皇使節の栄職を帯ながら、ゴアの大道に乞者(こつじき)となって、貧困告ぐる所なきポルトガル人、印度人の急を救い給うこともありました。その行はれた奇蹟も、主として公衆、若しくは個人の災難を済わんがためでした。聖人を迫害した者は、他の人々よりも一層多く聖人の慈愛熱祷を忝(かたじけな)うしたものであります。マラカの知事が非常に聖人を虐待酷遇(こくぐう)した時の如きは、其の間、聖人は知事の為にとて毎日ミサ聖祭を献げ給うたのでした。して聖人の慈愛は人々の救霊に奔走し給う時には、特に烈しく燃え立つよと見えました。聖人は能(あた)うべくは全世界の人々を残らず帰正せしめんことを冀(こいねが)い、一人の改心に従事する時も、国民の感化に当る時の如く、少しも其の労苦を惜しみ給うことなく、貧者、小児等が来たりて乞う所あると、万事をさし措いて、之に満腔(まんこう)の愛情を注ぐのを常とし給うのでした。苟(かりそめ)の事が救霊問題に関する時は、その飛び立てる御足を引き止め得る者は天下に一つもありません。嘗 (か)ってモルク島に渡ろうとし給う時、人が皆聖人を引き留め「彼島は毒霧、瘴癘(しょうれい)閉じ込めて外国人の身に適せず、地は割けて火焔や熱灰が渦を巻き、往々は人をも呑み、土人は野蛮獰猛(どうもう)で、相(あい)毒殺(ころ)し、人肉を嗜(たしな)み、生みの父すらも容赦するを知らない位ですよ」と曰(い)うや、聖人は徐(おもむろ)に答えられた「でも彼島に宝物が夥しく出たらば、金に目のなき輩は、その位の危険を物ともせず、先を争って彼の地に踏み入りませんか・・・さてさて是は何事です?彼島人の霊魂は塵芥の如く価(ねうち)無きものでしょうか。慈愛の勇は貪婪(どんらん)の勇に若(し) かないのですか」と。斯う云って彼島に押し渡り、親しく島人に教を説かれました。実に聖人の驚くべき熱心は、背教者の目にすら赫々と照り輝いたもので、彼等は其の一小部分に過ぎないながらも、之を書に記して今日に伝え、読む者をして坐(そい)ろに感涙に咽ばしめるものがあるのであります。


反省― 

一、凡そ基督教徒たらん者は、皆一家の使徒で、父母や主人は、子女なり婢(めしつ)僕(かい)なりの為、子女や婢僕は、亦父母なり主人なりの為、それぞれ熱心に救霊を計らなければなりません。

二、人の救霊の為に応分の力を尽さないのは罪である。況(いわん)や之が滅亡を来たすが如きことを為しては、その罪の重さは計り知られません。

三、然し己が救霊の為に奮発しないならば、如何して人の為に活動することが出来ましょう。聖フランシスコは幾万の霊魂を救い給うたのに、私は自分一個の霊魂を救うことすら夢にも思わない是は、何うしたことでしょう。


祈願 ―

 嗚呼基督様よ、主は価(あたい)貴(たか)き御血を以って私の霊魂を贖い給いたれば、私も我同胞の霊魂を救はん為に、吾血をも流したいものであります。少なくも主の聖寵と聖フランシスコの聖範に縋(すが)り、力の限り我同胞を感化し、慰安し、教誨(きょうかい)し、聖化せんと決心いたします。アメン。

(続く)