第376号 2006/11/24 証聖者十字架の聖ヨハネの祝日
アヴェ・マリア! 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか? Credidimus Caritati 私たちは天主の私たちへの愛を信じた。使徒聖ヨハネのこの言葉は、幼きイエズスの聖テレジアの全生涯、全聖性、教えの全て、中心的な秘訣、聖女の霊魂の最も奥深くにあったものでした。 ドン・ボスコ社から出版されたリアグル神父著の 『小さきものよ、我に来たれ』(初版1963年)という小冊子を最近購入し、読んで黙想に使っています。ルイ・リアグル (Louis Liagre) 神父、ルフェーブル大司教様の所属していた聖霊修道会の司祭で、ルフェーブル大司教様と同じトゥルクァン出身の司祭で、一生涯を教授と霊的指導者として奉仕した方です。 リアグル神父様は尊者リベルマン神父の充実な弟子として、寛大に離脱することにより全面的に天主の御旨の嘉することに全く身を委ねて固執するように霊魂たちを励ましていました。 この離脱を基礎にして、リアグル神父が指導している者等を真の謙遜、平和及び絶え間ない念祷の生活を確立させており、これへと霊魂達を方向付けていた。ところで神父様は、喜びにあふれた、愛に満ちた、天主に対して自分を忠孝な子供とする離脱を求めていた。ルフェーブル大司教様もローマ神学校時代にこのリアグル神父様から指導を受けていました。 この『小さきものよ、我に来たれ』の中には聖霊修道会の創立者であるリベルマン神父様の教えについても出てきます。(例えばその125ページ) リアグル神父様は、天主の愛を信じるとはどういうことか、ということを丁寧に説明して下さっています。すごく良い本です! もし入手が可能であれば、是非お求め下さい。ご推薦致します! 12月3日は日本の大恩人である聖フランシスコ・ザベリオの祝日です。この祝日の前のノベナ(9日間の祈祷)について、浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されていた「聖フランシスコ、ザベリオに対する九日修行」第二日をご紹介します。 祝祭日の説教集 浦川和三郎(1876~1955)著 (仙台教区司教、長崎神学校長 歴任) 聖フランシスコ、ザベリオに対する九日修行 (第二日) 聖フランシスコ制慾を愛し給うこと 「夫れキリストのものたる人々は、己が肉身を其の悪徳、及び諸慾と共に十字架に釘(つ)けたるなり」(ガラチア五ノ二四)と聖パウロは曰(い)はれましたが、聖フランシスコ、ザベリオは改心の初めからこの聖(みこ)言(とば)の真意を悟り、大いに其の力を制慾の業に用いられました。初めて断食し給うた時は、三四日も飲食しないと云う位に驚くべき苦行を務め、後イグナチオの命に因りて、梢(やや)之を和げられたけれど、全く廃し給うことはないのでした。其の事務を執るのに、同僚よりも機敏で,且つ風采は上品である所から、自負の念が起ったと見るや、それを罰せんが為め、細縄を以って緊(きび)しく其の腕と腿とを縛られた。所で其の縄が肉に食い入り、苦痛日を追うて劇(はげ)しく、息も絶えそうになりましたが、僅かに奇蹟を以って免れることが出来ました。常に十字架上なる基督を宣伝し給う時は、よく己に克ち、身を責め、苦行をなすべきことを説き身を以って之が模範を示し給うのでありました。欧州では病院に起臥すし、布施を以って衣食に当て、印度に在っては其の国の貧民の如く、米と水とを常食とし、それも甚だ少量で、其の同伴の某は、聖人が斯くても能く其の生命を保ち得給うのは、是こそ一個の奇蹟だと言って居た程であります。 日本に御布教の際には、日夜東奔西走しながら、肉も魚も全く絶ち、唯僅かに草の根や、野菜の水煮にしたままのを食べて、生命を繋いで行かれた、当時、日本の道路は随分荒れ果て、凸凹した難路でしたのに、駕にも乗らず、酷寒の候にも、跣(はだし)足のまゝ徒歩し給うのでした。夜は三時間より長く眠り給うたことなく、怪しげな漁人(りょうし)の荒(あば)舎(らや)、其の荒舎の土間にやすみ給うとか、船中では網具の上、船板の上に臥し給うのでした。佛(ぶつ)僧(そう)輩が愚民を欺(あざむ)かんとて、陽に行う苦行をば、聖人はそのまゝ文字通り実践躬行(きゅうこう)して行かれました。之を要するに主の為、人々を感化せしめる為に千辛万苦を嘗めたいとの熱望は、聖人を駆りて十字架を楽しましめ、中心より之を抱き絞めしむるに至ったのであります。 反省― 一、 私は罪を犯しました。尚を犯すことも有り得ます。だからこの肉身、何時滅びとも計られないこの肉身に、苦行難行を加えなければならぬ。 二、 久しく懺悔、苦行を差し延べるのは甚だ危うい。臨終が迫って来ると、為さんと欲しても能はないでしょう、煉獄に於ける苦罰は怖るべく、地獄に在りては終なくして、而かも聊(いささ)かの希望さえないのではありませんか。 三、 然らば如何なる苦行を為し得ましょう?聖人等の実行された所、少なくも我が身に襲いかかる日々の十字架をば、主の十字架に合わせ、主を愛するが為に悦んで之を擔ぎましょう。 祈願― あゝ主よ、私は罪人で、主に頼らざれば私の罪を償うことも出来ません。伏して願はくは全能の御腕を振るって私を助け、私をして自ら進んでこの身を懲らし、総て職務上の苦労をば、制慾の精神もて耐え忍ぶに至らしめ給え。今この苦労を救主の御受難に併せ奉り,聖フランシスコ、ザベリオの苦労と共に謹んで御前に献げ奉る。アメン。 (続く) |