マニラのeそよ風

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第372号 2006/11/30


アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 キリスト教信者というのは私たちの主イエズス・キリストを信じる者。カトリック信者の信じる天主はこう言います。「もし私の後に付いてこようと思うなら、自分を捨てて自分の十字架を担って私に従え」(マテオ16章)と。何故なら「自分の十字架を担わずに私の後に従わないものは誰であれ私の弟子にはなれない」(ルカ14章)からです。

 そして私たちにどうするかを手本を見せて「ご自分の十字架を担われて、主はカルワリオと呼ばれるところ、ヘブライ語でゴルゴタ、に行き、そこで彼らは主を十字架に付けた」(ヨハネ19章)のです。

 子供は大人の背中を見て育つものですが、弟子は師の背中を見て育つのです。

 私たちには十字架を避けて生きることができないのです。『キリストにならいて』もそういます。「あなたはどこにでも苦しまなければならないことを見つけるだろう」と。

 Ave Crux, spes unica! カトリック教会は声高らかに歌います。「十字架よ、唯一の希望よ、こんにちは!」と。

「ああ、キリストよ、主は尊き十字架をもって世をあがない給いしにより、われら主を礼拝し、主を讃美し奉る。」


 だから、聖アンドレアは自分が付けられようとする十字架を見てこう叫んだのでした。

 「おお、良き十字架よ! おまえは主の肢体の飾りを受けた! 長らく望まれた、心から愛された、絶え間なく求められた、そして時として熱望する心によって準備された十字架よ!私を人々の内より受け入れ、私を我が師に返してくれ。それはおまえを通して主が私を受け入れ給わんがためだ。何故なら主はおまえを通して私を贖い給うたからだ。」

 O bona crux, quae decorem ex membris Donmini suscepist, diu desiderata, sollicite amata, sine intermissione quaesita, et aliquando cupienti animo praeparata : accipe me ab hominibus, et redde me magistro meo ; ut per te me recipiat, qui te me redemit.

「尊き十字架よ、おまえに挨拶する。我が師キリストはおまえに架かったがその弟子を受け入れよ!」

Salve, crux pretiosa, suscipe discipulum eius, qui pependit in te magister meus Christus.

 私たちの主イエズス・キリストの十字架に倣った者たちは、アシジの聖フランチスコ、聖アルフォンソ・デ・リグオリ、幼きイエズスの聖女テレジア等、数え切れません。

 じつに聖パウロが言うように、十字架の言葉は天主の力です。しかし滅ぶ人々にとっては愚かさにすぎません(1コリント1:18)。何故なら、彼らは十字架の敵として生活しているからであり、十字架を拒否するからです。キリストと共に苦しむ時に、苦しみがもつ贖いの効果を拒否するからです。彼らは国家の最大の義務は、苦しみをこの世から根絶することにある、過去に辛いことがあったとしたら将来それを二度と起こしてはならない、「ノー・モア!」というドグマを信じているようです。

 「偽り者とは誰か? イエズスがキリストであることを否定する者ではないか。御父と御子を否定する者、これこそ反キリストである。」(1ヨハネ2:22)

 イエズスがキリストであることを否定する者とは誰でしょうか? イエズスの十字架が救いの十字架であることを否定するものではないでしょうか? 十字架を拒否する者ではないでしょうか? この世に十字架と苦しみのない楽園を建設することができると夢見る者ではないでしょうか? キリストのいない世界を構築しようとする者ではないでしょうか? 共産主義は正にこれのようです。いえ、共産主義だけではありません。全てはカネだ、お金がある人が一番偉い、お客様は神様です、カネを儲けておもしろ楽しくこの世を暮らそう、という考えもそうではないでしょうか? ルチフェルはアダムとエワとを罪に導いたのち、天主から罰を受け「おまえは地の塵を食べるだろう」と言われましたが、まさにこの地上のことでお腹が一杯で、目を天に上げることができないそのままの状況ではないでしょうか?

 しかしそれに反して、キリストの弟子達は、十字架を愛します。何故なら贖いの力があるからです。何故贖いの力があるかというと、十字架とは罪の赦しだからです。それが十字架の言葉です。だからキリスト者は「聖父よ、彼らを赦し給え。」という主の十字架での言葉を真似するのです。「我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え!」と。何故なら天主はこう言ったからです。「復讐は私のものだ。私が彼らにふさわしい時に報いるだろう」(第二法32章)と。「憐れみ深い人は幸いである。何故なら彼らは憐れみを受けるであろうから」(マテオ5章)。何故なら、私たちは永遠の福楽、天国を望んでいるからです。

 だから、イスラエルの元首がドイツやポーランドにある強制収容所において、「私は、民族を代表して、決して忘れず、決して赦さないと誓う」という言葉を聞く時、私たちは怖ろしく思うのです。何故なら、彼らが天国に目をやることができないこと、この地上でのことをのみ考えていることに気が付かされるからです。地上の楽園の建設のみを考えていると思われるからです。


 ところが私たちは弱く盲目ですから、苦しみに遭うと本当に辛いと思います。特に私にとって、リアグル神父様の『小さきものよ、われに来たれ』は本当に素晴らしい導き手です。天主は私たちに十字架と苦しみと辱めと屈辱と失敗が起こるのを許す、「私たちが苦しんでいる時に、どうして、私たちを愛していらっしゃる天主はお喜びになれるのでしょうか?」 リアグル神父様は聖女テレジアを引用してこう答えます。

「いいえ、私たちの苦しみは、決して天主をお喜ばせしません。でも、この苦しみは私たちに必要なのです。ですから天主はそれを顔を背けるようにしてお許しになるのです。」(153ページ)

 愛である天主は苦しみを、苦しみと言うことだけによってお望みになりませんし、お望みになったこともありませんでした。ただ、罪が苦しみというものを必要なものとしてしまったので、その限りにおいて苦しみをお望みになるのです。しかも、その時でも、苦しみを愛の故にしかお望みにならないのです。人間が天主を愛し、そして天主を愛することに自分の幸福を見いだすまで人間を導き返すために必要な手段だからと言う理由でしか、苦しみをお望みにならないのです。だから、聖女テレジアは「天主はそれを顔を背けるようにしてお許しになる」と正確に表現しているのです。人間の健康と幸福のための「必要な薬」としてのみ、人間の幸福のためにのみ、苦しみをお望みにならないのです。

「私たちをして涙の泉から飲ませることは、天主にとっておつらいことなのです。けれども主はそれが、天主がご自分を知るように私たちが主を知り、私たち自身が天主となるまでに準備なさる唯一の手段であることをご存じだからなのです。」(154ページ)

 では、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の死せる信者の記念の日の(三)煉獄の霊魂は如何なる苦しみを嘗めつゝあるか、をどうぞ黙想下さい。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

十 一 月 二 日

(三)煉獄の霊魂は如何なる苦しみを嘗めつゝあるか

(1) 煉獄の苦痛の如何なるものなるかを説明するのは、なかなか以って容易なことではない、ただ聖人等が之に就いて如何なる考えを抱いて居られたかと云うことを二つ三つ申上げることに致しましょう。

 先ず聖チブリアヌスは曰はれた、「たとえ殉教の苦しみを凌(しの)いでも、今の中に罪の償いを果たして置くが可い。後の世までさし延ばしたならば、彼の恐ろしい煉獄の中で、極々小さな罪までも償はなければならないから」と。聖セザリウスは曰はれた「何人にしても天国にさえ昇れたら、救(たす)かることさえ出来たら、煉獄に幾ら長く苦しんでも構わぬ、と夢にも思ってもならぬ。煉獄の苦痛は、此の世に於いて人が堪え忍ぶこと出来る総ての責め苦、否、想像すること出来る総ての責め苦よりも、未だ未だ堪え難いものであるぞ」と。

 聖アウグスチヌスも同じく申されました「此の世の苦痛を皆んな集めても、煉獄の苦痛と比べたら何でもない」と。

 聖エロニムス、聖グレゴリウス、其の他の聖人等も皆そう仰有って居ます。聖トマス神学博士の如きは、「煉獄の苦罰は地獄の苦罰と変わった所がない。ただ終があるのと終がないとの差別があるばかり」とまで曰はれた位であります。


(2)-何(ど)ういう訳で、煉獄の苦罰がそれほど猛烈(はげし)いのであるかと云うに、煉獄にも地獄と同じく損失の苦罰と感触の苦罰とがあるからである。

 損失の苦罰と云うのは、御承知の通り、天主を見ること出来ない苦しんで、最も堪え難いものであります、天主を見ること出来ないのが、何うしてそんなに辛い、苦しい、堪え難いものであろうかと不審に思う御方があるかも知れませんが、然し一寸考えて御覧なさい。この世でも、蝶よ、花よ、と可愛がって居た一人娘を失った時の母親、朝夕楽しみ暮らして居る其の妻より突然引き離されて、遠い島地に流された夫の身になって見なさい、我が身に経験しないならば、その悲しみ苦しみの程は到底察すること出来るものではありますまい。然し幾ら悲しい苦しいと申しましても、現世には別に慰藉(なぐさめ)となるものが色々あります。親、兄弟も居れば朋友も居る、目を喜ばすものもあれば、耳を楽しますものもある。所で死後は現世の何も彼も掻き消されてしまい、ただ自分ひとりが限りも涯しもない世界に入って行き、完全で、円満で見ても見ても見飽くことのない美しい楽しい愛すべき天主を連りに捜し、之を仰ぎ見たい、之を楽しみたいとするのでありますが、然しそれを許さない、却ってその愛し慕える天主より引き離され、物凄い、苦しい牢獄に打込まれるのであります。しかも自分は万善に満ち、万徳に溢れさせ給う天主その天主の光栄の輝き、その勝れたる御力、その限りなき御慈愛を十分に弁(わきま)えて居る。随ってそれが始終眼前にちらつき、その天主を見たい、その天主に飛び付きたい心は弾丸が銃先(つつさき)より打ち出された時よりも、鉄が磁石に引き付けられる時よりも、まだまだ早く、激しいのでありますが、然し身に汚点の付いて居る間は、何うしても其の望みを遂げること」出来ないのです。其の苦痛のほどをよくよくお察し下さい。


(3)-感触の苦痛と云うは火である。猛(は)烈(げ)しい火に焼かれる苦しみである、其の火は物質的、火であるか、或いは単に霊魂の覚える苦痛を形容して、火と云うのであるか、聖人等の中には之を譬(たと)喩(え)の意味に取るべしと云う御方が一人や二人はないでもないが、然し実際の火であると云うのが、一般の通説になって居ます。けれども肉体を離れた霊魂が何うして物質的、火に焼かれるのでしょう?それは霊魂が火に繋がれて、儘ならぬ所から苦痛を感ずるのだ、と説く人があります。或いは又天主の全能力によって、今、我々の霊魂が肉体と一つになって居りながら、火に焼けると、痛みを感ずるが如く、肉体を離れてからも、同じ痛みを覚えるようになって居るのだ、それは決して難(かた)いことではない、と主張する人もあります。凡て被造物には二様の力が備わってある。一つは自然的力で、今一つは造物主たる神の命令に従って作用する力である、例えば火は其の自然的力を以っては物質を焼くこと出来るが、無形物を焼くことは出来ない。けれども一たび全能の天主がこの火を以って霊魂を苦しめようと思召しになると、夫れだけの働きをなすことが出来るのであります。次に此の火は同じ火であるが、其の霊魂を苦しめるに至っては決して一様でない。なぜと云えば、火は天主が彼の霊魂等を清める為にお使用になる道具である。道具と云うものは、同じ道具でも使い様によって色々と働きを異にするもので、同じ刀でも力を入れて斬れば首が飛ぶ、力を入れなければ皮をかするに過ぎない。

 それと同じく、同一の火でも、罪の軽さ重さ、多い寡(すくな)いに応じて苦痛を与えることも違って来るのである。して見れば重い重い罪を犯し、数々の過失を重ねたものは、如何に厳しく恐ろしい苦しみを忍ばねばならないでしょうか。


(4)-固(もと)より煉獄の霊魂は地獄の霊魂見たように失望したり、天主を怨んだりするようなことはない却って自分が罰せられたのは当然だ、自分を斯う云う汚らわしいもので、到底このままでは天主の御前には出られないのだから、この苦しみによって早く汚点を清めてしまいたい、と一心に冀(こいねが)って居るのでありますが、また夫れと共に、一刻も早く天国に昇り、天主を面(まのあた)りに仰ぎ視て楽しみたいと連(しき)りに望むのである。天主を仰ぎ視て楽しみたいと望むに連れて、天主の美しく愛すべきことや、天国の云うに云われぬ楽しみやが、眼前に浮かんで来る、浮かんでは来るが、未だ何時まで経(たた)なければ、其の楽しみが得られない、其の天主が仰ぎ視られないのだと思うと、愈々苦しく口惜しく覚えるのである。「ああ私はなぜ早く償いをしなかった!なぜ斯う云う色々の罪を犯した?・・・あの病を与えられた時、償いとしてよく忍んで置けばよかったに!彼の難儀苦労に出遭した時、なぜ償いと思って快く堪えなかったのだろう?なぜ祈祷や、ミサや、聖体拝領や、其の他の信心の務めをよく尽さなかったのだろう?なぜ布教の為め、慈善事業の為め熱心に奔走しなかったのだろう」と連(しき)りに悶(もだ)えるのであります。

 兎に角、煉獄に於いては斯う云う激しい苦痛を嘗めねばならぬのですから、何人も救かることさえ出来たらば!とは思わずに、今の中に早く我が罪の償いをするように、又、小罪だからとて、平気で之を犯さないよう注意しなければならぬ。なお、煉獄の苦しみを恐ろしく思えば思うほど、其処に苦しんで居る霊魂等を救い出すように務めるこそ然るべきでありましょう。

(5)-天主は正義によって彼等の為に苦しみの時期を定めて居られる。然し皆さんは其の時を短(ち)縮(じ)めて上げることが出来ます。天主は正義によって彼等を火の中に焼いて居られる。然し皆さんは其の火の力を弱めるか、或いは全く消してしまうだけの水を充分お持ちである。天主は正義によって彼等を牢獄に打込(ぶちこ)んで居られる、然し皆さんは其の牢獄の門を開く鍵をお持ちである。然らばお父様は子供さんの為に、子供さんはお父様の為、お母様は娘さんの為に、娘さんはお母様の為、生ける人は死んだ人の為に、早く彼の牢獄の門を開いて、彼等を天国に昇らしめる様、務めなければなりません。

 考えても御覧なさい、お父様、お母様にせよ、子女さんにせよ、夫婦や兄弟や、朋友やにせよ、生ける間は、何うにかして我子を、我親を、我夫を、妻を、親戚朋友を幸福ならしめたい、その悲しみを慰めて上げたいと心配したものでしょう。

 然らば今,何とも云うに云われぬ苦しみに沈んで居るのを見ながら、何うして高所から見物して居られますか。耳を澄ましてお聴きなさい。彼の霊魂等は皆さんに向って連(しき)りに救助を叫んで居るじゃありませんか。皆さんによって救い上げられたいと、一心に俟(ま)ち望んで居るのじゃありませんか。

 今皆さんの足下が開けて、煉獄に苦しみつつ、皆さんの助けを叫んで居る霊魂等を面(まのあた)りに見ることが出来ましたならば、否な、其の霊魂の中の一人でも皆さんに顕れて参りましたならば、何にも頼まれない中から、その憐れな姿を一見したばかりで、同情を催し、何とかして早く救い上げたいと云う気にならずに居られますでしょうか。然し実際足の下が開けないでも、実際霊魂が顕れて来ないでも、心の眼をあけて、自分の親兄弟が苦しみに苦しんで居る有様を眺めなさい。心の耳を傾けて、その恐ろしい火の中から悲しい声を絞って「私を憐れんで下さい、私を憐れんで下さい、我子よ、我兄弟よ、我友よ」と叫んで居るのをお聴きなさい、何うして知らぬ顔がして居られますか。どんなに難しい、苦しいことでも厭(いと)はぬ、是非之を救い上げたいと云う気になるべきではありませんか。

(続く)