マニラのeそよ風

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第368号 2006/11/18 聖ペトロと聖パウロ両大聖堂の奉献の祝日

聖ペトロと聖パウロ

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 アジア管区長のクチュール神父様によると、アジア管区では教皇様のためのロザリオの祈りの霊的花束は合計で 164,178環集まったそうです。兄弟姉妹の皆様の多くのロザリオの祈りに心から感謝いたします。教皇様も聖伝のミサを自由化するための多くの霊的な力を得られることでしょう。(以下、クチュール神父様がフェレー司教様に報告された国名と環数を列記します。)

中国・香港 10,335
インド 40,340
マレーシア 603
ニュージーランド 23,244
フィリピン 75,558
シンガポール 5448
タイ 186
日本・韓国 3900
(少し遅れて報告された方々がおり、最終的には日本 3478、韓国 841 でした。)
アメリカ・カナダ 4664

 では今回も、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の「諸聖人の祝日」の部分の続き(四)三つの道をどうぞ黙想下さい。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

十 一 月 一 日

(四) 三 つ の 道

冴え渡れる秋の夜空を仰ぎますると、色を異にし、光を異にする幾千万の星が玉でも砕いて蒔き散らしたかの如く輝いて居るのを見るでございましょう。天国の聖人等、諸々の族、諸々の民、諸々の語に属する数え難い天国の大群衆も実に彼の美しい星の様なものでありますが、さて彼の聖人等は如何にしてその天国に辿り着かれたのでございましょうか。我々も如何にしたらば、その同じ天国に辿り着くことが出来ますでしょうか・・・天国に昇る道には、英雄の道、忠実さの道、痛悔の道と云う様に、三種の別がある様に見受けられます。


(1)-英雄の道 ― 天国には英雄が居ます.彼等は現世の富や名誉や快楽を無視し、如何なる犠牲をも厭わず、肉体の中に在りながら、天使の如く生活したものであります。

 世界を駆け廻って福音の宣伝に当りし使徒等、死を鴻毛よりも軽じ、義を泰山よりも重んじ、信仰の為には喜んで二つとなき生命までも抛った殉教者、主の為に輝かしい前途を見捨て、永遠の寶の為に朽ち易い寶を抛ったアシジーの聖フランシスコ、大諸侯の金殿玉楼を下りて、手づから懇ろに癪病者の世話をした聖エリザベトの如きは、正しく其の様な英雄でありました。     我々はこの驚くべき聖人等の前に跪き、その美徳を感嘆し、せめて遠方からなりとも、その美徳に則りたい、自ら英雄にはなり得ないにせよ、少なくも義務を忠実に果たし、たとえ容易からぬ困難が前途に横たわって居るにしても、決してその義務を裏切らないだけの覚悟でありたいものであります。


(2)-忠実さの道 ― 天国には忠実な霊魂が居ます。彼等は主の御言、「汝生命に入らんと欲せば、掟を守れ」(マテオ十九ノ十七)と云うその御言を聴き、夫(それ)を忠実に守り、その為には如何なる犠牲を払うのも厭(いと)わないのでありました。忠実に主日を守り、主日に働いて手に入れ得(う)べき賃金を断念しました。それは彼等に取って可(か)なり辛いことでした。なるほど大した犠牲とは申されますまい。然し英雄でない限り、それでも真個(ほんとう)な犠性たるを失わないのでありました。

 情欲を抑え、己が感情や,想像や、思い、望み、言、行いの上に注意し、少しでも天主の十誡に外れたことをなすまいとするのも、彼等の為には随分の骨でした。殊に余り熱心ならざる信者の中に在り、或いは又異端者、異教者に八方から取囲まれて居て、その悪例に引きずられず、よくミサを拝聴し、屡(しばしば)秘蹟を授かり、信者としての義務を全うせんとすれば、どうせ他と異なった態度を執らねばならぬし、それだけ亦冷笑(あざけり)を買い、軽悔(あなどり)や、当こすりを浴びせられねばならぬので、それは決して生易しいことではなかったのであります。

 この忠実な霊魂は非常な大群をなして居る。基督信者の務めを忠実に果たして居る一家の父母,身も心も清浄に守り、浮気に流れず、固く自ら取り締まって行く青年処女も、この大群の一部をなして居るのです、そんな御方達は、どうぞ力をお出しなさい、勇を奮いなさい、一度は必ず皆さんの努力、皆さんの犠牲も報いられる所があるに相違ありません。


(3)-痛悔の道 ― 天国には痛悔者も居る。彼等は罪の路をひた走りに走って居る途中、その足を急に踏み止めたのでした、「おやおや私は祈祷を忘れ、聖体拝領を忘れ、基督信者の義務を忘れ、放蕩三昧に耽(ふけ)って何処え行って居る?・・・死後は如何なるだろう?斯うして居ては、最高判事の前に立(たち)顕(あら)はれた時、何と答えることが出来よう・・・あゝ天主様、私は決心しました。

 もう罪は犯しません、決して決して罪は犯しません。必ず改めます。以後は誠心誠意、御前に仕え奉るでありましょう。

 長い間、不忠不義を重ねた揚句、病の床に臥し、もう到底全快の見込みなしと云う最後の瀬戸際になってから、心を改め、主の方え向き直り、痛悔の胸を打ちつゝ「天主様、私は罪を犯しました、お赦し下さい、救主イエズス、キリストの限りなき功徳によりてお赦し下さい」と叫び、斯くてその数々の罪を赦され、天国に辿り着いた人も多いものであります。

 我々は英雄の部類、忠実な人の部類に入ることが出来ないにせよ、少なくも痛悔者の群れに属しなければならぬ。痛悔の鍵を以って天国の門を開かなければならぬ。是は我々に遺(のこ)されてある救霊の最後の手段である。然し臨終の間際まで、その痛悔をさし延ばしては、この手段を利用し得るか否か頼にされません。だからなるだけ早く罪を悔い、心を改めなければならぬ。長らく主の聖名を汚し、聖心を痛め奉っただけ、人一倍働き、人一倍苦行を励み、人一倍苦労艱難を堪え忍んで、償いをしなければならぬ、失った所を回復しなければならぬ、と発憤大いに努めたいものであります。

 要するに痛悔者と云っても、聖ペトロ、聖女マグダレナ、聖アウグスチヌスの如き偉大なる聖人があります。彼等は一旦改心した上では、過去の罪を以って己を刺激する鞭となし、自分は罪人である、大なる罪人である、他の罪なき人の如く安閑としては居られない・・・何とかして熱く主を愛し、主の為に活動して、罪の償いをしなければならぬ、と我と我が身を振るい起たせるのでありました。

 そうなって来ると、罪は霊魂に少しの害をも招かないのみか、むしろ大なる益を来たすの基因(もと)となるばかりであります。皆さんの中、熱心にして完徳に志して居られる御方は、どうぞその完徳に局限(くぎり)をつけないで下さい、忠実に天主の掟を守って居られる御方は飽くまで義務の途に踏み止まり,如何なる困難に打(ぶ)つ突(つか)っても、その義務を忘れない様に心掛けて下さい、不幸にして今猶、罪に溺れて居られる御方がありますならば早く、改心して天国を取り失はない様、心掛けなさって下さい。

(続く)