マニラのeそよ風

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第367号 2006/11/17 奇蹟家聖グレゴリオの祝日

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 聖伝のミサは私たちにこの人生が苦しみと辛いことと十字架の連続であることを教えてくれます。「キリストにならいて」にもイエズス・キリストの御生涯はお生まれになった時から御死去になるまで苦しみと艱難の連続であった、とあります。私たちは十字架から逃げることができないのです。それは原罪のためです。聖伝のミサは私たちに、私たちの日々受ける苦しみと十字架をイエズス・キリストを共に捧げることを教えてくれます。苦しみを聖化せよ、と。Cum sit amor, labor fit sapor. 愛があると「辛い」が「甘い」になる、からです。だから、私たちは十字架の友であり、私たちの王は十字架に付けられた私たちの主イエズス・キリストです。

 その十字架の玉座には「ナザレトのイエズス、ユダヤ人たちの王」とラテン語とギリシア語とヘブライ語で書かれていました。私たちの王は、私たちのため、私たちの救いのために人間となった天主の御言葉です。もしも私たちの主イエズス・キリストが、私たちのためにこの人生の苦難といじめと嫌がらせを堪え忍ばれたなら、私たちの愛する王であるイエズス・キリストのために私たちが堪え忍べないことがあるでしょうか! 私たちの文明の中心はいけにえを捧げる祭壇であり、十字架であることを、聖伝のミサは教えてくれます。

 新しいミサは、その本質が会食です。新しいミサは、私たちが天主ではなく人間の方を向くように、楽しいこと喜びへと促しています。人間は皆、全被造物の頂点であり、尊厳を持った王であることを意識するように促しています。女性も祭壇で奉仕することは、ジェンダーフリーの思想を促進させているようです。ここで黙示録を連想してしまいました。

 ヨハネの黙示録の第9章には、第5の天使がラッパを吹き鳴らす場面が出てきます。深い淵から「大きな炉のけむりのような煙がたちのぼり、太陽と空は穴の煙のために暗くなった」とあります。パウロ六世が昔、教会の中に悪魔の煙が入り込んだ、と言ったことを思い出させます。

 使徒聖ヨハネはこう言います。「この煙からイナゴが出て地上に広がった」と。このイナゴの「顔は人間のようだった」けれども「髪は女の髪のようであり」、男だか女だかわからないジェンダーフリーの姿をしています。このイナゴらは、あたかも王であるかのように「頭には金の冠のようなものをのせ」ています。それぞれが自由を求め、革命を求め、進歩を求め、人間を中心に、天主から独立してミニ王様として動いているのでしょう。しかし良く読むと「金の冠のようなもの」であり、本物の金の冠ではありません。偽物です。(天の祭壇の玉座のまわりに24名の老人が、白い服を付け、金の冠を頭に被って座り、主を賛美している姿がありますが、その本物の金の冠とは大違いです。)

 何故偽物かというと「彼らに王がいる」からです。イナゴらの本物の王は「深い淵の天使」つまりルチフェルであり、その名はラテン語で Exterminans(破壊する者)、ギリシア語でアポリオン、ヘブライ語でアバッドンです。本当の王イエズス・キリストのタイトルが十字架上に3つの言葉で書かれたように、猿まねをする反キリストもそうなのでしょう。

 私たちは王を選ばなければなりません。私たちの主イエズス・キリストか、或いは「破壊する者」か、を。十字架の友となるか、十字架の敵となるか、を。

 だから、聖伝のミサに与る兄弟姉妹の皆様、兄弟姉妹の皆様の苦しみと十字架を私たちの愛する王イエズス・キリストと共に捧げて下さい。苦しみをイエズス・キリストと共に耐え忍んで、ミサ聖祭でおささげげ下さい。

 では、今回も元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の「諸聖人の祝日」の続き(三)天国に昇る道、をどうぞ黙想下さい。

 天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!
 天国の諸聖人よ、我らのために祈り給え!


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

十 一 月 一 日

(三) 天 国 に 昇 る 道

(1)-諸聖人の祝日に当りまして、天に昇るの路を研究して見るのは当然のことでございましょう・・・。然らば聖人等は如何にして天に昇られましたか、奇蹟を行なつてでしょうか。容易に真似も出来ないような驚くべき善業を果たしてでしょうか。決して然うではありません。

 なるほど数多い聖人の中には、大きな奇蹟を行ったお方もあれば、非常に驚くべき難行苦行を重ねたお方もないではないが、皆が皆そうなさった訳ではありません。聖人と雖も、やはり我々同様の人間でありました、不足もあれば、罪にも落ち易い、情欲の強い、悪魔にも強(したた)か誘(いざな)はれたお方もある、恐ろしい罪悪に汚れ果てたお方すら無いではありません。 

 聖パウロや、聖マグダレナや、聖アウグスチヌスの如きは、実に大した罪人でございましたが、然し今日では大聖人と崇められて居ます。して見ると、如何(どん)な人でも、天国に昇れぬ筈はない、私は不足が多いから救われ得ない、私は始終悪魔に誘われて居るから、情欲が盛んだから、到底駄目だ、私はこんなに大罪を犯して居るのに、どうして天国え昇れるか、等と思うには及びません。誰だって救われる、天国に昇れる、私は保証します、夫には条件がただ一つ、聖人等の行かれた路に辿ることであります。聖人等は天主の聖寵をよく用い、信者の義務を忠実に果たすべく務められた罪も犯しましたけれども、早く痛悔しました。

 痛悔して起ち上がりました。起ち上がってからは再び罪に落ちてはならぬと、用心の上にも用心をして、罪の危い機会(たより)に近づかない様、悪い友に遠ざかる様、注意したものであります。


(2)-昔イスラエル人はモイゼに引率されてエジプトを出ました。紅海を渡り、約束の地に向って旅立ちましたが、途中で少し食物に不足するとか、水が切れるとかすると、忽ち後を顧みて、エジプトを恋しがり、「ああエジプトに居れば可かったのに!」と呟くものですから、其の罰で殆んど皆途中で倒れてしまいました。皆さんも洗礼をお授かりになり、天国をさして旅立ちをして居られる、それに毎朝毎晩お祈祷をするのは面倒だ、毎日曜日ミサを拝聴するのは辛い、罪の機会 (たより)に遠(とおざ)かるなんて、それでは自分の好いたこともされず、言いたいことも言はれない、腹が立っても堪忍しなければならない、堪(たま)ったものでない、未信者は実に仕合せなものだ、言いたいことは言う、仕(し)たいことは為(す)る、寝たい時に寝、起きたい時に起きる、行きたい所えは行く、ああ自分も未信者であればよかった等と、そんな考えを起しなさるならば、それこそイスラエル人の弐(に)の舞をするのじゃありませんか。

 イスラエル人が折角,紅海を渡りながら、約束の地に入ること出来なかった如く、皆さんも、洗礼を受けて天主の愛子となり、天国を目指して進みながら、その天国に辿りつくこと出来ないで、途中にのたれ死にをする救霊を失い、地獄に堕落する様な不幸に陥らないでしょうか。

 是とても、つまり後を顧みたり、隣近所を眺めたりする結果に出るので、そんな事がない為め、この祝日の序(ついで)を以って、誰方も仰いで天をお眺めなさい、私は特にお勧め致します。


(3)-先ず青少年の方々は近所の青少年がどんなことをして居るかと云うことを思わずに、天をお眺めなさい、天主は玉の冠を提げて皆さんを俟(ま)っていらっしゃる。今日天国に於いて童貞の方々が授かって居られる玉の冠は、皆さんにも必ず授けられる、今日天国に楽しんで居る青年処女等は、罪を犯さなかったことを、罪の機会(たより)に遠(とおざか)って居たことを、邪欲を擅(ほしいまま)にしなかったことを、決して口惜しくは思って居ない。寧ろそれを幸福として居られます。皆さんも其の手本を眺め、それに則(のっと)って、是非是非天国に昇り、同様の御褒美を戴く様に致して下さい。

 子を持った親等も天を眺めなさい、父母の務めをよく尽くし、其の為に特別の御褒美を戴いて居られる聖人等は、幾億の多きを数えるでしょうか。夫に死別れ、妻に先立たれて居る御方も、天を眺めなさい、皆さんのような悲しい目に逢いましてからは、もうこの世に楽しみを求めず、一途に天を仰ぎ,天主を愛して、それによって天の幸福を擅(ほしいまま)にして居られる御方も数えるに遑(いとま)ない程ではございませんか。

 貧に苦しんで居る御方も天を仰ぎなさい。貧乏するのは皆さんばかりではない、天国にはそんな人が特に多いのであります。彼等の悲しんで泣いた涙は、今こそ綺麗さっぱりと拭き取られ、彼等の着て居た襤褸(ぼろ)は今こそ玉の衣となり、彼等の住んで居た荒屋(あばらや)は、今こそ金銀の台(うてな)となって居ます。此の世で苦しんだ丈け今天国に於いて大きな福楽に踊って居るのであります。

 随って天国に楽しんで居る聖人等は、決して自分の揉(も)まれた貧困や、病気や、苦労や、心配やを口惜しがっては居ません。むしろ仕合せな病であった、幸な貧苦であったよと云って、喜んで居ます。もし私があの病を受けずに何時も健やかであったら如何(どう)なったでしょう、あんなに貧乏せずに、何時も富み栄えて居たらば、あんな恥ずかしい目を見ず、無理をされずに、始終わいわいと誉め囃されて居たならば、今は如何なったでしょう?、と言って、自分の不幸に沈んだことを感謝して居るのであります。


(4)-天国に昇るには如何なる路を辿らなければならぬか、略(ほぼ)お分りになったでございましょう。で今からは何方も大いに奮発して、是非天国に昇り、その福楽を擅(ほしいまま)にすることが出来ます様、務めなければならぬ。

 最後の瀬戸際に差し迫ってから、なぜ是をしなかったのだろう、斯うして置けばよかったのに何故油断をしたのだろう、等閑(なおざり)にしたのだろうと、後悔することがない様、明日とは云はずに、今日からチャンと志を定め、為すべきことは必ず之を為す、避くべきことは必ず之を避けると決心し、その決心を執(とり)守(まも)るが為め、熱心に諸聖人の御伝達(おとりつぎ)を祈ることに致しましょう。

(続く)